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なにかあり/とくになし

ギターを愛したシティボーイ Kashifロング・インタビュー その1

 Kashif、またの名をSTRINGSBURN、さらにまたの名を”鬼”。そのギタリストは、三つの名を持つ。


 横浜の誇る音楽集団PPP(Pan Pacific Playa)の重要メンバーにして、JINTANA & EMERALDSの一員であり、一十三十一、Dorian、ZEN-LA-ROCK、(((さらうんど)))など、現代のシティ・ポップやリゾート・サウンドをサポートする凄腕でもあるし、近年はソングライターとしても才能を発揮しはじめている。




 ぼくがKashifのことを意識しはじめたのは、3年ほど前。鴨田潤(イルリメ)が始めたバンド、(((さらうんど)))が初ライヴをした日、そのステージの端に、控えめなルックスながらすごくかっこいいギターを弾く男がいることに気がついたときだった。


 「ギター、カシーフ」


 イルリメがそっけなくメンバー紹介したときに、そのいかにもブラコンな「Kashif」という名前と、大学生の雰囲気を引きずった純朴そうな青年のルックスとのギャップに、引っかかりを覚えた。PPPの一員だと誰かに教えてもらったが、ぼくの知っているリゾートとレジャーと音楽のごった煮のようなあの集団のイメージからは明らかにちょっとずれたスクエアさを感じたのだ。だが、「そういう男がなぜPPPにいるのか?」と考えることは、逆にいえば「この男がPPPに、一筋縄ではいかないおもしろさを足してるのではないか?」と考える入り口でもあった。


 いつごろから話をするようになったのかよく覚えてないが、はじめてちゃんと長く話したときに、彼が度を超した漫画オタクであることも知った。


 この男、経歴とかよくわからないけど、きっとおもしろい。


 それはたぶん、このインタビューを読むひとにとってもおなじ体験なんじゃないかなと思う。


 というわけで、今日から数回にわたって、「ギターを愛したシティボーイ」ことKashifのロング・インタビューをお届けする。


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──まずは生まれから聞かせてください。


Kashif 1976年生まれです。両親は大分の出身なんです。だから生まれたのは大分なんですけど、育ったのは東京です。幼稚園のときに親父の仕事の都合で新潟に3年だけ行ったんですけど、基本はずっと多摩ニュータウン在住です。


──多摩ニュータウンは、いわゆるニュータウン文化の象徴みたいな街ですよね。


Kashif そうです、まさにニュータウンといったところです。ぼくが育ったころはまだニュータウンが出来立てで、小学校もぼくたちの世代が入学してやっと6年生まで教室が埋まったというくらいでした。街並が理路整然としていてある種人間味を感じない部分もあるんですけど、緑も多いし30年過ごしてきたところでもあるんで、ぼくはとても気に入ってます。


──なるほど。


Kashif そういえばあるとき雑誌を見てたら、DE DE MOUSEくんがインタビュー内で「多摩ニュータウンが大好き」っていってたんです。しかもDE DE MOUSEという音楽プロジェクト自体が「多摩ニュータウンを音楽にするためのプロジェクト」とのことで、シーン的にも身近なミュージシャンの人にこの街がそういう視点で見られていたことにえらく衝撃を受けました。自分にとっては身近すぎてそういう特別な視点はうまれていなかったので。そしてなんだかとてもうれしかったです。


──家族構成はどんな感じだったんですか?


Kashif 両親と2歳上の兄貴がひとりいます。兄は一般的なリスナーとして音楽が好きな人です。あと、うちの家族はぼく以外は全員テニス好きなんですよ。父も母も30年以上テニスをやってますし、ぼくもその流れで小中とずっとテニスをやってました。


──へえ。テニスボーイ。


Kashif 中学からは青山学院に行くことになって、そこでもテニス部に入りました。でも、それまで多摩の郊外でのんびり暮らしてたのが、13歳になったら急にブレザーの制服を着て革靴はいて毎日渋谷に通うことになって、最初は「本当にこの生活がこれから続くの?」って感じでした。通学途中の渋谷の交差点では麻原彰晃が演説してたり、センター街付近はものすごく怖そうな人がたむろしていたり、帰り道にHMVビックカメラがあったりで、今までとケタの違う情報量と文化にさらされて日々カルチャーショックを受けていました。そんな中で学校まで片道一時間半の行き帰りにウォークマンで音楽を聴いてたんですが、バンドブームの時代だったから、ブルーハーツジュンスカ(JUN SKY WALKERS)、UNICORNPERSONZLA-PPISCH……、そういうのをひと通り聴いて好きになっていきました。


──テニスよりおもしろいものが見つかったというか?


Kashif テニスはなんとなく流れでやっていたのでそもそもそこまで好きではなかったんですが(笑)、聴いていた音楽の影響もあって中3のときにギターをはじめたんですよ。その時学年でひとりだけエレキギターを持ってるちょっとワルめの知り合いがいたんです。今思うと、彼は中3でインプロとかアドリブが弾けるレベルで、当時の自分からは考えられない様なスキルを持っていたんですが、彼に「おれもギターやりたい」って話をしたら、「じゃあ貸してやるよ」って彼の持ってたストラトキャスターを一ヶ月くらい借りれたんです。


──それが初めてのギター?


Kashif エレキでは初めてです。それまでは、母親が持っていたガットギターが家にありました。最初はそのガットギターで、サザンの「いとしのエリー」をC、F、Fとかコードを押さえながら弾いてたんです。でも、だんだんそれに飽き足らなくなってきて、「エレキも欲しいけど高いな」と思ってたところにそういう友だちができて。借りることができたんです。


──中3だったら1990年前後の話ですよね。80年代に多摩ニュータウンで少年時代を過ごして、中学生からは渋谷に通うテニスボーイだったわけだから、ばりばりのシティボーイ像じゃないですか!


Kashif 時系列で並べて改めてみると完全にそう見えますすね(笑)。でも、ぼくの本質的なバックボーンには「都会性」というものが、今思うとあんまりなかったですね。なりゆきでそういう生活になっていきましたが、シティボーイ感って自分のなかには今もリアルには存在してない気がします。のちにそういう音楽を聴くようになったときも、自分とは距離があって、憧れるから美しく見えて、だから夢中になっていったという気がします。シティボーイの側面が自分にあるとしたら、それはネイティブではなくあとづけのものだなーと思ってますね。


──音楽履歴はもちろんですけど、そのシティボーイ文化に対する感覚も興味深いですね。


Kashif バンドブームのころの音楽を聴いてたのは中1、中2くらいまでで、中3からは、サザンとユーミンが死ぬほど好きになるんです。


──おお。それはシティポップ人生としては良い入り口ですね。


Kashif ぼくはユーミンがとにかく死ぬほど好きなんです。ちょうどそのころは『ねるとん紅鯨団』とかで石橋貴明ユーミンの物まねしてたり、人気的にはピークでしたよね。その時期に、たまたまユーミンを借りて聴いたらめちゃくちゃ好きになって。


──そのころだと爆発的に売れた『Delight, Slight, Light Kiss』(1988年)や『LOVE WARS』(1989年)あたりの、バブル時代の女王様路線まっしぐらのユーミンですね。



Kashif 当時、まだぼくは10代前半とかですから、ユーミンの歌が示してる世界とか感情とかそこまで共感がなくて、まずは単に音楽や歌声がすごく好きになったんです。そこからレンタルで過去のアルバムも聴いていきましたけど、最初は基本的にリアルタイムのものが好きでした。


──サザンは? 一応、青学の先輩にあたりますけど。


Kashif 同級生で好きな人たちがいて、貸してもらってるうちに好きになりました。最初は歌い回しが独特過ぎてあんまり何歌ってるのかもわからなかったけど。ちょうど映画の『稲村ジェーン』よりちょっと前くらいの時期ですね。あのカブトムシのジャケット(『Southern All Stars』1990年)あたりからですね。


──サザンとユーミンがスタートラインからちゃんとあったんですね。


Kashif そうなんですけど、エレキへの興味が出てきたこともあって、そのうちCOMPLEXとかBOOWYとか、ギターが投影しやすい音楽も改めて好きになるんです。友だちにエレキを返したあと、親に頼みまくって、エレキギターを買ってもらったんですけど、それが、布袋モデルで(笑)


──おお!


Kashif 人生のファースト・マイ・ギターがフェルナンデスの布袋モデルでした。布袋さんが好きすぎて、それにしたんです。あと、中3の年度末には、音楽の授業の発表で、吉川気取りのヴォーカルの友だちとふたりでCOMPLEXのカヴァーをしました。



──中学の発表会とはいえ、人前での初の演奏がCOMPLEX!


Kashif はい。近所の団地に母親の知り合いでフォーク・ギターをやってる音楽好きのおばさんがいて、その人はオリジナル制作にかぶれた時代があったみたいで、家にYAMAHARX-8ってリズムマシーンがあったんですよ。それを「今度、器楽の発表会があるんで貸してください」ってお願いして、そのマシーンにCOMPLEXのドラムとベースを打ち込んだんです。


──人生初の打ち込み(笑)


Kashif COMPLEXの「恋をとめないで」って名曲があるんですけど、それを発表しました。リズムマシーンにドラムとベースを打ち込んで、ミニアンプも誰かから借りて、エレキを持ち込んで弾きました。結果ひとことでいえばかなり「痛い」んですけど(笑)。見てるほうも、なんていっていいかわかんない感じで結構寒かったと思います。ああいう発表会形式は根本的にはぼくは苦手なところがあるので、見事なまでに若気の至りの失敗の典型だったなと。



──見てみたい気もする(笑)。あと、Kashifくんといえば、前に話してたときに聞きましたけど、漫画が大好きなんですよね。


Kashif ぼくは不良でもなく、女の子との縁もそんなになかったので、ホビーにとにかく時間を費やしたタイプでした。ゲームも漫画も大好きでしたし。小学校のときは藤子不二雄が大好きだったんで、『ドラえもん』で育ったような感じです。で、『ドラえもん』はライトで読みやすいけど、当時手塚治虫は巨匠で重たいイメージでした。



──巨匠で重たい。


Kashif 兄貴が気まぐれに「陽だまりの樹』を1巻だけ買ってきたことがあって、それが初めての手塚作品だったんですけど、そのときは「なんかおもしろくないな」と思って読むのをやめたんですよ。当時は手塚治虫ジョン・レノンにおなじようなイメージがありました。大御所で有名ですごく評判がいいけど読んだり聴いたりしたら重い(笑)。兄貴がジョン・レノンの映画『イマジン』のサントラ盤を買ってきたときも、ふたりで聴いて「なんか暗いよね」って(笑)。でも、そういう価値観が、中3のときに逆転するんです。まず、友だちが『あしたのジョー』全巻を貸してくれたんですが、それを読んだら「こんなにおもしろい漫画があるのか」って、どっぷりはまっちゃって、もっとそういうのが読みたくなったんです。そしたら、学校の図書館にも参考図書的に漫画がいくつか蔵書してあったことに気がついて。それが『まんが道』と『火の鳥』と『アドルフに告ぐ』だったんです。そのときは、もうちゃんと手塚さんを読める年齢になってたんで、めちゃくちゃ衝撃を受けました。


──こんなにおもしろかったのかと。


Kashif 「これって漫画なのか?」って思ったくらいです(笑)。そのショック以降速攻で『ブラックジャック』『陽だまりの樹』『ブッダ』『ばるぼら』『MW』『きりひと讃歌』『奇子』『ルードウィヒ・B』といった大人向け手塚作品を基本的にだいたいすべて一気に読んだと思います。


──手塚作品のなかでも重いのばっかりじゃないですか! まだ漫画喫茶もほとんどない時代なのに、すごいですね。


Kashif 特に若いっていうか子供の時期だったので、ホビーで好きになったものを掘る行動は見境なく止まらないというか、独特のそういうエネルギーが反映された時期だなという感じですね。


──でも、そこにひとつ教訓というか、のちにつながるポイントがあるとしたら、好きになったら止まらないってことでしょうね。そこで音楽に話を戻すと、ギターがうまくなったことにも、そういう性格の影響はありそうですね。


Kashif 中3でギターやり始めたときって別に先生もいなかったんで、バンドスコアと雑誌の『ヤングギター』を読みまくってましたね。『ヤングギター』には毎月フレーズのエクササイズや有名曲のスコア等が載ってたんですけど、それをとにかく弾いてました。高校に入ってハードロックやメタルにはまってからは、3時くらいに学校が終わって、家に着いたらそこから『ヤングギター』とかバンドスコアを広げてギターをひたすら弾き始めて、8時半くらいに母に「ご飯よ」っていわれて気がついたら、もうあたりは真っ暗で譜面もろくに見えないくらいだったみたいな、そういうのが日常だったのは覚えてますね。on button downの(小林)ハジメさんも言ってましたが、中学のころに『ヤングギター』に載ってるフレーズを一個一個マスターしたりコピーしていくのって、ゲームをクリアしていく感覚とか、スケボーのワザを覚えていく感覚にも似てるんですよね。速弾きができたり、リフが最後まで弾けた!っていう達成感が快感だったってところは大きいと思います。何の役にもたたなそうなんですけど(笑)。もう中3から高3くらいまで、ただひたすらにそういうことを繰り返してましたね。


──バンドの話が、まだ出てこないですね。


Kashif その件については今思うと結構笑えるんですけど、高1になったときに、バンド版『BE-BOP HIGH SCHOOL』みたいな出会いがあって。


──バンド版『BE-BOP HIGH SCHOOL』?


Kashif 高等部に入るとまた外部生も増えて、学内にギター弾ける人もちらほらも増えてきたんですけど、そのとき僕はすでに周囲では断トツで速弾きが速かったんです。当時ハードロックやメタルが好きでギターをやってる同世代の人の間では「速弾きが速いやつがすごい」って認識が強い時代でしたから、同級生のギター仲間には自分の速弾きスキルが結構伝わっていて、それが何となくギターやってる先輩とかにも伝わったらしいんですよ。それである日、教室にいたらガーッって扉が開いて。そこに見慣れない先輩が3人くらいいたんで、僕らはみんな驚いているわけですが、そしたら「ここにギターのうまいやつがいるって聞いたけど、それは誰だ?」って感じで乗り込んできて(笑)


──『BE-BOP HIGH SCHOOL』っていうより『水滸伝』みたい(笑)。「腕の立つやついるか?」って。


Kashif そこで自分を見つけた先輩が「バンドやろうぜ!」って(笑)。それで、一学年上の先輩たちとハードロック、ヘビーメタルのカヴァー・バンドをやることになったんです。面識のない後輩を、うわさだけで誘いに来るってパターンは、なかなかないですよね(笑)。でも、やってみたら結局ヤンキーではなく文系の人たちなので、みんないい人で、しごきとかもなかったですし。そのバンドでは、ガンズとX(JAPAN)のコピーをしたんですけど、僕が高3になるくらいまで続いて、初めてライヴハウスにも出ました。初めてバンドとかライヴとかを経験したわけで、それは貴重な体験でしたね。まあ、そこから順当に道を踏み外していったわけですけど……(笑)。


──それなりに経験値を積んでいったわけですね。


Kashif そうなんですけど、そのバンドではずっとカヴァーをやってたので、オリジナルの作り方は結局わからないままで。あとその時期印象的だった出来事で、高校のときの同級生に神森徹也くんって人がいて、突然、高校在籍時に彼がメジャー・デビューを果たしたんです。それまでは彼も「ギターを弾いてる人」としてもちろん認識してたんですけど、じつは当時から作曲とか音楽制作に没頭してるかなり先を行く人だったんですね。彼のデビュー曲「レミレミ」は、当時、大人気番組だった『進め!電波少年』のエンディングテーマにもなったんですよ。そういうミュータントが同学年から出たのに、僕はまだオリジナルを作るなんて想像もできない状態。さらにいうと、その時点では、重い音楽ばかり聞いてあんまりさっぱりした風通しの良い音楽を指向していなかったんです。


──時代は90年代半ばで渋谷系絶頂期なのに、あえて逆のほうへ(笑)


Kashif 当時周りは渋谷系というよりはグランジオルタナムーヴメントの直撃を食らっていて、やはり同級生でもグランジ好きの人とかいたんですけど、周りがニルヴァーナ聞いてたらぼくは聞かないし、知り合いがグランジっぽい格好してたらぼくはそれはしないし、みたいな。変にそういうのに反発してしまうしょーもない心理があって、よりもっと重いほう、もっとテクニカルな速弾きのほうへと傾斜していった結果、18歳ごろに速弾き練習のピークの時期が来た感じでした。家に帰ってきて譜面を広げて、32分音符とか64分音符とかが書いてあるのを、ダダダダダダダって弾いていくんです(笑)。イングヴェイの楽譜を見ると7連符とか、35連符とかの割り切れない奇数連符の連発とかが多くて、そういうのってもう採譜者は適当に書いてた部分も多いと思うんですけど、ぼくはちゃんと数えながらバカじゃないかと思うくらいまじめに練習してました。とにかくそういう感じでギターを弾くことにのめりこんでました。



──かたくなにおしゃれを否定して速弾き(笑)


Kashif でも、そうはいいながらも、『NOW 1』『NOW 2』(注:当時日本でも発売が始まった洋楽ヒット曲コンピレーション)とかで、まっとうでナウな洋楽とかもひそかに聴きはじめてはいたんです。そのなかに入ってたブランニュー・ヘヴィーズを聴いたときに「え? 超おしゃれで、最高にかっこいい!」って思ったんですけどね(笑)。あと、高3のときにのちにYUTAMANという名前でDJをしていた先輩がダブってぼくのクラスに入ってきたんですけど、その人から突然、ブギ・ダウン・プロダクションとLL・クール・Jつげ義春などをまとめて渡されたんです。「これぜったいいいから!」って。


──へえー!


Kashif 「あ、ありがとうございます」って借りて。そしたら、どれもめっちゃかっこいいし、おもしろい。それきっかけでオールドスクールなヒップホップとつげ義春と共にハマり始めたって感じでした。そして高校の先輩にはGAS BOYSとつながっている人とかもいて、ちょっとだけ仲良かったりしたのでその先輩たちがときどきやっているライブで「今度ギター弾いてよ」っていわれたりもしました。まあそれは実現しませんでしたけど。あと同時期クラスに居た音楽の趣味のすごくいい女の子から、ブラジル・ソフトロック・ソウル・ヒップホップなどがはいったテープをもらって良過ぎて衝撃を受けたりして。メタルのコピー・バンド人生を送りつつも、ちょっとずついい感じの音楽の要素も入ってきたという、そういう高校時代でした。


──大学も、もちろん青学。ということは、それこそサザンの桑田さんが始めた名門サークル「Better Days」があったでしょ。


Kashif でも、大学に入ってからも勿論ギターや音楽は好きなんですけど、サークルというのがなんだか苦手で入ってませんでした。なんだろう、しばらくは本当にぼっとしてましたね。でも、そのいっぽうで、大学からはオールドな音楽にも傾倒しはじめたんです。最初はビートルズを聴いて、超衝撃を受けて。好きになりすぎて、全部の作品や全曲スコアを借りたり、アビーロードまで実際行ったり。さらに、高校時代からの友だちにひとり、その頃からブラックミュージックのハコバンのベース弾いてたりするような大人な人がいて、あらゆる音楽やファッションに詳しくて洒落者の極みみたいな人だったんです。とにかく音楽的マナーがすさまじくちゃんとしてた人だったんですが、彼の家に行ってはソウル、ロック、ブラジル、ソフトロックからテクノやハウスヒップホップ、ドラムンベースといったクラブミュージック全般まで、レコードをかけながらとにかく音楽のあれこれを教えてもらいまくってました。それが一気に音楽的な幅が広がった最大のきっかけでもありますね。そのときに彼が一番推してたのが、細野晴臣さんだったんです。ぼくも初めて深く細野さんの音楽を聞いて「こんな人が日本にいるんだ!」と一番衝撃を受けて、さらにそこからはっぴいえんどシュガーベイブを教えてもらい。


──中3で好きになったサザンやユーミンのルーツというか、前史とつながった感じですね。


Kashif そのうちBetter Daysにも友だちが増えていって、サークルに所属してないのに大学2年くらいから定例会でのライヴにギターで毎回参加するようになっていったんです。思えばそこからもうぼくのサポート人生が始まってるんですけど(笑)。そのとき参加したバンドは、はっぴいえんどORIGINAL LOVEシュガーベイブのカヴァー・バンドでした。「砂の女」「スキャンダル」「風をあつめて」「かくれんぼ」「はいからはくち」……、あのへんをやってましたね。さらに、ジャズ研の人たちとBetter Daysの先輩の混合バンドにお誘いを受けて、そこにも参加するようになっていったんです。そのバンドはアル・クーパーの「ジョリー」とかブラコン系の曲をカヴァーするしゃれた感じでした。当時はフリー・ソウルのムーヴメントのまっただなかで、そのバンドは、小林径さんがDJされてた西麻布のYELLOWのイベントとか、六本木のオージャスとかに出演してましたね。ほんと数回だけでしたけど。


──そういうバンドでギタリストって、カッティングだったり、ギターソロだったりを弾くのって、かなり大事な存在じゃないですか。中高と突き進んできたメタルのギターとはまったく違いますけど。そこはすんなり順応できたんですか?


Kashif ずっと速弾きをしてきたから、ビートルズのギターとかを聴いたときに、「あれ? 遅いのにカッコいいぞ?」って思ったんですよ(笑)。


──(笑)


Kashif それで、「そうだ、これからは遅くしていけばいいんだ」って考えるようになりました。32分音符とか64分音符とかの速弾きの世界から見たら、スチャ、スチャッってカッティングはテクニカル的な面では簡単だったんですよね(笑)。極端ないいかたですけど指板上で細かく動く器用さについては「あとはもう力をゆるめていけばいいんだ」って思った部分はあります。もちろん、フィーリングとかマナーとか今後吸収すべき膨大な音楽道がその先にあるという前提ですが、細かく弾くということに関しては一度やるべき事は全部終わったという大胆な結論に達していました(笑)


──すごいですね。超速く動けるようになった忍者や格闘家が、周囲の動きが遅く見えるという境地(笑)


Kashif そうですね(笑)。そこからは今まであまりやっていなかったカッティングとかを通じて、いろんな音楽のフィーリングを吸収していくのが新鮮で楽しかったですね。ヒップホップでサンプルされているネタのギターを弾いてみたりとかして。速弾きを極めようとすることで音楽をゲーム的に理解していたふしが18歳のころにはあったと思うんですけど、そこからやっとちゃんと音楽と向き合い始めた時期ということかもしれないです。


──おしゃれなものへの反発心はどうなりました?


Kashif もちろん、ありました。当時ぼくはいろいろしょーもない点でひねくれ者だったので、おしゃれなもの、流行ってるものに対する反発が自分の行動の要因になっていたところがあるんですが、でもそれって逆にいうと、ぼくのなかのシティボーイ感への先ほどの距離感の話と一緒で、憧れの強さの反映でもあると結構自覚していて。大学生になってクラブとかレコード屋さんとかにも行くようになり、良いものと出会って行くなかで徐々に折り合いを付けられるようになっていった気がします。でも、そういう距離感のある視点はときどきあったほうがいいかな、と自分では思うんですけどね。距離があるからこそすごくかっこよく見えたり、その特徴も客観的に把握しやすくなる部分もあるかなと。冷静さというか、客観性というか。特に自分がいろんなジャンルに触れられてるのは、その客観性のおかげという気もするし。


──それは、そうかもしれませんね。しかし、この時点でもまだPPPの影も見えないし、レギュラーのバンドすら組んでない。


Kashif そうですね。オリジナルも、まだ一曲も作ってないです(笑)


(つづく)