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なにかあり/とくになし

片目のあいつ

ティーヴ・ジョーダンが死んだ。
現地時間8月13日。
冗談じゃないよ、なんてシャレではなくて。


ミュージシャンで
ティーヴ・ジョーダンというと
キース・リチャーズのバンドでも叩いていた
名うての黒人セッション・ドラマーを思い出すひともすくなくないだろう。


そういう方々は
どうぞご安心を。


このたび
天に召されたのは
テキサスはサンアントニオの星、
アコーディオンのジミヘンなる異名をとり
無敵にして孤高のテックスメックス道をきわめた
片目のあいつ、
エステバン・ホルダンこと
ティーヴ・ジョーダン。



さも知ったようなことを書いているが
訃報を知ったのはついさっき。


だいいちぼくは
このマッドでワイルドでデンジャラスで
サイケデリックでインナートリッピンで
真の意味でボーダーレスでもある音楽的怪物について
語る資格をちゃんと持っていない。


80年代末に
P-Vineがジョーダンのラウンダーからのアルバムを
日本で帯と解説を付けて発売していた。
ブレイヴ・コンボあたりとセットで
熱心に紹介もされていた。
ぼくもそれでこのひとの存在を知った。


しかし
はじめて聴いた感想は
「この間延びした野暮ったい音楽の
 どこがアコーディオンのジミヘンかよ!」


今となっては率直すぎて恥ずかしい違和感でしかなかった。


特異なキャラクターや
奏法的な革新や
イデアの豊富さは伝わってくるのだが
音楽それ自体にショックを感じるのが難しかったのだ。


ジョーダンにあらためてしびれたのは
90年代半ばぐらいか。


友人から聴かせてもらった
フラーコ・ヒメネスとのカップリングになった
ラ・バンバ」のカセット・シングル(!)だったか
当時のバイト先で聴いた
彼の初期のアルバムに入っていた
サンタナのカヴァー「オエ・コモ・ヴァ」だったか。


おどろくべきは
そのカセットもアルバムも
かつて江古田で営業していた
日本唯一のテックス・メックス・レコード店
クラン・レコードが
ジョーダン本人からライセンスして発売していたものだった。


前者は直輸入、
後者は入手不可能なテキサス・オリジナル盤を
日本でわざわざアナログで復刻したもの。


たぶん
クランの店主も
一般的に入手しやすいジョーダンの音源に
いくばくかの歯痒さを感じていたのだろう。


たしか
この方は
ジョーダンの来日公演も手掛けられたはずだ。


そのクランから再発された
ジョーダンのデビュー・アルバム(60年代末)には
まるで野犬に噛まれたようなショックを受けた。


もし「アコーディオン界のジミヘン」というキャッチフレーズが
今でもまだピンと来ていないのなら
このアルバムに収録された「ラ・バンバ」か
スクイーズ・ボックス・マン」を聴くべきだろう。
できれば爆音で。


狂犬の毒がまわって
キャンキャン鳴いてもしらないけどね。


クラン・レコードを直接訪れたのは
もう何年も前のこと。


駅からすこし商店街をはずれるようにして歩いた。


店に入ると
レコードよりも目立つのは
天井から無数につり下げられた
労働者用の作業着、
そして所狭しと並べられた中古のステレオ機器。


それらをかきわけて
ようやく下からレコードが見えるという
同じレコード屋業界に働く者として驚嘆せざるを得ないたたずまいだった。


そして
ティーヴ・ジョーダンのコーナーはしっかりと存在し、
ぼくは長年探していた「ヤクティ・ヤック」の7インチを買った。


今にして考えれば
あの店作りは
レコード以外の副業も兼務してますということではなく
テキサス南部の
超ダウンホームなショップの雰囲気を
受け継いでいただけなのかもしれないとも思う。


まあ、受け継ぎの度合いは
一見さんにとっては濃ゆ過ぎるものだったけど。


そのクランも
2008年の2月に閉店したと聞いた。


ティーヴ・ジョーダンの追悼文は
クラン・レコードの店主にこそ書いてほしい。
もしも
そんなものは書かない、
あるいは公の場で書くチャンスが与えられないのだとしても、
ぼくはクラン・レコードのことを必ずセットにして
ティーヴ・ジョーダンのことを思いたい。


それがぼくの礼儀だ。


DJをするときに
ときどきかけていたスティーヴ・ジョーダンを
以下思いつくままに記す。


ラ・バンバ」初期ヴァージョン
「ヤクティ・ヤック」7インチ
スクイーズ・ボックス・マン」初期ヴァージョン
「ラン・フォー・ユア・ライフ」
「エイント・ノー・ビッグ・シング」
「コール・ミー」
「オエ・コモ・ヴァ」
ジョージア・オン・マイ・マインド」
「プラ・ジャレア」


71歳。死因は肝臓ガンだと海外サイトにはあった。
孤児で片目で苦労して
少年時代から兄弟とバンドを組んでいた彼は
デビューこそすこし遅かったが
ジミヘンの軽く2倍以上生きた。