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なにかあり/とくになし

オー・フレネシ

出がけからずっと
フレネシの新作「キュプラ」を聴いていた。
ほぼ十年ぶりのセカンド。
(追記:セカンドではなく、ファースト・フルという位置づけでした)


レーベルは
乙女音楽研究社。


おれが
“乙女音楽研究社”って、
どうなのよ。


昼からお台場での仕事の予定で新橋まで来たのだが
連絡を取ると
急な会議の都合で夕方に仕切り直しとのことで
時間がぽっかり空いてしまった。


しょうがないなと
先月も行った駅中のパブ「アメリカン・ポテト」に向かう。


ところが
目に入ってきた店の窓や看板には
すべて目張りがほどこされていた。


はて? 改装?


いいえ。
アメリカン・ポテト」は5月末日を持ちまして閉店いたしました。


ガツーンと衝撃を受けて
ちょっとよろけた。


昼間もしばらく
フレネシの「キュプラ」を聴いていた。


おまえ、フレネシの何なんだ?
そう訊かれても、
何でもない。


ただ、ぼくは
彼女(=フレネシ)のファースト・アルバム
「Landmark Theater」を2000年に買っていて、
その後、縁があって一度(いや、二度?)
お会いしたことがある。


フレネシのアルバムを
NRBQのトム・アルドリーノに渡したら
彼がすごく興奮して
当時「relax」で紹介した。
その記事を彼女が読んでびっくりして、
仲介者であるぼくを訪ねた、みたいな経緯だったと思う。


さて、
空いた時間をどうすべきか考えていたら
歌舞伎座
片岡仁左衛門が一世一代の「女殺油地獄」をやっていたなと
思い当たった。


“一世一代”を役者が名乗るとき、
それは、金輪際この役はやりません、ということ。


仁左衛門が、まだ片岡孝夫だったころ
玉三郎とやった「女殺油地獄」を見たとき
ぼくは20代前半だったけど
いまだにあの緊張感は忘れられずにいる。


もう一年足らずで取り壊しになってしまう歌舞伎座
一度は足を運ぶべきと思いつつ、
なかなか見たい舞台がなかった。
仁左衛門で「女殺油地獄」なら申し分ない。
相手が玉三郎なら素晴らしいけど、
息子の孝太郎が勤めるのだから、そこにも人生のドラマはある。
野暮は言いっこなしか。


結構並んで
四階の一幕見席への階段をのぼった。


舞台が終わって3時半過ぎ。
2時半に終わると聞いていた会議は
案の定ついさっき終わったばかりだという。
まあ、そんなものだろう。
こっちも芝居が見られて満足だ。
お台場に向かうゆりかもめに乗り込んだ。


それからもフレネシの「キュプラ」を聴いた。
ウィスパー・ヴォイスで語られる毒というものを
ぼくは初めて聴いた。
かつては日本語ではない世界の音楽をやっていた彼女が
今は日本語で堂々と自分の世界を語っていた。
「仮想過去」
「スカイバストーキョー」
「わたしのイエスマン
超臨界流体
曲名が目を貫いて血が出た……。
渋谷系の焼け野原を
少女のいでたちをしたサムライが
ひとりで堂々と歩いていた。
オシャレとかカワイイとか
言うのは勝手。
油断して斬りつけられて死ぬのはおれ。


第二次大戦で焦土と化した東京に美空ひばりの歌が響いた、
そのエピソードに「へえ」と思いつつ、
ぼくは感動する実体験を持たない。
でも、フレネシの「キュプラ」を聴きながら、
ぼくは
見知らぬ戦後を今知らされたような
不思議な体験をした。


つまり音楽の世界は探り尽くされて
焼け野原みたいだと感じる瞬間の少なくないこの時代に
こういう音楽が鳴っていることに
とても感動しているのだと
あらためて気がつかされたのだ。


お台場の遠くに等身大のガンダム像が見えた。
“等身大”のガンダムって何だよ。


結局、お台場での仕事からは
夜10時ごろにひとまず退散とした。


夜もフレネシの「キュプラ」を聴いていた。
彼女のウィスパー・ヴォイスは
少しかすれていた。


一日中、フレネシの「キュプラ」ばかり聴いていた。