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厚海義朗、GUIRO、cero、ソロ 厚海義朗インタビュー その2

厚海義朗インタビュー第2回。


ceroのサポート・ベーシストとしての、その目立ちすぎるプレイにだれもが注目していたようで、思いがけず多くのアクセスと反響をいただいた。高校を中退して、ストリート・バンドやハコバンでの経験を積んでいたという初期のバンド・キャリアにもおどろきがあったかもしれない。


第2回では、彼が最初にレコーディングを体験し、インディペンデントとはいえ、全国デビューを果たしたバンド、GUIROへと話は進む。



 GUIRO「Album」(2007.9.23)


21世紀を迎え、厚海義朗は20歳になっている。


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──名古屋のストリートで、大学生に混じってベースを弾きはじめたのが16歳。それから4年くらいやってたという話でしたから、バンド活動や人間関係に変化が見えてきたのが2000年代、20歳になってぐらいってことですよね。


厚海 ストリートで知り合って、ハコバンも一緒にやってたドラマーの人がきっかけを作ってくれたんです。その彼から、名古屋のゲシュタルトというバンドのドラマーの小沢さんを紹介してもらったんです。そのゲシュタルトは、Ettの渓さん(GUIROには、青柳努として参加)も一時期在籍していたバンドなんです。


──そこからGUIROとのつながりがはじまる……?


厚海 いや、すぐには始まらないですね。ゲシュタルトには正式メンバーとして参加したわけではなくて、メンバーの人たちとジャム・セッションしたり、サポートでやったりしてました。小沢さんは、東山公園にあったCLUB BLってお店でよくライヴ・イベントをやっていたんです。そこにぼくをよく誘ってくれたので、そのイベントで初顔合わせの人とセッションしたり、結構また音楽の幅が広がったんです。アイルランド民謡やってる人、プログレやってる人、フュージョン畑のギタリスト、いろんな人がもいました。


──その場所も、いろいろ混ざり合う勉強の場になってたんですね。


厚海 そういう活動をしつつ、GUIROに参加する前に正式に入ったバンドが、ひとつだけあるんですよ。フィルターズってバンドです。柴山聖象ってギタリストの人が作ったバンドでした。柴山さんはフィルターズをやめた後で一時期Ann Sallyのバックもやったりされてていて、やがてニューオリンズに渡って、現地でセッション・ギタリストになったんです。今は向こうでそれで食ってるみたいです。


──どんなバンドだったんですか?


厚海 歌もののバンドでしたね。ぼくは8ヶ月くらいいました。結構、ぼくのベースも気に入ってもらえたんですけど、柴山さんがある日「フィルターズを解散する」と宣言して、それで終わっちゃったんです。そのあとは、またぼくはセッション中心に戻ってやってたんですが、あるとき、アイルランド民謡をやっていた人から「GUIROって、すごくいいバンドがあるんだけど、ベースが今いないらしいから、義朗を紹介してみようか?」って言われたんです。


──ここでついにGUIROが浮上するんですね! 何年くらいの話ですか?


厚海 最初のシングルの「あれかしの歌」が出る前の年だったと思います。


──あれが2003年だから、2002年くらい……。厚海くんは22歳ですか。


厚海 その時点では、GUIROがどんなバンドなのか当時はぜんぜん知らなくて。「そのシーンでは名が知れてるらしいよ」ぐらいのごくわずかな知識しか持たずに、すげえ軽い気持ちでいたんですよ。そしたら「まず入る前にオーディションをやりたい」と言われて、最初に音源が送られてきたんですけど、これが難しい曲で、ベースがぜんぜん追えない。


──どの曲でした?


厚海 確か、「エチカ」でした。それと、アルバムには入ってないんですけどライヴでよくやっていたインストの「銀河」って曲が課題曲でした。その音源を譜面と一緒にもらって、一応やってみたんです。ぼくは「ああ何かもうぜんぜんダメだ」って感じでしたね(笑)



──オーディションはどんな感じでやったんですか?


厚海 スタジオに入って、みんなで音を合わせて。それがオーディションでした。とにかく必死で音を合わせて、その日は特に返事ももらわずに帰ってきました。「なんか、おれ、すごいもの見たかもしれない」って気持ちでした。軽いウツ状態になったみたいな。


──打ちのめされてしまった?


厚海 打ちのめされたというか、今までにない音楽体験をした、ということです。


──そのときの編成は?


厚海 高倉さん、(松石)ゲルさん、ピアノの亀田(暁彦)くん、それから渓さん。さゆりさんはオーディションにはいなかったかな。


──Ettのふたり(渓、西本さゆり)はこの時期GUIROに参加していたんでしたね。さゆりさんの歌声はシングルでもすごく印象的でした。


厚海 じつは、ぼく以外にも別の日にもうひとりオーディションを受けてたらしいんですよ。ハコバンとかでやっているすごく背の高い外人のベーシストで、すげえうまい人だったんですよ。GUIROのメンバーは、みんな当然この外人が入るんだなと思ってたらしいです。高倉さんを除いては。


──へえ!


厚海 でもなぜか、ぼくになったんです。


──ということは、高倉さんが厚海くんを指名したということ?


厚海 そうなんですよ。その理由をあとで一応聞いたんです。ぼくが入ったばっかりのころは「いやー、本当によくわかんない。なんとなくだったんだよね」って答えでした(笑)。でも、ぼくがGUIROで一所懸命やって、それなりに認めてもらえるようになってからおなじようなことを聞いたら、「光るものがあったんだよね」って言ってくれてましたけどね。実際はどうだったのか、わからないですけどね。


──技術だけでは説明できない何かがあったんでしょうね。


厚海 いや、ぼくが勝手にこれが原因だと思ってる出来事があるんですよ。オーディションを受けた3日後くらいだったかな、区役所かなにかの理由で豊田に行かなくちゃいけない日があったんですね。豊田駅でぼおっと突っ立ってたら、だれか近付いてくる人がいる。だれだろうと思ったら、高倉さんだったんです。高倉さんは豊田の自然食品店で働いてるということは、ぼくもオーディションのときに知ってはいたんですよ。でも、豊田に行ったのは本当にたまたまで。高倉さん、あのとき「こいつ、おれに会いにきたんだ」って思ったのかもしれない(笑)。その流れで一緒に高倉さんのお店に行って、お店の商品も買って帰って(笑)。案外、それが決め手だったんじゃないのかな……。


──厚海くんが偶然に豊田にいたのを「わざわざおれに会いに来るほどの熱意がある」と高倉さんが勘違いして、ってこと?


厚海 ぼくが勝手に思ってるだけなんですよ。それを高倉さんに聞いたわけじゃないし。


──でも、人生には原因より結果が重要なことはいっぱいあるし。よい結果を生んだんだから、偶然だとしてもそれが大事な運命のあやだったってことなんでしょう。それで、とにかく、GUIROに加入することは決まったと。そのころのGUIROはどれくらいのペースでライヴをしてたんですか?


厚海 GUIROって、ぼくが入る前は、割とメンバー・チェンジが激しかったんですよ。ぼくが入ってからもしばらくは、ライヴも半年に一度しかやらないようなバンドだったんです。


──半年に一度? ほとんどやってないような感じですね。


厚海 そうです。周りの人たちも、GUIROはそういうバンドだって認識だったんです。練習もライヴの前に3回ぐらいやる感じで、活動は少なかった。


──実際に参加してみたGUIROのバンド内は、どういう雰囲気でした?


厚海 そうだなあ……。まずぼくの個人的な話をすれば、最初はぜんぜんなじめなかったです(笑)。リハが終わってみんなでしゃべってるじゃないですか。その輪にぜんぜん入っていけない(笑)。頭のいい人独特のゲスな話っていうんですか、ああいうのについていけなかったですね。


──頭のいい人独特のゲスな話(笑)


厚海 年齢的にも結構違いましたしね。高倉さんと渓さんがおない年で、ぼくと干支ひとまわり違います。ゲルさんはふたりのちょっと下で。あ、でも亀ちゃんはぼくとおない年でした。


──逆に言うと、その時点でのGUIROのメンバーは、メンバー交替が激しかった時期を抜けて、新加入の厚海くんを除けば、ずいぶん固まっていたのかもしれませんね。


厚海 そうだと思いますね。


──その状況から、どうやってバンド内に食らいついていったんですか?


厚海 とにかく、単純にGUIROの曲がめちゃめちゃ好きでしたから。ぼくはわりと直情型なので、「好きだ!」となったらまっすぐに突き進むんです。入ったばかりのころから高倉さんに「もっとライヴをやらなきゃだめです」って話をしてましたね。


──才人たちが集まって趣味としてマイペースでやっているバンドに陥りそうなところを、厚海くんが後押しして救いだした……?


厚海 そういうところはわりとあると思うんですよね。


──そして、最初の8センチCDシングル「あれかしの歌」が出たのが2003年。



 1 あれかしの歌 / 目覚めた鳥(2003.8.30)
 2 エチカ / 日曜日のチボラ(2003.10.26)
 3 ハッシャバイ / いそしぎ(2004.5.6)
 4 山猫 / イルミネーション・ゴールド(2005.7.23)



厚海 GUIROがぼくが入った当時の雰囲気のままだったら、ふわっとしたまま活動が終わっていってたような気がしますね。高倉さんは、意外と、周りが言わないと動かない人なんですよ。音楽を作ることについてはすごく長けてるんですけどね、それをあんまり行動に移したがらないというか。だから、ぼくらで一所懸命に背中を押してました(笑)


──そう言えば、渓さんとは「Quick Japan」の取材で名古屋に行ったときに、コンピレーション『7586(ナゴヤロック)』の話とかをしてたんですが、高倉一修という稀有な才能をちゃんと世に出すために後押しをしないといけないと思ったというような話をしていた記憶があります。今、厚海くんからあらためて当時の話を聞いて興味深いものがあります。ぼく自身の話をすれば、GUIROは「ハッシャバイ」のシングルで知ったんです。


厚海 あれが3枚目ですよね。


──あの曲を聞いたときのショックは忘れられないですね。まるでペンタングルがチャンキー・サウンドにトライしたみたいというか、今聞いてもミラクルだし、時代を超えた曲だと思います。ぼくが名古屋の得三で見たライヴでは、すでにGUIROをやめていたはずのEttのふたりが飛び入りして、オリジナル編成での「ハッシャバイ」を見ることができて、すごく感激しました。


厚海 ぼくも、この取材があるからってわけじゃないんですけど、昨日ひさしぶりにGUIROのシングルを聴き返したんですよ。録音もプロっぽくないから、音もでこぼこしてるし、当時はそれがあんまり好きじゃなかったんですけど、今聞くと、あの感じがすごくおもしろいんですよね。アルバム・ヴァージョンと両方聞き比べてると、アルバムは聞きやすいミックスになってますけど、あのシングルのでこぼこ感も、やっぱりおもしろいなって。


──いやあ、おもしろいし、最高でしょう。GUIROが8センチCDでリリースした4枚のシングルすべてに言えることですけど、あのかたちでしか体験できない刹那なうつくしさがあって。音楽が生まれてくる場所に、より近い感覚というか。


厚海 そうですね。


──4枚目のシングル「山猫」のカップリング曲「イルミネーション・ゴールド」は、厚海義朗楽曲ですよね。ひさしぶりに聞いて、やっぱりすごくいい曲でした。


厚海 そうなんですよ。なんであの曲だったんでしょうね? 当時からぼくも弾き語りでソロのライヴをときどきやってましたけど、あの曲を高倉さんがおもしろがって採り上げてくれたのはすごくうれしかったですね。


──自主制作とはいえ、世に出た初の厚海義朗作品でしょ? ぼくもあそこで、ベースの人が「厚海義朗」って名前だと認識した気がします。


厚海 あの曲ではリード・ヴォーカルもやりましたしね。


──厚海くんがGUIROに入って自分が変わった部分はどこだと思います?


厚海 そのころ、ぼくはベースはそれなりに弾けましたけど、音楽的スキルや知識の幅がぜんぜんついて来てなかったんです。GUIROに入ってから、そこが広がりましたね。レコードを集めるのは楽しいなとか、そういうおもしろさを知るようになっていったんです。


──これだけ今インディーの世界はとても充実していて、いいバンドやミュージシャンがいろいろいると思っても、ときどき強く思い出すんですよ。ああ、やっぱりGUIROって、とてつもなくすばらしくて、とんでもなく特殊なバンドだったんだなって。


厚海 そうかもしれないですね。


──トクマルシューゴや、オオルタイチの最近の歌ものにも、サウンド面で近いものを感じはするんですけど、やっぱりなにかが違う。なんなんでしょうね? 高倉さんの個性とも、バンドの個性とも言えるあのあやうさというか、はかなさというか、それでいて、芯の強い頑固な感じというか。


厚海 GUIROの根っこは、歌謡曲なんですよ。あと、YMOです。そんな話、高倉さんは当時、松永さんにしてました?


──すいません、初耳です。ブラジル音楽がすごく好きだ、みたいな話は高倉さんとした記憶はあるんですけど……。


厚海 ジャズの要素も大きいですよ。高倉さんのおもしろいところなんですけど、音楽理論とかをちゃんと勉強したわけではないんですよね。だけど、高倉さんのアレンジしたフレーズをジャズの理論に当てはめると、ちゃんと整合性があったりするんです。エリントンとか、ギル・エヴァンスとか、ああいうジャズ・オーケストラものをすごく聴きこんでいたし、音楽の肝みたいなものが体に染み付いちゃってたんでしょうね。GUIROの、あれだけ複雑な構造をポップな曲にまとめあげることができたのも、その肝があるからだと思います。GUIROの前にいたバンドでは、サックスやってたこともあるそうですし。


──ジャズからの影響はサウンドからもわかる気がします。でも、YMOは?


厚海 ぼくも不思議だったんです。だけど、高倉さんを語るうえでYMOは外せないですよ。


──それは高倉さん個人の趣味として? それともGUIROにもなんらかのかたちで関わってくる話?


厚海 GUIROにも大きく関わります。だって「あれかしの歌」のリズム・アレンジって、YMOの「Pure Jam」じゃないですか。


──…………そうだっけ?


厚海 そうなんですよ。そのまま引用してますよ。「山猫」のインタールードも、クラフトワークの曲からの引用ですし。そういうことをちらちらやっているんですよ。


──そうなんですか。あの緻密な生音サウンドで引用してるのは電子音楽だなんて、のちのceroとかがやりそうなことですよ。本当にはやすぎたバンドだったんですね。


厚海 確かに、あの音や見た目からYMOとは想像がつかないかもしれません。


──GUIROが話題になったときに、売り出し方も含めて、あまりにも簡単に「シティ・ポップ」と言い切ってしまう人が結構多くて。でも、ぼくにはそれにかなり違和感というか、抵抗感があったんですよ。その理由が、今なんとなくわかった気がしました。


厚海 こういう要素は、なかなか解析できないと思います。ぼくは高倉さんからじかに聞いてるから、いろいろわかってはいますけど、そういうのがない状態から探り当てるのは難しいですよ。


──今こうして話を聞いてるだけでどきどきしますもん。


厚海 でも、さっきも言いましたけど、そういうYMO的な部分はありつつ、高倉さんの肝は歌謡曲なんです。歌謡曲のすごく洗練された部分。筒美京平さんがそうであるように、当時の洋楽のヒット・ソングのエッセンスを取り入れる部分というか。当時のぼくには、そのへんの歌謡曲的な視界はぜんぜん見えてなかったですけどね。ぼくはもうGUIROという渦のなかにただ身を委ねて、そこで一所懸命やっていたかなという感じなんです。


──高倉さんのやりたいことは、他のメンバーも理解していたようでした?


厚海 ゲルさんと渓さんは、かなり深く理解していたと思います。でも、これはぼくの勝手な見解なんですけど、ふたりとも高倉さんを理解する側面が違うんです。ゲルさんはザ・シロップとかホットハニーバニーストンパーズとか自分でもいろんな音楽をやってるし聞いてるし、歌謡曲もすごく深く研究してますから、そのへんの理解は深いですね。渓さんは、高倉さんの思想レベル、生活スタイルとかの理解がすごいかなと思います。


──ピアノの亀田くんは、 GUIROには、どういう関わりかたをしていたんですか?


厚海 関わりかた……?


──言いにくい話かもしれないですけど、2007年9月にGUIROのアルバムが全国発売されて、東京でも演奏の機会が増えてきて、これからいよいよ活動の場を広げていこうという矢先に、彼が脱退しますよね。正直、彼のピアノはあの時期のGUIROには絶対に欠かせないものでした。左手をほとんど使わない、現代音楽的でもあった彼のプレイの代わりができる人は考えられなかったと思うんです。それほどのキーマンだったと思うから、逆にどういうふうにバンドに関わっていたのかが気になるんですよ。


厚海 ぼくもね、亀田くんがGUIROを辞めてしまった理由は本人にいつか聞かないとわからないですね。高倉さんの才能が、みんなめちゃめちゃ好きでしたけどね。こういうことは、関わった人間たちにしかわからない部分もあると思うんですよ。


──あれだけのユニークな才能が集まっていたから、高倉くんのやりたいことが奇跡的に実現できたんだろうし。でも、そのぶん、バンド内のバランスもぎりぎりで保たれていたんでしょうね。いつかどこかで分解してしまうのもやむをえなかったのかもしれない。


厚海 ぼくが辞めたのが2008年でしたね。そのあとも2、3回はライヴをやってました。それからホームページの更新もなくなり、ライヴもなくなり……。


──厚海くんは、東京に出ていくためにGUIROを辞めたんですか?


厚海 いや、そうではないです。当時、ぼくもいろいろ自分の問題を抱えていて。このまま音楽で活動していって、ベーシストとしてやっていけるのかなとか、いろいろ考えていた時期でした。2008年の頭ぐらいに「今年いっぱいで辞めます」と高倉さんに言ったんです。でも「今年いっぱい」と言いながら、その年の途中で辞めてしまったんですけど。


──ぼくも高倉さんとしばらくはメールのやりとりをしてたんですけど、いつしかそれもなくなっていったんですよね。それが去年だったかな、高倉さんからお店のフリーペーパーがいきなり送られてきて、そこに書いてあった文章を見て、無署名だったけど高倉さんが書いたんだとすぐにわかったんです。そこに書かれていた内容は音楽についてではなかったけど、高倉一修というひとりの人間のストイックな思想や生き方をちゃんとあらわにしていて、胸がじわっと熱くなりました。今、高倉さんは音楽はやっていないけど、高倉さんのなかで音楽は死んではいないと思えたというか。でも、今回は厚海義朗の話なので、厚海くんの人生を追います。それからの話をつづけましょうか。


厚海 はい。


(つづく)



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厚海義朗インタビュー本編からは余談になるが、GUIROのアルバム「Album」発売にあたってぼくが2007年に書いた推薦のコメントがある。
昔の文章だが、あらためてここに掲載しておきたい。


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 GUIROの曲は、どれもイントロの出だし一瞬で素晴らしい。たとえばローリング・ストーンズの「サティスファクション」のような、誰もがすぐにそれとわかるキャッチーさを放つイントロとは、ほど遠い。むしろ、その真逆。頼りなく、ただ何となくつま弾き始めたようなメロディが多い。にもかかわらず、その音の業は驚くほど深い。そして、シティ・ポップのセンスと、ローカル・フォークの骨太と、ブラジル音楽のポリリズムと、ジャズの野蛮と、日本語をしゃべる日本人であることの美学と、そのすべてを複雑かつユニークなバンド・サウンドに絡み合わせながら、ずぶずぶと聴き手の中に踏み込んでゆく。


 2003年に初めてGUIROの音源(手作りの8センチCDだった!)として制作された「あれかしの歌」から4年。入手できる音源は4枚の8センチCDのみ。地元の名古屋を中心に、ひそかにひそかに伝わっていった、そのさりげない衝撃が、こうして一枚のアルバムになった。


 オムニバスCD『7586(ナゴヤロック)』に収録され、GUIROの名を高めるきっかけになった革命的な名曲「ハッシャバイ」も含む全13曲。90年代から21世紀に過去の音楽を浴びるほど聴いてしまった世代の人間は、未来が袋小路かもしれないことを本能的に感じ取ってしまい、ポップであることをおびえながら拒否しようとさえする。しかし、GUIROならきっとそこを抜け出せると、このアルバムを聴いたあとには思うことができるだろう。音楽を自分の血肉にきちんと消化してきた者だけが選べる脱出方法を、ゆっくりと、しかし、直感的にしっかりとつかみとる。その握る力の強さに、聴く者はドキリとする。そういう確かなものが、GUIROには必ずあるのだ。だから、奇跡は思いがけず起こる。


 そのつま弾きを止めるな。口ずさむように、歌い続けろ。そこに永遠への突破口が見える。


松永良平