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なにかあり/とくになし

午後10時のハプニング

「お客様にお知らせいたします。
 ただいま、代々木駅にて
 線路内にお客様が立ち入っているという情報が入りましたので
 しばらくの間、運転を見合わせさせていただきます」


おいおーい……、
山手線に乗り込んだ満員の客から
ため息が漏れる。


夜10時前の渋谷駅。
仕事帰りや遊び疲れた老若男女のまったりとした疲労感が
真夏のしけった空気にまじって
じとーっと足下に染みだしていくのがわかった。


たまたまハイファイに寄っていた中野の弟と
ぼくと大江田さんは
発車のベルに急かされるようにして乗り込んだのに
乗った瞬間にそのアナウンスを聞かされたのだ。


「お客様にお知らせいたします。
 ただいま、代々木駅にて
 線路内にお客様が立ち入っているという情報が入りましたので
 しばらくの間、運転を見合わせさせていただきます」


アナウンスは繰り返す。


“線路内に立ち入り”というアナウンスは
たまに聞くことがあるが、
たいていの場合はそれほど時間はかからない。


その現場というのは見たことがないが、
酔っぱらってしまったひとがホームにあやまって落ちたり、
あるいは元気よく暴れたりしているのだろうかと想像すると、
事故的なケースの痛ましさよりは
若干ほっとするというか
ほがらかなものを感じる。


すぐに動き出すだろうという見立てが
イライラをそれほど助長しないという部分もあるしね。


「お客様にお知らせいたします。
 ただいま、代々木駅にて
 線路内にお客様が立ち入っているという情報が入りましたので
 しばらくの間、運転を見合わせさせていただきます」


三回目のアナウンスに
車内がしずかにどよめいた。


どうしたんだろう?
なかなかにやんちゃな“立ち入り”なのだろうか?


そのとき、
弟がぼくに小声で耳打ちをしてきた。


「わたくしの……前に座っておられるお方が……
 さっきからずっと……
 鼻を……●●っておられますぞ……」


はあ……?
電車で待ちぼうけさせられて
ちょっとイラっとしているのに何を言うか。
そんなひと、見当たらんではないか。
大江田さんも気がついた様子がない。


「お客様にお知らせいたします。
 詳しい情報が入りました。
 ただいま、代々木駅にてお客様が線路内に入られまして
 そのまま原宿駅の方へ向かっているとのことです。
 現在、お客様を保護すべく警察が向かっております。
 しばらくの間、運転を見合わせさせていただきます」


その詳報に、
今度は車内がほわっと湧いた。
何だそれ、逃げてるのか?


その苦笑いを弟たちと共有しようとした瞬間、
ずらした視線の端に
そのひとは確かに映った!


おお!
前方斜め前に座る会社員のおじさん!
その鼻のふもとに、
優雅に這う指がずぶり!


ダダーン!
脳内ピアノの低い音がフォルテッシモ!
そしておじさんの指が
鼻の穴に悠然とウィンナーワルツ!


ぼくとほぼ時を同じくして気がついた大江田さんが
「ぬぷぷっ!」と声にならない声をあげて
上を向いた。


弟はさっきからもうずっと
ぶるぶると震えながら
あふれでる涙をぬぐっている。


そして
おじさんは
ゆったりとほじほじ、ほじほじ。


いかん、
これはいかん!


笑いをこらえきれず、
ぼくは連結車両の窓の方を向いた。
こぼれえようとする声を手を当てて押さえると
からだが痙攣し
涙が出た。


隣の車両の連結窓から
ぼくを見たひとは
いったい何が起こっているのかと思ったはずだ。


「お客様にお知らせいたします。
 詳しい情報が入りました。
 ただいま、代々木駅にてお客様が線路内に入られまして
 そのまま原宿駅の方へ向かっているとのことです。
 現在、お客様を保護すべく警察が向かっております。
 しばらくの間、運転を見合わせさせていただきます。
 なお、振替乗車券を発行しておりますので
 お急ぎの方は他の路線をお使いください」


もうダメだ。出よう!
2人をうながして外に出た。


それは動かぬ山手線を見限ったのではない。
このままでは鼻ほじおじさんに笑い殺されるという
身の危険を感じたための
退避だった。


奇しくも出たと同時に
「お待たせいたしました。
 線路内のお客様が確保されました」
とのアナウンス。


線路内のお客様より
ずっと危険なおじさんの乗った山手線を一台見送って
ようやくぼくたちは心安く帰ることが出来たのだった。