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なにかあり/とくになし

バブス・ゴンザレス自伝を勝手に訳した。その4


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 そんなこんなで二年間は同じようなパターンで日々が過ぎていった。“サヴォイ”への毎週の遠出。週末の演奏と女の子たち。ミスター・ランスフォードは、おれに改めて3つの街での興業を任せてくれた。おかげさまで学校を卒業するころには、おれの経済面はすこぶる順調になっていた。“1943年”の1月の卒業式では、光栄にも卒業生代表に選ばれて演説もぶった。校長先生のお言葉にも耳を傾けたよ。この国では誰もが平等なのだ、誰にだってチャンスがある、とかなんとか。10フィートも背がデカくなった気になったものさ。


 ママからは、ホワイトカラーの仕事に就けと言われ、おれは悩まされていた。週末にやっている音楽での稼ぎはわずかばかりで、到底満足のゆくものじゃなかったしね。とはいうものの、そのころ、おれには400ドルばかし資金があった。金に困ってもいなかったんだが、まあ、ママをなだめすかそうとも思ったわけさ。それから一ヶ月ほどは朝になると、繁盛してそうなところを捜しては会社訪問と洒落込んだ。“バンバーガーズ・デパート”に“プルーデンシャル生命保険”に“パブリック・サーヴィス・エンタープライズ”なんてとこ。だいたい、そこで試験やら何やらを受けさせられる。だが、いつも最後は二週間後に来てくれって返事でオシマイ。“白人野郎ども”がおれをゲームのつもりで遊んでるんだと気付くまでに二ヶ月もかかってしまった。成績が平均で“D”しかないバカな白人社員どもが受付でうろうろしながら返事を待っているおれを見て笑ってただけだなんてことにね。


 ママが“白人”のために働くのは止めなさいといってたことをつくづく思い返した。そして、少なくとも音楽の世界では絶対にそれを守れといっていたことも。「人間のために音楽をやりなさい」とね。そして、おれは決心した。おれの“才能”はショウ・ビジネスの世界で活かされなくちゃならないんだと。今はそれが逃避に見えるとしても。


 校長先生がしてくれた平等をうたう名演説は、しょせんは作り話だった。おれはそいつと闘う作戦を練ることを決め込んだ。そうだとも。時はまさに第二次大戦のまっただ中。安い賃金で働く“プエルトリカン”やスペイン語を話す連中がどんどんアメリカに流れ込んで、言葉がわからないことを白人たちに歓迎されて職にありついていたんだ。


 映画の世界には、“インド人”のスターで“サブー”っていうのがいた。おれはバカな“白人”と同じ言葉を話すかもしれないが、肌は黒い。だったらおれにもチャンスはある。とある裁縫が得意なレディに頼んで、ターバンを二本作ってもらうことにした。巻き方を彼女に教えてもらい、試しにそのまま二週間ばかし街をうろうろしてみた。友だちは笑うだけだったが、おれを知らない白人どもは、インド系だと勘違いして、何とも礼儀良くしてくださるじゃないか。


 誰もおれを知らない、遠いところに行かなくちゃ。そこでこそ、この変装は最大の効果を得られるだろう。ニュー・ヨークには何度か行ってはいたが、まだ18歳そこそこじゃ、“ビッグ・アップル”のど真ん中に繰り出す度胸はついていなかった。有り金を調べると、200ドル残っているから、ロサンゼルスには行けそうだ。何千マイルも離れたところへ行けば、うまくやれるんじゃないかと思ったわけだ。もしヒドイ目に遭ったとしても、帰りの旅費なんて持ってゆくつもりもなかった。


 以前にママのレストランで“レスター・ヤング”に会ったとき、ロスに住んでる彼のママの住所を教えてもらったことがあった。カリフォルニアに着いたのは1943年の3月。タクシーでヤング家へ向かい、週15ドルで下宿をさせてもらうことにした。大盛りの晩飯付きでね。


 近所には、地元の“ニグロ”ミュージシャンたちが結構住んでいた。ポーチに座っていれば、カリフォルニアのミュージシャンたちと随分大勢お知り合いになれたものさ。“ナット・コール”、”ベニー・カーター”、“ジェラルド・ウィルソン”、“デクスター・ゴードン”、そして“デューク専属”のアレンジャーだった“ビリー・ストレイホーン”。彼らとつるんで出かけることで、おれは方々にコネを作ることを試みた。こっちに来て三週間で、もう20ドルしか有り金が残ってなかったんだから。おかげさまでおれのターバンは話題の的になっていた。ちゃんと音楽的な職にありつくまでのつなぎに、一発“ギグ”でもやって金を稼がなきゃならない。“ハリウッド”や“ビヴァリー・ヒルズ”の職業斡旋所にも連日通い詰めた。軍需工場に行く気はさらさら無かったし。


 やがて職が決まった。ビヴァリー・ヒルズにあるウェスト・サイド・カントリー・テニス・クラブの“衣装係”だ。おれの仕事は、監督やスター連中がテニスをしに来たら、その間、脱いだ服を見張っておくだけ。週給は70ドルだったが、チップがはずんでた。それだけで毎週50ドルにはなったね。


 “ビリー・ストレイホーン”が、自分の泊まってるホテルに、おれがいつでも使える部屋をひとつ用意してくれた。新築のホテルでね。“日本人”のオーナーが建てたんだが、戦争が始まったんで、アメリカ政府が取り上げてしまったという代物だ。場所はシックス・ストリートとサン・ペドロ・ストリートの交差点。ダウンタウンのど真ん中で、黒人たちには縁のない感じがした。


 毎日昼の1時から6時まで仕事をし、家に帰って飯を食い、それから毎晩“セントラル・アヴェニュー”のイイカした黒人クラブにあちこち顔を出す。ニュー・ヨークからやってくるビッグバンドの連中はいつでも“ダンバー・ホテル”に泊まってた。おれには金があったから、連中に酒をおごり、“イケてる”連中と街をぶらぶらした。すべてがクールだった。


 カントリー・クラブでは、ビッグ・スターがおれに50ドルはするセーターはくれるわ、イカれた色のスポーツ・シャツはくれるわでね。食事は給食式だったが、それまでに食ったどんなものよりも美味かった。おれの見たかぎりじゃ、“スター”の犬でさえ、あのころ普通の人間が食ってたものより、ずいぶんマシなものを食ってたぜ。


 働き始めて二ヶ月ぐらいしてかな、大スターの“エロール・フリン”がおれのことを気に入ってくれて、お抱えの運転手にならないかと言ってきた。何か必要なものはありますかとおれは訊ねた。彼の説明によれば、執事もいるし、メイドもぼうやもいる。おれはただ運転だけすればいいってことだった。さらに、“猿みたいな”スーツすら着る必要がないとも。ただかっこよく、清潔にしててくれればいいんだって。のぼせあがってたというのもあるが、当然、この分ならやがては彼の映画で、おれにも役が回ってくるかもよ、なんて思ったりもしたものさ。


 映画の撮影が始まると、毎朝7時に彼を車に乗せてスタジオに連れていかなくちゃならない。それから、彼の部屋から10分ほど離れた“サンセット・ブールヴァード”にある瀟洒なマンションの一室に向かう。そこでおれはターバンを巻き、名前を“ラム・シン”に変える。すると、周りに住んでる南部から来た白人どもがおれに“お辞儀”するようになる。そんなさまを見ながらおれはケタケタ笑わしてもらってた。だって、連中はおれを“インド人”だと信じ込んでるんだもの。エロールは車を4台と、イタリア製のスクーターを一台持っていた。仕事が終わった午後、おれはいつでもシェヴィーかスクーターを好きに使ってもいいことになっていた。翌朝、彼の家までそれに乗って行かなくちゃならないという理由をこしらえてね。


 人生は絶好調だった。スーツも7着買いそろえ、毎日違う柄を着る。スタジオでスターの皆様が映画を作り上げてゆく光景を見ているのも、とても刺激的だった。夜のLAやハリウッドを、ターバン巻いたままスクーターでかっ飛ばすおれの姿も、そりゃあ痛快な見物だったさ。いつでも50ドル持って遊んでるおれが、東から来た最高のプレイボーイだとあちこちのナイト・クラブで噂されるようになるまでたいして時間はかからなかったし。悶着もあったけど、それは“メキシコ人”と“ハワイ人”と白人娘たちだけ。まあ、おれは黒人娘は絶対にホテルの部屋にお持ち帰りしなかったからね。


 エロールはおれの知る限り最高の部類に属する“享楽主義者”だった。彼は黒人街で大騒ぎするのが好きだったし、おれにセントラル・アヴェニューを案内させて夜遊びをしたことだって何回もある。


 女の子たちは我先にと争ってエロールに紹介してもらおうとするもんだから、夜遊び人種の間でおれの株の上がり方は物凄いことになった。ある晩、おれがスクーターを“エボニー・クラブ”の前に停めようとしていたとき、“ウィッティ・ドゥーリイ”に声をかけられた。やつは麻薬にうるさいので有名な探偵でね。たしか、黒人が大嫌いだって噂だ。やつが言うには、ここしばらく、毎晩おれを見張ってたと。おれがミュージシャン連中にクスリを売りつけているんじゃないかと疑ってるんだ。やつがおれに平手打ちを食らわせているのを見て、野次馬がおおぜい集まってきた。あちこちおれの身体を検分しても結局何も出てきやしない。セントラル・アヴェニューから出ていきやがれとおれに忠告するのが精一杯だった。やつが頭にきていたのは、黒人であるおれに対して手荒い真似ができないということが、自分にとって初めての経験だったせいだ。おれは身分証明書を持っていたし、そこに誰がおれのボスであるかが書かれていたんだから。


 翌日、“エロール”に昨日の出来事を話した。友だちがみんなそれを見ていたことも。彼は弁護士に渡りを付けてくれた。二日後、おれはホントにセレブリティになっていた。“エボニー・クラブ”に“リンカーン”で乗りつける。かたわらにはかわいい白人娘。スパイの密告で“ウィッティ”はおれがクラブに現れたことを知った。早速駆けつけたやつは皮のこん棒を取り出し、おれに悪態をついた。おれは弁護士から預かった手紙をやつに手渡す。それを読むと、やつはこん棒を捨て、おれと一杯飲もうと言い出し、50人もの黒人客の前で頭を下げて謝罪した。そして、その腹いせに店を出てから最初に出会ったふたりの黒人をぶちのめして帰っていった。


(つづく)