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なにかあり/とくになし

guiroの“終わりの終わり”と“はじまりのはじまり”

鶴舞の駅を降りて
ただしい出口から出たはずなのにあっさり道に迷った。
地図とは逆の方向に歩いていたのだと知る。


この時点まで開演まであと7分。
気がせく。
引き返すと今度は地図どおりに道が見える。
これでいいのだ。


だが前方右手に人だかりが見えてくると
今度は別の弱気が顔を出した。


葛藤するうちに体が勝手に左に曲がってしまう。
このまま見ないほうがいいんじゃないか。
ちょっと離れたところから
耳を澄まして漏れてくる音を聴いてるだけでいいんじゃないか。


バカみたいな話だが
見るのがこわいのだ。
緊張してるのだ。
おじけづいているのだ。


それでもなんとかきびすを返し
喫茶クロカワにたどり着いた。
「松永さん」と声をかけていただき
やっと我に返った感じがした。


店内は立ち見も含め立錐の余地もないくらいで
そろそろ演奏が始まる時間だった。


足掛け7年ぶりのguiro
最後にライヴを見てからは8年くらいになるか。


今日はじまるguiro
かつてのguiroというバンドとはすこし違う。


高倉一修という音楽家
かつて自分の送り出した音楽を
もう一度自分の声で歌って
手足でつかんで
体にフィードバックする場なのだと思う。


今日のguiroを構成するのは
Ettの西本さゆり、
カタリカタリの2人、
小鳥美術館の館長。


高倉さんのことを
その作品を通じて以上によく知っている友人たちのサポートは、
あたたかく、心強く、絶妙に気持ちよいあぶなっかしさがあり、
あやうく張り詰めそうな空気をやさしくほどいてくれる。


一曲目の「あれかしの歌」を歌い出した瞬間
変わらなさにドキドキした。
スマートな強情があった。


中盤
「山猫」から続けて始まった「エチカ」のイントロには
胸が熱くなった。


この人がやらなければ二度と聴かれるはずもなかった曲が
こうして鳴っている。


終盤、
かつてのguiroのベーシスト厚海義朗がゲストに呼ばれ、
「ファソラティ」「しあげをごろうじろ」に参加した。


演者も客席もあたたかい眼差しに包まれていた場に
厚海義朗が持ち込んだ真剣なテンション。
ひさしぶりの再会は
この場に
安心感やなつかしさとは違った奇妙な空気をもたらす。


音楽で勝負を申し込むような。
その姿や目つきはぼくが忘れかけていた
かつてguiroで見た厚海義朗のたたずまいを
ぼくになつかしく思い出させた。


今日この演奏が特別な機会であり
ぼくも含め遠くからやって来たお客さんがたくさんいたことには感慨がある。


でもぼくの望みは
この体験がスペシャルではなく
もう一度カジュアルになっていくことだ。


とにかく今日
「名古屋にguiroってバンドがいてさ」と
だれかと話せるよろこびを
これから取り戻せそうだっていう気持ちになれた。


喫茶クロカワからほど近いK.D.ハポンでは
ホライズン山下宅配便がワンマン・ライヴをやっていたので
guiroを見たあとでハポンを訪ねた。


2008年
guiroが活動休止前にやった最後のライヴの相手が
ホライズンだった。


今日この日に
おなじ鶴舞に居合わせたのは
まったくの偶然だったそうだ。


そのことを覚えているかと伴瀬朝彦くんに聞いたら
「覚えてますよ。すごいと思ったから、その場でCDを買ったんです」と答えた。


guiroの“終わりのはじまり”と“終わりの終わり”に
ホライズンがいたとはね。
なんて不思議な同伴者。


あとはゆっくりもう一度
はじまりをはじまっていけたらいい。


会場の写真もセットリストもないので
この一枚をあげておく。
会場に行くのをためらっていたぼくの背中を押してくれた
近所の保育園の壁画だ。