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なにかあり/とくになし

バブス・ゴンザレス自伝を勝手に訳した。その5



 “エロール”の下で働いたのは8ヶ月ばかし。そのうち4ヶ月は、彼はヨットで航海にお出かけさ。その間、おれの仕事と言えば、彼の部屋に出向いて、執事から給料をいただくだけ。最後の2ヶ月は、おれは“ハリウッド”にあったナイト・クラブの“スウィング・クラブ”や“ストリーツ・オブ・パリス”に顔を出すのに精を出した。ある晩、出演予定の“メル・トーメ”がばっくれたんで、おれに2、3曲歌ってくれとの申し出が来た。ギグのチャンスの到来だ。休憩時間には、近所のクラブに出ている知られざる“キング・コール・トリオ”を聴きにいこう。


 その2ヶ月で、3つのクラブと二週間ずつの出演契約をした。ついにおれも軌道に乗ったぜと思ったのも束の間、“エロール”が女の子との厄介なもめ事に巻き込まれ、おれに500ドルやるから東に戻れと言ってきた。おれから話がちょっとでも記者たちに漏れるのをいやがっていたんだな。東へ発つ用意は揃ったが、“トリアノン”のナイト・ショウに出演している“ベイシー楽団”のメンバーにお別れの挨拶がしたくなり、街へ出た。


 その晩は大パーティーだった。メンバーたちに酒をふるまい、ニュー・ヨークを侵略するための衣装と資金はもうバッチリよ、とばかり大いに気勢も上がる。閉店間近のことだった。激痛がおれのお腹をぎゅっとつかみ始めた。悪いものでも食ったかと思い、下剤を飲む。もっとひどい激痛。もはやひとりで歩くことも出来なくなり、“ハリー・エディスン”と“ジョー・ジョーンズ”に抱えられて、ようやくホテルにたどり着く始末。夜中の2時だったが支配人はすぐに救急車を呼んでくれた。だが、4時になっても、一台たりとも来やしない。痛みから逃れるために、何度も逆立ちを試みる。そして、やっと捕まえたタクシーの中で、おれは気絶した。


 目が覚めると、病院の中だった。看護婦が、激痛の原因となったものを見せてくれた。小さなソーセージみたい。だが、そいつはおれの盲腸だった。盲腸が腹の中で破裂したんだ。あと一時間手当が遅かったら死んでいたわと彼女は真面目な顔でいった。おれの財布を持ってきてくれないかとお願いした。友だちに手紙を書こう。お見舞いに来てくれるはずさ。名前を伝えて10分後、医師と一緒に戻ってきた彼女はいった。おれの持ち物は何も無いとね。医師がいうには、タクシーの運転手が朝5時に病院にやってきて、受付におれを放り出して去っていったんだそうだ。


 病院は緊急手術でおれの命を救ってくれた。そのときおれは服こそ着ていたが、財布も身分証明も無かった。もし、おれがそのまま死んでしまってたら、身元不明者“X”になってしまったかもしれない。


 運転手がおれを気絶させたままで金を奪っていったことは明らかだったが、もう時すでに遅しだ。金はもうないわけだし。その日はずっとそのことばかり考えていた。そしてそれ以来、おれは財布というものを決して持たないようにしている。


 “エロール”の巻き込まれた一件は裁判沙汰になり、新聞の一面にデカデカと出ていた。おれが黒人であるせいで彼の足を引っ張りたくはなかった。それに、もうニグロ扱いでヒドイ目に遭うのはまっぴらだ。このとき、おれはこれからは自分の名前を“バブス・ゴンザレス”にすることに決めたのさ。


 病室で隣のベッドに寝ていたやつから25セント借りて、葉書を20枚買った。一枚はママに、残りの19枚は友だちに。入院は二週間だったが、見舞いに来てくれた、友人と呼ぶに値するやつはふたりだけだった。“ナット・コール”と“ドン・バイアス”だ。


 ナットはまだ有名じゃなくて、ひと晩20ドルのギャラしかもらえてなかった。なのに、おれが退院したら、元気になるまでしばらく家に来たらいいと言ってくれたんだ。病院から解放されると、まずおれはホテルの部屋に向かい、荷物を持って“ナット”と彼の最初の奥さん“ネイディン”の住む家へ。それからひと月は、週に一着ずつスーツを質入れし、その金で煙草と新聞を買って過ごした。


 四週目になると、調子もすこぶる快調に。そろそろ“ナット”の家から出るころだなと決心した。一文無しだし、スーツはみんな質屋行き。だが、何とかしなくちゃならない。“エロール”の下で働いていたときに出入りしていたなじみのあるあたりから就職活動を開始だ。ひとつ目星を付けたのは、シックス・ストリートにある“リーガル”ホテル。そこにはボーイがいなかった。そんなもの要らないし、お前に払う金なんかないと支配人はつれない態度だったが、試しにやってみたらいいさとチャンスをくれた。この当時、シックス・ストリートは“ニグロ”地帯と“メキシコ人”地帯の境界線になっていてね、夜にニグロが向こう側に入り込もうもんなら、とんだ大騒ぎになっていたんだ。


 最初の二週間では20ドルも稼げなかった。だが、その間に、ふたりの“メキシコ人”のちんぴらと親しくなることに成功。スペイン語の辞書を買い、勉強も始めた。辞書とふたりの友だちのおかげで、ひと月もすると日常会話には不自由しない程度にまでなった。そんなある日、儲け話がホテルとおれの身の上に転がり込んできた。サザン・パシフィック鉄道が、このホテルを車掌たちの一時滞在先に指定してきたんだ。たちまち大にぎわいが始まった。連中は最初のうちは自分たちで1ブロック歩いてコーヒーやサンドウィッチを買いに行ってた。おれなんか用なしさ。ところが、殴られたり、金を盗られたりなんてことが3人も続くと、みんなこぞっておれに注文を出すようになった。だって、夜中も営業してる店はこのあたりじゃ一軒だけ、それも“メキシコ人街”にしか無かったんだから。ふたりの友だちにワインをたんまり横流ししてやったおかげもあってこの作戦は大成功。おれは“イケてるやつ”に成り上がり、金の悩みともオサラバさ。夜になったら、大きな音の口笛で“合図”することをいつも忘れずにいさえすれば万事はOKだった。二ヶ月後には、質屋に預けておいたスーツもみんなオレの手元に戻ってきた。


 “ベニー・カーター”のバンドが大勢でホテルにやって来たときのこと。メンバーの半数は“ニュー・アーク”出身だったもんだから、まるで地元に帰った気分になったよ。さらに、このとき、オレは世界有数のトランペッター“フレディ・ウェブスター”と初めて顔を合わせた。バンドには“インディアナポリス”でスカウトされた新顔の若いトロンボーンもいた。今やレジェンダリーな存在の“J・J・ジョンソン”だ。そして、オレに“ポット”の味を教えてくれたのが、この“フレディ”だ。彼が言うには、東のミュージシャンがこいつを調達するのはえらく骨が折れることらしい。もしおれがコネをこっちで見つけてくれたら、お礼はばっちりはずんでくれるんだって。“メキシコ野郎”ふたりにそのことを話すと、やつらはケラケラ笑っていった。「そのくらいでいいんだったら、アミーゴ、まるごと全部調達してやるぜ」


 “LA”で麻薬を売ると、“刑期”はどれくらいになるのか、おれは何となく聞いている。こいつはかなりクールにやらなくちゃならない。


 メキシコ人たちは毎月のように地元へ帰る。夜の“リオ・グランデ”を徘徊し、4、5パウンドのヤクを調達しては、それをアメリカに持ち込む。それを自分たちや知り合いの間で回して楽しむんだ。価値なんか知りやしない。新着のヤクが入ってくる度に、オレは2パウンドを50ドルで買った。“ジョイント”は売らない。ミュージシャンじゃないカタギの連中とも取り引きはしない。街に来ているビッグなミュージシャン連中相手に4本ばかし電話をかけて、2日以内にクスリを届ける。それで200ドルだ。


 半年で、オレの銀行預金の残高は800ドルまで積み上がった。一方、ベニーのバンドは解散状態になってしまい、オレは“フレディ・ウェブスター”と“カーリー・ラッセル”に昼の間、ホテルのボーイをやらせることにした。それで何とか飯の種にはなるだろう。ホテルの支配人はメンバーの部屋を二週間は保証してくれた。その間に、ここを出て暮らすための送金を地元に頼む手紙を書くんだ。おれはホテルの地下室をこじ開けて、キッチンを修理し、毎日“ポット”にありつけるようにした。残りのメンバー13人分の飯も作ってやった。皿洗いはメンバーが交替でやってくれる。ところが中にひとり“オカマちゃん”がいてね、マニキュアした爪を汚したくないもんだから、適当にごまかして皿洗いをしようとしないんだ。連中は話し合いをして、“働かざる者食うべからず”という方針を定めた。ジョージ・トレードウェルもその方針のせいで二日間食事にありつけなかったことがあった。やつがサラ・ヴォーンと結婚して金持ちになってからも、オレはよくからかってやったものさ。「最近、ちゃんと皿洗ってるか、おめえ?」


 “ママ”から手紙が来て、徴兵局がおれを捜していることを知った。だが、おれはすでに“スペイン風”のバブス・ゴンザレスっていう新しい名前の身分証を取ってたんで、どんな戦争であれ行かずに済みそうだったんだ。ところが、ママが“お役人”におれが今どこにいるのか教えちまったんで、ある朝、部屋のドアがノックされたのさ。ずかずかと部屋に入ってくると、いくつかお決まりの質問。さらに連中は今おれがいくら金を持ってるかを訊いてきたんで、“札束”を6個見せた。すると、続いてはこんなご質問だ。「もし我々がキミを軍に送り込んだら、明日はどの辺にいると思うかね?」「徴兵局に向かう途中なんてのは、“ニュー・メキシコ”か”テキサス”あたりにいる気分でしょうな」(訳注・黒人差別のまだ激しかった州にいるくらいイヤな気分だという意)とおれは答えた。連中は笑い、おれから分捕った札束から一枚の百ドル札を抜き出し、それを手渡して言った。「おい、実家までのバス代は69ドルだ。釣りで5日間分くらいの飯代にはなる。それでも“アルカトラズ”に行くよりはマシだと思うぜ」


 “サンタ・フェ”経由で北に向かうバスに乗った。北に走っているのにもかかわらず、レストエリアにあるダイナーの中で“黒人”が食事することは許可されていない。道中で仲良くなったふたりの女の子には悪いことをしたな。オレのせいで必ず食事をするときは(スペイン語で話しながら)サンドウィッチとコーヒーをテイクアウトにして外で食べなくちゃならなかったんだから。“シカゴ”に着いたら、2、3日ぶらぶらしようと決めていた。故郷にはおれがどれだけ華々しくやってるかを書いた手紙ばっかり送ってたから、文なしで帰るなんてまっぴらだったんだ。


 バス・ステーション近くの“YMCA”に部屋を取り、新聞に目を通した。ふむふむ。“リップス・ペイジ”は“ギャリック”で、“ベイシー”は“リーガル”で演奏してると。“リップス”に会いに行き、おれの苦境について相談してみたが、おれが出られそうなギグは思い当たらないという。ちょうど“アイク・ケベック”がリップスのバンドにいて、“ドロシー・ドネガン”がソロ・ピアノで客演していた。“アイク”と“リップス”はオレに5ドルずつ恵んでくれて、さらにサウス・サイドにある店で晩飯をおごってくれた。食事中に偶然“ハリー・エディスン”に出くわした。彼はおれがダイスが得意なことをよく知っている。明日が給料日だから、おれにちょっと劇場まで付き合ってくれと彼は言ってきた。翌日の昼、1時に待ち合わせすると、地下室に連れて行かれ、すぐにゲームの始まりだ。その日、ショウの合間にメンバーを相手にしてダイスを振りながら、おれは最高に“いい調子”だった。おれとハリーで組んで、バンドのメンバーだけでなく、役者連中にも大勝ちした。さんざんの大儲けだ。メンバーには食事代に“10ドル”ずつ、役者たちには次の街までのバス代を渡し、あとはふたりで1200ドルを分け合った。


 ポケットには600ドルがおさまった。またバスに乗るなんてもう懲り懲りだ。そう思って、今度はニュー・ヨークの“グランド・セントラル駅”に向かう電車に乗り込む。食堂車や特等車でおれは博打好きだってしゃべりまくったんで、夜が来るとウェイターたちからゲームへのご招待。もちろん、真面目なカモどもからちゃっかり90ドルも勝たせていただき、おかげでこの鉄道旅行のお代はチャラになったよ。

 
(つづく)
 

from "I Paid My Dues 〜Good Times... No Bread" by Babs Gonzales (1967 Expubidence Publishing Corp.)
translations by Ryohei Matsunaga


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(つづく)と書いたけど
手元に残っているファイルはここでおわり。
たぶん、当時訳したのもここまで。


ご興味あるかたは原著探して読んでみるといいかも。
しゃべり言葉なので、多少英語がわかるならそんなに苦労しないっす。
今はKindle版もあるみたいだし。


では最後に
ちょっと早いですが
バブス・ゴンザレスのクリスマス曲を。