mrbq

なにかあり/とくになし

みっちゃん! 光永渉の話しようよ。/ 光永渉インタビュー その3



 ひと月空いてしまいましたが、光永渉ロング・インタビュー、第三回。


 みっちゃんの言葉を借りれば「時がいい感じで周りはじめた」2010年前後の話。


 なお、間が空いたので、前2回もご参照を。
 「その1
 「その2


====================


──ビーサン(Alfred Beach Sandal北里)がチムニィのライヴ映像を見て、みっちゃんに興味を持って。それからどうなりました?


光永 (内田)るんちゃんから「ビーサンが今度ライヴに行きたい」って言ってるって聞いたんで、「『いいよいいよ、遊びに来て』って言っといて」って伝えたんです。そしたら、本当に来たんですよ。下北沢〈THREE〉でのライヴだったと思うんですけど、あいつって今もそうだけど無愛想でしょ?(笑)。しかも今よりもっとシュッとしてるっていうか、怖い感じで。


──わかる。第一印象が怖い感じ(笑)。


光永 それで、2年後くらいだったかな、知人の結婚式の二次会があったんですけど、そのときにお互い酔っ払ってるし打ち解けて、「今度スタジオ入ろう。ドラム叩いてよ」みたいなことを言われて、一緒に入ったりしました。ビーサンは、そのころに継吾くんがやってたバンドとも入谷の〈なってるハウス〉で対バンしてて。継吾くんも店のマスターに「一緒にやってみなよ」って言われてセッションしたのかな。そのときは伴瀬(朝彦)くんもそこにいたかもしれない。そういうことが別々にあって、のちに、じゃあこの3人(北里、光永、岩見)でやってみようという流れになったんだと思います。


──話を2010年の四谷に戻すと、あだカル(あだち麗三郎クワルテッット)にも、その夜が縁になって参加することになるんですよね。


光永 それもあるけど、もともとあだカルで叩いてた(田中)佑司がくるりに入って京都に引っ越すから、ドラマーがいなくなったのがきっかけでした。それで暫定的にライヴで一回叩かせてみよう、くらいの感じだったと思うんですよ。そのときはもう(厚海)義朗くんもいたけど、彼もたしか四谷でおれらと対バンした日が初めてのあだカルで、まだ二回目のライヴくらいじゃないのかな。あらぴー(荒内佑/cero)とも、あだカルで初対面だったんですけど、最初に会ったときは、ぜんぜんいい印象なかった(笑)。あだ麗に紹介してもらうってことで、吉祥寺の一軒目酒場で飲んだんですけど、そのときはあんまりしゃべんないし「謎めいたやつだな」と思ってました。でも、一緒にやってるうちに仲良くなっていって。


──今、考えるとその時期のあだカルのメンバーはすごい。ほぼ、のちのcero(笑)


光永 今思えばそうですね。あだちくんのことは、“俺こん(俺はこんなもんじゃない)”とか、いろいろやってたから知ってましたけど、ceroのことはうわさに聞いてたくらいで、まだよく知らなかったですね。


──時系列をちょっと整理すると、チムニィ以外のバンドに初めてレギュラーで入ったのは、あだカル?


光永 るんちゃんのバンド“くほんぶつ”に、もう入ってたかもしんない。


──くほんぶつには「ピートタウンゼント」って超いい曲がありますよね。「2010年の日本ロックフェスティバルに出るために組んだドリームチームバンド」っていう記述を見たことあるから、たしかにおなじくらいの時期なのかな。


光永 あと、もっと前ですけど三村(京子)さんともやってました。彼女のセカンド(『東京では少女歌手なんて』 2008年)が出たあたりですね。CDではNRQの人たちが演奏してるんですけど、ライヴではおれがわりとドラム叩いてたんです。そのきっかけも、チムニィと三村さんの対バンですね。彼女はひとりでやってたけど、「バンドを探してる」みたいな話で。それでチムニィのリズム隊と(佐藤)和生で、そのままバックをやったという感じです。そういえば、そのころのライヴに王舟が来てて、カメラマンみたいなことしてたんですよ。王舟が三村さんの歌がすごく好きだったらしくて。そのとき飲み会でもしゃべってるんですけど、おれはほとんど記憶にない。何年か後に王舟から「おれ、あのときいたんですよ」って聞いたんです。


──ランタンパレードの清水さんと知り合ったのはいつですか? たしか、それもこの前後ですよね。前に清水さんに取材したときに、その時期の話を聞きました。ずっと宅録とDJだけやって作品を発表してた清水さんのところに、みっちゃんが来て「バンドで叩かせてくれ」と直訴したという。


光永 本当に好きだったから必死な感じではあったと思います。その時点では清水さんはバンドどころか弾き語りもやってなかったから。


──そういう存在だったのに「バンドやってほしい。で、おれに叩かせてほしい」とお願いしたんですね。


光永 そのころ、和生のギター、ヴォーカル、おれのドラム、チムニィのベースの浅川、もうひとりギターの4人で、Miniature Band(ミニチュア・バンド)っていうのもやってて、mona recordsとかにたまに出てたんです。チムニィでワーッて感じのことやりながらも、宅録っぽいポップスっぽいバンドもやってて。そのバンドでmonaでライヴしたときに、店内でオススメされてたCDにランタンパレードがあったんですよ。黄色い薔薇のやつ。


──ファーストの『LANTERN PARADE』(2005年)ですね。




光永 あれ聴いて衝撃受けたんです。清水さんの歌詞も、その当時の自分にはど直球で。それからは、もう勝手に崇めてました。でも、ランタンパレードはライヴはやらないし、そもそも情報がなさすぎた。「どんな人だろ?」と思ってたら、たまたま高円寺のバーでDJをやるという情報を見つけたんです。「これは絶対に生の清水さんを見なきゃいけない」と思って、勢い勇んで行ったんです。


──はしもっちゃん(橋本翼/cero)もランタンパレードの大ファンで、彼もDJを聴きに行って、「ギター弾かせてください」ってお願いしたそうですね。


光永 あ、本当? おれはこの当時はまだはしもっちゃんのこと知らなかったから。


──おなじような場所にいたかもしれない。


光永 DJが終わったあとで、思い切って清水さんに話しかけたんですよ。憧れが強すぎたから怖かったですけど、話したらすごくいい人で、「さっきかけた曲は」とかいろいろ教えてくれて。それで、その勢いで「清水さん、バンドしないんですか?」って聞いたんです。そしたら「いや、じつはその構想もある」みたいな返事だったので、「じゃあそのときはおれを使ってください」とお願いしたんです。で、そのへんにあったコースターに電話番号とかを書いて渡したんです。でも連絡取れたのは1年後でした。


──1年後!(笑)


光永 チムニィのユウテツくんも清水さんがDJで出た別のイベントに行ったときに、おれが本当に清水さんとやりたいって言ってるって伝えてくれて。そのときに清水さんが電話番号を教えてくれたので、連絡が取れたんです。


──いい話(笑)。チムニィのメンバーは本当にみんなランタンパレードが好きで、歌詞当てクイズとかをしてるって話、清水さんから聞いたことあります。で、ユウテツくんの一押しもあって、そこから清水さんとの活動も始まって?


光永 すぐに「バンドやろう」という話になったわけじゃないんですよ。まずは「じゃあメシでも食おう」と。それからは清水さんが結構、当時、おれと和生が一緒に住んでた家に遊びに来てくれたんですよ。そのころは一瞬、ユウテツも住んでたのかな。鍋やったりしました。それで、2009年の終わりあたりから、二人でスタジオ入るようになりましたね。清水さんから「こういうのもあるんだよ」って弾き語りのCD-Rをもらったんですよ。それがもう本当に素晴らしくて、そこから1年くらいはその音源をどうやってバンドの音にするか、二人でずっとスタジオ入ってやってました。震災のときも、清水さんと二人でスタジオ入ってたんですよ。


──そうなんだ!


光永 次の日もスタジオに入りました。予約してたから(笑)。でも周りは大変なことになってたじゃないですか。空の色も変だったし。スタジオも練習してる部屋以外は真っ暗だし。「でも、やるか」みたいな感じで練習しましたけど、ちょっと怖かったですね。


──ランタンパレードのバンド・スタイルでのアルバム『夏の一部始終』も、そのリリース記念だった初ライヴも2011年ですよね(2011年11月17日、〈曽我部恵一 presents“shimokitazawa concert”第十一夜・十一月〉)。アルバムもライヴもたまたまこのタイミングになっただけで、震災とはなんの関係もないと清水さんは、はっきり言ってましたけど。


光永 そうなんですよ。でも、あのアルバムの曲の歌詞もそうだし、ceroのファースト『WORLD RECORD』もそうだったけど、起きた現実と結構リンクしてるところがあったんですよね。まったく関係ないころからずっとやってたことなのに、関連があると思われちゃう。清水さんは、そう思われるのを嫌がってましたね。





──『夏の一部始終』では、ベースで曽我部恵一さんが参加してます。


光永 満を持して清水さんと録音するかとなったときに「ベースはどうしよう?」と思ってたら、曽我部さんが「おれでしょ」って(笑)


──「おれでしょ」(笑)


光永 びっくりしました。清水さんもそうだけど、曽我部さんも雲の上の人だったから。「なんで?」みたいな。


──かつて「青春狂走曲」に衝撃を受けたみっちゃんですが、曽我部さんともそこで初対面。


光永 そうです。緊張しました。まあ、そのあと一緒に飲みに行ったら、おれ、うれしくてすごい泥酔したけど(笑)


──笑っちゃうけど、そのうれしさ、よくわかる(笑)


光永 そのへんからですね、時がいい感じで周りはじめたのは。


──ceroを初めて見たのは、いつなんですか?


光永 『My Lost City』のツアーファイナルに誘われて渋谷クラブクアトロに見に行きました(2013年2月3日)。というか、ceroがそのツアーで北海道行ったときに、対バンでビーサンをバンドを呼んでくれたんですよ(2013年2月1日、札幌cube garden)。そのときにおれがドラム叩いてるのを見てもらったのも、ひとつのきっかけだと思います。


──なるほど。みっちゃんと義朗をリズム隊にしたいという構想は、すでになんとなくあったという話も聞いたことがありますが。


光永 義朗くんは『My Lost City』で一曲弾いてるんですよ(「さん!」)。なんとなくおれらを誘いたいという雰囲気はあったのかもしれないけど、おれはわかんなかったですね。


──あだカルのリズム隊としての興味もあったけど、藤井洋平& The VERY Sensitive Citizens of TOKYOのリズム隊という意識が大きかったと思いますよ。まだその時点ではセカンド・アルバム『Banana Games』(13年11月)は出てなかったけど、ライヴは結構やってましたからね。僕も藤井くんのファースト(『この惑星の幾星霜の喧騒も、も少したったら終わるそう』)は好きで聴いてたけど、みっちゃんたちとアーバンなファンクをやるようになってからの演奏見たとき「こんなかっこいいバンドない!」って度肝抜かれましたもん。




光永 ああ、そうか。藤井くんも絡んでくるんだ。


──役者がいろいろ揃ってきましたね。じゃあ、次回はいよいよceroとの話にいきましょうか。


(つづく)