mrbq

なにかあり/とくになし

シティ・ポップの壊し方 失敗しない生き方インタビュー その1

失敗しない生き方。

まず、ぼくはそれをバンド名とは思わなかった。
最初はtwitterで流れてきた、mona records店長、行達也さんのツイート。リンクにあった「月と南極」という曲を聞いた。


失敗しない生き方「月と南極」


それは確かにすごい曲のような気がした。
かたちはシティ・ポップのような気がするんだけど、まず、巧くはない。でも、得体の知れない熱気はある。
演奏しながらどんどん熱で溶け出して、最後には自分たちにもわけのわからないものになっていくような、変化の感覚があった。
そして、アメーバ状になったその余韻は、耳の穴に残るツーンという残響音と一緒に、ぼくの周りの景色や街の光すら一瞬変えてしまった気がした。
行さんが言った「なんかスゴイ!」という感覚とおなじなのかはわからないけど、ぼくも「なんかスゴイ!」と思って、その日、何度も「月と南極」をリプレイした。



検索で出てきた、失敗しない生き方のホームページには、三鷹のライヴ・スペース、おんがくのじかんの店主である菊池さとしさんの紹介文と、ごく簡単なプロフィールが載っている。以下、引用。


====================


住環境の良い三鷹周辺でヌクヌクと生まれ育ったヌルめの若人たちが、どうしようもない暇をつぶす為だけ一時的に結成された、コンビニエント・サバーブポップ・グループ:失敗しない生き方。
冷めたファストフードと気の抜けた炭酸飲料が彼らのマイ・フェイバリット・シングス。オリジナリティよりもポピュラリティが彼らの欲しいもの。
関わりたくないカテゴリの人たちです。
しかし。音楽とは時として恐ろしいもの。メンバー間の不均衡がもたらす絶妙なバランス感覚はひと癖ふた癖、、癖になる何かが確かにあるのです。バンド・マジックと云えば聞こえが良いですが。メンバー募集で結成されたような関係性であれば、とっくに解散していたであろうベトベトな甘ったるい人間関係。何が彼らを繋ぎ止めているのか。
それは残念ながら『音楽』や『情熱』ではないでしょう。それはそう、ある時期からよく見聞きした都合の良い言葉『絆』のようなものでしょうか。
しかし、その『絆』のようなものは、決して美しいものなどではないのかも知れません。望んでもいないものなのかも知れません。言い換えれば『腐れ縁』なのかも知れません。
腐れ方も様々です。『発酵』なんて優等生な言葉もあるくらいですから。彼らの関係が十数年かけて腐ってきたのだとすれば、もはや、自然発酵と云えます。それが、このグループの旨味になっているのではないかと思っています。
音楽シーンにも発酵ブームがくることを祈って。このままベットリ仲良く腐ってゆくべし。


おんがくのじかん:菊池


====================


主な動き


2010年秋
リハーサルバンドとして活動開始。前野健太「ファックミー」まるまるカバーなどして遊びほうける。


2011年春
例の震災。(ちゃんとした)ライブ演奏の活発化。


2012年春
初自主制作デモ音源発表。



山形県長井市で開かれた第二回「ぼくらの文楽」に出演。栗コーダーカルテットの裏番をつとめる。
他、東京中西部、ベッドタウン三鷹おんがくのじかんの三周年記念GIG大トリをつとめる。


2013年1月13日
三鷹おんがくのじかんにて自主企画「余分な音楽の夜会」開催。
同日、自主制作音源雑誌「遊星都市」発表。


5月18日
三鷹おんがくのじかんにて、森は生きているとの2マンライブ「ぼくら、20世紀の子供たちの子供たち」開催。


====================


彼らのCD-R「遊星都市」に、50ページの冊子がついた仕様のものが販売されていることを知り、早速買い求めた。
散文と漫画で構成されたそのブックレットには、もちろん、じたばたとして、まとまりに欠け、何を言いたいのかつかみかねるじれったさもあるのだが、ぼくの好きな破綻と混沌の匂いがあった。
そして、4曲のオリジナルと、6人のメンバーの名前。



失敗しない生き方「遊星都市」


クックブック
月と南極
自転車泥棒
カントリーウエスタンロードムービー


Guitar 天野龍太郎
Keyboard 今井一
Bass 村上慎吾
Drums 寺尾拓未
Vocal 蛭田桃子
Sax 千葉麻人


「遊星都市」に収められた4曲を聞いて驚いたのは、「月と南極」が、決して彼らの全体を象徴した曲ではなかったことだ。
むしろ楽曲の個性はばらばらで、その針はジャズにもカントリーにも振れ、そのくせ、どこか特定の場所を目指してもいない。日本語の歌詞もふくめ、まさに“遊星”のような気ままさと孤独さを、彼らの音楽はまとっている。


たぶん、彼らよりうまい連中や、これより出来のいい音楽をぼくは知っている。
なのに、無視できない。ふとした弾みで思い出す。


その謎を引きずったまま、4月にはじめて失敗しない生き方のライヴをおんがくのじかんで見た。対バンはyojikとwandaシャンソンシゲル。失敗しない生き方は一番手。


彼らのライヴは、音源よりも、ずっと拙く、しかし、パンキッシュで迫力のある破け方をしていた。狭い空間で生音を活かすおんがくのじかんの音響が加勢していた部分がいくらかあったとはいえ、そのむきだしの感覚は、CDからも香っていたものだ。


ライヴ中、かったるそうに歌っていたリード・ヴォーカルの蛭田桃子が、口を開いた。正確な再現ではないが、重要なことを彼女はしれっといってのけた。


「私たちはシティ・ポップじゃなくて、“ベッドタウン・ポップ”なんです」


その言葉をきいた瞬間、思わず椅子のうえでのけぞりそうになった。
ベッドタウン・ポップ”。“ベッドタウン”という言葉が醸し出す、郊外と退屈、そして、宙ぶらりの街に生きている家族や恋人たちの姿は、今、ぼくの目の前にいるバンドが奏でている音楽が伝えるイメージと、ほぼ完全に一致した気がしたのだ。


何度か、彼らのライヴに足を運ぶうち、この寄る辺なき遊星のような若者たちの言葉を、ありのままで書き留めておきたいなという気持ちになってきた。


5月18日、おんがくのじかんで、森は生きていると彼らのツーマン企画〈ぼくら、20世紀の子供たちの子供たち〉を見た。
そしてその翌日、思い立って、彼らの代表アドレスにメールを送った。


====================


失敗しない生き方 ご一同さま


こんにちは。
ライターの松永良平といいます。
昨日もライヴを三鷹おんがくのじかんで見ました。
ご本人たちが言っているように「シティ・ポップ」の従来の枠から明らかにはみでていて、
でも本人たちもその呼び名を相手に自問自答してる感じがあって、
なにより破綻をおそれない演奏に好感もってます。
もうすこしこのバンドのことを知りたくなってきました。


もし、ご興味ありましたら
ぼくの取材受けていただけませんか?


ただし、これはどこかの媒体に発表するものではなく
ぼくのブログでの発表です。


雑誌でなくて申し訳ないのですが
逆に字数の制限なくやらせてもらっている自分企画です。


もし、受けてみてもよいという感じでしたらご一報ください。
ライヴも、また行きたいと思ってます。
よろしくお願いいたします。


松永良平


====================


そして、6月26日の夜、吉祥寺の居酒屋で
練習後の彼らのインタビューをすることになった(都合により、村上、寺尾は不参加)。


これから全5回にわたって、そのインタビューを連載する。


タイトルは
シティ・ポップの壊し方」。


インタビュー自体は全4回で、最後の回はボーナストラック。
インタビューだけで3万字近くで、ボーナス入れたら軽く3万字超えになってしまった。


これで失敗しない生き方のすべてがわかったつもりなんて思わない。
だけど、彼らがやろうとしていること、もしかしたらやれそうなこと、やろうとすら思わないのにしてしまっていること、そんないろいろの一端は伝わるように思う。


長さはあるけど、きっとあっという間に読めるはず。
ぼくに話す敬語と彼らのあいだで反射的に交わされるタメ口の交錯が、まるですぐそこで交わされてる会話みたいに時間を転がすはずだから。


今日から毎日一回更新します。
よろしくおつきあいを。


====================


──そもそも、失敗しない生き方はいつから始まったバンドなの?


千葉 始まりは、3年前(2010年)だよね。


今井 いいインタビューの始まり方だね(笑)


──最初からもうこの6人?


千葉 いや、蛭田はいませんでしたし、一番最初はドラムの寺尾もいませんでした。千葉、今井、天野、村上の4人が集まって、そのあとに寺尾、蛭田を入れていったという感じでした。


──もともとのつながりは、何?


千葉 高校ですね。天野以外は同じ高校でした。


今井 僕らは府中高校です。


千葉 だから、森は生きているの岡田くんたちと同じ高校の、先輩です。森のトランペットの大久保くんとは同じ高校の同学年で、部活も軽音楽部で一緒でした。


蛭田 私はジュンジュン(大久保)と小学校が一緒でした。


──天野くんは別の高校だったんだ。


天野 僕だけ違います。


蛭田 でも、千葉くんとは、おさななじみだよね。


天野 千葉とは小学校が一緒で。もっとさかのぼると、千葉と村上は保育園が一緒なんです。


──幼稚園までさかのぼるんだ? Gellersみたいだね。


千葉 三鷹市のおなじ保育園でした(笑)。といっても、あんまり記憶にはないですけど。


天野 当時、仲よかったの?


千葉 仲はよかったよ。遊んでた記憶がある。ただまあ、もちろんそのときから「バンドやろうよ」なんて言いませんよね(笑)。小学校にあがったころに、彼と僕の住んでた場所が違ったんで別々の学校になって、そこで一回離れるんです。でも今度は、その小学校で天野くんと出会うんです。天野くんとは本当にすごく仲よくて。


天野 お互いの家で、ゲームとかばっかりやってた。


──メインのゲーム機は何?


天野 プレステだよね。


今井 64とかじゃない?


千葉 僕らは任天堂じゃなかった(笑)


──ちなみにみんなが生まれたのは……。


天野 1989年です。


──みんな平成生まれで、小六で2001年なんだ。


千葉 中学校で、それまで校区で別に分かれてたみんなの小学校が、またひとつになるんです。それが三鷹市立第七中学。


天野 伝説の七中(笑)


千葉 そこで天野、村上、僕が一緒になって。でも、まだ「一緒にバンドやろう」という感じでもなかったですね。ただ、僕は小学校の終わりごろからずっとギターは弾いていて、「いつかバンドやりたいな」という話を村上くんとはしてました。


天野 ギター部にいたんだっけ?


千葉 ギター部というのが学校にあって、そこに最初は僕ひとりしかいなかったんです。入学したときに新入生向けに部活紹介ってあるじゃないですか。それで「ギター部楽しみだな」と思って待ってたら、最後の最後に顧問の先生が出てきて「どうもギター部です。部員がいないのでよろしくお願いします」って(笑)。僕が「これは大変だ」と思って救いの手を差し伸べたんです。


天野 偉そうだな(笑)


蛭田 偉そうだよね(笑)


千葉 それで、中学三年生のときに全校生徒の前で演奏する機会があって、そこで初めて村上くんに「バンドをやるから、ベースを持ちなさい」って言って。そしたら彼がフェンダー・ジャパンのプレシジョン・ベースを買ってきたんです。


天野 当時は村上はギターだったんですよ。


──そこではじめて音楽的につながった。


千葉 その後、府中高校に進学して、僕と村上と、あと2人でバンドをやってたんですが、そのライヴに天野くんや今井くんが来てくれたんです。


今井 僕も高一のときは千葉たちとおなじクラスだったし、バンドとか軽音楽部的なところにいたんで、見に行ってましたね。


千葉 ドラムの寺尾くんもよくライヴを見にきてくれてて、それで仲よくなったんです。天野くんとは中学校を卒業してから一年くらい会わなかったんですけど、「ひさびさにライヴするから見にきてよ」って誘ったらきてくれて。そしたら「ねえねえ、ツェッペリンの『ブラック・ドッグ』やってよ」って言われて。


天野 覚えてるんだ、それ?


千葉 覚えてるよ。僕の知らないあいだに、天野くん、急にロック・ミュージックをすごく好きになってたんですよ。


──ゲーム好きの天野くんがロック好きになっていた(笑)


天野 いや、そこまでゲームが好きだったわけじゃないんですけどね。


千葉 で、天野くんが音楽がすごく好きで、僕らは演奏もしてるというので、そこからまた交流が始まったんです。天野くんは、当時の高校生としてはすごく詳しかったんですよ。プログレとかすごく好きで。


──天野くんは昔の洋楽が好きだったの?


天野 そうですね。何がきっかけかははっきりしないんですけど、高校入ったぐらいから本格的に聞くようになって。なんなんだろう? 青春パンク全盛時だったんで、もともとは銀杏BOYZとか聞いてたんですけど、そのへんからさかのぼってパンクのセックス・ピストルズを知って、70年代のロックを聞くようになって。今考えるとすげえおかしい話なんですけど、ピンク・フロイドセックス・ピストルズを同時に聞いてましたね。ジョン・ライドンが〈I hate Pink Floyd〉ってTシャツを着てるにもかかわらず(笑)。その時期に千葉くんたちと再会して、「ロックやってるんだ」って思ったんです。



──千葉くんのバンドは、どういう曲をやっていたの? なにかのカヴァー?


千葉 いや、最初からオリジナルをやってました。


今井 いまだに千葉の作ったCD-R持ってますよ。いつでも取り出せるようにしてあります(笑)


──千葉くんへの戒めのために?(笑)


今井 はい。いつでも「これがあるんだからな」って(笑)


天野 うちにもあるはず。どこにあるかなあ?


──(笑)


千葉 それで、天野くんがあんまり音楽に詳しかったんで「空のCD-Rを持っていくから、いろいろ焼いてよ」って言って、一週間になんべんも会いに行くようになったんですよ。天野くんからピンク・フロイドを教えてもらったのは、すごく大きかったですね。


──どの時期のピンク・フロイド


天野 『狂気』が好きでしたね。最初に聞いて、結構なショックを受けました。音楽雑誌とかをそんなに読んでたわけじゃないんで、たぶんネットから知ったんだと思うんですけど。



──Youtubeとか?


天野 そうですね。掘るのもネットでした。Youtubeはすごい衝撃でした。レッド・ツェッペリンがデビュー当時のイギリスの番組で演奏してるやつとか、そういう映像をタダで見れるということが衝撃だったことは、はっきり覚えてます。


今井 Youtubeが完成したのが2005年くらいだから、ちょうど僕らが高一、高二くらいなんだよね。


天野 びっくりしたよ、あれは。2ちゃんねるにリンクが貼ってあって、飛んだら動画が見れた。まさに僕はYoutube世代です。


──ここで千葉、村上、天野がなんとなく揃った感じだね。


千葉 で、僕らとは別に今井くんや寺尾くんもそれぞれバンドを組んでいたんですが、高校三年のときに一緒に9人編成の学園祭バンドをやったんですよ。そこではじめて〈失敗〉のメンバーが一緒になったという。


今井 まあ、普段からその9人はよく遊んでたし、みんな楽器もできたし、「高三だし、文化祭やろうね」っていう感じでしたよね。それで、文化祭がものすごく盛り上がったんで(笑)


蛭田 ふざけてたよね。


今井 オリジナルじゃなくて、その当時の流行ってた曲とか、昔のアニメの曲とかをやるんですよ。デジモンもやったし、AKBもやったし(笑)


──そうか、高校生でカヴァーするのがAKB48って時代なのか。


今井 僕ら、すごい初期から見てたので。「やった! 『Mステ』に初めて出る!」みたいなときのことも覚えてますよ。あのバンド、高校を卒業するときにもう一回ライヴハウスでやったんだよね。


──なるほどね。でもまあ、ここまでの話はバンドやってる高校生のあいだでは、よくある話という気もする。ちなみに、その時点では、蛭田さんはまだ見てる側?


蛭田 そうですね。


天野 でも、蛭田もバンドやってたんじゃないの?


蛭田 その話はやめようよ(笑)


千葉 蛭田は蛭田でバンドを組んでたんですよ。


蛭田 ガールズ・バンドですけど。


天野 ギター弾いて歌ってたんだよね?


蛭田 だからその話はやめようよ(笑)


──まあまあまあ。バンドもやってるし、同じ高校だし、とにかく千葉くんたちと知り合いではあったんだ。


蛭田 そうですね。高校2年生のときに千葉くんたちとおなじクラスで、普通に仲よかったんですよ。


──でも、そのときは一緒にやるところまではいかず、高校卒業とともにいったんみんなばらばらになったんでしょ?


今井 そうですね。


千葉 年に一回会えばいいくらいの感じだった。


今井 まあ、mixiとかもあったから、つながりがまったくなくなったわけではなかったですけど、一緒にバンドをやるとかではなかったですね。大学も忙しくなったし。


──それが今から3年前か。


今井 僕は昭和音大に行ってたんです。だから、カメラ=万年筆のふたりが同級生で、スカートの澤部さんが先輩にいて、なかよくしてもらってて。でも、もう一回自分たちでバンドをやりたいなと思ってて。そのときに「そうだ! 千葉がいる」と思って。「千葉も確か尚美(尚美ミュージックカレッジ)に行ったな」と思って、「もしもし千葉くん、バンドやりましょうよ」って声をかけたんです。そしたら「いいよ」って返事をくれて。


──千葉くんはそのときバンドはやってなかったの?


千葉 やってませんでしたね。僕は学校の作編曲科にいて。その学科って、みんな目指すところが作曲家なんですよね。「俺はこいつらのなかでもまれて作家になるのだろうか?」と思いながら勉強してたんですけど、あんまり周りにむかついたからノイズばっかり作ってたんです(笑)。講師の人からはちょっと煙たがられるくらい。でも、僕の直接の師匠はジャズやってる人で、その人からは「もうそのまま行きな」とも言われてました。サックスもそのころから吹きはじめたんです。


──そうなんだ。そこでサックスが出てくるのか。


千葉 それまではずっとギターでしたから。そんなころに今井くんから連絡がきて、やるならメンバーを集めなきゃと思って。それが確か2010年の秋でした。で、ベースなら「村上がいる!」と。さらに、そういえば、天野くんも「バンドやりたい」みたいなことずっと言ってたなと思い出して。


天野 そんなに言ってなかったよ(笑)


──天野くんはその時期は何をやってたの?


天野 僕は大学でフリーペーパー作ったりしてました。


──バンドではなく?


天野 やってないですね。音楽聞くのはずっと好きでしたけど、あんまり自分でやろうとは思ってなかったんですよね。


千葉 違うよ。あのときは「取り込んできたものをアウトプットしたい」って言ってたんだよ。


天野 それ覚えてないな(笑)


千葉 で、とにかく誘ったんですよ。何の楽器をやるとかじゃなく、とりあえずバンドに入れたんです。


今井 最初は天野にはスティックを持たせてたんです。


──え? ドラム?


今井 「ドラムやれ!」つって。


千葉 あれは最高だったね(笑)


今井 おもしろかったね。


──ドラムの経験はあったの?


天野 いやぜんぜん。適当ですよ。


千葉 まあ、「アート・リンゼイのやってたDNAみたいなのでいいよ」ってこっちも言ってて。



──じゃあ最初はもうほんとにぐしゃぐしゃだったんだ。


千葉 それでもいいかなと思ってたんですよ。


今井 僕も高校生のときはノイズとかも聞いてたんで、このバンドがそっちに行くんだったらそれでいいと思ってました。でも、最初はコピーもやろうともしてたよね。


千葉 別に明確な目標もなかったから。


今井 ただ「やろうね」って言って集まっただけだった。


千葉 好きな曲を持ち寄って演奏するという、本当にスタジオでリハーサルするだけのバンドだったんです。


──バンド名も、まだない?


今井 なかったですね。バンド名どころか、ライヴする気持ちもさらさらなかった。週一で集まって、ひまつぶしする。そういう感じですよ。


千葉 でも、2011年に蛭田が一回だけ合流するんですよ。というのも、僕の学校で、「何かを売り出す企画のコンセプトを立てて、そのための曲を作る」という課題があったんです。それで僕は、「アイドルが歌えば、どんな曲だって売れるだろう」という目論見で、アイドルが歌うことを仮定して、後半ノイズが混じるような曲を書きました。それが、「私の街」だったんです。


──そうなんだ。ライヴでやってる「私の街」はそんなに初期の曲だったんだ。


千葉 その曲を、「アイドルが歌うんだから女の子がヴォーカルじゃないと務まらない」と思って知り合いを探したら、「蛭田さんがいるじゃないか!」と。そう思いついて呼んだんです。


蛭田 ひさしぶりに連絡があったと思ったら、「歌を入れてほしい」と言われて。そのときに、「別に歌はうまくなくていい。顔だけがきみは取り柄なんだから」って言われて(笑)


千葉 言ったな、そんなこと(笑)


蛭田 「この曲はアイドル性が重要だから、顔だけが取り柄のきみを呼んだんだ」って。


──すごいこと言うね。


千葉 すいません(笑)


蛭田 「なに言ってるの、この人?」と思ったけど、「まあ昔からこういう人だし」と思い直して、ヒマだったから行くことにしたんです。


千葉 で、せっかくだからその録音にうちのバンドのメンバーを使おうと思って、今井、村上に弾いてもらったんです。天野くんはそのとき自分の楽器が固まってなかったけど、言葉に達者だということはわかってたんで、歌詞を書いてもらって。


──それが「私の街」の歌詞になった。


千葉 そのタイトルも、最初に曲ができる前に、「こういう企画の曲を作ろうと思うんだけど、タイトル、なんかない?」って天野くんに聞いたら、「うーん、『私の街』は?」って。そんなことを明け方のバーミヤンで話した覚えがあります。


──なぜ、「私の街」というタイトルを思いついたの?


天野 なんなんですかね……?


千葉 あのとき天野くんは“土地性”みたいなことをテーマにものを考えてた気がする。


天野 うーん、ぜんぜん思い出せないな。土地というものについて考えてたことはあって。自分が三鷹にいた時期がずっと長かったんで、駅前でバイトしてて、その帰りとか自転車で僕の住んでた三鷹のはじっこのほうまで30分くらいかけて帰るときに、大きな道でもひたすら車が通らないんですよ。そういうときに「ああ、ここはベッドタウンなんだな」って思ってて。そこから自分の住んでる街について考え始めて。だったら、曲を作るという話がきたときに、「私の街」というテーマで書いたらいいんじゃないかなと思ったんです。自分のなかで歌詞を書くときのモードはいつも変わるんですけど、そのときは「私の街」のモードだったんですね。だから、それについて詞を書いたんです。


──天野くんは、昔から文章は書いていた?


天野 歌詞はこのときがはじめてでしたね。「書け」と言われたから書いただけですね。読書は好きだったんですよ。僕は本を読まないとものを書けないと考えているので。


──「私の街」の初期ヴァージョンは〈失敗〉のHPやSoundcloudにあがってて、今でも聞けるよね。


天野 あれ、超デモな感じですよね(笑)


今井 録音のときも2、3回プレイバック聞いて、「ああもうこれでいいよ」みたいな感じでしたね(笑)


千葉 かわいけりゃいいかな、っていう(笑)


今井 ドラムも打ち込みだもんね。


──いやでも、偶然の流れからとはいえ「私の街」というテーマを、そこでみんなが共有できたのは大きかったんじゃない?


今井 いや、共有はしてないです。


──してないの?


千葉 天野くんが歌詞を書いてきたら、もうそれがすべてなんですよ。僕らがそこに言及するわけでもなく、イメージを共有するわけでもなく。「あ、そうなんだ」って思うだけです。


天野 今もそれは変わんないね(笑)


千葉 ただひとつ言うなら、「この単語は曲に乗りにくいね」とか、そういうことを言うくらいですね。


今井 それはまた僕らのスキルの面なので、天野くんの歌詞を書くスキルとはまったく違うところの話なんですけど。


天野 意味の面で歌詞を書くので、あんまり音に乗ることとか考えないんです。一応、韻を踏んだりはしますけど。もともと「私の街」には、千葉と蛭田が書いた変な歌詞があって。


蛭田 仮の歌詞があったんです。天野くんの歌詞はまだ全部埋まってなくて、私と千葉くんでその隙間を埋めてたんです。


千葉 あれはひどかったね。


天野 なんかちゃっちいラブソングっぽい感じだったから、「それはいやだな」と思って僕が書き直したんです。


蛭田 私たちの考えた「す、て、き」って歌い出しとかは残ってますけどね。




  私の街(オリジナル・デモの仮歌詞)


  すてき
  ちょこっとLove
  モテキ
  インドへ二人旅
  カゲキ
  もう、だめだよ
  あなたのお願いは
  崖を転がる街


  すけべ
  ポテトはL
  たとえコーラがなくっても
  窓辺
  ねえ、聞いてよ
  私のお願いを
  汗塗れの街




──「私の街」は、CD-Rの『遊星都市』には入らなかったけど、すごく大事な曲だよ。


千葉 〈失敗〉の一番最初にあの曲があったというのは、まあいいよね。


蛭田 うん。


天野 まあ、毎回ライヴでもやってるしね。


(第二回に、つづく)



今井一彌 失敗しない生き方