mrbq

なにかあり/とくになし

伴瀬おんがくし 伴瀬朝彦インタビュー その2

伴瀬朝彦(ホライズン山下宅配便/片想い)の音楽人生とソロ活動を、本人インタビューで振り返る「伴瀬おんがくし」第二回。


タイトルに「音楽史」ではなく「おんがくし」とひらがなを使ったのは、もちろん10/24の「伴瀬朝彦まつり」に引っ掛けた部分もあるんだけど、それとなくもうひとつ理由がある。


特に好きだったわけでもないのに小学5年生まで止めずに続けたピアノ教室や、自分からではなく周囲に誘われて好きという自覚もないまま音楽をやっていた少年時代のエピソードを淡々と語る伴瀬本人を見ていたら、なんだろう、その我慢強さというか、求められることに素直に応えようとする気持ちに、すごく純な気持ちを感じたのだ。


しっかりとしたピアノの技術は備わっていたけど、本人も認めるように、音楽を愛し、自分の音を探すミュージシャンとしては、本当にスロースターター。しかし、それって別にわるい意味でもない気がする。かかった時間は、余計な回り道とかじゃなくて、子供みたいな、まっさらな気持ちでいつも事に当たっているからこそのものだと思えた。だから奇妙だけど尊い。伴瀬の歌や演奏に、渋さとは違う不思議なみずみずしさを感じるのは、そのせいかもしれないと思えた。


そしたら、いつの間にか「音楽史」は、ひらがなの「おんがくし」になっていた。


というわけで第二回。
大学に入り、のちにホライズン山下宅配便(当初はホライズン山下宅急便)結成へと至る、黒岡まさひろとの重要な出会いから話は始まる。


おっと、その前に今夜もまず一曲。



そしてこちらもお忘れなく。


● 伴瀬朝彦まつり



日時 2013年10月24日(木) 開場19時/開演19時半
場所 吉祥寺STAR PINE'S CAFE
料金 予約2600円/当日3000円(共にドリンク別)


出演 伴瀬朝彦
   厚海義朗/issy/MC.sirafu/遠藤里美/oonoyuuki/河合一尊/
   北里彰久/白鳥良章/牧野琢磨光永渉/三輪二郎


【予約】tonchirecords@gmail.com



====================


──大学では、黒岡くんとの運命的な出会いがあるでしょ?


伴瀬 初めて会ったころに、黒岡が俺の家に遊びに来たんですけど、並んでるCDを見て、「かぶってますね! めちゃかぶってますよ!」って言って、そこで意気投合したんです(笑)



──一緒に音楽やろうよ、と。


伴瀬 黒岡と出会ったころには、ちょっとだけですけど、もうギターは弾けてたと思います。つたないながらもG、C、Dくらいは弾けるところまでは行ってて。黒岡はね、結構ブルース・ギターがうまいんですよ。あの人は同じ曲を何回もやるような人で、得意な曲だけずっと弾くんですよ。ブルースの教則本一冊をすごく繰り返し勉強するようなくちなんです。そのころは「すごいうまいな、この人!」って思ってました。今はそれしかできないことがばれてますけど(笑)。でも、そのころから俺もブルースギターに興味を持ち始めたので、黒岡にギターを教えてもらってました。


──そうなんだ。黒岡くんがギタリスト伴瀬の先生だったんだ。


伴瀬 でも、黒岡の技術はそのままで、俺の技術はみるみるうちに上がりましたけどね(笑)


──そのころは、自分で曲を作るということについては、どう思ってました?


伴瀬 ピアノ教室のころに「作曲をしなさい」という宿題が出たことはあったんです。でもそれはまた違う話ですよね。練習曲の延長みたいなものでしかないし、母ちゃんに手伝ってもらったりして、およそ作曲とはほど遠いものでした。あ、でも、BOØWYバンドをやってたときに「自分たちの曲も作ろう」みたいな話で、なんとなく曲だけ作ったというのはあります。作詞はしてなかったけど。なんか……、ディープ・パープルのぱくりみたいな……、「ロックってこういうもんだろ」みたいな曲を書いた記憶があります。ギタリストにその楽譜を渡したら、「なんか簡単だな」って言われた(笑)


──まあ、それは一応、初めての作曲ということになりそうですよね。


伴瀬 でもまだ、作曲した感は個人的にはないですね。やっぱりそれは黒岡と曲作りを始めてからかな。まずそれまでは「作曲したい」という欲望もなかったですからね。黒岡との作曲も、あいつが「なんか曲作りましょうよ」って言ってきて、「じゃ、作るか」という感じでした。でも、ふたりで作りだしたら、作曲の喜びみたいなものをそこからは感じ始めましたけど。ふたりで作って、満足して、朝方寝る。できた曲が素晴らしいから、友だちに電話越しで聞かせる。留守電に入れる。そういうことをずっとやってました(笑)。ふたりで「なんて素晴らしいんだ!」って言いながら。バカですよ(笑)


──まさに、ホライズン前史。


伴瀬 まあ、あのころは録音機材もなかったから、カセットのダブルデッキで多重録音してましたね。どんどん音質が悪くなるんだけど、その感じも楽しんでやってましたね。「黒人みたいでいいね」とか言いながら(笑)


──黒岡くんは、バンド経験はあったのかな?


伴瀬 黒岡は長渕同好会みたいなのに入ってなかったっけ? 本人に聞けばわかるけど、長渕同好会だったということにしておきましょう(笑)。たぶん、バンド経験はないです。ホライズンの母体はライダーキックというバンド名でしたけど、そこに黒岡がはじめて練習に参加したとき、スタジオを見てすごい目を輝かせてましたもん。「ここからマイクが!」とか(笑)。


──そうは言っても、伴瀬くんも本格的なバンドって大学以前はないわけでしょ。


伴瀬 そうですね。ほんとにスロー・スターターです。


──不思議だよね。


伴瀬 大学入って黒岡と知り合って、一緒に作曲するのは楽しかったけど、その時点でも、「バンドをやりたい」という欲は全然出てなかったですからね。それが、高校のときに文化祭で一緒にビートルズをやった相方の田中恭平というのが2000年ごろに東京に出てきてて。しばらくつながりがなかったんですけど、「本気でバンドをやりたい、おまえをヴォーカリストにしてやっていきたい」みたいなことを言ってきたんですよ。それを言われたときに、まだ大学生だし、そんなに深くも考えずに「じゃ、やる」って返事したんです。そのバンドは結構ハード路線というか、当時はTHEE MICHELL GUN ELEPHANTとか流行ってたから、そんな流れを汲んだ感じでしたね。がなる系。


──伴瀬ヴォーカル?


伴瀬 はい。まだ、この時点でも楽器は弾いてない(笑)。フリーハンドで、がなるだけ。「そういうのがやりたい」って田中が言うから、「じゃあ、そんな感じで」って。まだ自分の意志がないんです! これ、いつまで俺の意志がないんだって話なんですけど、しばらくないんですよ!(笑) でも、バンドはやっぱりそのスタイルでは続かなくて、どんどん方向性もメンバーも変わっていって、でも、田中とバンドをやっていきたいという気持ちはあったんですよ。


──それがホライズンの母体である、ライダーキック。


伴瀬 ライダーキックは、最初はTHEE MICHELL GUN ELEPHANTみたいだったのに、EGO-WRAPPIN'みたいなのが流行りだしたら歌謡曲的な方向にも走り、あちこち浮遊しながら行き詰まってきてて。そこを打開するためには、なんかおもしろいことでもやったほうがいいんじゃないか? みたいな感じになってきた。で、宅録の作曲活動をずっと一緒にやっていた黒岡のことをパッと思いついたんです。「黒岡をここに入れてみるのはどうなんだろう?」って。黒岡初参戦ライヴは、2002年で、東高円寺の今はなきシンバラインってライヴハウスで、イベントは「カート・コバーン追悼コンサート」でした。


──黒岡くんの初ライヴが「カート・コバーン追悼コンサート」?(笑)


伴瀬 黒岡の参戦により、5曲ぐらいしかレパートリーがなくなってしまって、しかたないから30分くらいで同じセットを2回やったんです。ひどいことやったな(笑)。でも、その日のライヴを偶然にも当時STAR PINE'S CAFEのスタッフだった宮田さんが見に来てて。その意味のわからなさと、黒岡のパフォーマーとしての魅力が引っかかったみたいで、「STAR PINE'Sでイベントをやってるんですけど、今度出ませんか?」って誘ってくれたんです。STAR PINE'Sって分別わきまえた大人の人しか出ないようなイメージあるじゃないですか(笑)。宮田さんは、そこにひとくせもふたくせもあるような人たちを呼び込んだイベントをやってる人だったんです。


──そうか。その偶然は結構でかい。


伴瀬 そうですね。今回の「伴瀬朝彦まつり」に関しても、宮田さんの提案ですから。


──宮田さんとの出会いから、ホライズンの歴史が転がりはじめる、と。でも、この時点では、まだバンドはライダーキックですよね。黒岡くんがライダーキックに入って、ホライズンとアナホールクラブバンドに分かれてゆくあたりのこと、そして、伴瀬ソロにつながる重要なバンドであるアナホールのことをもうすこし聞かせてください。


伴瀬 もともとアナホールの構想は、田中のものなんですよ。


──そうなんだ。


伴瀬 田中は俺をメインにしたくてライダーキックをやっていたんですが、黒岡が加入することで、それが変化したんです。黒岡はメインにしかなりえない男なので(笑)。その打開策として、バンドをふたつに分けようということになったんです。黒岡メインのホライズン山下宅急便と、黒岡抜きで俺がメインのアナホールと。


──アナホールでやるのは伴瀬オリジナル曲?


伴瀬 いや、最初のうちは田中の曲でしたね。まだ俺、自分の曲を作ってなくて(笑)。ただ、ホライズンとアナホールに分かれたころが、「これは自分の曲を作ったほうがいいな…。いや、作りたいな」と初めて思ったときでしょうね。自分でちゃんとやるんだという自覚がちょっと芽生えて。だから、この時期に「サンダル行進曲」とか3、4曲立て続けに作ったんですよ。そこからどんどん曲を作っていくうちに、やる曲も俺の比重が多くなってきて。で、結果的に田中はバンドをやめるんです。


──シラフくん(MC.sirafu)が加入したのはどのタイミング?


伴瀬 田中がやめる前です。伴瀬・田中・シラフという3人の編成で結構やりましたね。その3人で演奏のしのぎ合いみたいなのがかなりあって、そこでずいぶん修行をしたつもりが個人的にはありますね。この編成でやったライヴが一番多いかもしれない。西荻窪のw.jaz(だぶじゃず)ってお店で毎月のようにやってました。


──シラフくんはホライズンと片想いが初めて対バンしたこと(2005年10月10日、下北沢mona records)がきっかけで、アナホールに加入したんですよね。


伴瀬 そうですね。そこでホライズンの配っていたアンケートに「今度アコーディオンで参加させてください」って書いてあったんです。対バンしたときから、「あいつ(シラフ)はなんかあるぞ」って思ってたんで、ホライズンではなくアナホールに誘ったんです。シラフとしてはホライズンに入りたかったでしょうけど(笑)


──シラフくんのことだから、もちろん、アコーディオンだけやるわけじゃないでしょ?


伴瀬 最初はアコーディオンでお願いしましたけど、どんどんいろんな楽器が出てくるから、これはすごいぞと。今でこそみんな当然のようにそういうシラフを見てますけど、毎回違うことをやってくるから、新鮮でしょうがなかったですよ。まあ、無茶苦茶な使い方しましたね(笑)


──田中さんが抜けてからは、ふたり?


伴瀬 新体制でなにかやんなきゃいけないなとは思ってました。河合一尊と倉林哲也(ホライズン山下宅配便)もたまに入ったりしてましたけど、彼は固定ではなかったので。とにかくアナホールはメンバーの入れ替わりがすごい激しかったんです。どうやったらこの音楽がお客さんに伝わるかというところまでなかなか気持ちを持って行けてなかったですね。バンドがちゃんと回ってなくて、常にスタイルも変わってるから。


──そもそも田中さんの発案で始まってるバンドだから、それを自分のバンドだと思えるようになるまでも時間がかかったでしょ?


伴瀬 かかりましたね。いなくなってからはさすがに自分がやるしかないとは思いましたけど、そこからも時間がかかってるんですよ。ようやく最近です。まあ、今はもうアナホールの名前ではやってないですけど。やっぱりアナホールは田中が始めたものだ、という意識が未だにあって。「クラブバンドという名前をつけたい」というのも田中が言ってたことだし。「アナホール」という名前はもしかしたら俺がつけたかもしれないけど、それもよく覚えてなくて。名前に対する思い入れってそこまではないんですよ。結局、今、一番自分にとって自然なのは、自分の名前でやること。自分の名前に対する責任ですね。バンドだと、やっぱりどこかで責任を転嫁してしまうところがある。


──どんどん伴瀬くんの責任感が目覚めていくさまがおもしろい。


伴瀬 亀みたいなもんですよ(笑)


(つづく)