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なにかあり/とくになし

バブス・ゴンザレス自伝を勝手に訳した。その2


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 社会の窓は順調に開いた。ビリヤード・クラブで掃除と玉揃えをする仕事も見つかったしね。そこでひと月仕事をしてる間は、手持ちの金が減らないどころか増えるいっぽうさ。なにしろおれは博打が得意ときてる。


 ある晩、“ジミー・ランスフォード楽団”がダンスショウの仕事でクラブにやってきたんで見に行った。一晩中ステージの真ん前に突っ立って演奏を見てるおれを、“ミスター・ランスフォード”はあわれに思ったんだろう。バンドのバスで一緒にアトランティック・シティまで行く気はないかと訊いてきた。もちろん、おれは有頂天。早速、下宿に走って荷物をまとめ、ボーイが楽器をまだ片付け終わらないうちに準備万端で戻ってきた。アトランティック・シティまでの道中、ミスター・ランスフォード”は、いろいろおれの身の上について訊いてきた。バンドのメンバーはみんなうとうとしていたが、おれたちは一晩中しゃべりっぱなしさ。彼は立派なアパートを持っててね、白人のロード・マネージャーと一緒に暮らしてたんだが、そのひと部屋をおれにあてがってくれると言ってくれた。おれの返事は彼を驚かせたに違いないよ。一晩3ドルの部屋代だったら払えます、と言ったんだもの。だが、彼はにやりと笑って、「ちょっと寝たほうがいいぞ」とだけ答えたのさ。


 翌日、ランチタイムにバンド・メンバー全員と顔合わせをした。ビーチに出ると、連中は周囲から尊敬の眼差しを受けている。その晩、ダンス・ショウが終わってから、おれは“ミスター・ランスフォード”に、いたたまれない思いを打ち明けた。すると、ひとまず学校に戻って卒業をするんだな、と諭された。その上で、もし学校でいい成績を取ったら、次に夏休みに入るときには全米横断ツアーに連れてってやる、との約束付きでだ。


 家に帰ったおれの顔を見て、ママはひどく喜んだ。若さゆえの過ちをおそれて、おれを家に縛り付けようとしたことも全部忘れてね。学校は卒業するよとママには宣言した。ただし、家を出て下宿をするつもりだ、とも。ニューヨークから届く朝刊を配るために毎日夜中まで外にいなくちゃならなかったからだ。晩ご飯は毎日きちんと実家で食べて、元気な顔とやらを見せることを条件にママは下宿を認めてくれた。


 おれが借りたのは、4人姉妹を抱えたご婦人の家の屋根裏部屋だった。娘たちは下は11歳で上は20歳。新聞配達と学校でのギャンブル、その他いろんな儲け話のおかげで、ラジオ1台とドレープ地の上着2着をご購入。学校が終わる午後ともなれば、毎日走って部屋に帰り、“サヴォイ”から中継される“バンド”の演奏を聴いて、それからママのいる実家に行って二時間ばかしピアノの練習をした。


 毎週土曜日には“サヴォイ”に繰り出す。ハウス・バンド“サヴォイ・サルタンズ”のメンバーだった“ルディ・ウィリアムス”が友だちだったおかげで、おれはあらゆる偉人巨人と知り合った。支配人の“ミスター・ブキャノン”もおれを気に入ってくれててね、ニューアークで宣伝チラシを配る役目を言いつかったのさ。その見返りに、いつでもオレは無料で入場できるというわけ。


 まるでスターみたいに顔パスで中に入るおれさまを、一緒に連れてきた仲間たちが目の当たりにするようになるまで、何ヶ月もかからなかったよ。おりしも、ママがレストランを地元でオープンした。さらにダウンタウンの劇場では、新規のダンス・ショウが始まった。ショウに行ってはエンターティナーたちを連れ出して、ママの店によくご案内したもんだよ。この方法で知り合ったビッグネームは、“ベイシー”に“エリントン”に“ハンプトン”に“キャロウェイ”、そして“ビリー・ホリデイ”。彼女はおれのショウビズ人生で、のちに重要な役割を果たすことになる。


 そんなことにかまけつつも、音楽のレッスンは止めてなかった。15歳のころには、おれもニューアークではいっぱしの顔になってきたし。“サヴォイ”の宣伝係だってことと、スターの連中を床屋とかクリーニング屋とかに案内してる姿を毎週見られてたせいもあってね。ミスター・ランスフォードが街にやってきた翌年の7月には、おれのほうはもう準備万端。150ドルとスーツケース、そして、おおむね“B”評価が並んだ成績表を手に、颯爽とダンス・ショウに現れたんだ。


 彼は約束を守る男だった。それから二ヶ月間、おれは全米を縦断しながら人生最良のときを過ごしたってわけ。有り金の半分は、40もの街から友だちに出しまくった絵葉書に消えたんじゃないかな。この巡業の中で、差別ってやつの一番汚いかたちを見せつけられることにもなったがね。


 バンドのメンバーはおれにとてもよくしてくれてね。使い走りすれば小遣いをくれたし、“コード進行”についてもいろいろと教えてくれた。音楽の先生に一年間教わるよりも、ずっと多くのことをこの2ヶ月で学ばせてもらったよ。


 ある日、“ミスター・ランスフォード”におれは訊いてみた。どうして“グッドマン”や“ドーシー”みたいな連中がやってる大ホテルで演奏しないんですか、とね。連中はあんたのスタイルを真似て稼いでるんだから。ランスフォードは答えた。“権力者”がブッキングするのは、無知な“クロンボ”バンドだけなんだよ、と。カレッジで教育を受けたような賢いニグロは目障りなんだとさ。


 彼はバンドを“養っている”だけでなく、白人のロード・マネージャーと、交渉事にあたる秘書もひとりずつ雇っていた。最強のバンドを率いて、西海岸でも南部でも、ひと晩ごとに移動が続く連日の巡業を年に40週もやらなくちゃならない。メンバーがちゃんとベッドで眠ることが出来るのは、全米に4つしかないニグロ・シアターで“一週間興業”を打つときだけだった。


 ダンス・ショウの宣伝には“黒人”を雇い、売上からのパーセンテージで報酬を支払うというやり方も彼から学んだことだ。会場費と宣伝経費は彼が払い、宣伝担当の黒人たちは売上から20パーセントを報酬として受け取る。このやり方はとてもうまくいった。なにしろ、このころ彼のレコードは“人気沸騰”で、いつだって客が2000も3000も入ったんだから。


 地元の警官がサイアクなばっかりに、ショウが終わると30分以内に荷物をまとめて街を出なくちゃならない土地もあった。ジミー・ランスフォードはおれのアイドルだ。音楽的にも、知性的にもだ。今に至るまで、自分のバンドをちゃんと“養っている”と言える“ニグロの”バンドリーダーには、ふたりしかお目にかかったことがない。おれの中で“ミスター”の敬称を付けるに値するたったふたりだけの人物。それが“ミスター・ランスフォード”であり、“ミスター・エリントン”なのさ。


(つづく)