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なにかあり/とくになし

シティ・ポップの壊し方 失敗しない生き方インタビュー その2

失敗しない生き方、のインタビュー。
昨日、前ふりが長かったので、今日はさっさと本題に。
第二回は、バンド名の由来、「月と南極」が生まれた経緯、
そして、“ベッドタウン・ポップ”についての話など。


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──「私の街」を蛭田さんを加えた5人編成で録音して、最初の曲はできた。じゃあ、バンド名はどの時点でついたんだろう?


今井 どこでつけたんだろう?


千葉 「バンド名つけようか」って言って、どこかでつけたのは覚えてるんだけどね。


蛭田 「私の街」の歌詞がちゃんとした時期には、〈失敗しない生き方〉って名前はあった気がする。


天野 そうだっけ?


蛭田 確か、再び私が呼び出されたんですよ。なにかと思ったら、千葉くんから「バンドをやるから。僕のプロジェクト〈失敗しない生き方〉で」ってうざったい長文メールがきて(笑)。「まためんどくせえのが始まった」と思った(笑)


──じゃあ千葉くんが名付け親なの?


千葉 いや、違います。バンド名決める会議があったんです。駅前のサイゼリヤで。



今井 俺、ほんとにそのときの話覚えてないんだよね。


天野 いたよ、いたよ。


今井 そうだっけ? 1ミリも覚えてないな。


千葉 そのときに当時のメンバー4人が集まったんですが、僕と村上くんは我関せずという感じで、今井くんと天野くんに任せてたんです。ふたりは紙ナプキンにああだこうだとたくさん書いてて。最初、今井くんは〈裸族〉を推してたんだよね。


今井 その話、ひとつも覚えてない(笑)


千葉 いや僕はよく覚えてるよ。それで天野くんもいろいろ書いてて、僕がちらっと見たときに、〈失敗しない生き方〉というのが一番語感がすごかったんですよ。それで「これでいいんじゃない」ってなったと思います。


今井 僕も〈失敗しない生き方〉って候補を見たときに「ライヴに出てブッキングに並んだときにバンド名なのかイベント名なのかわからない。変なの!」って思ったのは覚えてますね。


天野 インパクト勝負だよね(笑)


──インパクト勝負と言いつつ、名付け親としての真意はどうなの?


天野 そこまで深い意味はないんですけど。僕が書店でバイトしてて、自己啓発本みたいなのがサラリーマンに飛ぶように売れるのを見るのが大嫌いだったんで、そういうのを皮肉るかたちで「こういうタイトルあるよね」みたいなのをバンド名にしたらおもしろいんじゃないかなと思ったのかな。まあ、でもそこまで深い意味はないので、みなさんで自由に考えてほしいなと思います(笑)


──なるほどね。


天野 あんまりバンド名っぽくないところを狙った部分はありますね。たぶん、その会議に持っていった案も、ぜんぜんバンド名っぽくないものばっかりだったと思います。文章っぽいというか。だれかが「ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツみたいな名前だ」って言ったのを覚えてる。


今井 ああ、それ、俺が言った気がする。



天野 クリシェみたいなものから逃れたくて。根性がひねくれ曲がってるからでもあるんですけど。


──もちろん、僕らも、失敗しない生き方というバンド名を初めて聞いたときに、「なんて保守的な!」とは思わなかった。音源を聞くと、されに「あれ?」とひっかかる部分があった。「きっとひねくれてる連中なんだろうなあ」と感じた。さらにライヴを見たら、もっと腑に落ちる。思ったよりずっと下手というか、「手が届かないかもしれないチャレンジをしながらこけている」感じがあったから。つまり、〈失敗しない生き方〉どころか、音楽として失敗だらけというか、失敗なんか知ったことか、みたいなバンドだったから(笑)。


天野 一筋縄ではいかないような感じにはしたかったんですよね。


──その名前を背負わされることになったバンド・メンバーとしてはどう思った?


今井 最初は不安でした。「バンドやってるんだって? なんて名前?」って聞かれたときにも「えーっと?」って言って答えられない(笑)


蛭田 言いづらいから、私も「バンドをやってる」って人には言わないんです(笑)


──そこからはバンドはどういうふうに動いていったの?


千葉 「私の街」の録音が終わってから、ドラムの寺尾くんが大学生活を持て余して留年してて、あんまりやることなさそうだったんで、「スタジオ遊びにくれば?」なんてよく誘ってたんです。そしたら、いつの間にかバンドに入って。


今井 毎週来るようになってたね。その時点でも、まだ蛭田はスタジオには来てなかった。


天野 基本は蛭田抜きの5人でやってた。


──もちろん、蛭田さんにも当時はメンバーだという意識もない?


蛭田 そうですね。メンバーじゃなくて、一曲録音しただけ。ライヴをやってたバンドじゃなかったし。


千葉 「私の街」を歌うための人でした。


──初ライヴはいつ?


千葉 2011年の5月ぐらい(注:5月31日)。


今井 吉祥寺の曼荼羅で。


千葉 友達の企画に誘われたんです。


今井 そこに蛭田も呼んだんですよ。


蛭田 一曲だけゲストで歌うということで行きました。でも最初さあ、私抜きで、「私の街」もバンド・アレンジにしてだれかメンバーが歌わせようとしてたんだよね。でも、「男が歌うとやっぱり違うから蛭田をゲストにしよう」って感じで呼ばれました。


──そこで〈失敗しない生き方〉という名前ではじめて人前に出た。どうだった?


天野 ひどいです(笑)。めちゃくちゃヘタクソで。


今井 うちに音源あるよ。


千葉 動画もある。


天野 やめてくれよ(笑)


今井 まあ、もう聞けたもんじゃないです。そのころはドラムに寺尾も入ったんで、天野もギターを弾いてたんですけど、ギターを持ってまだ数ヶ月だし。


──そうなんだ! ドラムも初心者だったけど、ギターも初心者だったんだ!


今井 さわったこともなかったね。


天野 いまだに弾けないし(笑)


今井 「Fとか押さえられないから、アレンジ変えよう」みたいな(笑)


天野 でも「アメリカ人じゃああるまいし」とか「カントリーウエスタンロードムービー」とか、自作の曲を持ってって、やったんだよね。


今井 ライヴはやったけど、「これからがんがんやろう」という感じにもならなかったんですよ。また引きこもりました。


千葉 その後も三ヶ月に一回くらいしかライヴはやらなくて。二回目のライヴが高円寺の無力無善寺で、9月だったかな(注:10月14日)。無善寺でやった一回限りのライヴ。


今井 なんで無善寺でやったんだっけ?


千葉 おれが「一回行きたい」って言って、やったんだ。


今井 無善寺は、こわかったね。


天野 あとは吉祥寺のWARPでライヴしたり。


今井 4回ぐらいやったよね。そんな感じで、初ライヴから一年ぐらい経ったと思う。


千葉 まったく進展なかったね。


今井 いや、一回だけデモを作ったよ。


天野 「私の街」と、「煙たい部屋で」が入ってて。「煙たい部屋」は今はほとんどやらない曲で、僕が詩を朗読しつつ、他の4人がひたすら演奏するという。



今井 あのデモはなんで作ったんだっけ?


千葉 「なんか作らないとやる気にならないから」っていう理由だったよね。


今井 それが2012年の頭だ。


天野 そんな最近だったっけ?


今井 WARPのライヴで最初は500円とか300円とかで売ってたのを、最後はもう「タダで持ってってください」ってあげてた(笑)


蛭田 「払いたい値段で払ってください」って言ってやってたよ。


──とりあえず一年くらいはたいした進展もなかったんだね。


今井 別に進展させる気もなかったんですよ。


天野 ぜんぜんやる気もなかったし。「そろそろライヴでもしようか」ぐらいの感じで、どこかに混ぜてもらって。


──そんな状況が思いがけず前に転がり始めるきっかけがふたつあると思っていて。ひとつは「月と南極」という曲ができたこと。もうひとつは、三鷹のライヴ・ハウス、おんがくのじかんに出演するようになったこと。どっちが先なんだろう?


蛭田 去年の6月におんがくのじかんに初めて出たんです。そのときはすでに埋まってたイベントに欠員が出たので、その代打としての急な出演だったんです。千葉くんが〈失敗〉が出たこともないのにおんがくのじかんのことをすごく気に入ってて。


天野 しきりに言ってたよね(笑)。僕も何回かひとりでおんがくのじかんにはライヴを見に行ってて、地元の三鷹にこういうとがった場所があるのはいいなと思ってたんですよ。


蛭田 千葉くんが、「この日は?」ってみんなの予定を確認したんですけど、お店にはもう「出ます!」って言っちゃってて。


今井 僕は予定が合わなくて出られなかったんですよ。


──そんなに急なタイミングだったんだ。


千葉 なんなら、僕ひとりで出ようかなくらいの感じだったんですけど。


──で、結局、その日は今井くん抜きの5人で出たんだね。というか、蛭田さんは、もう正式にメンバーになっていたの?


蛭田 それまで、私は呼ばれてもそんなに参加できずにいて、代わりに他の女の子を入れたりもしてたんです。けど、このときはいきなり決まって、今井くんも出られない。「どうしても助けてほしい」って千葉くんからメールがきて、しょうがないから「参加してあげてもいいよ」って返事したんです。で、お手伝いとしてまたバンドに戻ってきたんですけど、私が一緒にいる編成をおんがくのじかんの菊池さんに気に入ってもらったからかな。それからいつも一緒にやるようになって、気づいたら正式にメンバーになってたんです。


──おんがくのじかんの店主の菊池さとしさんからは具体的にどういう言葉をかけてもらったの?


千葉 おんがくのじかんでの初ライヴが終わって、「ああ楽しかった」って思いながらお店のバー・カウンターに座ってたら、菊池さんがのこのことやってきて「ねえねえ、フェスとか出たくない?」って言われたんです。菊池さんは山形で開催される〈僕らの文楽〉というフェスのブッキングをやっていて、「正式なオファーがきたら〈失敗〉を呼ぶから」って言われたんです。


──ライヴを一回見ただけでいきなりオファー? それまで曼荼羅や無善寺でライヴをやっても、お店の人になにか言われたことはあった?


今井 それまでは、ぜんぜんなかったです。


──はじめてもらった客観的な評価が「フェスに出ないか?」なんだ。あがったでしょ?


千葉 はい。出れるならもうどこでも出たいと思ってました(笑)。それがあって、新しく曲もちょっと書いたんです。


蛭田 で、フェスの少し前くらいに「月と南極」ができたんです。


天野 〈僕らの文楽〉というフェスが2012年9月だったんですけど、そこで初めてこの曲をやりました。ほとんど練習できていない状態でしたけど。



今井 曲は夏に僕が作ってたんです。「どんな曲がやりたい?」って天野くんに聞いたら、「山下達郎の『甘く危険な香り』みたいなリズムでやりたい」って言われて。


天野 あのリズムを使いたいなと思ってて。夏だから山下達郎を聞いてたんですよ(笑)



──そうだったのか。まあでも、実際に失敗しない生き方の噂をみんながし始めたのは、「月と南極」からでしょう?


今井 そうですね。みんなが言ってくれるのはその曲です。


──僕が知ったのは、2013年に入ってからだったけど。


蛭田 みんなそうですよ。それまでは友だちとかしか知らない感じでした。


今井 CD-Rの『遊星都市』ができてからですね、それはやっぱり。


──どうして『遊星都市』を作ることになったんだろう?


今井 おんがくのじかんに何回か出させてもらうようになったころに、菊池さんが千葉に「デモとか作ったらどうなの?」ってふっかけたんですよ。「どうなの?」というより「作れ」とふっかけたようなものですね。それで去年の11月くらいに話が立ち上がって、「じゃあとりあえず詰め込もう」って言った4曲を年末年始に録音して。


千葉 今年の1月13日に、おんがくのじかんで、そのCD発表記念の自主企画〈余分な音楽の夜会〉というタイトルでやったんです。ただ、その時点でのミックスは、今出回っている音じゃなくて、クソみたいな“クソミックス”だったんです(笑)


今井 結局その日までに出来上がらなくて、ミックスが間に合わず、本当に仮の状態のミックスをとりあえずその日は出したんですよね。「次回の企画でそれを回収しよう」みたいな(笑)


天野 そのときのミックスを菊池さんに聞かせたら、「これぜんぜんダメだ」って言われましたね。結局ライヴをやったあとに、菊池さん立ち会いのもと、いろいろいじくってミックスし直したんです。


──ある意味、菊池さんミックスというか、プロデュースだ。


千葉 そうですね。


天野 最初のミックスは音圧もぜんぜんなかったし。


──音圧か。それがないとね。「月と南極」は、イントロのあのサックスの音圧が、はしたないくらいあるのが大事でしょ。


今井 そうですよね。ぼく、めちゃくちゃコンプレッサーかけましたもん。サックスにもドラムにもバキッとかけて。


──確かにリズムは「甘く危険な香り」が土台かもしれないけど、イントロはロフト・ジャズというか、パンク・ジャズみたいな? あのイントロを聞くと、なんかが爆発したような感覚がある。あれはどこから出て来たものなの?


天野 どこから出てきたんだろ?


今井 あれ? あの…、なんだろうな、あの曲自体は、僕が持っていったデモとそんなに変わらないんですよ。


──そうなんだ。あのサックスも?


今井 そうですね。入りのデデデ、デデデも最初から入ってたし。千葉に「こんなふうに吹いて」って指示もしたし。コード感もデモと変わってない。でも「甘く危険な香り」みたいにしたいっていってるけど、たぶん、天野は曲そのものはどうでもよくて、リズムの感じをあんな感じにしたいだけだろうなと思ったんです。


天野 そうだよ。


今井 達郎の夏っぽさとか、シティ感とかはいらない。


天野 そういうのはまったく思ってない。


今井 だからそういう達郎っぽさは無視して、音圧を強めにしてやってみようかなと思ったんです。


──千葉くんのサックスが、ギターより後で始めた楽器で、しかもフリー・ジャズっぽいサウンドに傾倒してた時期に出会ったことも関係してる気がする。


今井 曲の終わりの爆発するようなブロウとかも、いっぱいやったもんね。いいブロウが出るまでやらせようと。きれいなサックスじゃなくて、ぐしゃっとした千葉のそういう部分を前面に出していこうと。


──そう、だから、あの曲がTwitterとかでパッと拡散したときには「東京にはまだこんな未知のシティ・ポップ・グループがいる」とか言われてたけど、でも実際には、シティ・ポップどころか、もっとぐちゃっとした得体の知れない感じがあった。最初に評判になったころはシティ・ポップってよく言われたでしょ?


今井 そればっかり言われました(笑)


蛭田 言われたけど、私はその「シティ・ポップ」って言葉を知らなくて。それってなんなんだろうって思ってました。


──僕がおんがくのじかんでライヴをはじめて見た夜(〈KIASMA vol.44/2013年4月19日)も、シティ・ポップじゃないどころか、ぜんぜん違う感覚を覚えた。なんかむしろシティのビルが崩落してく感じというか(笑)


今井 僕自身はシティ・ポップっていわれて、すごくうれしかったんですよ。スカートの澤部さんとか、カメラ=万年筆の2人もシティ・ポップが大好きなんで、「これで俺もシティ・ポップの仲間入りだ!」とか思ったんですけど、我にかえって自分のバンドを見たら。「こいつら、ぜんぜんシティじゃねえ!」って(笑)


──でも、そのシティ・ポップっていう形骸化されたイメージと自分たちとの関わりを考えたときに、失敗しない生き方で一番最初に作った曲である「私の街」が思わぬかたちで浮上してきたところもある。その夜のライヴで蛭田さんが「私たちはシティ・ポップじゃなくて“ベッドタウン・ポップ”なんです」ってMCしたのを聞いて、すごくハッとした。そっちのほうがぜんぜんしっくりくる。いわゆるシティ・ポップの、ネオン・サインきらめく街を車で駆け抜ける、みたいな陳腐な絵空事のイメージじゃなくて、郊外の道路や夜になると人気のなくなる団地の音だって思った。


天野 アルバムを作るという話が今年になって出てきて、そのアイデアについて話し合っていたときに、蛭田が「ベッドタウンの風を感じる」みたいなことを言ったんですよ。


蛭田 「自分が家への帰り道で聞きたいようなアルバムを作って」って、みんなに言ったんです。「ベッドタウンに合う音楽を」って。


天野 そこで僕が「ベッドタウン・ポップ」って言ったんです。シティ・ポップの“シティ”の反対項にある“タウン”っていう言葉の選択も、まあいいかなと思ったし。シティ・ポップの範疇じゃたぶん僕らの音楽は説明しづらいと思うので、自分たちでベッドタウン・ポップって言っちゃったほうが早いかなと。でも最近はあんまり言ってないですけど(笑)


蛭田 もう飽きた。ベッドタウン・ポップはもう飽きた(笑)


(第三回に、つづく)



天野龍太郎 失敗しない生き方