夢と時間の境目を触れる、たたく/角銅真実インタビュー その2
お待たせしました。角銅真実インタビュー、第二回!
前回、突然に東京藝大受験を決意した彼女がそれからどうなったのか?気になってる人も多いはずなので、前置きもそこそこに彼女の話にはいるとする。
今回も角銅さんから当時の貴重な写真を提供していただいた。コメントも彼女自身。
第一回は、こちら。
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──「藝大ってわたしのためにあるんじゃない?」と思って、一念発起してマリンバで藝大を受験するというところまでが一回目でした。
角銅 一年目の受験はぜんぜんダメでした。
──そもそも、思い立ってからの時間が短かったですもんね。
角銅 「長崎にこのままいてもダメかもな」と思ったりしてましたね。両親に「東京行きたい」って相談してました。今考えても、よく東京に行かせてくれたなと思うんですけど、トントン拍子でちゃんとソルフェージュとかをイチから教えてくれる、しかも授業料もとても良心的な面倒見の良さそうな音楽教室がぱっと見つかって。さらに、その横に木造で6畳くらいのアパートで安く借りれる部屋も見つかって。「もうこれ東京出たらいいやん」って思って、1、2回くらいしか会ったことのない藝大の先生に「ちょっと長崎おってもどうかと思ったので、東京に出くることにします」って留守電に入れたんです。
──あの、ネットで見て「かっこいい!」と思った打楽器の先生?
角銅 はい。じつは、長崎のマリンバの先生がつないでくれて、一回目の受験の前に1、2度、その先生のところに習いに行ったことがあったんです。そのときに連絡先をくれてたんです。でも忙しい先生だからなかなか連絡もとれなくて、ぜんぜん電話も出ない。だから、東京に着いてから、また「もう長崎から東京出て来ちゃいました。いま国分寺に住んでます。レッスンしてほしいです」って留守電に入れて。そしたら数日後に先生が留守電聞いて、あわてて電話してきて、「本当に長崎から出てきちゃったのかよう!」って(笑)。「ぼくの信頼してる人で面倒みてくれる先生を紹介する。ぼくも月に一回くらいはレッスン見ますから」って言ってくれて。その時紹介していただいた先生もすごく素敵な人でした。今でも演奏を見に行ったり、その先生も演奏や展示を見に来てくださったりと、お世話になっています。
──すごい展開ですね(笑)
角銅 それからは高円寺のスタジオに毎週通って、叩き方とかの基礎をずっとやりました。その時点では、わたしまだ普通に楽譜通りに弾くこともできなかったし、楽譜をちゃんと弾くということがどういうことなのか知らなかったから。
──1年目はそういうこともわからない状態で受験したってことですよね?
角銅 まあ最初は落ちると思ってたから二次試験の準備もしてなかった(笑)。それでも、山口ともさんのライヴのスケジュールはしっかりチェックはしてて、一次試験が終わったあとにお母さんと見に行きました。のんきですね。
──ご両親が寛大だったというのはあるかも。
角銅 寛大すぎですよね(笑)。なんでそうしてくれたのかな?
──やっぱり、あんまり学校が好きじゃなかった娘が、行きたい学校があるというのが、うれしかったんじゃないかな。
角銅 心配したのかなあ。
──とはいえ、そうやって東京にでてきたからには、もう受かるまでは長崎には帰らないという覚悟もあった?
角銅 いや、わたし、そういう覚悟もあらたまってしないタイプだから。本当にシンプルに、そのときの強い気持ちでポンって行っちゃった感じです。
──よく行ったし、よく来ましたよね。
角銅 先生も「本当に来るとは思ってなかった」って言ってましたけど(笑)
──で、その1年間の浪人時代を経て、2年目に合格。
角銅 そうですね。
──それもやっぱりすごくないですか? 狭き門でしょう? だいたい打楽器専攻で何人くらい入学できるんですか?
角銅 わたしたちの学年は4人でした。例年は2、3人です。しかも、わたしは運がよかったんですよ。毎年マリンバはひとりしかとらないところを、わたしの年だけ2人とったんです。しかも、わたしと一緒に受かったのは、おなじ先生についていた生年月日一緒の子でした。わたしたちの学年の4人は仲のいい4人でした。人数が少ないのもよかったです。
大学入りたての頃。口を食いしばって?しかめ面で演奏する癖がありました。
──入ってみて、じっさいの藝大生活はどうでした?
角銅 周りに音楽やってる人がこんなにたくさんいる環境に初めて来て、疲れましたね(笑)。みんな演奏がうまいし、ちっちゃいときからやってて、いろんなこと知ってるし、すごいなあと思ってました。わたしが入る前に1年くらいやったことなんて、みんな赤ちゃんレベルのことだから。しかも、わたしはずっとひとりで演奏する経験しかなかったから、たとえば合奏とか、人と一緒に合わせるということの意味が理解できなかったんです。だから、室内楽のレッスンでもわたしだけけちょんけちょんに言われたりしてましたね。
──けちょんけちょんに。
角銅 「音楽を殺すくらいなら、おまえが死ね!」って先生に言われました。「死ね〜!」って言われて顔面蒼白になるけど、どうしたらいいのかわかんない(笑)。受験するまでのわたしの弾き方って、「曲をまるまる覚えて、全部一度体に入れてしまったものを、演奏する」みたいな方法だったから、自分の身体の外で起こっている音の認知の仕方がぜんぜんわかんなくて。「足踏みしながら練習するといい」とか、グルーヴする意味を体験するために「ジャンプ何回もやり続けたら」とか、先輩がいろいろアドバイスしてくれるんだけど、ぜんぜんわかんなかった。テンポどおりに弾く、かっちり弾くということ自体の意味も本当にわからなかったですね。
──逆の見方をすれば、そういう基礎的な部分がほとんどない状態なのに角銅さんは藝大に入ったわけだから、周りからしたら「この子は何かある?」と興味深く見ていた部分もあるんじゃないですか?
角銅 ソロで、自分だけの音楽を自分ひとりの体でやるみたいな演奏は、わりと向いてました。でも、人とやるのは本当に意味わかんなかったですね。でも、合わせるほうもできるようになれたら、と思ってましたね。
──音楽家って、超一流のオーケストラとかでアンサンブルの中で才能を発揮する人もいるし、ひとりのアーティストとして自分の表現を作っていく人もいる。
角銅 でも、その時は何がしたい、というよりずっとモヤモヤしていました。とにかくいろいろなスタートが遅かったので、学校いる間、個人練習はずっと基礎の練習ばっかりしてました。というのも、大学2年生から、高田みどりさんという打楽器奏者の人に習うことになったんですけど、高田さんは「作品作りなさい」って大学周りで唯一わたしに言ってくれた人で。もともとわたしは「自分がどう表現するか」みたいなところでしか音楽をやってなかったんだけど、高田さんの授業は「そんなのはあなたが勝手に考えればいい、それは本当の意味で教わることではないから、わたしは楽器の鳴らし方、物の鳴らし方・身体の使い方をとにかくあんたに教える」みたいな感じで、なんか筋トレみたいでした。オーケストラの音楽の仕組みとかがどうしても受け入れられないっていうわたしの話もすごく真剣に聞いてくれて。
──その出会いがひとつのヒントになった感じはありますね。
角銅 でも、結局その時点でははっきり何をしていいかわかんなかった。高田みどりさんは本当に尊敬していて、音楽やこれまでやって来た仕事も尊敬していて憧れているんですが、私は高田みどりではないし、さて自分はどうしようかと。いろんな音楽や方法を自分なりにやってみてはいたけど、自分の筋に通る具体的な何かが何なのかはわかんなかった。モヤモヤしていました。
──こないだ、小田さんに取材したときにも、大学時代の角銅さんの話がちょっと出て。
角銅 あ、坊主だったときだ。
──坊主?
角銅 大学で現代音楽や、今起こっていることそのものを表現するみたいなことをやっていくうちに、どんどん女性という性別を含む自分の要素が邪魔に感じてきて「音そのものになりたい」と思うようになったんです。それで、坊主にしました。
坊主写真、演奏会後の一枚。
──え!
角銅 あと、そのころハンス・ベルメールっていう人形作家のことがすごく好きで、そういうフェティッシュな趣味の部分もあって、坊主でした。
──なんと!
角銅 大学で授業と授業の合間に「ちょっと床屋行ってくるね」って言って近所の床屋さんで。戻ってきたら坊主になってたから、みんな「ええ!」ってなってた(笑)
──そりゃそうだ!
角銅 そしたら、坊主頭で気持ち良く校内を歩いてたら、ある日、向こうからも坊主の女性が歩いてきて。それが小田さんでした!
──なんとなんと!
角銅 小田さん、かっこよくて、めっちゃやせてて、「今やばい人とすれ違ったな〜」って思ってました(笑)。そのあと、すぐに知り合いになったんですけど。
──小田さんとは大学時代にも一緒にライヴをやっていたそうですね。
角銅 半年くらい、何回か一緒にライヴしました。二人で、というより、小田さんの曲にわたしがサポートで入るかたちでした。でも、そのあと、わたしが演奏をしばらくやめた時期があって、「どうしてもできない」って、小田さんに結構長いメールで断りを入れたこともありましたね。そのとき、音楽を一回全部忘れてしまいたくて。音楽教育を受けていく上で、あまりにいろいろ無自覚に身についた部分を感じたというか、無自覚に文化に巻き込まれて他人の言葉で音楽やいろんなものを紡いでしまっているような。「わたしの中心みたいなとこはなんだろう?」って思って、楽器を本当にやらなくなりましたね。一度、自分でイチから考るために頭を整理したかったのだと思います。
──でも、小田さん、ceroで再会したときに角銅さんが成長しててうれしかった、とも、インタビューのときに言ってましたよ。
角銅 それ、読みました! うれしかった。
──小田さんとはなんとなく通じ合う部分があったんでしょうね。
角銅 そうでしょうね。自分の作品を自分の体でやるという人は、美術の人を除けば、音楽学部では当時のわたしの周りには小田さんしかいなかった。
──小田さんは、当時の角銅さんは音楽以外のことと音楽をくっつけることに興味がある感じだった、みたいな話もしてましたね。
音楽生活の転機になった、ヴィンコ・グロボカールの”Dialog uber Erde(大地のについての対話)”という曲。右手で太鼓を打ち鳴らしながら、左手で水槽に土を入れているところです。楽器よりも、素材自体に興味を持ち始めた頃。
角銅 そうそう。それで音楽よりも、美術学部のほうにずっといて、インスタレーションばっかり作ってたときもありました。スウェーデンに赤ちゃんのための音の出るおもちゃを作る「BRIO」っていう会社があって、そこに就職しようと思って手紙書いて現地まで行ったりしましたね。
──え? 直接?
角銅 そう。返事もこないのに(笑)。そのときはついでに一ヶ月くらい時間をかけてトルコにも行ったりしました。でも、一ヶ月ずっと楽器に触ってなかったら、「音出したいな」って気持ちになったんです。結局、BRIOに着くころには「わたしはやっぱり音楽かな」って思って、ボイスメモで曲を作り始めてたりして(笑)。まあ、結局、BRIOも働き手の募集はしてなかったんですけどね。工場の中とかを見学させてくれました。
──でも、それはいい旅行でしたね。「やっぱり音楽が好き」と気がつくための旅行だった。藝大を受ける時点では、「音楽もあるし、美術もある」と思った場所だったわけですよね。それが「やっぱりわたしは音楽だ」と確認できていった。
角銅 いや、でも、「わたし、本当に音楽が大好きだ〜〜〜〜」ってちゃんと認めたのは最近なんです。今もやりたいことの中には、インスタレーションと呼ばれるような形で作ってみたいアイデアは頭の中にたくさんあるし、作りたいものの出口が音楽や楽曲という形だけっていうのは、あんまり自分の中では自然ではないです。
──でも、音楽をやるなら打楽器という意識は一貫してある。
角銅 そうです。触って音が出ることがうれしい。あ、でも一時期、自分の肩書きをなんて言えばいいのかわかんなくて、「音楽」って書いてました。
──「音楽 角銅真実」。かっこいい。
角銅 それは今もあんまり変わってないかな。
──それはやっぱり坊主頭にしたときともおなじで、「音楽を演奏する人」であるより「音楽そのもの」になりたかったってことなんでしょうね。
角銅 かもしれないですね。
──それは演奏してる姿をみてても感じます。誰かみたいなプレイヤーになりたいということではない、自分の目指すところがあるんだなと。
角銅 何の意識もないですね。「わたし」です。
(つづく)
卒業演奏会での一枚。アルバムのジャケットで着てたのと同じ服!この曲のために大学の美術学部の知り合いに作ってもらい、お尻にハクビシンの尻尾をつけて演奏しました。
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もう本日ですが、こちらのイベントに網守将平とバクテリアコレクティブのメンバーとして角銅真実出演。
日程:7月30日(日)
時間:OPEN /START 16:00(CLOSE 21:30)
料金:予約 2,500円 当日 3,000円(ご入場の際に1ドリンク代として600円を頂きます)
席種:着席または立見(ご来場順の入場)※オールスタンディングの変更の可能性有り
会場:CAY(スパイラルB1F)
〒107-0062 東京都港区南青山5-6-23 ACCESS MAP
出演:網守将平とバクテリアコレクティブ(網守将平、古川麦、厚海義朗、角銅真実、松本一哉、Guest: Babi)、Phew、Tenniscoats、Super Magic Hats(from Australia)、梅沢英樹+松本望睦(VJ: 永田康祐)、高城晶平 (cero)、畠中実 (ICC)