mrbq

なにかあり/とくになし

夜のさっちゃん

平賀さち枝の「さっちゃん」という傑作アルバムには
冬から春への景色の移り変わりを
色濃く下敷きにしたようなところがあり、
暑い夏には向かない気がして
しばらくしまっておいた。


ところが
こないだの台風以来
ぐずついた涼しい日が続いているので、
出かけにひさびさに聴いてみることにした。


原稿を書き終えて
ぐちゃぐちゃした頭を掃除するのに
平賀さんの声は
とてもよく効く。


可憐としか言いようがない歌声と
訥々とみずみずしいギターもいいのだが
字余りをおそれない歌詞が
素晴らしい。


ある雑誌でのレビューには
初期のジョ二・ミッチェルを思わす字余り感と書いた。


もっと言うと
日本語にはもともと字余りという宿命があり、
手習いに川柳などを詠んでみると
その字余りがもたらす余韻に
妙な快感がある。


余ってしまったのに気持ちよいのは
「言ってしまった」という気分がもたらす
妙な爽快感ゆえだろうか。


夜の帰り道も
ひきつづき平賀さち枝を聴いた。


大好きな「1月の汽車」から。


街灯の明かりもすくない脇道に入ると
彼女の歌は
すこし表情を変える。


舌足らずな愛らしさでふわふわと聞こえていたものが
ぼくの心の無防備な部分に
ぐっとしなだれかかるように
歌と言葉を寄せてくる。


うまく言えないが
彼女が口にする「あのひと」は
浅川マキが若いころに歌っていた「あのひと」の語感に
近い気がするのだ。


声の低さも全然違うのに
きっとふたりは他人じゃない。


ぞっとするほど耳に近づく「眠ったり起きたり」が終わって
ラスト・ナンバーの「高円寺にて」へ。


この曲なんか
浅川マキの「ブルー・スピリット・ブルース」に
入っていたっておかしくないよ。


浅川マキが平賀さち枝を歌う、
そのまぼろし
頭が占領されそうなころ
早稲田通りの明かりが見えた。