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なにかあり/とくになし

ふたりで茶でも 安藤明子インタビュー その1

ぼくの目の前に
安藤明子さんが座っている。


京都在住のシンガー・ソングライター安藤明子を
いいなと思うところはいろいろある。


これから
彼女の話をいろいろ訊きたい。


どういうふうに構成するのがいいかと考えたが
1960年代半ばに
テリー・サザーンがオカマの看護士を相手に行った
「ザ・リアリスト」誌でのインタビューにならってみることにした。


実はそれ
昔、ぼくが訳した仕事でもあるんですが。


そのインタビューで
サザーンは会話を記事的に構成せず、
実際にしゃべったままを
相づち、言いよどみ、脱線もふくめて
ほぼ忠実に再現しているのだ。


安藤さんの歌と同じように
心地よさと芯にある固さがブレンドされた口跡を、
飾らない人柄と
無防備なようでいて
気配をうかがう猫のような物腰を、
ぼくも字で残したい。


なので
可能な限り
その雰囲気を残して構成することにした。
安藤さんのブレスや気配を
感じていただけたらうれしい。


連載のタイトルは
「ふたりでお茶を(Tea For Two)」というスタンダード曲にあやかるつもりだったが、
関西では「お茶」というより「茶」
それも「ちゃー」と伸ばす感じがあって
それがいつもチャーミングに思えるので
「ふたりで茶でも」に改変させていただいた。


なおタイトルの通り
このインタビューは
夕暮れどきの
割と混み合った喫茶店で行われたので
会話の背後には
ガチャガチャペチャクチャ
カキンカランと
気持ちの良い喫茶ノイズが流れている。


そんな感じもイメージしていただけると
いいかなと思う。


そうですね。
まずは隣のテーブルで
コーヒーでも注文するぐらいの感じで
聞き耳立ててみてください。


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安藤 バンさんとの京都デイトの連載、すごい長かったですね。読んでましたよ(笑)。すごい「次どうなるんやろ?」みたいなところで終わるからねえ、次の日とかも「まだ更新してない?」とか思って見てました(笑)


松永 話自体はたいしたことないのを伸ばしに伸ばしてるから(笑)。まあ、それだけバンちゃんがおもしろいひとだってことですよ。


安藤 そうですねえ(笑)。わたしに、すごくうれしそうに松永さんの連載のこと毎日言ってきて。「見た?」とか(笑)。「そろそろまたスマート行くで」みたいな(笑)


松永 (笑)そんなに楽しみにしてもらってたなんて。でもバンヒロシさんがいなければ、ぼくは安藤明子さんを知る機会はなかったんですよ。もちろんそれ以前から安藤さんは安藤さんでずっと活動をしていたわけで。だから、そういう知られてない部分、ぼくが知らない部分を知りたいなと思って、インタビューを申し込みました。


安藤 わたしも振り返られてみたいです(笑)


松永 生まれは三重県なんですよね。


安藤 はい、そうです。


松永 生まれも育ちも三重?


安藤 18歳まで三重です。


松永 三重県に対するイメージがぼくはあんまりないんです。


安藤 伊勢神宮とかですかねえ? 四日市ぜんそくとか、鈴鹿サーキット志摩スペイン村とか? スペイン村は、わたしも行ったことないですけど(笑)


松永 住んでたのは三重県のどのあたりなんですか?


安藤 わたしは、今言ったもののどこにも当てはまらないんですけど、一志(いっし)郡という郡だったんですよ。ラブラブスパークの一志(カズシ)さんと同じ字です。松永さんは一志さんとお知り合いなんですよね?


松永 そうなんですよ。こないだは会えなかったんですけど。


安藤 一志郡は、合併で津市になっちゃったんですよ。松坂市になるか津市になるか境目の町で、結局、津になっちゃいました。ちいさい町で、どちらかと言えば山側になるんですかね。海までは車に乗って10分くらい。


松永 そこで小学校も中学校も育ったんですね。


安藤 そうです。高校は、ちょっと遠いところに行きました。鈴鹿サーキットのそばの高校に行ってまして。結構時間かかるんですよ。2時間か1時間半くらいかけて通学してました。


松永 電車で?


安藤 はい。その学校はちょっと特殊な学校で、応用デザイン科というのがあって、県内にはそういう学校は他になかったんです。わたしは、その科がとても気になっていて、「行きたい」って両親に言ったんです。「朝がすごい早いからやめなさい」とも言われたんですけど、ぎりぎり通える範囲だったので、行ってみるかという感じになったんです。


松永 美術的な学科なんですか?


安藤 わたしは服飾コースに行ってました。


松永 中学生のころから、そういうところを志す気持ちがあったんですか。


安藤 あったんでしょうね。お姉ちゃんが服飾の学校に行って勉強してたので、その影響もあって。あと、勉強がすごく苦手で(笑)。普通科に行って普通に勉強するというのが、何で行くのかよくわかんなくて。勉強をいいと思えなかったんですよね。


松永 それだったら、ものをつくるほうがいいなと。


安藤 そうですね。そのころはもう歌をうたってたので、ものをつくったり、歌をうたったり、絵を描いたりする学校がいいなと思ってました。


松永 もううたってたんですか? 中学生ぐらいから?


安藤 そうなんですよ。


松永 うたうっていうのは、ちゃんとギターを弾いて?


安藤 そうです。中学三年生のとき、15歳の誕生日にギターをお父さんに買ってもらって。


松永 モダンなお父さんですね。


安藤 ねえ。なんか「ギターやりたい」ってわたしが言ったんですよ。そしたら買ってくれて。それから弾きはじめて。でもね、わたし、なんでもすぐイヤになるんですよ(笑)。ギターも、最初は指が痛いし、すごいやめたかったんですけど、自分から言い出してお父さんに買ってもらった手前、やめれなくてやってたら、なんとか続けられたんです(笑)


松永 ギターを買ってほしいと言い出すからには、なんか自分なりのアイドルというか憧れみたいなものがあったんですか?


安藤 あったんですかねえ……? 七歳上のお兄ちゃんがいて、バンドをやってたんですよ。小学校のときからそれをよく見てたので、わたしも中学生になったらギターを買おうとは思ってました。七つ離れてると、喧嘩するような感じでもないし、おもしろがって一緒に遊んでくれてて。一緒に曲作ったりとか(笑)。家族の悪口とかを歌にしたりしていたんですよ。うちは音楽一家ではないんですけどね。両親もそんなんじゃないし。


松永 レコードとかラジオとかテレビからの影響ではないんですか。


安藤 そういうのよりも、お兄ちゃんが音楽やってたからですね。でも、ちっちゃいときはテレビの中には興味ありました。「みんなテレビに出たいと思ってる」と思ってましたから。「いつかここに出たい」と思って、みんなそれを目指してるんだ、って。なんか知らんけど、ハハハハ。


松永 歌をつくるっていうのは、子どもはよくやるじゃないですか。身のまわりのこととか、くだらないことを歌にして、自分の名曲にしちゃうみたいな。そういう感じで始めたものが、ギターを手にして、どうやって安藤明子の音楽に変わっていくんですか?


安藤 うーん。何なんでしょうね? 声を出すのが好きだったんですよね。うたうとかしゃべるとか。うたいたかったのでピアノも習ってたんですけど、練習がきらいでやめちゃって。でも、歌をうたうために伴奏が要るとは思ってて。それがギターになったんですけど……、ねえ……。今ちょっとあのころを思い出してたんですけど、なんか中学校二年生くらいから、ちょっと自分がくるしくなりはじめたんですよ(笑)。それまでは、わたしはすごい陽気なひとで、おもしろおかしくしてたんだけど、あるときからそういうのがすごくしんどくなってきて。バランスが崩れるんですかね、そういう時期って。思春期というか。それで、言いたいこと、思ってることをあんまり言えないひとにどんどんなってきて、それを自分の曲にしたりするようになってました。


松永 日常生活では言えないけれど、曲にすると言いたいことが言える、みたいな。


安藤 曲に込めて出してるんですね。そういうのをしないとくるしくて、本当に内にこもってしまったと思うんで、あぶない状態だったんじゃないかなあと。自分の歌に救われてたという部分はありますね。


松永 その歌はだれに聞かせるでもなくつくっていたんですか?


安藤 家族に聞かせてました。家族が聞いてくれてたんですよ。「どこまで出来た?」みたいな感じで。最初からほとんど自分の曲ばかりつくっていて。


松永 たとえば有名な曲、ディランとか、そういうのを練習するとか、そういうのではなく?


安藤 そんなお洒落な(笑)。でも最初はスピッツの「チェリー」ってあるじゃないですか。「あれがコードが簡単やから、あれを練習曲にしたらいいよ」ってお兄ちゃんが言ってくれて。それを練習して出来るようになったんで、そこから曲をギターでつくりはじめたんですよ。だから、わたしの曲はほとんどスピッツの「チェリー」のコードなんですよ(笑)。C、G、Am、E、それで出来てるんです。曲って、そういうものだと思ってたんでしょうね(笑)


松永 (笑)でも、「チェリー」は歌わず。


安藤 「チェリー」は歌ったことないですねえ。歌ってみてもいいかも(笑)


(つづく)


ふたりで茶でも 安藤明子インタビュー その1