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なにかあり/とくになし

ふたたび、鳥と蜂のために

才人なのに安易なアレンジじゃないのと
昨日ちょっといじわるを書いてしまったのに
ザ・バード&ザ・ビーのホール&オーツ・カヴァー集
またしても聴いている。


憎めないと思ってしまう理由は何だろう。


そのひとつは
バックのアレンジは
2010年代型エイティーズといったスタイルに
ヴァージョンアップしていても、
歌うイナラ・ジョージのフレージングは
オリジナルのダリル・ホールのそれを
ほぼ完璧に踏襲しているからかもしれない。


いわゆるスタンダードと呼ばれる楽曲は
歌い手によるメロディ展開の解釈、
すなわちフェイクを許しても成立する部分がある。


だが
ホール&オーツの楽曲に関して言うと
ダリル・ホールの独特の節回しそのものが
楽曲の魅力と不可分になっている。


もちろんそういうポップスは決して少なくはないが、
ホール&オーツの場合
主旋律だけならともかく、
アウトロのアドリブ的な部分に至るまで
いちいちはずせない心地よさをともなっているのだ。


もしイナラが
彼女らしさを主張して
新たな解釈によるフレージングを随所に持ち込んでいたとしたら
これほどすんなりとこのアルバムを聴き通すことは出来なかっただろう。


贅沢なカラオケじゃないか。


確かにそうかもしれない。
だが
いろんなことが上手くいったときのカラオケには
多幸感の共有という得難い力が生まれることもある。


2005年の夏、
ボストンの海辺で
ホール&オーツ・ウィズ・トッド・ラングレンというコンサートを見たときに、
本人たちの演奏の確かさはもちろん、
自分たちがティーンだったころに戻って
全曲を歌えてしまう女性ファンたちの
素人臭いが完璧なコーラスに
めまいがするほど気持ち良さを覚えた。


そのことを思い出させてくれる点において
ザ・バード&ザ・ビーのすこやかな試みを
傑作かそうでないかなんて単純な線引きや
アーティスティックな評価なんていう面倒くさい主張をして
葬り去ってしまいたくはないんだ、ぼくは。


鳥と蜂、
掘る&乙を楽しむ、なんてね。