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なにかあり/とくになし

『SAYONARA』について

 伊藤大地のカウントから〈Emerald Music〉が流れ出したとき、不覚にも動揺してしまった。SAKEROCKというバンドを解散するために集まった5人が一緒に出している音は、からっとしていて、ちょっとだけセンチメンタルで、くやしいくらい彼らがやり続けてきた音楽そのままだったからだ。もうずっと一緒にやり続けているし、これからもこの音を鳴らし続けていくだろうと、あやうく錯覚してしまいそうになった。その誤解は、ラスト・アルバムという事実を前にどうしようもなく顔を出すやるせなさを、少しだけうれしさで緩和してくれる。「ああ、SAKEROCKはこれまでやってきたのとおなじようにさよならを言うんだな」と思った。ぐっとこないと言ったらウソになるが、アルバム『SAYONARA』であらためて示された彼らにしかない音楽のことを、少しだけ冷静に振り返りたい。


 歌いたいけど歌えない。踊りたいけど踊れない。そんなメンバーが率いるバンドが、それでも歌いたいということを真剣に突き詰めた結果たどりついた音楽。現実に歌ったり踊ったり笑ったりできないのなら、その音楽を聴いている人の中で勝手に歌って踊って笑えばいい。そんな音楽を鳴らそうとする行為は、彼らに魅了されたファンだけでなく、彼ら自身にとっても救いのような意味を持っていたはずだ。どんなにおかしなことをしでかしているときでも、彼らはいつもあきれるほど全力で真剣に音楽をやっていた。無意味を装いながら、その無駄の先にある心の震えに知恵や工夫を駆使して触れようとしていた。それは、現代を生き抜くための戦略やビジネスとしてのコンセプトではなかった。


 『SAYONARA』に収録された10曲はすべて星野源の作曲。プロデューサーとしても初めて星野源がクレジットされている。“SAKEROCKといた季節”に対して自分なりの落とし前をつけようとしたのだと思う。感傷を隠さないいくつかの曲に、星野の深い思いは感じる。だが、「すべてをしまいこんでしてしまう必要はないよ、俺らにもまかせたらいいよ」と、星野の肩に黙って手を置いてあげられるのも、バンドという集合体の持つ不思議な力だ。ここにはSAKEROCKインストバンドであり続けたことの意地も証明もご褒美も、確かにあった。


 『SAYONARA』というアルバムは、SAKEROCKというバンドから、SAKEROCKという音楽が、SAKEROCKを愛したすべての人に手渡される瞬間の記録なのだと思う。それはせつないお別れかもしれないが、なんとなく晴れがましい船出にも似ている。その船の名はSAKEROCK。乗っているのは彼らではなく、むしろ僕たち。見えなくなるまでSAKEROCKは港から手を振っているだろう。きっとこの人生の分くらい。(松永良平


(「CDジャーナル」5月号より、許諾を得て転載いたしました)