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なにかあり/とくになし

バブス・ゴンザレス自伝を勝手に訳した。その1

しばらく更新がないので
「古いファイルを整理していたらでてきた」シリーズ。


元祖ビバッパーにして
最高にでたらめで愛すべきスキャット使い、
バブス・ゴンザレスの自伝訳(途中まで)。


たぶん、これをやっていたのは2000年代の前半?
テリー・サザーンの『レッド・ダート・マリファナ』を訳していた前後で
この仕事にも芽があるんではないかと勘違いしていた時期でもある(おばかさん)。


再読してみたらなかなかおもしろいので
途中までだけどここに掲載してみる(期間限定)。


彼が生涯に残した自伝は二冊あって
一冊は1967年に出版された「I Paid My Dues」。
もう一冊が1975年の「Movin' On Down De Line」。
ぼくが訳したのは前者。


「pay my due」は「支払いをする」転じて「一人前になる」という意味。


なお、現在はバブスの生年は1919年10月27日ということになっている。
(ちなみに没年は1980年1月23日)。
しかし、自伝での表記にしたがうと、1922年ごろが正しいようにも思える。
4歳年上の友人として登場するアイク・ケベックが1918年生まれなのだ。


まあいいか。
第一章は時代設定でいうと大恐慌をはさんだ
1920〜30年代あたり。


ではどうぞ。
夜長のひまつぶしにでもなれば。



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 生まれはニュー・ジャージーニューアーク。ゲットーみたいな区域で、“第三房”とか呼ばれてたあたりだ。小さい頃の思い出と言えば、みんなが列をなして、服や食い物、毎日の暮らしに必要なあれこれの配給のためにハンコをもらおうとしていたこと。おれとふたりの弟は他の子たちと一緒に、いやいやながらその列に並んでた。おれたちには親父はいなかったが、ママは酒屋の上にフロアをふたつ借りていてね。ワンフロアに一家が住み込んで、もうワンフロアは4人の売春婦用にあてがってた。


 9歳になる頃には、もうずいぶん世知長けていたもんだが、ママにはそうと気付かれないよう、ひどく用心してた。売春婦たちの使い走りもした。毎週土曜日にはママが“社交場”を開くだろ。この手のパーティーはよくある代物で、“気だてのいいキリスト教徒の奥さんたち”が、ギャンブラーやポン引きに連れられてやってくる。夜回りの警官がやって来て“あがり”を拝借、さらにメシと酒をつまんでから、たいていは“クロ”の女をひとり連れて上のフロアに行き、セックスをする。“クラップ・ゲーム”用にひとつ、“ブラックジャック”と“ジョージア・スキン”用にもそれぞれテーブルが用意されてた。夜9時から夜中の2時まで、おれと弟たちはゲームの手伝いをしてた(“賭け金から25セント硬貨をくすねながらね”)。


 ママはニュー・ヨークからやってくるピアニストと結婚するとかいってた。誓っていうが、おれには“アート・テイタム”だって聞こえた。まだ彼が天才だなんて言われるずっと前のことだがね。パーティーのときに聞いたんだ。


 日曜日に目が覚めると、ママはおれたちに1ドルずつやって映画を見てらっしゃいと送り出す。貯めておいた小遣いを足して2、3ドルも多く持ってようものなら、遊び仲間たちからは羨望の的さ。なんたって“1936年”には、10歳そこそこのニグロのガキが3ドル持ってるなんてありえないことだったから。


 ママは熱心に教会に通う女だった。今でもそう。毎週日曜日、どうしておれら子供たちはお昼の2時から7時まで外で遊んでなくちゃいけないのか、おれには疑問があってね。ある日曜日、4時に帰ってみたわけだ。そして、合点が行った。黒人の家庭はたいてい日曜の朝に子供たちを日曜学校に行かせる。それから正午から2時までの間に、親たちは礼拝に出かける。


 そのとき、家の中に足を踏み込んだおれが目にした光景は、大ショックものさ。上級の“牧師様”が3人と助祭が何人か、テーブルを囲んでチキンを食ったり、ウィスキーをあおったり。膝の上に人妻を乗せて、いつでも上の部屋に行っていいことしましょうってムードだ。つまり、日曜日はいつもの“売春婦”たちがお休みだからね。


 ギャンブラーたちはおれにダイスとカードを使ったイカサマの方法を教えてくれた。そりゃもういい金になった。おかげで毎日学校の昼休みに勝ちまくったんだから。新聞配達とギャンブルと使い走りで、だいたい週に15ドルは稼いでいて、万事快調といったところ。


 13歳になって、ハイスクールが始まった。それからはさらに大もうけさ。あのころ、ニューアークでは宝くじのナンバーズは“ユダヤ野郎”の仕切りでね、顧客担当には黒人の男たちを使ってた。そんな黒人のひとりがオレが目端が利くやつだって知って、声をかけてきたんだ。それから3ヶ月の間、番号が書き込まれた用紙をそいつから受け取って“ユダヤ野郎”の本部に届けるようになった。一日の手当は3ドルで、誰か受け持ちの顧客に当たりが出れば10ドルをボーナスでくれた。ある日、“当たり”が5人も出たとき、おれは本部にいたんだが、なんとボスどもは当選番号を変えちまった。2000ドルなんて支払いたくないからさ。担当だった男は二週間にわたって顧客たちを何とかごまかし続けていたんだが、ある晩、そいつは喉をかっ切られて死体で見つかった。というわけで、その“副業”は金輪際打ち切りにしたよ。


 7歳のころから、ママはおれに知識の重要さをこんこんといって聞かせたものだ。白人の下男みたいな仕事には就くんじゃないとも。そんなわけで、ママにいわれておれは音楽の(ピアノのね)レッスンを受けることになった。最初の5年は全然好きになれなくてね。レッスンにだって行きやしない。ピアノの先生に1ドル渡して勘弁してもらい、友だちを誘って映画に行くんだ。そのことで先生はおれを叱ったりはしないよ。だって、何もしないで300ドルも400ドルも儲けたんだから。ママをごまかすのもお手の物だった。ママがおれに弾いてくれと頼むのは彼女の大好きな賛美歌だけなんだもの。そんなのすぐに覚えちゃったぜ。


 このころ、“サヴォイ”ボールルームはかなりの人気になってた。毎晩、そこからビッグバンドがラジオ中継される。14歳の誕生日、おれの友だちの“アイク・ケベック”が、一緒に行こうぜと声をかけてきた。やつは18歳で、最高にピアノが上手かったけど、いつも金がなくてね。ママの財布から10ドルを失敬して、おれたちは遊びに出かけた。その晩、そこでは“チック・ウェッブ楽団”と“ジミー・ランスフォード楽団”が、音楽のバトルを繰り広げていた。このとき、初めてオレは“エラ・フィッツジェラルド”を自分の目で見たんだ。収容人数は3000人くらいだそうだが、間違いなくあそこには5000人は入ってて、もみくちゃ状態だった。微動だにできない。もそもそするのが精一杯。あんまり楽しかったもんで、12時の門限のことなんかすっかり忘れちまった。“アイク”も出来上がっちまって、オレを閉店まで放そうとしない。家に着くころにはもうお陽さまが上ってた。元気に日曜朝の靴磨きを始めてた友だちはみんな、帰ったらさぞかしきついお仕置きを受けるだろうよとか、ママや弟に顔向けできないぜとか、やいのやいのとおれをひやかした。


 家に着いて、“アイク”とオレは、ママにも合点が行くように、車が故障したなんて話をでっち上げた。というわけで、無事にベッドでおやすみなさいだ。ところが10時ごろ、ママにたたき起こされた。そして弟たちに捕まえさせて、アイロンのコードでオレをぐるぐる巻きにした。泣いたりはしなかったが、そのときおれは、自分がこれからどうするのかを心に決めた。


 その日、ママが教会に行ってから、学校で儲けた金を入れた預金通帳と服を何着か持って“アイク”の部屋に向かった。そこに一晩泊めてもらい、月曜の朝早くに口座から80ドルを引き出した。そして、“アズベリー・パーク”行きのバスに乗ったんだ。


(つづく)