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なにかあり/とくになし

鴬谷駅から橋をわたる、2013年9月29日

山手線鴬谷駅
長いホームの東端にある階段をのぼって改札を出て左に曲がり
線路を超えてゆく橋をわたる。


橋のなかほどまできて左を向き
沈んだ西日が映す夕暮れが
線路の右側に林立するラブホテルのネオンサインの灯りと
絶妙なコントラストになっていた。



60年代のキンクス
「ウォータールー・サンセット」という名曲がある。
去年の夏、
ロンドン・オリンピックの閉会式で
レイ・デイヴィスが歌った曲だ。


ロンドン中心部の巨大な乗換駅ウォータールーを出て
テムズ川をわたる橋から眺める夕陽の素晴らしさを歌った曲だが、
レイ・デイヴィスは
そのしあわせをこんなふうに歌っている。


「友だちなんかいなくても
 ウォータールーの夕暮れをながめていられれば
 もう気分は楽園」


自分にとって最高のものがあれば
人間同士のつながりなんかいらないとうそぶいてみせても、
おなじ夕陽を見ている誰かがいるかもしれないと信じる思いは
捨てきれずにいる。
そんな歌。


その強がったひとりごとや
隠せずににみじみでる人恋しさは
どこか片想いの音楽にも似ている。


そんなことを考えながら
橋をわたった。


東京キネマ倶楽部での
片想い「片想インダハウス」発売記念ワンマンライヴ。


おおきな舞台で
全力を惜しみなく出し切って
伴瀬朝彦ソロコーナーも
イッシー・コーナーも
雷さまのコントもやって
歌あり笑いあり
長く彼らを見てきたひとには
こらえきれない感動もあり。


それでもなお「あの曲をやってない」とか
「まだなにかできるんじゃないか」と感じさせる
余白を埋め尽くさない器量もあって。


そしてやっぱりその芯にあるのは
単なる多幸感とはあきらかに違う
だれの胸にもあるさびしさや報われなさや
寄り添わずに生きることを余儀なくされているひとたちへの
上からでも下からでもないまっすぐな見つめかたであり
甘えも甘やかしもないエールなんだと思える。


リスペクトしているひとびとを絶叫しながら連呼する
「管によせて」という曲があれほど心に響くのも
別に彼らのルーツがわかるからとか
あのマニアックなバンドが呼ばれたからとかじゃまったくなくて。


自分の愛するひとたちに力を貸してほしいと望むこの歌は
実際のつながりや絆を求める感覚とはむしろ真逆で、
ひとりぼっちであることの自覚からはじまっている。


自分のなかにも確実にいるはずの
自分だけの愛おしいひとたちを発見し、
命がけで呼び覚ます決意を歌うこと。
つまり
自分のために自分を鼓舞する究極の俺イタコ。


その究極の俺イタコによる大見得こそが
身の丈で毎日を生きているひとりひとりに眠る
捨てがたきたましいのようなものを
とほうもない力で揺さぶり
焚きつける。
そんな熱が
心のどこかにもあるのかもしれないとうずかせてくれる。


それはもう立派な
奇跡みたいなものだ。


何年か前は
キネマ倶楽部といえば
サケロックが年末に2デイズとかをよくやっていた。


あのころ
この橋を何度もわたったことを思い出す。


舞台と音楽とキャラクターのお似合いさといい
年の瀬ならではの忘年感といい
あれは立派な風物詩だったのだ。
忘れられない奇跡もいくつか起きた。


片想いにも
片想いらしいやりかたで
そんなことがまた起きたらうれしい。


そしたらきっと橋をわたるたびに
また「ウォータルー・サンセット」のことを思い出すだろうか。


いや
もし次があればそのときは
「ぼくが泣いている理由なんてわからないだろう」って
もごもごと歌いながらわたるだろう。



なお、 今日のブログは
片想いグッズとして販売されたフローティングペンでかいているつもりで
キーを打ちました。