mrbq

なにかあり/とくになし

みっちゃん! 光永渉の話しようよ。/ 光永渉インタビュー その2



 光永渉ロング・インタビュー、第二回。


 第一回ではドラムをちゃんと叩くところまでたどり着かなかった。いよいよ第二回では、みっちゃんがドラマー人生を歩みだす。名門サークルの門を叩いて、それからどうなった?


====================


──思いきって学芸大のジャズ・サークルの人に話しかけた。で、どうなりました?


光永 入部しました。そのジャズ研(東京学芸大学軽音楽部〈Jazz研〉)が、すごく活動が盛んなところだったんですよ。フュージョンとかじゃなくて、超正統派のビバップが一番のサークルだったんです。発表会もあるし、練習もすごくちゃんとやる。プロも何人も輩出したすごいサークルで、上の世代だとスカパラの北原(雅彦)さんもいたし、Soil &" PIMP"SESSIONSの秋田ゴールドマンもいたんですよ。おれは3年だけど新入部生ということで立場としては1年生と一緒で、いろいろ話しかけてくれたのが、のちにチムニィや藤井(洋平)くんのバンドで一緒にやることになる(佐藤)和生なんです。


──ああ! そこで知り合う! 彼も学芸大だったんですね。


光永 そうなんですよ。おれはそのサークルではじめてちゃんとバンドを組んで、ちゃんとした曲をやりました。みんなで音を出すのも楽しかった。そこからおれはドラムにどハマりしていくわけなんです。当時はサークル棟っていう部室があって、24時間空いてたんですよ。だから、一日中音を出し放題。秋田とか和生とか、仲いい連中で夕方くらいに集まって、最初はだらだらとしゃべってて、そこから夜中もずっとセッションして、朝にファミレスで飯食って帰るみたいな。


──それまで夜の学校に忍び込んで即興やってたのが、ちゃんとしたサークル活動になった(笑)


光永 それが卒業までずっと続きましたね。本当に楽しかったですよ。さらにいえば、学芸のサークル棟は24時間練習ができる場所だったから、他大学の人も顔出したりしてて、今おれが一緒にやってる(岩見)継吾くんや、ceroのサポートでもトランペット吹いてもらった川崎(太一朗)くん(Ego-Wrappin’)も来てました。


──名門サークルなわけだから、それなりの厳しさもあったんじゃないですか?


光永 いわゆるアカデミックに突き詰めるところじゃないんですよ。4ビート命な感じとか、ジャズに関しては結構厳しさもありましたけどね。おれとか和生とかはロックが好きだから、こそっと隠れてレッド・ツェッペリンとかやってたんですけど、それを先輩に見つかると「おい、なにやってるんだよ! 4ビートやれ!」みたいに言われたり(笑)。和生はそういうのがだんだん苦痛になって、やがてサークルをやめちゃいましたけど。


──みっちゃんとしても、やっぱりドラムが一番好きだっていう気持ちが固まっていった時期は、ここですよね。


光永 そうですね。ここでドンとハマって、音楽やって酒飲んで、音楽やって酒飲んで(笑)。合コンとか、いわゆる大学生がやるようなことはぜんぜんなく、ひたすら音楽やってましたね。


──そのころ目標にしてたドラマーはいますか?


光永 今でもそうですけど、アート・ブレイキーですね。当時、部室にジャズやソウルのレーザーディスクがたくさんあって、それをみんなでお酒飲みながら見て「ああいうのやりたい」とか、いろんな話してましたね。そのなかで一番好きだったのが、アート・ブレイキーでした。もちろんエルヴィン・ジョーンズとかトニー・ウィリアムスも好きでしたけど、やっぱりブレイキーが一番。




──どのへんが?


光永 なんだろう? こういうこと言うと怒られちゃうけど、アホなところ(笑)


──アホって(笑)


光永 アホじゃないんですよ。天才だし、素晴らしいんですけど、どこかふまじめな感じだったり、ちょっと不器用な感じだったりするのがかっこよくて。人間らしかったんですよね。


──スーパーテクニックを誇示するというところではなく、人間に惹かれた部分がある。


光永 もちろん他にもすごい人はいっぱいいましたけどね。森山威男さんもめちゃくちゃ好きでした。




──山下洋輔トリオのドラマーだった方ですね。


光永 アケタ(西荻窪のジャズ・ライヴハウスアケタの店」)とかでたまにやられるときは見に行ってましたね。「こんなすごい人はいない」と思ってました。


──こうやってあらためて話を聞くと、みっちゃんのドラムの源流って、やっぱりすごくジャズなんですね。


光永 そうですね。ただ、ジャズにどっぷりハマってたけど、デ・ラ・ソウルとかヒップホップも好きでしたよ。


──ヒップホップのサンプリングとかループとかって、ジャズの側からすると思いがけない脚光が当たったいっぽうでは、“搾取された”という見方もできたわけで、ストイックなジャズ・サークルだと怒ってた人もいたんじゃないですか?


光永 おれは、ヒップホップは周りには黙って聴いてました(笑)。


──ロックのライヴハウスとか、インディーズとか、そういう方向には行かず?


光永 ぜんぜん行かなかったですね。“インディーズ”っていうジャンルがあることさえ知らなかった。『CROSSBEAT』とかは読んでましたけどね。


──『CROSSBEAT』は読んでたんだ。『スイングジャーナル』かと思った(笑)


光永 ちがうちがう。『CROSSBEAT』読んで「アクセル・ローズ、わるいなー!」とか思ってました(笑)


──意外と、みっちゃんの大学時代の話って、みんな知らないと思うから、こういう話はいちいち貴重ですね。


光永 そうですね。ジャズやってたってことぐらいは知られてるかもしれないけど。


──大学はちゃんと卒業したそうですけど、就職は?


光永 してない。実家の酒屋を継ごうと思ってたから。


──あ、そういうことか。いったん長崎に帰ったんですね。


光永 ただ、ドラムやりたいという気持ちはずっとあったんですよ。だから長崎に帰ってからも実家を手伝いながら地元のジャズ・クラブに出入りしたりして、音楽をやってはいたんですよね。でも、だんだん「ちゃんとやりたい」という気持ちが強くなってきて、親にお願いしたんです。「もう一回、東京に行かせてくれないか」って。


──そうだったんですか。


光永 まあ、親もおれが長崎でもそうやってドラムを続けてたのを見てたし、なんとなく(帰郷したことに)悔いがあったんじゃなかろうかと感じてたと思うんです。親父から「まあ、じゃあやってこい。何年かかるかわかんないけど、納得いくまでやってみろ」みたいなことを言われた気がします。


──いいお父さんですねえ。だって姉がふたりいるとはいえ、後継をさせられる息子としてはみっちゃんひとりなわけだから。でも、自分の息子にやりたいことがあるということをうれしく思うのも親心だろうけど。


光永 それで、東京に戻ってバイトしながら音楽をやることになったんですけど、そこが運命の分かれ目だったんですよ。たまたま行った遺跡発掘のバイトに、チムニィのギターの春日(長)がいたんです。


──なんと!


光永 ジャズをやるつもりで東京に帰ってきたんですけど、春日に「バンドをやりたいんだけど、ドラムがいないんだ。ただうちらのバンドはかっこいいから売れる!」って話をされて。おれもロック好きだったから「やろう! いや、やらせろよ!」って返事したんです。完璧だまされました(笑)。そこからですね、おれのロック・バンド人生は。


──ジャズやるつもりだったのに(笑)


光永 でも、当時流行ってたジャズっていうのは音の求道みたいなものになってたし、おれもぜんぜん下手だし、そのときはロックが性に合ったんですよね。「じゃあ、おれはロックで行こう」と。


──そのとき誘われたバンドが、チムニィ。


光永 そうです。初のロック・バンド。チムニィ自体はおれが入る前からあったんですよ。福岡でやってて、バンドとして東京に出てきたんです。でも、ちょうどドラマーがいなかった時期で、そこにおれが入った。またこれがチムニィも酒飲みのバンドで(笑)。練習しちゃ飲んで、練習しちゃ飲んで、だんだん仲良くなっていったみたいな。


──そのころはどのあたりでライヴやってました?


光永 その質問おもしろいですね。府中Flight。……知らないでしょ?(笑)。たまに新宿JAM。JAMのオーディションとか受けて、落ちてましたよ(笑)。今おれが出てるライヴハウスでも当時オーディション落ちたとこ他にもありますよ。


──そうなんだ。


光永 Flightはオーディションがなかったんですよ(笑)。あと、おれは当時国分寺に住んでて、チムニィの他のメンバーは府中に住んでたから、やりやすかった。


──そのころから今もやってる曲はあります? 「西武球場」とか?


光永 まだ、そういうのはやってないです。ユウテツくんもまだいなかった。ヴォーカルも初代だったし、今とはぜんぜん違います。ジミ・ヘンドリックスみたいにやりたいヘタクソなバンドって感じでした。


──もっと混沌としてた感じですか。


光永 混沌……ですね。松永さんはそのころ、どういうバンド見てました?


──SAKEROCKかな。たぶん、彼らがカクバリズム入る直前で、ぎりぎりライヴハウスでやってたくらいの時期。


光永 おれらがいたのは、また違うシーンですよ。当時のおれらが見てた頂点にあったというか、「すげえな」と思ってたのが“関西ゼロ世代”。ZUINOSHINとか、ワッツーシゾンビとか、そういうバンドが出るライヴを新宿JAMに見に行ったんですよ。そしたら満員で入れなくて、横の駐車場でお酒飲んでた(笑)


──そうなのか……。


光永 でも、他人からはおれらのバンドは暗黒時代に見えたかもしれないけど、楽しかったですよ。バイトしながらノルマ払ってライヴやるというのが当たり前だったし。


──この時期やってたバンドは、ずっとチムニィだけ? ジャズには戻らず?


光永 所属してやってたのはチムニィだけでしたね。ジャズは、昔の知り合いに呼ばれて、たまにやってたけど。


──転機が訪れたというか、潮目がちょっと変わったのはいつごろですか?


光永 結構長いこと変わんなかったすよ(笑)。たぶん、おれらがそうやってる別のところで、ceroとかNRQとかも生まれてたんでしょうけど、まったく知らなかったし。片想いとも高円寺のペンギンハウスで一回対バンしたことあるんですよ。バンドの毛色が違うから、そのときは特にだれかと仲良くなった記憶もないけど。でも、あだ麗(あだち麗三郎)が当時四谷の某施設でやってたイベントにチムニィを呼んでくれたんですよ。そのころは、もうユウテツくんが加入してました。それまでの轟音ロックじゃなくて、ヒップホップというかトーキングブルースというか、ユウテツくんらしいスタイルにバンドが変わっていった時期です。で、その四谷のライヴ映像をVIDEOくん(VIDEOTAPEMUSIC)が撮ってたんですよ。その映像をビーサン(Alfred Beach Sandal)が見て、「この人のドラムいい!」って言ったんです。


──へえ!


光永 あれ? ちょっと待ってくださいね。なんでおれがビーサンがそう言ったっていう話を知ってるのか……? 思い出した! 当時、チムニィって一匹狼的なバンドで友だちになるミュージシャンがぜんぜんいなかったんですけど、一個だけ仲良くなったピンク・グループっていうむちゃくちゃかっこいいバンドがいて。そのピンク・グループのファンに(内田)るんちゃんとるんちゃんのお母さんがいたんです。それで、そのふたりがチムニィを気に入ってくれて、ライヴを見に来てくれるようになったんです。


──そこからくほんぶつでみっちゃんがドラム叩くことにつながる?


光永 そうなんですけど、それはもうちょっとあとの話です。るんちゃんはビーサンとも知り合いで、おれは彼女から「ビーサンが『あのドラマーの人、知ってる?』って言ってたよ」って、はじめて聞いたんです。


(つづく)


====================


光永渉ホームページ mitsunaga wataru.com