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なにかあり/とくになし

T井先生との遭遇(未遂)

昼下がり、
取材を一件終えて、表参道を歩いていた。


すると前方から見覚えのある白髪の紳士。
薄茶色のジャケットを羽織り、
右手には大きめの平たい封筒。


すれ違う瞬間、脳に電気が走る。
「T井Y隆先生!」


ぼくの中学時代を染め上げたSF作家、
T井先生そのひとではないか!


サ、サ、サインは?
あいにくカバンの中には取材の資料と
吉行淳之介「軽薄のすすめ」(角川文庫)と
今朝買った柏木ハルコの新作漫画「地平線でダンス」(小学館)しかない。
T井先生にサインをもらうべきものがない!


高鳴る動悸と躊躇を抱えたまま歩くこと数秒、
「やっぱ、これを逃したら……」ときびすを返し、
数歩戻りかけた。


そのとき、百メートルほど前方で
T井先生は路肩のポストに郵便物を投函中であった。
あ……、これは私的な時間だ。


その無防備な眺めが、
「今はそのときじゃないぞよ」と
達人めいた忠告をぼくの本能に送ってきた。


よし。
いつか、必ず正面から、正攻法でサインをいただく。
でも、念のため、これから表参道を歩くときは
「笑うな」か「ウィークエンドシャッフル」の文庫本を
カバンにしのばせておこう。


T井先生のサインをあきらめたご利益か、
取材後、勤務に帰ったハイファイ・レコード・ストア
「20世紀グレーテスト・ヒッツ」に2冊サインを頼まれた。


こないだから、
宛書きは男女年齢を問わず、
下の名前で書かせていただくことに決めた。


いつまでも恥ずかしがっているだけじゃなく、
書く方も、
少しポッといい気持ちになるぐらいが
いいと思ったからだ。