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なにかあり/とくになし

My Lost City

ceroのセカンド・アルバム「My Lost City」についての取材記事を
今月発売の「CDジャーナル」11月号に書いた。


信頼しているライターの磯部涼さんと対談した
「あたらしいシティ・ポップ」とあわせて読んでいただけたら
とてもうれしい。


ぼくの感じたことは
その記事に可能な限り詰め込んだつもりだけど
発売日を迎えるまでもずっとアルバムをききつづけていて
まだまだはみだしてくるものがある。


ceroの新作が
「My Lost City」というタイトルになるのだときいたのは
夏よりもまだはやいころだった記憶がある。


日本人には
もうなくなってしまったものに
はかなさやせつなさといった
どこかロマンチックな感覚をもってしまうようなところがある。


でも
ぼくには
ceroの「My Lost City」は
そういう甘ったるいセンチメンタリズムだけが支える作品ではまったくないと思えた。


彼らが本当に意識して立ち向かおうとしたのは
そこに見えているはずなのに実在感を欠く都市のこと、
いつの間にか以前と変わらないようなにぎわいを装う風景がもたらす
どこか錘(おもり)が取れてしまったような
毎日の居心地の不思議な不安定さのことのはず。


ロスト・ジェネレーションを“失われた世代”と訳すのはやめてほしい」


町山智浩さんが書いたあらゆる文章のなかで
キラーなフレーズをひとつだけ選べといわれたら
ぼくはそれを選ぶ。


英語の“Lost”は“失われた”というより
むしろ“見失う(見失った)”という意味合いが強い。


だから
「わたしの失われし都市」は
同時に
「わたしが見失った都市」でもある。


町山さんは
ロスト・ジェネレーションに対するふさわしい訳語として
“迷子の世代”をあげていた。


そして
ceroのつくりだす音楽には
“見失った”都市を海に見立てて
大洪水に流されるように“迷う”ような物語がある。


だが
「My Lost City」では
その“まよう”は
自分たちの意志をもって
ふわふわした今をリアルな質感で取り戻そうとする
“さまよう”に
変化しつつあるんじゃないか。


“まよう”から“さまよう”へ。
ロスト・ジェネレーション(迷子の世代)の、その先へ。


「My Lost City」は
その先を照らし出す重要なアルバムだと思う。


あの記事のつづきを
そして
ぼくがceroについて
「My Lost City」について考えてることのつづきを
どこかでまた書けたらいいな。


熱望。