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なにかあり/とくになし

あのころ漫画喫茶で

この小説もどきの文章は
今年の1月に発行された雑誌「森本書店」に掲載されたものです。
「森本書店」もほぼ完売ということで、
主宰の森本さんからご承諾をいただき
このブログに転載することにしました。


3月14日にぼくの監修で
DU BOOKSから発売になる
音楽マンガガイドブック 音楽マンガを聴き尽くせ」の
すこしでも前宣伝になればいいかなと思っての掲載です。


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あのころ漫画喫茶で
松永良平


 表通りから路地を入った先に、その漫画喫茶はあった。
 重たいドアをあけると、いつものように店主がカウンターでひまそうにしている。その前には常連らしき男性客がひとり。よく見る顔だ。そのお客から二席ほど離れたカウンターに、腰掛けることにした。お冷やを出してくれた店主に、軽く会釈。
 何度かこの店を訪れているけれど、まだそれ以上の関係には踏み込めずにいる。
 “それ以上の関係”とは、何なのか? それは、たとえば……、ああ、ちょうど今、カウンターで店主と客の会話がはじまった。それを聞いてもらえればわかるかもしれない。


 店主「最近、なんかいいのある?」
 客 「そうだな……。あたらしいのは、あんまし……」
 店主「昔のでもいいよ」
 客 「こないだ古本で買った『LIVE! オデッセイ』の1巻は、よかったな……」
 店主「ああ、あれね。80年代の頭だっけ。狩撫麻礼が『ボーダー』の前に原作した」
 客 「谷口ジローの画がさ、濃過ぎてあんまり合ってないとずっと思ってたんだけど」
 店主「結構いいっしょ」
 客 「バンド漫画のはずなんだけどさ、なかなかその話になんないんだよね」
 店主「ああ、そうだったね。せりふのなかに、RCとかはやたら出てくるんだけど」
 客 「そうそう。RCはさ、苦節の時期があって売れたってのが、わりと痛快な逆転劇みたいに思われてたんだろうね……」
 店主「確か『スネークマン・ショー』って話のなかで、洗濯物を干しながら『いい事ばかりはありゃしない』を歌うシーンがあった」
 客 「よく覚えてるね!」
 店主「そりゃそうっしょ。ここ、“漫画喫茶”だもの」
 客 「3巻は、ある?」
 店主「奥にあったはずだな。ちょっと待ってて」
 客 「もしあったら、かけてくれない?」
 店主「あいよ」


 しばらくすると、薄暗い店内の片隅にぼんやりと大きな何かが浮かび上がった。ギターを抱えてジャンプする男の姿。頭の上には「the man」とタイトルが。
 それは、狩撫麻礼原作、谷口ジロー作画の漫画『LIVE! オデッセイ』3巻の第一話「the man」の扉絵だった。レゲエがかったR&Bのようなほどよいテンポで、店内にいるお客の目の前で『LIVE! オデッセイ』のページはめくられていった。まるで映画でも見ているような、それともロック喫茶でリクエストしたレコードがプレイされているような感覚。その両方のようでもあり、正確にはそのどちらでもない。だって、目の前に見えているのは漫画の世界そのものであり、聞こえているのはこの世に存在しないはずの音なのだから。ああ、オデッセイ(主人公の名前)は、こんな声をしてたのか。歌も苦くて熱くて、すばらしいじゃないか。


 店主「これさ、原作と作画じゃなくて、“drama”と“art”ってクレジットなんだよね」
 客 「サブタイトルの『複製時代の偽叙事詩』ってのも、なんだか泣かせるなあ」
 店主「いい音楽漫画だったよ……。オデッセイは、まだ20代って設定だから、今のあんたよりずっと若いんだな」
 客 「よけいなお世話」


 どうしてそんなことが起こるのか理由はまるでわからないけれど、この漫画喫茶では、リクエストをすると、運がよければ、漫画が“かかる”。漫画が“かかる”と、大音量でレコードが店内を満たすように、漫画の世界が店内を覆い尽くす。ただし、どんな漫画だっていいわけじゃない。奇跡を見たければ、音楽漫画をリクエストしなくちゃならない。ジャンルはなんでもいい。音楽が作品の世界を動かしていさえすれば、その漫画は、まるで現実のように店の片隅に浮かび上がるのだ。
 そのうわさを聞きつけて、おぼろげな地図を頼りに、はじめてこの店を訪れた。その日、偶然にその奇跡を目にして、胸がいっぱいになって何も言えなくなってしまった。それからは、時間の余裕を見つけては、足繁くこの店に通った。
 店主は魔法使いを気取るでもなく、流行らない喫茶店を何年も続けているようなあきらめ混じりの顔で、常連客とたわいもないやりとりをしているだけ。ときどき、リクエストがあると、奥の部屋にある棚まで出かけて、音楽漫画をプレイする。だが、気が乗らないと、そこまで至らないこともしょっちゅうだ。
 何人か連れ立ってやってきた少年たちが、「『BECK』の、ダイイング・ブリード、聞きたいんですけど」と真剣に頭を下げて頼み込んだときもそうだった。
 店主は、「だれに聞いたのか知らないけど、うちはそんな店じゃないよ」と少年たちを追い返したあと、常連にこぼしていた言葉を聞き逃しはしなかった。
 「あいつら、まだ“読み”が足んねえ。まだ想像できる年頃だろ」
 客が「すこしくらい聞かせてやればいいのに」とつっこむと、店主は椅子をくるっと回して背中を向け、ひとりごとのように言った。
 「想像ができなきゃ、世界も動かないのよ」


 『LIVE! オデッセイ』の2巻が終わり、薄暗い店内はふたたびいつもの漫画喫茶へと戻った。
 今日の店主は機嫌がいい。常連のリクエストもよかった。
 今が、そのときだ。椅子から立ち上がれ。


 「ひとつ、リクエストがあるんですが」


 店主は驚いた顔でこちらを見た。思いもかけない言葉を聞いたと、その顔には描いてあった。
 「××××の『●●●●』の2巻をお願いしたいのです。掲載誌が休刊して、連載も中断になってしまった、未完のバンド漫画でした。その最後の巻です。ご存じでしょうか……?」
 口にした作者と漫画のタイトルに、店主の心はすこしたじろいだように見えた。常連客が、不思議そうにふたりを見ながら、合いの手を入れた。
 「ああ、あれ、いい漫画だったよね。90年代のはじめだったかな。すったもんだの挙げ句にようやく組んだバンドで、主人公が生まれてはじめて書いた曲をこれから歌うってところで、いきなり終わったんだ」
 「もちろん知ってるさ。おれだって楽しみにしてたんだ。人気はそこそこだったけど熱心なファンもいたし、あのまま、どこかに掲載誌を移して続いたっておかしくなかったよ。でも……」
 その「でも……」の先を、よく知っている。
 何かに感づいたのか、常連客が口に手を当てた。古臭いリアクションじゃないか。


 「息子の、息子が描きたかった歌を聞きたいんです。よろしくお願いします」




 ●  ●  ●  ●  ●  ●




 その身なりのいい白髪の老人は、深々と頭を下げた。
 おれは、さっきから口に手を当てたまま身動きもできずにいる。そりゃそうだ。
 ××××は『●●●●』の連載が打ち切られてほどなく、自分で命を絶った。(おれらも含め)一部の漫画ファンは彼の死を惜しんだが、一般的には新聞の訃報欄にも載らないくらいのニュースでしかなかった。
 もちろん今でも『●●●●』の2巻は、奥の部屋に置いてあるだろう。なによりもだ、息子への思いを断ち切れない親御さんの思いに応えてあげたい気持ちは、ただの客であるおれだってある。だが……。


 「断る」


 え? マジで?
 店主の言葉に、おれは耳を疑った。
 この『天才柳沢教授』みたいなじいさん、確かにここでよく見かけると思ってたが、まさか××××の親父さんだとはね。はー、びっくらした。
 それよりもだよ、かけてやりゃあいいじゃん。なあ。おれだって『●●●●』の熱い感じ、ひさびさに思い出したし。


 「じいさん」


 店主の、いつになく落ち着いた声が響く。


 「あんたの思いはよくわかるし、おれだって人の子だからね、できるものならそうしてあげたいという気持ちもある。今、あの漫画をここでかけたら、あんたには当時見えなかったものがたくさん見えるかもしれない。息子さんがどんな思いで漫画を描いてたのか、心にトゲが何本も突き刺さるくらいよくわかるかもしれない。でもね、おれはイタコじゃないし、墓荒らしでもない。だから、隠されているものを人目にさらすことに対しては責任を持ちたい。それにさ、うまく言えないけど、知らないままでいたほうが、人はいろいろと自由に想像できて、想像できることがたくさんあるってことは幸せだってことなんだよな。それは、漫画でも、音楽でも、人生だって、そんなもんだろう。きっとこの店で漫画が“見えたり”“聞こえたり”してるのも、要は似たような想像をみんなができることの幸せってことなんじゃないかと、おれは思うんだ。あと……」


 「あと……?」
 老人とおれの声が重なった。


 「この店では、漫画に描かれてないものは“かからない”。見えないし、聞こえもしない。描かれていない漫画の続きは、想像するしかないんだ。あの漫画では、バンドの歌は描かれていない。だからさ……、あとは各自で」


 店主はそう言い残して、くるっとカウンターに背中を向けた。老人も、肩の力が抜けたように席に腰をおろした。「じいさん、気を落とすなよ」と声でもかけてやりたいが、今はこのままそっとしておいたほうがいいんだろうな。
 店主の椅子がくるっとまわった。
 「気分を変えて、なんか“かける”か。そうだな、『気分はグルービー』とか、どう?」
 「いいね、何巻?」
 「11巻」
 「大晦日に飛び入りでライヴやるやつね。最高」
 「伝説のミュージシャン、本間に出会う巻でもある。その本間が、また今のあんたより若い設定なわけだけど」
 「よけいなお世話」


 表通りから路地を入った先に、その漫画喫茶はあった。


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courtesy of 森本書店