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なにかあり/とくになし

背中合わせ

レイハラカミさんとは
まったく面識はないのだが、
一度だけ
中合わせに座ったことがある。


3年ほど前の秋、
渋谷のクラブクアトロ
キセル/レイハラカミ/二階堂和美という顔ぶれのライヴが
カクバリズム主催で行われた。


ぼくはそのとき
ハラカミさんの演奏を
はじめて生で見たのだ。


ひとの意識をふわっとどこかへ持ち去ってしまうような
美しく揺れる電子音を奏でておいて、
MCになるといきなり
もさっと垢抜けしないおっさんの口ぶりになり、
「じゃ、やります」と
ぼそっと宣言して曲に入っていった。


どんな曲でも
必ず「じゃ、やります」というのが
生真面目なのかネタなのかつかめない感じも
可笑しかった。


ただの繊細なひと、というのとは
またちょっと違う。
地に足はつけたままずんずんと
世をおもしろくさまようことをおそれないひと、という印象がした。


二階堂和美さんのライヴで
ステージに呼び出され
歌と電子音で
ふたりが「思い出のアルバム」を演奏したシーンは
いまだに忘れられそうにない。


その夜のライヴのあと
打ち上げの席で
偶然にもハラカミさんと背中合わせに座ることになった。


うしろを向いて
なにか話しかけようかと
ひどく意識してしまったが、
まるで面識がないわけだし、
ぼくの意気地なしが発動して、
結局そういうタイミングは訪れなかった。


ニカさんたちと
楽しそうに
ゆったりと打ち解けて話すハラカミさんの声を背中で聞きながら、
このひとと
こういうふうにくだらないことを話せたら楽しいだろうなあ、
でもまたきっとどこかで
お会いすることがあるんじゃないかなあ、と
勝手に思って済ますことにしたのだった。


その
またどこかで会えるかもしれないというような
人間的な希望をはらんだ感覚は
ハラカミさんの電子音にも
深くにじんでいるものだった。


2005年のアルバム「Lust」に入っている
細野晴臣カヴァー「終りの季節」は
ハラカミさんのベスト・トラックのひとつだろう。


あの
思慮深いそっけなさとでも言うべき
不器用でやさしい声で歌われる歌を
もっと聴いてみたかった。


前に飼っていた黒猫が死んだとき
ぼくは
この「終りの季節」を
とにかく繰り返しよく聴いた。


たった一度の顔合わせ、
いや、背中合わせで
えらそうなことを書いて恐縮ですが、
こんなぼくからも
ご冥福をお祈りします。