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なにかあり/とくになし

モア・ザン・ア・フィーリング

羽海野チカ3月のライオン」6巻の表紙を
飾っている太っちょの少年、二海堂晴信。


彼のモデルが
29才で亡くなった未完の天才棋士
村山聖(さとし)であることはよく知られている。


劇中で
二海堂が
愛すべき将棋馬鹿として
愛すべき友人思いとして
愛すべきお人好しとして
描かれていくのを読むにつけ、
読者は
やがて村山聖のように
二海堂が死んでしまうのではないかと予感し、
胸を痛める。


モデルにしていると言っても
3月のライオン」のなかで描かれる二海堂は
基本的には別人格なのだ。
物語の担い手である作者によって
生かされるという選択も
ひょっとしたらあるのだろうか。


わからないな。


それに
そういうことを予想することは
この物語を読むうえでの楽しみとは違う。


でもでもでも
そうだとわかっていても
二海堂にすっかり肩入れしてしまって
こみあげてくる何かを抑えられないのは
村山聖の生涯を
一冊の本として
心のひだをえぐりとるように書き記した
大崎善生の名著
「聖の青春」(講談社文庫)を
前に読んでしまっているせいだろう。


村山聖という青年の
その濃密な生き方には
気軽な気持ちで読み始めると
ハンパなく打ちのめされてしまう。


忘れられないエピソードがひとつ。


生前の村山が
文字通り死ぬまで愛した曲、
それは
ボストンの「宇宙の彼方へ」だった。


そのくだりを読んだとき、
ボストンなんてたいして好きじゃなかったのに、
この男にそれほど愛された曲なのだという事実によって
心がひどく動かされた。


病気で不自由なからだの村山は
この曲で宇宙を夢見たのだろうか。


いや、ちょっと待って。


「宇宙の彼方へ」の原題は
「モア・ザン・ア・フィーリング」という。


村山が
本気でこの曲を愛し抜いたのなら
彼の理解は
原詞にまでとっくに及んでいたんじゃないのかな。


ひとつの気持ちじゃ伝えきれない何か。
あるいは
無理矢理、意訳(誤訳気味)すれば
多感。


抱えきれないくらいの思いを持って
生まれてしまった人間は
どうやって強く生きてゆけばいいのか?


3月のライオン」で描かれている物語にも
その感覚は通底しているように思うのだが
どうだろう。


まあ、それは
例によって脱線した
ぼくの勝手な了見。


南Q太「ひらけ駒!」にも
「聖の青春」は登場する。


第8話「ママの好きな棋士」。


ここにも
動かされてしまったひとがいた。