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なにかあり/とくになし

ふたりで茶でも 安藤明子インタビュー その3

風呂に浸かりながら
羽海野チカ3月のライオン」5巻を
「あんた、ほんとにすげえよ」と思いながら読み終えて
気がついたらうとうととしていたみたいだ。


夢うつつのなかで
聞き覚えのある声がしてびくっとして
鼻の頭がお湯の上でとぷんと撥ねた。


星野鉄郎


つけっぱなしにしていたラジオから
声優の野沢雅子さんの声がしていた。


NHKの「ラジオ深夜便」で
約2時間のインタビュー・ゲストとして
今夜は野沢さんが登場していたのだ。


話がおもしろいというよりも
声に聞き惚れて
そのまましばらく湯船に浸かっていたので
すっかりふやけて
お湯疲れしてしまった。


ひとつおもしろかったのは
野沢さんはアニメの主役を務めるとき
原作本はまず読まないということ。


主人公の気持ちになりきる、
いや主人公そのものになるためには、
お話の先を知っていたら
素直に反応出来ないじゃないかという言い分だった。


ぼくは声優ではないけれど
たとえば文章を書くときに
自分でオチが見えていたらあまり燃えないようなところがある。


それってプロっぽくないなと
ときどき自分でも思っていたのだが
野沢さんの言葉を聞いて
すこし気が晴れた。


安藤明子さんのインタビューも
今日で3回目。


このインタビューも
どこに着地するのか
なにも考えずに進めている。


先の分を起こしながら作業を進めていて
今この3回目をアップする時点でも
まだ終わりは見えてない。
このあと
どうなりますやら。


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安藤 京都の短大に行くと決まったときに、高校の先生も「三重にいるより、京都にはいっぱい音楽をやってるひとがいるし、いいと思うよ。チャンスがあると思うよ」って言ってくれて。でも、そのへんの意味も、わからなかったんですよね。「チャンスって何だ?」みたいな(笑)。確かにいっぱいのひとに聴いてもらいたいけど、あんまり目立ちたくないというのもあるし(笑)。でも、歌は絶対に大事にしたいし、すごく自分にとっていいと信じてるものだから、みんなに聴いてもらいたいなとは思ってました。そんなめちゃくちゃな感じのままで、今もいるんですけどね。フフフフ。


松永 実際に京都に出てきてみて、率直な感想は?


安藤 すごくいろいろ遠回りしましたね。


松永 ……? もっと早くに来ればよかったってこと?


安藤 京都に来た時点では、別にこっちでライヴとかしてなかったんです。三重に帰ったときに、知ってるひとのところで歌ったりしてたぐらいで。大阪の野外のフェスみたいなイベントに応募して、ちょっとうたったりはしてたんですけど。


松永 ああ、すぐに京都でうたいはじめなかったってことですか。


安藤 そうなんです。でも、あるとき、三重で自主制作映画を作ってるひとに頼まれたんです。そのひとはわたしの通ってた学校の先生で、わたしのことを覚えていてくれたので、「主題歌つくってよ。それで、一緒に何かやろう」って言われたんです。その映画の上映会は三重でやってたんですけど、やがて京都でも上映をやることになったんです。そしたら、わたしも映画の宣伝をしないといけないと思って。そのとき初めてライヴハウスに出ようと思ったんですよ。


松永 宣伝のために? ライヴハウスに出ようと思ったのはそれが初めて?


安藤 そうです。それで、音源とかもないのに、ちいさなライヴハウスに「出させてください」って電話したんです。そしたら、すぐに「いいよ」ってOKしてくれて。それは、チケットのノルマがあるから、それをさばけばだれでもいいという意味だったんですけどね。でも、とにかく出られたらいいやと思ってたんで、そこに出て、うたって。お客さんは学校の先輩とかクラスメートだったんですけど、まわりの知らないひとにも「すごいよかったよ」って言ってもらったんです。それに、うたうのはめっちゃ好きだったんで、やっぱりうたってみたら楽しくて(笑)。そこからあとも一年か二年くらいずっと同じ店でうたってました。


松永 何てお店ですか?


安藤 今出川にあるバックビートというお店です。同志社大学のそばに今もあるお店なんですけど。


松永 ちっちゃい店?


安藤 ちっちゃいです。どれくらいでしょうね、「京都一ちっちゃい」って謳い文句があるくらいちっちゃいところで。そこの姉妹店が出来たら、今度はそこでうたってみたり。


松永 ずっとノルマで?


安藤 そうなんです!(笑) でも、わたしはお金を払ってでもうたうのが好きみたいな感じだったんで(笑)。そのときに、わたしのアルバムをアレンジしてくれたマグマ・ケンイチさんに会ったんですよ。そのころ、一緒にライヴに対バンで出るひとたちを見てても、あんまりおもしろいと感じるひとはすくなかったんですね。あんまりピンとこなくて、それは自分の感覚が変なのかなと思ったりもしてて。でも、このひとはすごいよかったんですよ。しばらくして別のイベントで再会したときに、「一緒に何かやりましょうか」という話をして、さらにそれから一年ぐらいかかって、アルバムになったんです。今と違って、わたしはひどい人見知りで、距離を置いてしまうタイプだったので、打ち解けるまですごく時間がかかったんですね。


松永 それがアルバム『ペリドット』(07年)ですね。


安藤 それで、大学を卒業しても、バイトしながらでも歌をうたっていこうと決めたんです。働きたいところもなかったし、ちょうどそのタイミングでお姉ちゃんにも子どもが出来たので、両親の意識もそっちに向いてしまって、娘がフリーターになるということにあんまり気が回らなくなったのかも(笑)


松永 なるほどね。うまい具合に(笑)


安藤 卒業する3月の末から、六曜社でバイトすることも決まって。


松永 六曜社の話はちゃんと訊きたいと思ってたんです。地下店のマスターのオクノ修さんって、シンガー・ソングライターじゃないですか。そのことは知ってたんですか?


安藤 知らなかったんです。高田渡さんがお客でよく来てるということも知らなくて。でも、いつも店の前を通るたびに、すごいオーラが出てる店だな(笑)とは思ってて。古いし、かわいいなあ、こんなところで働いてみたいなあと思ってました。スマート珈琲でもバイトを募集していて、そっちもいいなあと思ったんですけど、でもわたしは阪急沿線沿いの大阪寄りのところに住んでいたので、最寄りが阪急の四条河原町の駅で、スマート珈琲は通うのにちょっと遠かったんですね。六曜社も近くはないけど、ぎりぎり行けるかなと思ったので。


松永 まあ、四条河原町駅からなら六曜社は一本道だし。


安藤 ねえ(笑)。それで、「六曜社で働きたい」ってまわりのひとにも言ってたら、当時ライヴをやってた木屋町のわからん屋っていうライヴハウスの店長さんが、「修? 知り合いだよ。一緒に行く?」って言ってくれて、バイトの申し込みがてらお茶しに行って。


松永 わからん屋のひとが付き添ってくれたんですか?


安藤 来てくれたんですよ。わたしがひとりで行けばいいのに(笑)。それで「働きたいんですけど」って履歴書を渡して。そのときはすごく人手が足りなかったみたいで採用になりました。わたしも「今はちょっと遠いけど、京都市内に引っ越します」って言って。それで働くようになってから、あとで知ったんですよ。“ミュージシャンのひと”が地下にいて、高田渡さんもよく来てたって話を。


松永 そうだったんですね。


安藤 あと、それと同じくらいの時期から、手づくり市というのに出るようになったんです。毎月15日に、百万遍智恩寺という、京都大学の前にあるお寺である市で、ギターを弾いてうたいながら、CDを並べて売るということをして。いまだにその手づくり市にはずっと出てるんです。それをやりながら、六曜社でも働きながら。


松永 フリマみたいな感じですか。


安藤 もともとは、御多福珈琲という四条を下ったところにあるお店のひとが、わたしの友だちにその市のことを教えてくれたんです。その友だちと「すごいおもしろい市を毎月やっていて、何か手づくりのものとか出したいよね」ってよく話してて。だから最初はうたわずに、染色でつくった作品とかを並べてたんです。そしたら、その御多福珈琲のひとが、「うたってるんだったら、ギター持ってきてうたえばいいやん」って言ってくれて。普通に考えたら、ちょっと無茶なんですよ。他にそんなことしてるひといないし、お寺だし。やっていいのかなとも思ったけど、次の回からうたいはじめたんです。最初のうちはCDも全然売れなかったんですけど、一枚でも買ってもらったらすごくうれしくて。それに、あそこだったらずっと一日中うたってられるし(笑)。


松永 シンガー・ソングライター安藤明子が、ようやく軌道に乗ってきた感じですね。


(つづく)


ふたりで茶でも 安藤明子インタビュー その3