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なにかあり/とくになし

おお月よ、夜の地上にまします女王さまよ。

おお月よ、夜の地上にまします女王さまよ。


O Moon, Queen Of Night On Earth。


ジョナサン・リッチマン新作
そんなポエティックなタイトルだった。


詩的なのはタイトルだけじゃない。
ジョナサン自身が描いた月夜の絵をあしらったアートワークも
たまらなくメランコリックでうつくしい。


ニューヨーク近代美術館に収蔵されている
ゴッホのまぎれもない傑作「星月夜」を反射的に思い出す。


それとも
月に憑かれたピエロ
月に吠える、
ムーンリヴァー、
ムーンチャイルド、
マン・オン・ザ・ムーン
夜の散歩をしないかね……。


近年のジョナサンに特徴的なのは
アルバム・タイトルも
曲名も
とても長いものが増えてきていること。


それ自体がひとつの詩のようでもあるし
不思議な物語のはじまりのようでもあるし、
長く伸びた影のようでもある。


近作のアルバム・タイトルを
日本語に超訳して並べてみた。


ハイヒールやアイシャドウのせいじゃない彼女の神秘
愛されるよりもむしろ愛したいんだ
なぜなら彼女のうつくしさがむきだしで野性的だから
そして
おお月よ、夜の地上にまします女王さま」。


この饒舌さはなんだろうと考える。
ジョナサンのなかで
ロマンティックな傾向がおそろしく増しているのか、
それとも、
適齢期を迎えてもずっと無口だった幼児が
突然言葉を獲得して
頭に浮かんだ言葉がとめどなく流れだしているような感覚だろうか。


その両方で合っているようにも思えるが
それはぼくの邪推の範疇だ。


そして
新作にあわせたツアーをはじめたジョナサンを
12月のLAで見た。
約2年ぶりになるのかな。


白いものが目立つようになったヒゲをすこしたくわえ、
ちいさめのスパニッシュギターを抱え、
ドラマーのトミー・ラーキンスとふたりだけの
シンプルすぎるオン・ステージ。


この光景自体は
もう十年以上も変わっていないのだが、
年を経るにつれ
その存在のありがたみみたいなものを感じる。


何かの流行やジャンルに属することもなく
誰にも似ていないままで
ひとの心に分け入っていく。
よくぞまあ
そのままで生きていてくれるもんだと感謝したくなる。


「ザット・サマー・フィーリング」をさらっとやったくらいで
みんなが知っているような曲はほとんどない。
たぶん、
あたらしいアルバムからの曲が多かったはずだ。
でもまあ、
その全体でジョナサン・リッチマンという
ひとつの組曲を聴いているようなものに
もう達してしまっているのだという気もする。


これで最後の曲にするつもりだったらしい曲の
エンディングのギターによるカデンツァが
どうも自分的に今ひとつだったらしく、
そのような説明を加え、
つづけざまに自分アンコールで
もう一曲「ユー・マスト・アスク・ザ・ハート」をやった。


90年代半ばの
あまり振り返られないが味わいのあるアルバムのタイトル曲だ。
これもいいタイトルだなと思う。


心に訊かなきゃいけないよ。


そして本当のアンコールはなかった。
かわりに手ぶらでひとり出て来たジョナサンは
困ったような神妙なような顔をして
みんなに向かってこんな意味のことを言った。


ごめんなさい。
ぼくは今夜はアンコールはやらないんです。
それを前もって言っておくのを忘れてました。
トミーとぼくはペアを組んでもう15年になります。
ふたりの関係はもはやなんだかサイキック的なんです。
ぼくが何の曲をやるか言わなくてもトミーはすぐにドラムが叩けますし、
トミーがどうしたいかもぼくにはわかるんです。
そして今
トミーはこの舞台に出てきていません。
トミーがいなけりゃ
ぼくは今夜はもううたわないってことです。
今夜は来てくれてありがとう。
さようなら
また会いましょう。


ただしゃべっているだけなのに
なんだかひどく心をかきむしられてしまった。


なぜだかわからないが
忌野清志郎にも
こんなふうに歳を取らせてあげたかったと
せつない思いが猛烈にこみ上げてきた。


今夜のライヴハウスの名前は
トルバドールといった。
トルバドールには
“吟遊詩人”という意味がある。
すこし出来すぎているなと思った。