なぜエルメート・パスコアールは2年連続で八代に行くのか?/山口功倫インタビュー その3
3回にわたってお届けした「なぜエルメート・パスコアールは2年連続で八代に行くのか?」も今回で最終回。その2度目の八代公演もいよいよ今週末(5月18日)に迫ってきた。
インタビューでは、裏話や秘話で飾り立てるというより、稀有な現場が作られていくさまを山口さんに素のままの言葉で語ってもらった。もちろん、立川談志師匠の高座を少年時代に間近で何度も見た経験や、お兄さんが〈FRUE〉の主宰者であることなど、普通ではない背景があることはあるのだが、そんな特別さを際立てるよりも、こういう奇跡みたいな時間がちょっとしたきっかけで「誰にでも起こりうること」なのかもしれないということを話し言葉で書き残しておきたかった。もっというと、それは「誰にでも起こりうるチャンス(と同時に難題でもある)をスルーせず、受け入れ、祝福する」ということや、「常識や空気、決まりきったいいわけにずるずると流されることに対して、楽しさでちゃんとあらがう」ということへのぼくの共鳴だったりもする。
明日16日の大阪、18日の八代に行かれる人はもちろん、このインタビューがまだエルメートを見に行こうかどうしようか迷ってる人たちへのきっかけにもなれたらいいなと願って。では、山口さんどうぞ。
写真:渡辺亮
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──去年のエルメートのツアーで、みんなでゆっくりできる日というのが唯一八代に着いた夜くらいだったんでしょうけど、それにしても着いたばかりで疲れてるはずなのに、みんなでライヴハウスまで繰り出してセッションしたのはすごいですね。
山口 〈Z〉っていうレストランバーに行ったんです。そこもエルメートの公演の宣伝でおれがまわってたときに知ったお店だったんです。八代に〈サウンド谷口〉って音響設備やスタジオをやっていた人がやってるバーで、すごく音がいいし客ののりもいいので、最近評判がいいと聞いてました。ミュージシャンもツアーでその店があるから八代に来るようになったりしてるそうなんですよ。あそこだったら彼らを受け入れてくれると思ったんで、「演奏したいなら行ったほうがいいよ」って勧めたんです。おれはバーベキューの片付けをやってたんでどう交渉したかは知らないんですけど、ライブのスタートにはぎりぎり間に合って。
──あの夜は、エルメートとアンドレ(・マルケス)以外の全員が行ったそうですね。
山口 そうだったと思います。そこでセッションが始まって。お店の人も八代市内でこういうのが好きそうな人たちにすぐに電話で「来なよ!」って声をかけて。
──リアルタイムの中継でSNSに流れてきた映像を見て悶絶しました。
FRUEさんの投稿 2018年5月9日水曜日
FRUEさんの投稿 2018年5月9日水曜日
山口 いいライヴでしたよ。エルメートがいないから、バンドのみんなも手かせ足かせはずれた感じもあって、やりたい放題(笑)。福岡の〈SHIKIORI〉の松永誠剛くんも飛び入りしたり、おもしろかったですね。あれを見たあと、おれは「もしエルメートがあの世にいっちゃっても、この人たちがいれば大丈夫だな」と思いました(笑)。すごいバンドだし、いまのメンバーは本当にいいですよ。
──二組の親子がバンド内にいるし、演奏しながらエルメートの精神を伝承してるわけですもんね。
山口 普段もみんな和気あいあいとしてます。移動中は結構寝てたり、寝てると思ったら起きてたり(笑)。
──ハーモニーホールでのライヴも、すごくよかったですよね。単に「いい」というだけじゃなく、エルメートの音楽が受け入れられていくさまをじかに見られた。つまり、お客さんのなかには「ブラジルからサンバみたいな楽しい音楽をやるおじいさんが来る」というイメージしかなかった人もいたと思うんですよ。そこにいきなり手加減なしで変拍子のすごい演奏が始まって。でも、それがどんどん場を溶かして混ざり合ってく感じがリアルにすごかった。最後は総立ちで、坂口恭平くんを筆頭に前のほうまでお客さんがたくさん駆け寄っていって感動的でした。
山口 アンコールのときですよね。あれはすごかった。エルメートでみんなが前に詰めかけるなんて。あんな光景はなかなか見れないですよ。だいたい普通のコンサートだったら怒られるんですけどね(笑)。ああいうのを見逃してくれるのは田舎のホールのいいところかも。
写真:渡辺亮
──あの場では坂口くんがきっかけになったところもあるかもしれないけど、彼のこともエルメートも知らないような年配のお客さんも興奮してましたからね。
山口 あのとき、みんな踊りたくてずっとうずうずしてたんでしょうね。
──終わったあとに通訳さんから、アンコールでメンバーがビール瓶を笛にして吹いた演奏は最初は予定になかったけど、突然言われたのであわてて会場の入り口で売ってたビールを買ってきたって話を聞きました。
山口 そうでしたね。メンバーみんなでその場で飲んで(音程を)調整してました。あと、筒でやる演奏も一度見てみたいですね。竹とかで代用できたらおもしろいだろうなと思います。用意が大変かもしれないけど(笑)
写真:渡辺亮
──エルメートは行動そのものが音楽だから、全部を見る人に伝えて欲しいですよね。あの日、子供もいっぱい来てましたけど、彼らは大人になったらよく覚えてないくらいかもしれない。でも、「子供のとき、白髪のおじいさんのすごい音楽を見た」みたいな記憶の断片だけでも残ると、次の世代の山口兄弟を産み出すんじゃないですか?
山口 だといいですね。そうだ、思い出した。じつは、八代でエルメートをやる最終的な決定を下した理由は、うちの娘が「見たい」って言ったからなんです。曲を聴かせてたら、すごく好きなんですよ。2017年のエルメートも見に行ったのかな? 八代公演を決めるか迷ってたころは、まだ3歳くらいだったと思います。
──ああ、さっき話に出てきたお子さんですね。「子供がいるから招聘するのは大変」と最初は思っていたという。その子が最終的に決め手になったんですか。おもしろい!
山口 (エルメートの曲を)お風呂でブクブクやりながら歌えるんですよ。たぶん、大人より子供のほうが変拍子とかを難しく思わずに覚えるんでしょうね。「見たい?」って聞いたら「見たい」って答えたんで、「じゃ、やろう!」という流れはありました。それが一番最後に決めた瞬間でした。
──答えにくい話だったら返事はなくても構わないんですが、結局、公演の収支は?
山口 たぶん、八代はトントンくらいだったんじゃないでしょうか。お金のことは東京にお任せなので、よくわかりません。おれの手元には一銭も残ってないですけど(笑)
──でも、損にはなってないからこうして2年連続2回目のエルメートの八代でのライヴが実現するわけですもんね。とはいえ、「今年も八代で」という話がきたときは、どう反応されたんですか?
山口 「またか~」と思いました(笑)。でも、今度は「土日のどちらかで、マルシェやろうよ」っていう提案だったんです。もっと大きい規模の八代厚生会館を会場にするという案もあったんですけど、ハーモニーホールは駐車場も広いし、隣接した広場がマルシェに使える。確認してみたら、その広場は火も使っていいし、条件が整ってる。なにしろ兄貴はマルシェをすごくやりたがってたんですよ。「フェスっぽくしたい」って。まあ、最終的には押し切られました。うまく断る理由が見つからなかったって感じですね(笑)
──そういえば、八代の名門キャバレーである〈白馬〉を会場にする案もあったとお聞きしたときは、かなり興奮しました。
山口 「〈白馬〉も会場としておもしろそうだ」という話は、いろんな人を熊本にライヴで呼ぶときに、よく出る話なんですよ。似合いそうなバンドもいっぱいいますしね。
写真集「キャバレー、ダンスホール 20世紀の夜」(グラフィック社)より。〈白馬〉の内装は表紙に使われるほど絢爛豪華。
──「あの昭和モダニズムでキラキラなロケーションを提供します」って持ちかけたら、「行きます!」って即答するバンドもいそうです。〈白馬〉がライヴハウスとして稼働できたら、全国からびっくりするくらいお客さんが来るんじゃないかって気がします。
山口 ああいう場所って、もう日本にあんまりないですもんね。しかも〈白馬〉はキャバレーとして現役ですからね。条件が合えばいつかやってみたいなとは思いますね。一回、オールディーズのイベントを〈白馬〉でやったときに見に行ったことがあるんですよ。おもしろかったですね。店内をそのまま演出として使ってました。お客さんはみんな60~70歳なんですけど、ボックス席に普段は座ってて、好きな曲がかかるとフロアに出てダンスするんです。チークタイムもちゃんとあって。いま市議会議員をやられてる方がやってるんですけど、いいイベントだなと思いました。その方とも「なにか一緒にやりたいね」って話はしたりしてます。
──いまは、八代の人だけじゃなく、ほかの地域や県外からもアクセスしやすくなってますしね。周りの人も見に来るというのもいいことだと思います。
山口 前回のエルメートは、半分くらいが八代以外のお客さんだったと思います。でも、半分は地元の人が来たというのもすごいなと思いましたね。知らないアーティストに6千円のチケット代を出すわけですから。
──もちろん、見るライヴは間違いのないものだし、人によってはこんな機会がなかったら生涯触れることはなかっただろう音楽でもあるし。
山口 熊本市内でメデスキをやり、山鹿でニュー・ザイオン・トリオをやったときに、かなり県外から人が来たんですよ。その経験があって、ちょっと自信がついた部分もありました。おもしろければ遠くても人は来る、という確信ができた。
──今回は、去年と逆で八代がツアーの最終地点です。
山口 いいですよね。八代がツアー・ファイナルって、すごいですよね(笑)。去年も東京の最終日のセカンドはすごく盛り上がったし、最後はツアーのスタッフもみんなステージにあげられちゃって大変でしたね(笑)。あのツアーは本当におもしろかったです。今回は大阪公演から帯同するつもりです。初日の〈FUJI & SUN〉もいきたいんですけどね。さすがに八代公演の直前なんで長期間は空けられない。そこが空けられて、誰か任せられる人が出てくるようになるとなおいいんでしょうけどね。
──それだけ八代に基盤ができていくという話でもありますし。
山口 たくさんの友人たちがノーギャラで手伝ってくれていますけど、人手は足りなくて、やることは山積みなので。
──うちの父親はエルメートより一歳下なんですけど、見せてみたい気もしてるんですよね。
山口 前回はうちの檀家さんも結構チケットを買っていただいたんですけど、もちろんエルメートも知らないし興味もない。付き合いで買ってくれたようなところもあるんですけど、そういう70歳前後くらいの人たちが、今回も来てくれるっていうんですよ。「あれはおもしろかった! 今回は友達も誘うから」って。そういうのを聞くとうれしいです。エルメートを呼んだことがきっかけで、また音楽の輪がもっと広がるといいですよね。長崎の〈チトセピアホール〉で、そういうイベントを続けてらっしゃる支配人の出口(亮太)さんがインタビューで話されていたことがすごく好きなんですよ。あそこにも地方でこういうことをやる上での名言がいっぱいあるなと思ってます。
CINRA.NETに掲載された岸野雄一氏との対談。
──出口さんも以前は東京にいらっしゃって、地元に帰っていろいろおもしろいことに尽力されてますよね。ぼく自身も、熊本がいやだと思って若いときに東京に出たんですけど、いまは地元のことがだんだん気になってきてる。自分でも不思議です。
山口 地方っていまおもしろいですよ。東京の友達も、おれが熊本でやるライヴに毎回よく来てくれるんですよ。東京はスタッフとして手伝って、見に行くのは熊本みたいな。
──東京って便利だし、人口も多いし、会場の数も多いけど、ツアー・ファイナルとかになるんですけど、それが正解じゃないかもって気持ちにときどきなるんです。場所や土地との組み合わせとかも大事。だから「エルメートと八代の組み合わせは鉄板!」っていうふうになっていけばいいのかなと願ってます。
山口 そうですね。でも、次は誰かにほかの場所でやってほしいです。「おれにもゆっくりライヴを見せてくれよ」って(笑)
──最後にひとつ聞いておきたかったんですけど、ご兄弟の縁があって、日々のお寺での仕事という範疇を超えてこういうイベントに関わられることになって。もちろん好きでやられてることでしょうけど、「(兄に)振り回されてる」と思う面もあります?
山口 そうですね。多少はそういう面もあります(笑)。だけど、みんな楽しそうだし、いいんじゃないかなと思いますね。〈FRUE〉がもうちょっと金銭的にもうまくまわりだすと、地方でもこういう関わり方ができる人がもっと増えるだろうし。
──東京でなんとなく時間に追われて日々を過ごしてて、ある夜にはすごくいいライヴを見たけど、そのあと満員電車に詰め込まれていい気分も帳消しになって、コンビニで弁当買って帰る、みたいなのって、よくある日常じゃないですか。旅に出ていろんなライヴを見るようになると、その街に暮らしてて、こういうライヴの機会を自分たちのペースで楽しんでる人たちを見たり話したりすることが、すごく暮らし方というか音楽との付き合い方の手本になると感じる部分も大きいんです。終電過ぎても平気でみんなで自転車で帰ってくようなことに宿る強さというか。逆に、東京の「いまはこういう決まりになってますから早く帰って」という無言の圧力に慣れちゃうのは、なんかこわい。
山口 たしかにそれはありますね。それに今回は土曜日開催だから、八代の夜の街に、ほかの街から来た人たちもみんな繰り出してくれたらおもしろいなと思います。八代にも田舎のディープさがありますから。
──都会から戻ってきて、地元で新しい文化の拠点となって活動されてる人たちも少なくないですしね。
山口 〈FRUE〉が熊本でやれたのは、そこがすごく大きいですね。震災後の移住組やUターン組が熊本に結構いた。そういう人たちがいろいろ発信してくれて、イベントの情報が広がっていって。
──ある種、興行会社のやり方というのは決まったものがあるし、理にかなってもいる。だけど、そうじゃなくてもできることはあるし、おもしろくもなる。そこを実践されたようなところはあるんじゃないですか?
山口 それはあります。田舎のほうが自由度も高いですしね。みんな車を持ってるから、公演をやる場所も駅からのアクセスとかをあんまり気にしなくてよかったり。でも、普段遊びに行ったりしても、そういう視点でその場所を見るクセがついてきました。
──「使えるな」みたいな(笑)
山口 いやな感じですけどね(笑)。「ここの弁当、使えるな」みたいな。まずいですよね。本職が何屋なのかわからなくなってる。
──でも、そういう心の動きも含めて、じわっと伝染していくといいですね。
山口 八代って、あんまり知られてないですけど、すごく住みやすいんですよ。海も山も川もあって、温泉もあって、海産物も農産物もある。ひととおり揃ってるけど、移住候補にあんまりあがらない。おれもそのよさは帰ってきてすぐにはわからなかったですけど、いまはわかりますね。都会でもないし、田舎だけど山奥でもない。道路と新幹線はあるし、空港も2つ使える。豊臣秀吉も八代を「すげえいい場所だ」って言ったそうですよ(笑)
──秀吉とエルメートが「いい場所だ」って言ってるなら、それは最高のお墨付きですよ(笑)。今回も八代公演の成功を願ってます。
山口 雨が降らなきゃいいですね。毎日お寺でお経読んで祈ってます。そこはほかのオーガナイザーとは違うところかも(笑)
(おわり)
前回の八代公演の最後、エルメートはピアニカを客席に放り投げて未来を託した。写真:渡辺亮
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大阪、八代公演のチケットはこちらから。
なぜエルメート・パスコアールは2年連続で八代に行くのか?/山口功倫インタビュー その2
なぜエルメート・パスコアールは2年連続で八代にいくのか?
全国の音楽ファンがすくなからず感じているであろう素朴な疑問を振り出しにしての話だけど、これは熊本県八代市というある地方都市を舞台にした音楽ファンの生き方と伝え方の物語でもある。
第2回は、いよいよ〈FRUE〉が立ち上がって、エルメートの八代公演が実現するまでの話。今回もおもしろいです。
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──お兄さん(山口彰悟)が〈FRUE〉を立ち上げられたときは、山口さんはどうされてたんですか?
山口 最初の〈FRUE〉のイベント〈FRUE ~Etheric Uprise~〉(2012年3月10日、代官山UNIT & SALOON)のときは、まだ俺は東京にいました。八代に帰ってからも東京には寺の仕事で行ってたので、〈FRUE〉イベントには何回か遊びに行きましたね。実質的におれが兄貴を手伝い始めたのは、1回目のエルメート(2017年1月7日、8日、渋谷WWWX)かなぁ? そのときからチケットの担当をやらされて(笑)。「ひとりぴあ」みたいなものです。
──え? ライヴは東京だけど、チケットの受付は八代でやってたということですか?
山口 はい。メールの受け答えもチケットの発送も基本的にはおれが八代でやってたんですよ(笑)。〈FRUE〉としてのチケット販売も、あのときくらいから本格的にやりだしたんじゃないですかね。最初は勝手がぜんぜんわからなくて大変でした。
──〈FRUE〉で最初にエルメートを招聘したときって、僕は都合が合わなくて行けなかったんですけど、なんか告知とか、いろんな雰囲気作りがすごく普通のイベントと感じが違ったんですよ。
山口 福岡の八女にいる友人も「〈FRUE〉のことは知らないけど、WWWがやってるなら大丈夫なイベントだろう」と思って見に行ったらしいですよ。〈FRUE〉主催ってことよりも〈WWW〉がやるからいいだろうって思われてたわけなんですけど(笑)。そもそも、それまでは〈FRUE〉はそんなに知られてなかった。
──モロッコからジャジューカの人たちを呼んだりして話題になった〈FESTIVAL de FRUE 2017〉はその年の秋開催(2017年11月3日、つま恋 リゾート彩の郷)ですもんね。まだ2017年のエルメート招聘の時点では〈FRUE〉としての一般的な知名度はそんなになかった。
山口 それまではクラブ系の人しか知らなかったと思います。エルメートを呼んだことで、だいぶ名が知れた感じはありましたよね。
──「伝説の巨人を呼べちゃう人たちなんだ」って驚きがありましたからね。とはいえ、実務はさぞかし大変だったんでしょうね。
山口 最初はおれはチケットの担当だけだったんで、実際の大変さはそんなにわからなかったんですけど、去年の2回目のエルメートは一緒にツアーについて行って、2回目でもみんな大変そうだったから、(初回は)もっと大変だったんだなと思います(笑)
──では、〈FRUE〉として2回目のエルメートのジャパン・ツアーのオープニングに組み込まれた八代公演の話をしましょう。ぼくもあの公演日程が発表された時点では、山口兄弟のことをまったく知らなかったので、本当にびっくりしました。「え? なんで?」みたいな感じで混乱しました。
山口 そりゃそうですよね。おれも、自分がまったくそういう関わりがない状態で「八代でエルメートがやる」って話を聞いたら「なんなんだ、それは?」って思いますもん。
──八代→大阪→東京ってツアーの日程も、普通ありえないじゃないですか。
山口 じつは、最初は何回も断ったんですよ。「無理だ」って。
──そうなんですか。「ぜひぜひ!」ではなく?
山口 その前の経験として、ジョン・メデスキ(メデスキ、マーティン&ウッド)の熊本でのソロ公演(2016年3月31日、熊本市男女共同参画センターはあもにい多目的ホール)をおれが受けてたんですね。そのあとはニュー・ザイオン・トリオとシロ・バチスタの公演を山鹿市(2017年8月27日、天聽の蔵)でやったんです。それぞれ動員はメデスキが200人弱、ニュー・ザイオン・トリオも2、300人くらいでうまくいったんです。でも、エルメートはやつしろハーモニーホールに500人呼ばなくちゃいけない。地元には昔の知り合いもいますけど、そうじゃない層にアクセスしないといけないから、ちょっと大変だなと。おれも子供がそのころ2、3歳だったんで手が離せなかったし、手伝ってくれそうな友達にも「ちょうど子供が生まれるから今回は無理」って言われて。兄貴には何回も断りを入れました。でも、しつこく「やろうよ」って言ってくるんですよ(笑)
写真:渡辺亮
──それほどの八代へのこだわりはなぜだったんですかね?
山口 そこは兄貴に聞かないとわからないですけどね。たぶん、どこかで地方公演をやりたかったというのがまずあったんですよ。それと、ニュー・ザイオン・トリオを熊本に呼んだときも前日に菊池市の友達がウェルカムパーティーをやってくれたのが、めっちゃ楽しかった記憶もきっかけにあったと思うんです。ほかには、温泉に入りたいとか。今日、この取材に来る前に過去に兄とエルメートを「やる/やらない」でやりとりしたメールを見直してたんですけど、結局「やる」って返事のメールはなかった。東京に俺が直接言いに行ったんです。
──なるほど。最後はじかに。
山口 そうです。そこで話をして、「やる」という最終決断を伝えたんです。そのあとのメールは「もうハーモニーホールに申請を出してきた」という話題になってますから。
──なるほど、その後もいろいろなご苦労はあったでしょう?
山口 そうですね。まあ、会場のハーモニーホールは八代市の持ち物なので、市民は借りやすいといえば借りやすいです。機材とかはスタインウェイ以外、全部持ち込みですけどね。おもしろかったのが、ハーモニーホールのステージ担当の方が兄貴の高校の同級生だったんですよ。うちの嫁さんもおなじ高校なので知ってました。だけど、最初の2回くらいの打ち合わせではおれも向こうも打ち合わせで会っても気づかなかったですね。3回目くらいに「山口、だよね? お寺、だよね?」って言われて、お互いに「あー!」ってなりました。ライヴの本番でも、最終的に撤収の時間が押してしまったんですけど、あまりガミガミ言わないでくれたのはそのつながりがあったからかな(笑)
──それから、チケットを売るための宣伝も必要になりますよね。
山口 フライヤーを撒いたりするのはいろいろ協力してもらったりもしたんですけど、八代ではほぼひとりで動いてる感じでしたね。
──八代にもジャズ喫茶があるし、マイルス・デイヴィスとエルメートの関係を知ってたら好反応だったのでは?
山口 いやー、正統派のジャズバーだとむしろ「誰これ?」みたいな感じもありました。最初は結構つらかったですね。そのなかでも、すごく反応してくれたお店があって。もともと六本木か麻布でバーをやってた人が八代に戻られて開けたお店だそうなんですけど、そこでは「わー、なんかすげえの来るな」ってのってきてくれて。ほかにも「この店も行ったほうがいいよ」って教えてくれるお店もたくさんありましたね。そこでソウルのレコードをめっちゃ持ってる人がお店やってたり、いいアンプとスピーカー置いてるバーとかを知って、芋づる式に毎晩行くお店が増えていきました。八代の夜の街の人たちはすごく優しいんですよ。とにかく夜はだいぶお店をまわったので、ちょっと家庭が崩壊しそうになりましたけど。「また行くの?」みたいなね(笑)
──いよいよチケット発売となってからの売れ行きはいかがでした?
山口 最初は、ぜんぜんダメでした。だいたい熊本はチケットの動きが基本的に遅いんですよ。むしろ鹿児島とか福岡とかの人がすごく早くに買ってくれて。「なんで八代なの?」と思ってたかもしれないですけど。
──とはいえ、九州新幹線の新八代駅ができて、ずいぶんと福岡も鹿児島も近くなりましたよ。
山口 そうですね。八代って、みんなちょっとずつがんばれば来れる場所なんですよ。車でも両県から2時間くらいだし、九州の交通の中心ですからね。
──チケットのご苦労はあったと思いますけど、当日(2018年5月10日)、開場前は長蛇の列ができてて、ぼくも感動してしまいました。
写真:渡辺亮
山口 おれはあんまり列を見てる余裕もなかったですけど、あれは本当にうれしかったですね。あと、エルメートのツアーについていって、すごくいいなと思ったのは、エルメートを見にきてるお客さんがすごくオープンな感じだったことでした。腕組みしてライヴを見てない感じ。東京とか何度か来てるわけだから見てるほうのハードルも上がってたと思うんです。だけど、みんな心をひらいて見てくれてましたよね。あれはミュージシャンもうれしいですよ。
──じっさいに熊本に到着してからのエルメートたちの反応はどうでした?
山口 最初は熊本空港でしたけど、到着ゲートから出てきたときは衝撃的でしたね。とりあえずくまモンとエルメート一行で写真を撮りました(笑)
──ライヴの前日には宗覚寺の境内でバーベキューをやって歓迎したそうですけど、彼らは八代の街や風景についてはどんなことを言ってました?
山口 みんなポルトガル語だし、そこはツアーに帯同してくれた通訳さんに聞かないと詳しくはわからないですね。エルメートがKAB(熊本朝日放送)で受けたインタビューでは「山が見えて、鳥の鳴き声がして、そういうのがすごくいい」と答えてました。たしかにそれは来日しても都会をまわるツアーだけだとなかなか味わえないことですよね。その言葉を聞いて「やってよかったな」と思いましたね。地元の八代の食材を使った食事も、みんなすごく喜んでくれて。それで調子が出たのか、みんながいきなり「ライヴがやりたい」って言い出したんですよ。
──ああ、それがFacebookに動画も残ってる、八代のライブハウス乱入になったんですね。
(第3回につづく)
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本日は、バンドのピアニスト、アンドレ・マルケスのソロ公演が代々木上原MUSICASAで開催。
エルメートのツアーは大阪、八代と続きます。チケットはこちら。
なぜエルメート・パスコアールは2年連続で八代に行くのか?/山口功倫インタビュー その1
昨日(5月11日)の〈FUJI & SUN〉フェスティヴァルから今年も始まったエルメート・パスコアールのジャパン・ツアー。去年、「まさか!」と誰もを驚愕させた熊本県八代市での単独公演(やつしろハーモニーホール)が、なんと今年も5月18日に行われる。去年はツアーの皮切りだったけど、今回はツアー最終日。当日はさまざまな出店が集うマルシェ形式のイベントが昼間から行われ、ちょっとしたお祭り状態のまま夜のライヴに突入する流れになるという。
八代市はぼくの地元だ。ぼくがいたころはまだ実家は「隣町」だったけど、平成の大合併で市に統合されて、いまは市の一部になった。中学高校と八代市内にはよく通ったし、なつかしい思い出もすくなくない。そんな土地にブラジルの国宝みたいな音楽家がやってくると聞いたらたまらなくなって、去年はハーモニーホールに駆けつけた(里帰りも兼ねて)。
その一度だけでも田舎の都市にとって奇跡のような出来事なのに、なんと2年連続で八代をエルメートが訪れる。ツアーを主宰する〈FRUE〉の代表を務める山口彰悟さんは八代出身だと去年うかがっていた。そして、弟さんが八代にいて、公演を担当するのだとも聞いた。だけど、いくら兄弟だからって話はそんなに簡単じゃないってことはわかる。地元を離れてずいぶん経つけど、大きな繁華街を持つ熊本市と、県内第二の都市とはいえ徐々にさびれつつある八代市では事情が違うだろう。
去年、実家の母にその話をしたら、「ああ、宗覚寺の人だろ?」と意外にも訳知りの反応だった。ぼくの実家もおなじ日蓮宗(違う檀家)なのだが、どうやら宗覚寺には特別な個性があるらしい。「あそこは昔から談志さんを呼んだり、いろいろしよらしたけんね。息子さんもそがんとが(そういうのが)好きらしかもん」という。
そうなのか。興行主と兄弟の縁という以上の、なんかおもしろい話がありそうだとそのとき直感した。
今回、エルメートの2度目の八代公演が決定したとき、微力ながらも自分の地元で行われる突飛なイベントになにか助力できないかと思ったし、なによりも「なぜエルメート・パスコアールは2年連続で八代に行くのか?」と素朴な疑問をお持ちのかたもすくなくないはずで、その疑問に答えたいし、ぼくもいろいろ知りたいと考えた。それに、〈FRUE〉の山口彰悟さんのインタビューはいくつか発表されているけど、弟さんであり、宗覚寺のお坊さんであり、エルメートの八代公演担当者として動き回っている山口功倫さんの取材は地元メディア以外にはほとんど出てないんじゃないか?
というわけで、山口さんの地元で、ぼくの故郷でもある八代市で、先日インタビューを行った。もちろんテーマは「なぜエルメート・パスコアールは2年連続で八代に行くのか?」だけど、それだけの話じゃない。ぼくよりひと回り下で、八代で生まれ育った兄弟がおもしろいことやってるのが興味深いことこの上ないし、日本のライヴイベントの慣習に対してかなり型破りな興行を持ち込んで、すかっとした風を吹かせてる、その情熱のわけもぜひ知りたいと思った。
インタビューは4月半ばのある日、八代駅前の喫茶店「ミック」で行った。ぼくにとって、八代駅で電車を降りたのはじつに30年ぶりのことだった。
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──まず基本的なことから。山口功倫さんの生年月日は?
山口 昭和54年の3月です。40歳になります。
──ご実家が八代市妙見町のお寺(日蓮宗)の宗覚寺で、お父様がご住職ということですが、兄弟構成は?
山口 長男がいて、お寺でお坊さんをしてます。あと次男(山口彰悟)がいて、今回もエルメート・パスコアールの招聘や〈FESTIVAL de FRUE 2017〉などを主催している〈FRUE〉をやってます。それでおれがいて、3人が年子(一歳ずつ違う)なんです。
──3人が年子! それはわりとめずらしいですね。
山口 あと、おれの下に3つ離れて妹がいますけどね。
──4人兄妹なんですね。みなさん、ずっと八代?
山口 いいえ、みんな一度は東京に出ました。おれはこっちで(八代)高専を出て、それから東京に出てフリーターをしばらくやりました。そのころ、二番目の兄(彰悟)は日芸に入ってたんでよ。そのつながりもあったので、「おれ、ちょっと東京行くわ」って行って、ヒッチハイクで行ったんです。
──すごい(笑)
山口 それで東京で一緒に家を探して、兄とふたりで住んでたんです。
──それ以前はどういう少年時代だったんですか?
山口 兄弟仲はよかったですね。おれと二番目の兄の仲がよくて一緒に遊んでいたので、アニとオトートって呼ばれるようになって、「じつは、兄兄(アニアニ/長男)もいるらしいよ」って。
──うち(松永)も男4人兄弟で二、三番目が仲よかったんですよ。そういう傾向はあるのかも(笑)。子どものころはどんな音楽聴いてました?
山口 わりとヘビメタ中心でしたね。メタリカ、メガデス、パンテラ、セパルトゥラとか。高専のころはコピーバンドを組んで学祭でやったりしてました。それが、3年生のときにバンドがいろいろ揉めて変な感じになってたんですけど、そのころの同級生にテクノのDJがいたんですよ。そのDJの友達と仲良くなって。ちょうどそのころって、ドラムンベースとか出てきた時期で。
──90年代半ばくらいですね。
山口 プロディジーとかが出てきて、ブレイクビーツとかも流行りだしたころでした。それが入り口になって、おれもバンドをやめてDJをやるようになりました。
──それは八代で?
山口 熊本市内に〈GREEN〉ってクラブがあったんですよ。〈CLUB INDIGO〉って店もありました。でも〈GREEN〉でやることが多かったですね。あとは天草にある倉庫を借りて、ちょっとレイヴっぽいことをやったり、阿蘇の俵山の上にスピーカー持って行ってイベントしたり。許可とかちゃんと取らずにやってましたけど(笑)。そのころからそういうのが好きだったんですね。
──本当に!(笑)
山口 兄もそのころからよく一緒に遊んでましたね。で、おれも高専を卒業するんで「東京のクラブ行きたいよね」という話になり、就職はしないでお寺の手伝いを一月やってお金を貯めて、先に東京に行ってた兄貴のところに転がり込んだんです。兄は二浪して大学に入ってたんです。
──そうか、高専って5年行くから、そこでなんとなくタイミングが合いますね。お兄さんは1年先に東京に行っていたという。
山口 それが99年とか2000年くらいですかね。おれは東京ではずっとフリーターやって、10年近くいました。戻ってきたのは東日本大震災の翌年だったので。
──フリーターで、DJもやって、みたいな?
山口 DJはあんまりやってなかったですね。とにかく遊びに行ってました。そのころはFRUEへの繋がりとか関係なく、純粋におれも兄貴もお客さんでしたね。〈オーガニック・グルーヴ〉というイベントに出会ったというのも大きかったです。それまでは歌舞伎町にあったころの〈LIQUIDROOM〉とか、その向かいの〈CODE〉とか、青山の〈MANIAC LOVE〉とか、西麻布の〈Yellow〉とか、おもしろかったですね。
──ゼロ年代の東京のクラブのおもしろいところで遊んでた感じですね。
山口 そうですね。ギリギリ体験できた感じでした。そのころのおれは、Chari Chariとか、DJ Tsuyoshi、MOOCHYあたりがだんだん好きになってきてたんで、その流れで〈オーガニック・グルーヴ〉に行くようになって、DJにつられて行ってバンドにやられた、みたいな感じでした。バンドといえば、そういうのにハマるちょっと前にPHISHも来日してたんですけど、それは見に行けてないんです。「すごいのが来るらしい」とは聞いてたんですけど、おれが予習で借りてきたCDはPHISHじゃなくて、FISHって人のほうだった(笑)。「これのなにがいいのかわかんないよね?」って言ってるまま通り過ぎちゃったんです。あそこでPHISHに出会ってたらもっと早くに変わってたかもしれないし、いま思えば、そのとき見なくてよかったなという気持ちもあります。
──ちなみに、そのころは宗覚寺はご長男が継ぐというのが規定路線?
山口 そうですね。長男も東京の大学を卒業して実家に帰ってきてました。
──山口さんご自身も帰ってお寺に入るというのを決めたきっかけは、やっぱり震災ですか?
山口 震災でしたね。帰りたいという気持ちはずっとあったんです。2000年代の後半から、今もエルメートのライヴに来てくれる音楽仲間たちと千葉のほうで田んぼとか畑を2、3年やってたんですよ。それを始めてから、土日もクラブ遊びに行かなくなって、朝方の生活になってきて、東京にいる意味がないなと思うようになっていたんです。(東京からは)田んぼも遠いですしね。そういうのをいろいろ考えてたときに震災があって、嫁さんのお母さんが病気だとわかった。彼女の実家もおれの実家に近いので、その看病もあって帰ろうということになったんです。でも、なかなか踏ん切りがつかなかったんですけどね。だけど、あの震災が考えを変えるきっかけになりました。
──震災のときは、どうしてたんですか?
山口 職場にいました。フリーターを続けたあと、東京にある日蓮宗の全国本部みたいなところで仕事をしていたんです。そこにいたときに震災がありました。ちょうどおれは日蓮宗の災害対策本部みたいなところにいて、夜中じゅうずっとGoogleマップで東北の海岸沿いのお寺をマッピングして、連絡が取れるか取れないかで心配してましたね。それで、一晩か二晩かしてやっと帰れるという日に原発が爆発して、東京に放射能が流れてきた時間帯だったんです。五反田の駅でぼーっと電車を待ってたときの記憶は鮮明に覚えてますね。そういうこともあったんで、嫁さんとも話し合って、一年かけて東京での仕事を整理して、それで、退職金をもらってPHISHを見に行ったんです。
──え?
山口 はい、アメリカまで。やっと本物のPHISHです(笑)。あのときはおもしろかったですね。ちょうどPHISH 2.0とか言ってたころで、ニューヨークのサラトガって街で3日間。その前には、フィル・レッシュとボブ・ウィアのファーザーを観て。あれはいい体験でした。アメリカに発つ前に官邸前のデモに行って、それから空港に向かったんです。兄にも、あのデモは見ておいたほうがいいと言われていたので。
──そういう体験ものちにつながるタネになっているんでしょうね。
山口 そうですね。そういうことの根底には〈オーガニック・グルーヴ〉があるし、もっと前には(立川)談志師匠との出会いがあります。
──ああ、宗覚寺で談志師匠の高座が行われていたというその話、お聞きしたかったんです!
山口 おれが中学生くらいのときですね。
──招聘されていたのは山口さんのお父さん。
山口 そうです。うちの住職が初めて呼んだのが平成の初めごろですかね。元々は長崎のお坊さんで談志師匠とお知り合いの方がいらして、「長崎に呼ぶからおまえのところもどうだ?」って声をかけられたらしいんです。
──そうなんですか。
山口 だけど、談志師匠をお呼びするちょっと前くらいかな。八代に高速道路が通ることになったときに、うちの近所を通るので父が反対運動をしていたんですね。そのとき、「宮地(宗覚寺のある地域)は八代の文化発祥の地だ。そこを横断するなんてとんでもない」っていう主張をして運動をしていたらしいんです。じっさい、それで道路は山の方に動いたんですけど、「じゃあ、なにか文化事業もやらなくちゃな」と考えていたときに、談志師匠の話が飛び込んできたそうなんです。
──へえ、それはまた絶妙なタイミングですね。
山口 平成3年が最初だったと思うんですけど、それから10数回、談志師匠はいらっしゃいましたね。3年に2回くらいのペースでした。本堂がいっぱいになるくらいなので、200人弱くらいですかね。
──ということは、晩年というより、まだギラギラした高座だったのでは?
山口 そうですね! 脂がのりきってておもしろかったですよ。目の前で「芝浜」とかを本堂で聞いて、「なんじゃこれは?」と思うという、そういう体験は根底にありましたね。ライヴ体験としては、それが始まりかもしれないです。
──当時の談志師匠はどんな感じでした?
山口 いつもお弟子さんをひとり連れてきて、というパターンが多かったですね。今はリニューアルしたんですけど、日奈久温泉で歴史のある潮青閣に泊まってました。高座のあとは一緒にご飯を食べたりしましたしね。あれはおもしろかったです。
──それを兄弟みんな聞いてたわけですもんね。
山口 兄兄はそのあと「落語家になりたい」って言い出したりして(笑)。そういうのもあったから、兄兄は八代に帰ってきてからも落語のイベントをずっとやってきたし、結婚式の司会も談笑師匠でしたからね。
──そんなに近い距離感であれほどの芸を浴びたら、そうなるのもおかしくないですよ。
山口 そう考えると、いろいろいまにつなががってますね。談志師匠とうちの住職との関係があったから、その後のおれらは自由に動けるようになったというか。結構、以前の父は堅かったんですよ。「大学は国立しか行かせない」みたいな感じ。それが談志師匠に出会ったことで積み上げてきた価値観をぶち壊されて、「おまえら、もう好きなようにやれ」って変わって、おれら兄弟は解放されたんですよ。師匠がいなければそういう展開はなかったかもしれない。
──そうか、談志師匠からのつながりもいまの流れにあるんですね。おもしろい!
(第二回に続く)
「このながーい紙はお寺の宝みたいな感じなんですが、落語会のあとの食事会で、談志師匠が調子よくて「クイズやる!」とおっしゃって書かれたものです。漢字で有名な人の名前書くから当てろ的な(昨年いらっしゃった談修師匠がいうには、よくやるクイズだけど、ここまで長いのはなかなか見たことないそうで)。チャップリンから始まってるみたいですね。チャーチル、ロートレックとか入ってます。後半は難しくて分からないです」(山口さん)
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これから始まるふだんの話/ふだんインタビュー その2
ふだん、インタビュー2回目。ふだん以前の音楽活動や曲作りのことなど。
2000年代の大阪インディーの景色の一端もなんとなく浮かび上がる感じの話になったかも。
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──ふだん以前の音楽履歴をちょっと聞かせてもらえますか。
ふだん 今年35歳なんですけど、もともとは学生だった90年代半ばには弾き語りをしてました。そのときは、ゆずとか斉藤和義のコピーでしたけど。自分で曲を作ったのは、たぶん、FISHMANSとかCorneliusを聴き始めた高校生ぐらいからだったかな。でも、その頃の曲はインストやったんですよ。
──へえ。FISHMANS影響のギター・インストっていうと、当時でいう音響派みたいな?
ふだん そうですね。音響派、というか……。
森 おぐらくんと初めて僕が会ったんは新世界ブリッジのブッキングしてて、白い汽笛を組むことになるまっちゃんと一緒にブッキング・ライヴに出てくれて。そのときはポストロックっぽい、トータスとかシー&ケイクみたいな感じでしたね。
ふだん 大好きでしたね。
森 あのときもインストやったね。ドラムはチッツのTAKUTOくんで。スリーピースのバンドやったね。
ふだん 懐かしい……。21歳とかだったかな。まあ、何がやりたいのかよくわかってなかったですね。大学のサークルで、トータスとかモグワイとか教えてもらって聴いてた時期で。最初にライヴハウスでやったんは、ベアーズで、ノイズっぽいインストでした(笑)
──じゃあ、その時点ではまったく歌ってない?
ふだん 歌ってないです。のちのちですね。FISHMANSはずっと好きなんですけど、たまとかもめちゃめちゃ好きになった時期があって、その頃にアコギ持って歌い出して。
森 歌い出した頃の名義は「とかいもぐら」とかちゃう?
ふだん そうやね。たまっぽいのを歌いたいと思って。で、その後にチッツのギターの草と、もうひとりとで、エレキ持って歌う感じのバンドをやったりしながら、気がついたらこうなってました。なんでああいう感じで歌い出したか、自分でも理由を思い出すのは難しいですね。たぶん、学生から社会人になったりして友達も変わったというのもあるだろうし。
──歌詞のペーソス感というか、日々の暮らしのなかでふと手を見る、みたいな感覚って、たまから来たものとはちょっと違いますよね。
ふだん そうですね。むしろFISHMANSからの影響かもしれない。でも、言い方は難しいですけど、ぼくはもしかしたら、もっと普通のやつが見てる景色を歌いたいのかな。ふだんという名前にしたのも、あんまり背伸びしたり、無理したくないなというのもあるし。
──とはいえ、ただ単に淡々としてるわけでもなくて、白い汽笛での「レゲエ」とかもそうですけど、ふつふつとしたものはそこにありますよね。わいわいと踊りまくるわけではないけど、確実にそこにもレゲエのひとつの聴き方があるなと思わせてくれる。そこがおもしろいですよね。
森 ぼくが個人的に感じるのは、miceteethとかデタミネーションズとか、年上の世代のレゲエ、スカの影響はシンプルにるんちゃうかな。おぐらくんは好きやったよね。
ふだん そうや、忘れてた(笑)。でかいですね。
森 それは僕らにも言えることで、ブッシュ・オブ・ゴーストとか、ソウルファイヤーとか、そういう先人がいて、むちゃくちゃやしかっこよいことを自然にやってはって、それを見てたというのはあるかもしれません。それをおぐらくんは自分なりの解釈でやっていったというのを感じますね。
ふだん 本当にそういうバンドは大好きで、ライヴもめちゃめちゃ行ってて、影響はめちゃめちゃ受けています。
──ぼくが『CDジャーナル』の取材(「あたらしいローカルおんがく」2013年7月号)で森くん、HOPKENの杉本くんに話を聞きにきたとき、森くんが推薦してくれたバンドのひとつが白い汽笛だったんですよね。
森 そうですね。最初に知り合ったときは、ブッキングする人と出てくれる人という関係というか、おない年とも思ってなかったし。
ふだん 確実に(森は)年上やと思ってました(笑)
森 チッツとかとも同時期に知り合ってはいたけど、お互いに人見知りもするし、交流ってほどではなかったね。
ふだん そうやね。白い汽笛始めるんが2010年ぐらいやから、その頃に一緒に遊び出したんかな。
森 ちょうどneco眠るも、いったん活動が止まる頃で、わりと大阪でやってる他のライヴとかにも遊びに行けるようになって。そのときに「大阪にも同世代のバンド、めちゃおった!」みたいに一気につながったんです。
──東京だと、ceroが片想いをmona recordsで見て感激して交流するようになるとか、そういう感じが、白い汽笛やneco眠るにもあった?
ふだん 少なからず、necoとかチッツには同年代としての意識があったと思いますね。
──もちろんバンドをやるときはバンドマンだけど、実生活では大学卒業後には普通に就職しているんですよね? そこは、フリーターやって音楽を主にする、みたいな方向への迷いはなく?
ふだん たぶん、最初の頃はあったんだと思います。どこで変わったんか、わかんないですけど。音楽はやりたいけど、生きるための手段ではないかなと。「表現したい」とか「ライヴしたい」「音源作りたい」という気持ちはあるけど、そこと「お金を稼ぎたい」という気持ちとはぜんぜん隔離してますね。結構、白い汽笛やってるときも、全員仕事を普通にしながらバンドもやっていて、そこでみんなの時間を合わせていくのが正直しんどい部分もあったんです。
──渋谷WWWで、おぐらくんだけ仕事の都合で東京に来れなくて、「衛星中継」的にスクリーンから演奏に参加したライヴもありましたよね(笑)。ぼくはあのとき初めて白い汽笛を見てるので。
ふだん マジですか! ありましたね(笑)。今ひとりになってそこが楽といえば楽なんですよ。生活の中で、できるペースでやっていきたいなと思っていて。
──ある意味、ふだんという名前にしたことで、バンド以上に伸び縮みが自由になるという考え方もありますもんね。
ふだん 名前は後付けですけど、そういう意味も含めて、よかったなと。
──曲作りの話をしましょうか。歌詞はどういうふうに思いつくんですか?
ふだん ワンフレーズがメロディと同時に出てくることが多いかもしれないです。ギターをポロポロっと弾いて出てきたフレーズを広げて伸ばしていく感じが多いですね。
──そのフレーズは何気ないものというより、曲の核になるような言葉だったり?
ふだん もちろんそうですね。具体的な言葉です。それがAメロやったり、Bメロやったり、サビやったりはいろいろですけど。そこから作っていく感じです。
──時間はかけるほうですか?
ふだん かなりかかります。特に最近は(笑)。昔は一晩でできるとかもあったんですけど、最近はちょっとないですね。でも、「つゆいり前」は結構すっとできたんですよ。最初から「エマさんに渡す」というコンセプトもあったし、イメージが湧いたというか。サビがパッとできて、Aメロをつけたのかな。
──白い汽笛時代はメンバーの存在で曲が変わっていくこともたくさんあったと思うんですけど、これからは、ふだんとしてどういうふうになっていくと思います? 組む人によって変わってゆく? それとも自分で固めてゆく?
ふだん 自分で作っていきます。音源作るときは、誰かと一緒にやるのもできたらいいなと思いますね。そういう曲はひとりのライヴではどうしようか、みたいな悩みもありますけど。もちろん、自分の曲は弾き語りでやれる前提はあるんですけど。
──そういう意味では、ひとりだけど、バンドでもあり、オーケストラでもやれる。
ふだん まあ、そうですね。バンドでできたらいいなという思いはあるんですけど。今回やったようなレゲエとかロックステディみたいな曲を作りたいモードなんで。うっしー(潮田雄一)とも「バンドせえへん?」って言ってたんです(笑)。でもまあ、東京にも(潮田とやりたい)ライバルはいるんで。
森 おぐらくんとうっしーと全然タイプ正反対なのに似てる部分があるのがちょっとおもしろくて。年も一緒やし。
ふだん 絶対交わらへんはずやったのに、たまたま会ってから気が合った。
森 おぐらくんの誰とでもリンクできる感じって、今回の7インチでもそうやけど、すごく楽しみやな。
──まさに、普段着のまま、音楽に入っていける。おしゃれしたり、厳しい目で見たりとかせず、ふらふらと、かつフラットな目線で。そういう目線で見ると、「あ、この人もおもしろい」とか、いろんな発見がある気がしますね。
森 もちろん、こんがりおんがくとしてもおぐらくんがやりたいペースでやっていくのを後押しできたらいいと思ってます。この7インチも、ぼくが「いい!」と思ったから「出そう!」って言ったし、「これは7インチやな」ってすぐ思ったし。
──アートワークも、いいですよね。
ふだん イラストは黒木雅巳くん。今回、ふだんとしての自分のアーティスト・デザインも黒木くんにしてもらって、すごくよかったです。
──そういえば、ふだんって、一応顔出ししないんですよね。何も知らずに聴いた人は「このバンド(人)、もう20年くらいやってる超ベテラン?」みたいに思う感じも滲み出てますよね。だけど、これがデビュー・シングルだという。
ふだん いいっすよね。35歳でデビューって。「かたちにしよう」って森くんが言ってくれたから、というのもあるし。
──白い汽笛時代のレパートリーも、ふだんで拡大してみるというのもできるだろうし。また別の“with ○○”もいいだろうし。
ふだん 自由度は一番ありますね。今の生活にほんまに合ってるというか。ありがたいです。
──〈ふだんまつり〉みたいなこともやってみたらいいんじゃないですか?
森 ね! 今回のレコ発もふだん、エマーソン北村、popoの3組でできたらいいなという話はしてるんですけどね。
──その3組のパッケージは最高だから、全国いろいろ行ってみてほしいですよ。ひそかに心が踊る祭り。
森 それ、やろう!
ふだん まあ、ゆっくり計画して、ゆっくりやれれば(笑)。いいのができたんで、みんなに聴いてほしいですね。
(おわり)
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ふだんとしては基本、顔出ししないということなので、これが取材中の写真。左端に見切れてるのが、ふだん氏。
近況やライヴ・スケジュールなどはこちらで。
今のところ、次のライヴ予定は発表されてないし、ふだんの音源を聴く方法は7インチを買うしかない。だけど、また近いうちにどこかでふらっと会うでしょ。
とりあえずそのうち「fudan」に飲みに行く約束はした。
これから始まるふだんの話/ふだんインタビュー その1
〈ふだん〉という名前のアーティストを見かけたのは、今年の初夏。
ぼくもときどきお邪魔する神戸塩屋の旧グッゲンハイム邸の名ソムリエにして高校野球狂のSSK氏が主催するイベント〈第3回 初夏のセンバツ〉(2018年6月3日)に関するツイートを見ていたときだった。
出演者にはだいたい見覚えがあるなかで、ひとつだけ見慣れない名前が。それが、ふだんだった。
ふだん、って? 普段? 不断? ひとり? ユニット? バンド?
いろいろ想像をめぐらしたが、SSK氏がブッキングするくらいのアーティストだから、そのうち音源かライヴに出会うだろうと気楽に思っていた。そしたら、6月に大阪に出かけたとき、neco眠るのリーダーにして、レーベル〈こんがりおんがく〉を主催する森雄大くんから「今度、うちのレーベルでスプリットの7インチをシリーズで始めます」と教わった。その第一弾が、ふだんだという。ほら、やっぱり出会ったわ。
ふだんの正体は、このインタビューを読んでもらえればわかる。彼がやっていたバンド、白い汽笛のファンの人も少なくないはずだし(ぼくもそう)、最近リリースないなと感じていた人もおなじく少なくないはず(ぼくもそう)。
知ってみてわかったが、これはぼくがひそかにずっと待ち続けていた人の新作だったのだ。
スプリット・シングルと銘打つだけあって、A面は軽妙なレゲエ・タッチで街をそぞろ歩きするような〈ふだん with エマーソン北村〉での「つゆいり前」、B面はのどかで愛おしい〈popo with ふだん〉での「パンを買いに」。両面で主客逆転の構成になっているが、両面通じての出演は、ふだんのみ。テレビをつけていたら、彼が主役になったドラマと、脇役(しかし重要な)で出てくるドラマを2本立て続けに見るような感じか。どちらの設定にもすっと溶け込んでいるのが、とてもいい。限られた音数だけど、足りている。ふだんの第一歩は、別にファンファーレに見送られずとも、「ちょっと煙草買ってくるわ」と出かける程度がいい。
インタビューは過日、ふだん&こんがりおんがく森の両名を迎えて行った。せっかくの7インチの軽やかさを妙に重くしないよう、2回に分けて掲載します。
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──「ふだん」というユニットについて、最初は何もわからなかったんですよ。旧グッゲンハイム邸でSSKさんがやったイベント〈第3回 初夏のセンバツ〉(2018年6月3日)が終わった後のツイートとかで、その名前を見つけて、「あれ? 誰? 出てたっけ? バンド?」と思ってて。そしたら、白い汽笛のおぐらこうくんだったという。
ふだん ソロでおぐらこう名義でもやってたんですけど、今回シングルをリリースするにあたって、改めることにしました。それで、ずっとその名前でやるんだったら、ずっと使える名前がつけたいなと思って。それで、ふだんに。
──いい名前ですよね。他にも候補はあったんですか?
ふだん 日常的というか、「そこにある」みたいな雰囲気の言葉にしたくて。「fudan」って飲み屋さんが家の近くにあるんですけど、その名前がすごくいいなと思ってて。
森(こんがりおんがく/neco眠る) その店がまたいい店で。
ふだん それこそ森くんと一緒に飲みに行って、「名前使っていいですか?」って許可をもらいました。それで、まったくおなじやとあれなんで、こっちはひらがなにして。
──それが今年の前半くらいですか?
ふだん そうですね。グ邸のときもおぐらこうでやったんですけど、イベント中に改名したという。
──イベント中に?
ふだん はい。イベント中にエマーソンさんが改名してくれました。このレコードが出るという紹介を以て、ふだんになったんです。
──バンドの白い汽笛とスタンスが変わったわけではなく?
ふだん そうですね。今のところは。でも、今まではソロやったら弾き語りだけだったんですけど、今回作った7インチみたいにエマさんやpopoと一緒で、トラックや楽器の音がある中でやってみて、それも楽しかったです。
森 これを僕が「出そう」て言い出したんは、一年前のグッゲンハイムでの〈第2回 初夏のセンバツ〉(2017年6月4日)で、そのときにおぐらくんとエマさん、popoが一緒に演奏したんですよ。それが本当にすごくよくて。それがこの7インチの収録曲だったんです。スプリットのかたちで、とまではそのときは考えてなかったですけど、とりあえずおぐらくんのソロ名義でもいいし、その3者を組み合わせたやつを出そうという話をその場でしたんです。
──ということは、リリースの計画としては1年がかり。
森 そうですね。
ふだん 曲を作ったんも、もう2年前かな。popoのオルガンの喜多村(朋太)さんが福井でやってる店(TOKLAS)があって、そこでエマさんのソロ・アルバム『遠近に』のレコ発があったときに、ソロでぼくを呼んでくれたんですよ。そのときにエマさんから「せっかくだから一緒にやりましょう」て声かけてもらって、だったら新しい曲を作ろうと思ったんです。それで、ずっとやりたかった裏打ちのリズムの曲を、ちょっとドキドキしながらエマさんに提出したんです。
森 今回は、結構明確に「レゲエ、スカっぽいことをやりたい」というのがあったよね。
──白い汽笛にもその要素はあったけど、もっとそれを押し出すようなことですか。
森 そうですね。やっぱり白い汽笛ではおぐらくんが一番その要素が強かったんで。
──そうなんですね。おもしろい。普通は弾き語りというか、ソロでやると、もっとフォーキーになるって想像するじゃないですか。むしろ逆なんですね。
ふだん そうなんです。白い汽笛でも、まっちゃん(松原哲也/ベース)なんかはレゲエなんか全然聴いてないし。なので、ああいう独特な音になるんです。
──あとは、〈ふだん〉という名前をまとうことで、ひとりのシンガー・ソングライターというより、「何でもやっていい」みたいな自由さも生まれますよね。
ふだん 確かに。それはありました。
──今回のシングルでも、単にふだんとしての初ソロというより、エマさん、popoと混ざり合うことで、その2アクトが「歌ものをやるとしたらどんな感じ?」みたいな問いに、絶妙な答えをしてるように思えましたね。
ふだん A面の「つゆいり前」は、ぼくが曲を作っていって、エマさんにベースの音を作ってもらったんですけど、ご本人も「すごくエマソロっぽい感じで演奏した」って言ってくださって。
森 「こんなにエマソロっぽく他人の曲に参加したのは初めてかも」って。
ふだん エマソロっぽくやってほしくて作った曲という面もあるしね。
──やっぱり、エマさんの近年のソロ作『遠近に』や『ロックンロールの始まりは』は好きですか。
ふだん 大好きです。
──とはいえ、ある意味、音楽だけで表現できているエマソロの世界に自分の歌を乗せていくというのは、結構な難題だったとも思います。
ふだん エマさんの感じに曲をつけるというよりは、僕が作った曲に「演奏つけてください、お願いします」という感じでした。こっちからのリクエストはなくて、エマさんがリードしてくれて。
──先日、ASA-CHANG with エマーソン北村のアルバム発売時におふたりに取材する機会があったんですけど、そのときにエマさんが「今、自分は“エマーソン with ○○”みたいなユニットをいくつかやってるけど、自分とやることで“with ○○”のほうのアーティストの個性がモロに出た音楽になると感じてる」みたいな話をされてて、それは確かに言い得て妙だし、今回、ふだんとの曲を聴いても、おなじように感じました。
ふだん そういう意味でも不思議な感じの楽曲になりましたね。
森 録音のときはエマーソンさんから2人で授業受けてるみたいな感じで。アレンジの違いをいろいろ説明してくれるのを2人で聞きながら。全部が大事な時間でした。楽しかった。密室で3人で、おぐらくんは歌も歌ってたし、緊張感はすごくあったんですけどね。
ふだん 「どっち(のアレンジ)がいいですか?」って聞いてくれて、「こっちがいいです」「じゃあ、こうやって広げてみよう」とか。全然いやな顔ひとつせず、いろいろやってくれて。そういう意味でも、エマさんが作って弾いてくれてるけど、ちゃんと自分もアレンジに参加して作れたという気持ちが残ったし。
──popoとの曲はどうやってできたんですか? 付き合いとしては長いですよね。
ふだん 長いですね。もともとは森くんが働いてたブリッジにpopoが出演してた頃から、好きで見に行ってたんが始まりで。白い汽笛をやり始めてからは共演したりもしてて、アルバムにも参加してもらったりしたし。一緒にやり出してからは、もう5、6年かな。それで〈初夏のセンバツ〉で、今回popoと一緒に録った「パンを買いに」という曲をやったんです。もともと歌詞があった曲で、喜多村さんが歌ってはったというのを白い汽笛の寺ちゃん(寺島タマミ/オルガン、ウクレレ)が知ってて。「歌ってみたら?」って勧めてくれて、それで一緒にやったんがスタートでした。
──そう、この曲はpopoのカヴァーなんですよね。エマさんとはまた違うコンビネーション。
ふだん そうです。これは曲がもうあったんで、それを歌わせてもらったんです。だから“popo with ふだん”。
森 僕も「あっ」と思ったんですよ。この2曲を一枚の7インチにするとスプリットってかたちになるんやと。むしろ、それで出すことを思いついたというか。popoとの録音は一発でしたね。
ふだん 楽器は全部一発で録って。
森 最初の1テイクくらいで決まりやったね。プレイバック聴いた一瞬で、みんな「これや」ってなった。
ふだん あの感じもなんか「先輩とやってる」感ありましたね。popoのみなさんの余裕がすごかった。
森 またエマさんのときとは違う先輩感やったね。
ふだん 「音源にするから」という気負いもないというか。「こうせなあかん」とか「きっちりせな」というのではなくて、その現場でいい音が鳴ってるから「それだよ」って感じ。たぶん、自分ひとりで録ってたら、「あ、ちょっとやり直したい」ってなってたかもしれないけど、全然それを越してくるん説得力があるんですよ。
(つづく)
夢と時間の境目を触れる、たたく/角銅真実インタビュー その4
お待たせしました、角銅真実インタビュー、第四回にしていよいよ最終回!
7月にリリースされた初のソロ・アルバム『時間の上を夢が飛んでいる』についての話、そしてアルバムにコメントを寄せていた人たちについての興味深いエピソードなど。
あらためてアルバムのことを書くよりも、彼女の発言を読んでもらったほうがいろいろと感じ取れると思うけど、ひとつだけ。
このインタビューのきっかけのひとつになったメールのやりとりがある。ぼくは角銅さんのアルバムが、「ラサーン」が名前につくようになってからのローランド・カークを思い出す部分があると書いた。音楽のタイプは違うが、夢との境目をトントンとさまざまな音で触れたり叩いたりしながら自分で探す感じが通じてると思ったのだ。
角銅さんからは、それは自分が打楽器をやっている感じともとても通じているのでうれしいという内容の返事をもらった。
そういう意識の音楽家が身近にいるということが、ぼくもうれしかった。このインタビューのタイトルも、そこからきている。
では、第四回をどうぞ。
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夢と時間の境目を触れる、たたく/角銅真実インタビュー その4
──初のソロ・アルバム『時間の上を夢が飛んでいる』は、ceroにサポートで参加する前から作っていたんですよね? そもそものきっかけは?
角銅 きっかけ、ですか……。曲にならないような断片をずっと作ってたのが貯まっていたというのはあります。一回ちゃんとまとめないといけないと思っていました。既存の曲を演奏したりサポートとしていろんなところに呼ばれて楽器を演奏したりするのも楽しいけど、これ(ソロを作ること)が自分にとって大事なことだと思っていました。あ、でもきっかけといえばですけど、アルバムを作り始めたころから、全部自分の曲でソロのライヴをするようになったんです。そしたら、台湾でもソロでライヴができるって声をかけてもらって、遊びついでに行ったら、そこにBasic Functionレーベルの大城(真)さんがレジデンス・アーティストとしていらしていたんです。わたしはそのときがソロでのライヴは2回目くらいでしたけど、それを聴いてくれた大城さんが「いいですね。アルバムとか作らないんですか? 音源作って持ち込んでくれたらアルバムにしますよ」って言ってくれたんです。ちょうどそのとき家のPCのGarageBandで録音した3、4曲入りの気まぐれ月刊CD-Rを作って身の回りの人に聴いてもらったりしていたんですけど、「もうちょっと、ちゃんとアルバムを作ろう」と思って「作りたいです。よろしくお願いします」って返事しました。結局、アルバムは全部大城さんに録音してもらうことになって。それがやり始めです。
──レコーディングはどんな感じでやっていたんですか?
角銅 基本的には、ソロでの録音でしたけど、たまに「あの人がそこにいたらおもしろいな」と思った部分は、その人に「曲の部屋」に遊びに来てもらうという感じで自分以外のミュージシャンに参加してもらいました。部屋に入ってくれるその人自体をひとつの楽器だというふうに考えて扱っていましたね。部屋の中に、その人が遊んだら楽しそうなや遊具や道順的な伏線を用意しておいて、それについてできるだけ何も言わず、そこにそっとその人を入れて眺めるみたいな感じです。ギターで麦さん入ってる曲もありますけど、基本的にはギターもわたしが弾いてます。あとは、家で一回自分で弾いたフレーズをあとで麦さんに弾いてもらったり。
──一番古い曲はどれですか?
角銅 「February 1」とか「フォーメンテラ島のサウンドスケープ」とかですね。「フォーメンテラ島」が一番古いかな。本当はめちゃ長い曲なんです。文角 -BUNKAKU-という打楽器のデュオユニットのために作った曲で、ふたりで一回録った音をテープで加工して。
──実験的というか、インスタレーション的な曲ですよね。
角銅 そうですね。「Midnight car race」も、以前展示をしたオルゴールのインスタレーション作品があるんですが、そのままですもんね。自作のオルゴールを鳴らして終わりまで録音してるだけだから。
──実験的といえば、ちょっと笑い話していいですか。最初音源をiPhoneに取り込んだときに、ぼく、設定を間違えて、一曲がずっとリピートされるようになってたんですよ。だから一曲目の「Kiss」がずっと続くようになってて(笑)
角銅 (爆笑)
──本当は17秒の短い曲なのが、角銅さんのキスの音が延々と続いて「これはえらいものを作ったんだな……」と別の意味で戦慄してしまって(笑)
角銅 それを聴き続けたなんてさすがですね。めっちゃいい話です。そういうのレコードで作りたいです(笑)
──ようやく気がついて、2曲目の「Ne Tiha Tiha」に進んで、今度は別の意味でそのポップさにハッとしたんですけどね(笑)。「刺繍の朝」や「窓から見える」あたりのメロディ・センスもおもしろいんですよ。コードとか構成の決まりごとはないんだけど、すごくメロディアスだし。きもちよいんだけどきもちわるい、ってタイプの不思議な美しさがある。それであらためて通じるものがあるかもと思ったのが、ローランド・カーク。彼は盲目で、口に三本サックスを加えて吹いたりしてたから「大道芸」とか「グロテスク・ジャズ」とか言われてたこともあるんですよ。70年代頭くらいの話だったかな、夢のなかで「ラサーン」って呼びかける声を聞いて「あ、おれはラサーンって名前なんだ」と知覚した。そして、それからラサーン・ローランド・カークを名乗り始めて、作るアルバムも夢の世界と接してるような不思議な作品が増えていくんですよ。その時期の作品を思い出したんです。
角銅 へえー。
──カークにも、ベルや鳴り物をずっと鳴らしてるような、まさに「Midnight car race」みたいな曲もあるし。
角銅 へえ、ローランド・カーク。ちゃんと聴いてみたいです。“カク”同士ですしね(笑)。わたしはやっぱり文化的な流れとか、人間の営みの中の音楽ももちろん愛しているけれど、それよりも、もっと単純に物から音が出るという現象そのものがうれしいんですよ。そこが結果的にわたしが音楽をやってる理由だし、一番どうしても惹きつけられるところだから。
──奇想と美しさの共存って意味では、ムーンドッグっぽさも感じましたけど。
角銅 ムーンドッグもすごく好きです。
──高城くんもアルバム用の推薦コメントでムーンドッグを引き合いに出してましたよね。ムーンドッグも盲目なんですよ。彼らは普通の生活では目が見えないわけなんですけど、夢のなかではなにかが見えているんだと思うんです。それを表現したくて音楽にしてるんじゃないかと思えるようなところがある。夢を使って現実に触るというか、拡張してゆくというか。角銅さんの音楽ができていくプロセスも似てる気がして。
角銅 なんか『時間の上に夢が飛んでいる』というアルバム・タイトルも、わたしのなかでは「それが音楽だ」というイメージなんですよ、ある側面での。曲としての「時間の上に夢が飛んでいる」もタイトルに呼ばれたというか、「いい言葉だな」と思って、ずっとそのことを考えてて、気がついたらポコって出てきました。
──ちなみに曲のタイトルはどうやってつけてるんですか?
角銅 えー? 「Kiss」なんかはそのままですよ。「February 1」も2月1日に作ったからだし……。「フォーメンテラ島」だけは、他とはつけ方が違ってますね。わたし、一時期プログレのバンドで歌ってたって言いましたけど、プログレを聴くのも好きだった時期があるんです。キング・クリムゾンが好きでした。
──あ、70年代の曲に「フォーメンテラ・レディ」ってありますね。
角銅 そう、あの曲が入ってる『アイランズ』ってアルバムが一番好きなんです。曲を聴いて「フォーメンテラ島ってどこやろ?」って思ったし、その歌のなかにあるストーリーを想像したりしてました。
King Crimson / Islands
──そうなんですか。クリムゾンからの発想だったとは。
角銅 あの曲が記憶にあったのと、自分がちょっと気になってる行ったことのない場所、写真でちょっと見たことあるくらいの場所のサウンドスケープとして音楽を置いてみて名付けてみるのをやってみたいなと思って、つけました。行ったことない場所のサウンドスケープなんです。それ以外はイメージでつけたかな。
──タイトルで時間を示しているものが多い気がしました。「雨がやみました」とかも時間の経過を示していますよね。
角銅 本当ですね。へー。時間の経過に惹かれてる部分はあるかもしれないけど、なにも考えずにそうなりました。
──タイトルって曲に命を宿らせる行為だったりするじゃないですか。すくなくとも角銅さんは「作品第何番」とかじゃなく、言霊を求める人なんだなと思いました。言葉にしてみたら「ああ、そういうことだったのか」ってまるで他人事みたいに理解できた、みたいなことよくありますしね。
角銅 まさにいま話を聞いてて「そうかも」って思いました。
──そういえば、アルバムのコメント、高城くん以外にも、美術家の小沢裕子さん、そして灰野敬二さんが寄せていますよね。
角銅 小沢さんはもともとはビデオ作品が多い美術作家の人で、その映像にわたしが音楽をつけたり演奏したりしていたんです。小沢さんの個展でわたしが演奏したりもしました。小沢さんには、ボイスメモに歌ったり、ピアノを弾いたりしてるのを送っていて、わたしが自分の音楽を始めたころから「いい。もっと作ったら?」って言ってくれてる数少ない人です。
──そして、だれもが気になっているであろう一文が、灰野さん。
角銅 めちゃめちゃ影響受けてますね。影響受けたというより勇気づけられたという感じです。音楽に向かう姿勢とか。
──そもそもどうやって知り合ったんですか?
角銅 前に六本木のSUPER DELUXEでわたしがライヴしたときに、たまたま灰野さんがDJで参加されてたんです。あの日、わたしは本番前で気が立ってて、楽屋に入ったとき、座ってた灰野さんをめちゃにらんだんですよ。わたしはあんまり覚えてないんですけど。あとで灰野さんにも「なんでにらんだの?」って聞かれたんですけど、とにかく目つきがわるかったんです。でも、そのときに「きみ、なんて名前? なんか名前載ってるものとかないの?」って聞かれて。ちょうど一週間後に初めての自分のインスタレーション作品の個展がある予定で、その期間中一日だけわたしも含めて4、5人のパーカッショニストで私の自作曲を集めたコンサートをやることになっていたんです。それで、そのチラシを渡したら、当日、灰野さんが来たんです。
──なんと!
角銅 灰野さんはずっとにやっとしながらわたしの演奏を聴いててくれて。そのときはまだ歌はちょっとしかやってなくて、息の音や体の音、テーブルを叩く音を曲にしてみたり、オルゴールを壁にばーっと並べてみんなで回したり、ちっちゃいテクスチャーを感じるような曲をやっていました。そしたら次の日に灰野さんから電話がかかってきたんですよ。
──それも、なんと!
角銅 2時間くらい感想を言ってくれました。「ぼくがテーブルを叩いたらテーブルが壊れるまで叩き続けるのに、なんできみは壊さないし、あんなちっちゃい音だけで音楽をやれるんだ?」って言われたんです。わたしは「おもろ! なんで壊すんですか?」って返して(笑)。その電話ですごく盛り上がって、そこから仲良くなりました。
──すごいですね。年齢とかを超越した関係。
角銅 好きな色の話をしてたことがあるんですよ。灰野さんは「黒」。そのときわたしは猫を飼いたいって話をしてて、わたしが「猫にはキリンかキイロって名前をつける。黄色がすごく好きだから」って話してたら、それで、アルバムにコメントを書いてくれることになったときに「じゃあ、暗号みたいな、二人しかわからないことをちょっと入れよう」っていう話になって。だから「黄色」がコメントに入ってるんです。すごいうれしかったです。
──素敵なコメントですよ。
角銅 ね、わたしも大好きです。灰野さんは一番素直にいろんな話をできる人です。アルバムを聴いてくれたときにも、灰野さんが自分から「ぼく、なんかコメント書いちゃっていいのかな」って言い出したんですよ。でも、いざ書くとなったら「自分がこれを書くことでこのCDが売れなくなったらどうしよう?」とか言って、すごく迷ったうえで書いてくれました。そんなわけないじゃないですか。かわいいですよね?(笑)。かわいいっていうか、真摯な人なんですよ。尊敬しています。
──アルバムのラスト・ナンバー「Bye」には、灰野さんの影響と思ってしまうほどの轟音が出てきてびっくりします。
角銅 あの曲に関しては、灰野さんの影響はぜんぜんないんです。むしろ、あの曲をアルバムに入れたのはいたずらみたいなところがあるんです。わたしがなにかを作る理由って、考えてみたら、ぜんぶ「いたずら」なんですよ。自分ではこのアルバムは「わたしはこの世へのラブレターの、さいしょの切れ端たちをいたずらにして、箱に詰め込みました。」と書きましたけど、ラブレターといたずらが混じったような感じなんです。チュウの音で「Kiss」って曲名にして1曲目に置いたのもそう。なんかいたずらしたいんです。人を驚かせるのが楽しい。
──灰野さんは「Bye」について、なにか言ってました?
角銅 灰野さんにあれを聴いてもらうのは恥ずかしかったけど、逆に、どう思うのかも気になってました。「ぼくは最後の曲はあえてなにも言わないけどね」って灰野さんは言ってましたけど、「スネアのチューニングとかをもっとだるんだるんにしたほうがロックの音がするんですよ」とも言ってくれましたね。「わたしはとにかくいたずらしたかったんです」って言ったら、ニヤって笑ってました(笑)。「Bye」の最初に出てくる打ち込みの音は、わたしが初めて買ってもらった楽器で、カシオのちっちゃいキーボードなんです。夢のある音がいっぱい入ってて、めっちゃいいんですよ。「宇宙」とか「チャイルド」とかのボタンがあって、それを押すと出てくる音が全部素敵なんで、今でも大事に持ってるんです。それで曲を作ってみて、「どうにかしてこれもアルバムに入れたいし、続きを考えたいな」と思ってたのが最初です。それで、続きをやってみたら、こうなりました(笑)
──バンド編成で、水門が全開になって感情があふれ出すような轟音に。
角銅 でも、自分でそうしたいと思ったんです。「だれがいたら、その音になるかな」と考えて、メンバーにも声をかけました。でも、アルバムの最後をこれにしようとはぜんぜん決めてなかったんですけどね。
──そういう意味では「Bye」は、聴き手に向けた究極のいたずらかも。高城くんもコメントで、あの曲のぶちあがる展開にびっくりして夕飯の支度中に包丁で指を切ったと書いてましたけど(笑)
角銅 ね! 高城さん大丈夫ですかね?(笑)
──でも、ああやって高城くんのコメントがあることも、おもしろいですよね。ceroのサポートとしておおぜいのお客さんの前で演奏する体験が増えているタイミングで、初めてのソロCDが出て。人生で角銅さんが出会ってきた人たちとも、お互いの人生がたまたまそのとき交錯してるだけかもしれないですけど、本当に予想もつかないことが起きてますよね。
角銅 いままでは目の前の人が聴いてくれていたけど、CDになったら目の前の人じゃない人がわたしの音楽を聴くわけじゃないですか。逆に緊張しますけどね。
──予想のつかないおもしろさがアルバムには詰まってると思います。
角銅 いやー、もっと予想つかなくなりたいです(笑)。ベネズエラ人の友達に「マナミは何のために生まれてきた?」って聞かれたことがあるんです。そのときに、すっと「自由になるため」って答えが自分から出てきた。なんでそう言ったのか、あとで考えるといろいろおもしろいんですよね。自由っていうのは自分のなかで特別なもの。自由になるためには、まず重力からも自由にならなくちゃいけなくて、そのためにはまず筋肉が必要なんです。だから、鍛錬が必要だなと思ったし、もっと楽器がうまくなりたいです。変な順序でいろいろたどってる気はするけど、いまは「音楽が好きだ」って素直に思えてるんです。
(おわり)
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もう本日ですが、角銅真実『時間の上を夢が飛んでいる』発売記念のインストア・ライヴが渋谷タワーレコードで行われます。
角銅真実とタコマンションオーケストラ(横手ありさ)
「時間の上に夢が飛んでいる」発売記念インストアイベント
カツオ・プレゼンツ・熱い音ライブ
17:00
7F イベントスペース
ミニライブ&サイン会
舞台「百鬼オペラ”羅生門”」に演奏や歌で出演中。
東京公演はBunkamura シアターコクーンで9月25日まで。
10月は兵庫・静岡・名古屋公演が行われます。
夢と時間の境目を触れる、たたく/角銅真実インタビュー その3
角銅真実インタビュー、第三回!
大学を卒業した彼女が、いよいよceroに加入したくらいまでの話。
気になってる人も多いエピソードだと思うので、今回もさくっと本編へ。
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──大学の後半あたりから、しばらく音楽をやることについての悩みを感じていたという話でしたよね。それは卒業後も続いていて、「やっぱり音楽が好きだ」と認めたのは最近だったと聞いて、結構びっくりしました。
角銅 卒業して一年くらい経ってからBUN Imaiって大学時代の同期だったパーカッショニストとBUNKAKUっていうユニットを始めたり、ライブのサポートで演奏をしたり、オーケストラのエキストラの仕事とかコンサートとか、音楽は続けていたんです。だけど、本当にすっきり自分のやりたい何かの方法だとか音が少し見えてきたのは、ceroに誘われるちょっと前くらいから、ですね。自分でソロのライヴを始めたり、「正解か、正解じゃないか」ではない部分で自分が「好き!」と信じたものを出していいと徐々に自分自身に許可できるようになってきた。楽器って自分で作ったわけじゃないですよね。自分でスネアは発明してないし、それを自分で演奏することがわたしにはどうしてもしっくりこなかった。だけど、出したい音があって触りたいものがあるなら「やればいい」って自分で思えるようになったんです。
──なにかきっかけはあったんですか?
角銅 ちょうど麦さんに誘ってもらってWWWで一緒にやったころかな(2015年3月17日、アルバム『far/close』リリース・パーティー『Coming of the Light』)。麦さんは昔から結構、横から「もっとやっちまいなよ」ってちょっかい出してくれるんです(笑)
──そうか、あれは角銅さんにとってはちょっとした復帰の舞台でもあったんだ。
角銅 そうですね。そのちょっと前に麦さんのデュオ、Doppelzimmerのサポートも始めてたけど、そこでもわたしは空き缶とかしか叩いてなかった。でも、それを麦さんは「それがいい」って言ってくれて。結構、わたしをのびのびさせてくれた人ですね。
──ちなみに、麦くんとはどうやって知り合ってるんですか?
角銅 知り合ったのは大学を卒業してからですけど、大学生のころに学校の近所の谷中ボッサ(当時は鶯谷。現在は長野県松本市に移転し、「ヤマベボッサ」として営業中)でライヴしているのを見に行って「うわー、この人かっこいいなー」って思ってました。そうこうしてたら一緒にやるようになって、ceroの話がきて、運がいいというか、いい波に恵まれてる気がします。
──なるほど。
角銅 あの日のライヴの後で、ゲストで出てた高城(晶平)さんがピカピカの笑顔でやって来て、「よかったよ! ceroでもマリンバとか叩いてほしい。一緒に音楽やろうぜ!」って言ってくれたんです。なんかそんな感じで音楽に誘われたの、初めてで、すごくうれしかった。だけど、わたしはいわゆる器用な音楽ができないと思っているので、「いわゆるパーカッションとか器用なことはぜんぜんできないけど、それでもよかったらぜひやりたいです」って答えました。でもそう声をかけてくれて本当にうれしかったです。
──そこから、じっさいにオファーが来るまでは1年半くらいありましたよね。
角銅 はい。麦さんから「なんかceroが(角銅さんのこと)言ってたよ」って聞いて(笑)。そのあとカクバリズムから連絡が来て、コンガを叩いてほしいという話でした。わたし、コンガはceroで初めて叩いたんですよ。
──え! そうなの?
角銅 そうなんです。でも「コンガやったことないんですけど……、まあ、がんばったらちょっとは叩けるかもしれないので練習します! やりたいです!」って答えました。
──もうそのころは、楽器に対して抱いていた悩みはかなり吹っ切れていた?
角銅 いや、たとえばコンガにしても、行ったことのないカリブのキューバの木と革からできた楽器とその音楽に対して、長崎で育っていま東京にいる自分が底の底の部分でどう向き合ったらいいかわからないというのはありますね。芯の部分で「おなじことをわたしがなぞってもしょうがないんじゃないか、もっと豊かな方法があるんじゃないか」と思ってしまうんですよ。極端ですけどね(笑)。自分なりの豊かな方法というか、びっくりするような面白い方法があるんじゃないかと。だから、「木でできてて、厚い牛の革が張ってあって、テンションがかかってて、一個とか二個とか三個とかで演奏する、縦に長い楽器」というふうに、コンガのことを一回自分のなかで解体して考えないといけない。わたしは、基本的にはそういう方法しかできないんです。でも、そのときは「いまだったら“コンガ”叩きたい」と思ったんですよね。「楽器うまくなりたい」っていうことも、ceroで初めて思えたかも。
──新サポート・メンバーとして参加して、いきなりツアー(MODERN STEPS TOUR/2016年11月3日〜12月11日)でしたよね。麦くんはいまとはすこし役割は違ったけど一時期サポートで参加していたし、メンバーとは旧知でもある。小田(朋美)さんはソロとしてもDCPRGのメンバーとしても注目の人。だったら、角銅さんもばりばりのプレイヤーなんじゃないかとイメージした人も多かったと思うんです。
角銅 誘われた時点でもうツアーが始まる日にち(2016年11月3日、仙台darwin)も決まってたし、ceroの音楽が好きだったから、とにかくがんばりました。「ここにこんな音あったらいいんかな?」みたいな(笑)
──初日の仙台から演奏のテンションがすごくて、とてもそんな感じには見えなかったけど(笑)
角銅 ceroは音楽の強度がとても強くて、音楽の豊かさプラスみなさんの人間的な豊かさがあるから、わりとどんなことが起っても音楽的に許容しうる、それで豊かに成立する懐の広さみたいなものを感じました。わたしが「このリズムだからこのパターンで」みたいに変に決まりごとを意識しないでも参加できたんです。それで、ツアーしながらのびのびといろいろ試してました。「今日はちょっと違ったなあ」とか「こうしたらうまくいったんだな」みたいな。
──見た人は、そんな感じで角銅さんがやってたとは思ってなかったでしょうけどね(笑)
角銅 そうですか? いや、二人(麦と小田)はすごいんですけどね。
──リズム隊の一角としては、光永(渉)くんとのコンビネーションというのも重要と思うんですけど、一緒にやるにあたってみっちゃんとはどういう話をしました?
角銅 いや、そんなに何も言われなかったし、ツアーの時はそこまで細かい話は、たぶんしてないですね。いつもライヴのときにみっちゃんがニヤッとしたら「これでいいんだ」って思ってます。
──奇しくもおなじ長崎県出身だし、彼も本格的にドラムを始めたのはわりと遅かったとか、かなりおもしろい経歴なんですよね。
角銅 みっちゃんのドラムが私は本当に大好きです。
──一緒にやりやすい?
角銅 やりやすいとかやりにくいとか越えて、もう単純に音と演奏が「好き」という気持ち。やっててすごく楽しいです。ライブで毎回どっかで「amazing!」って思う。みっちゃんは「このジャンルとかこの音楽をやるのにこのサウンドが必要」とか、ドラマーらしい楽器やモノへのこだわりっていうよりも、「スネア一台で、いろんな音楽と向き合う」みたいなところを横で勝手に感じます。いや、楽器のこだわりとかあるんでしょうけど……(笑)。すごくベーシックというか、モノとかを超えてドラムセット以上にドラムセットを感じるというか、身体とか温度とか、パッションがダイレクトに伝わるというか、とても豊かなドラムだと思います。
──バンドでツアーしてあちこち回る、みたいなことも初めての体験でした?
角銅 こんな長いのは初めてです。おなじ曲をおなじメンバーで何回もやるのも初めてです。
──なるほどね。バンドとしては当たり前のことが、角銅さんにそう言われるとすごく不思議なことに思えてくる。
角銅 みんなも楽しんでると思います。
──角銅さんにとって、ceroの音楽はどこがおもしろいですか?
角銅 音楽とはちょっと違う話かもしれないけど、「愛してるよ」って歌うじゃないですか。そこにわたしはびっくりして。ライブでも毎回、タンバリン叩きながら「いま、この人(高城)、“愛してるよ”って言うとるよ! この大勢の人の前で! すご〜」って思って。
──たしかに! 「街の報せ」で(笑)
角銅 わたしも「愛してるよ」はハモるんで、歌いながら「わたしの口もおなじこと言った!」って思うんです(笑)。「大勢に“愛してるよ”っていうメッセージを伝えるような音楽を、わたしもいまやってるんや!」という驚きと喜びですね。それが一番の衝撃だったし、びっくりしたし、好きなところなんです。あんまり音楽でそういうふうにびっくりしたことはない。だって、すごくないですか?
──いい話。
角銅 他にも細かいところでいろいろ好きな部分はあるけど、「愛してるよ」に勝るものはないくらい、あそこが好きです。わたし、音楽を作ったり演奏して外に放つとき、だいたいそれは大きな愛のメッセージであるんですけど、あそこまでダイレクトな態度を持つものに関われたのはすごく幸せだし、うれしいなと思います。わたし、いまいつもceroの曲聴いてますよ。今日も聴いてた。いつも元気をもらってます。
──いま、ハモりの話も出ましたけど、じつはceroにはコーラスとしての参加でもあるじゃないですか。じっさい、去年の12月に出た石若駿くんのソロ・アルバム『Songbook』では、素晴らしい歌声を披露しています。
角銅 えへへ。
──石若くんは藝大の後輩になるんですよね。
角銅 そうです。学年は三つ下です。
──「Asa」「10℃」の2曲に歌と作詞で参加してますけど、すごくびっくりしました。だいいち、いままでいろいろ音楽的な経歴を聞いてきたけど、歌の話いっさい出てきてないでしょ?
角銅 あ、そうか。そうですね。
──歌って、子どもの頃から好きでした?
角銅 はい。別に普通でした。自分の声をカセットで録音して聴いて、「うわ!」って恥ずかしくなるような子でした(笑)。音楽聴いて踊ってるほうが好きでした。
──大学時代も、自分の表現として歌はやっていない?
角銅 学生時代の私の黒歴史として、一瞬やっていたプログレ・バンドのヴォーカルというのがあるんです(笑)。そこで一瞬歌ってたけど、それくらいですね。卒業してからは、BUNKAKUではたまに歌ってたし、自分でも歌の曲を作ってはいたんですよね。
──発声が独特じゃないですか。喉のかたち、口のなかのかたちのまま声が出てきてるようで、すごく特徴的だし、魅力のある歌声だと思います。『Songbook』を聴いた人はみんな「誰これ?」ってなると思う。
角銅 そうですか。いい曲に恵まれました(笑)
──あれは、石若くんから「歌ってよ」と依頼された?
角銅 そうです。ある日、部屋であのメロディを録ったボイスメモが送られてきて、「角さん、これに歌詞をつけて歌ってみてほしい」と言われて。聴いたら「へえ、いい曲だな」と思ったんでやってみました。最初は曲名もぜんぜん違ってたけど、「好きにしていい」って言われたから、あの歌詞とタイトルが結構すぐに思いついて。それをパソコンで石若くんのを流しながら合わせた歌って、そのボイスメモを「できた!」って送り返しました。
──へえ! びっくりしてたでしょ。
角銅 「いい!」って言われました。「わたしも、いいと思う」って返事して(笑)
──ヴォーカリストとしてもすごく興味を持つきっかけになりました。ぼくだけじゃないと思うけど。
角銅 うれしいです。いろんな音を出す中で、声が一番自分の中でのいろんな筋が気持ち良く通る方法だなと結構強く思ったときもあって。
──なるほど。「体の筋が通る音」。発声に無理がぜんぜんないですもんね。
角銅 何も考えずに歌ってます。発声の勉強とかはちょっとしたいですけど。
──そしていよいよ、そんな角銅さんがソロ・アルバム『時間の上に夢が飛んでいる』を作ってるという話を最近聞いた、というこのインタビューの本題に入ります。
角銅 アルバムでは意外に歌ってないですけどね。
──でも、いままでに聞いた音楽人生のエピソードは、ぜんぶアルバムになんらかのかたちで入ってる気がします。
角銅 そうですね。
(つづく)
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もう本日ですが、ceroで角銅真実こちらに出演。
2017.08.11 FRI 東京 | 新木場 STUDIO COAST
cero Presents“Traffic”
【OPEN/START】
13:00 / 14:00
出演
cero / 岡村靖幸 / D.A.N. / 藤井洋平& The VERY Sensitive Citizens Of TOKYO / 古川麦トリオ with strings / KEITA SANO(LIVE SET) / Sauce81(LIVE SET) / SLOWMOTION(DJ MOODMAN、MINODA、Sports-Koide) / Daiki Tsuneta Millennium Parade(DTMP) / Jun Kamoda(LIVE SET) / サモハンキンポー(DJ)
FOOD
Roji(阿佐ヶ谷) / えるえふる(新代田)