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なにかあり/とくになし

フリート・フォクシーズを、ここで、今日。その8

フリート・フォクシーズのライヴを見ながら
フリート・フォクシーズに酔いしれずに
フリート・フォクシーズのことを考えているというのは
ちょっと不健康だ。


演奏している彼らを目の前に見ているのに
音と聴き手との素晴らしい関係は
ぼくの頭のうえを通り過ぎて
歌と合唱のコール&レスポンスで結ばれている感じ。


つまりそれは
今この場所に来たのに
ぼくがこの音楽に対しているべき場所を
見つけられていないということなのか。


この“全体感”のなかで
ひとりで音を聴いている
ぼくみたいな人間にも触る音を探しているということなのか。


「ウィンター・ヒムナル」がはじまると
そのボルテージは一段と高まり
教会全体が大きなクワイア(合唱隊)に包囲されたようになってしまった。


神なき時代のレリジャス・ミュージック
なんて、
そんなたとえは
われながら安易すぎるよと自問自答する。


そして
そのころになって
彼らのステージにないものが何なのか
ぼくは気がついた。


モニターだ。
ロック・バンドのライヴには欠かせない
足下からバンドの演奏音を演者に返すモニター。
それらがいっさいないのだ。
だからステージは
まったいら。


彼らはひょっとして
モニターなんかいらないくらい
音のコントロールを知り尽くしているわけ?


いや、
注意深く見ていたら
全員の耳にイヤー・モニターが装着されていた。
そうかそうか
そりゃそうだよね。


でも
走り回ったりするアクションの多いバンドならともかく
ほぼ不動のまま演奏を続ける彼らには
イヤモニである必要は
それほどおおきくないんじゃないのか?


それとも
もしかしてこれは
モニターなんか存在しなかった時代に
裸の舞台で
あるいは原っぱで演奏をしていた音楽家たちを夢想してみせる
ある種の“擬古”的演出のひとつだろうかとも思う。


そうなれたらいいが
彼らはそこまでは至っていないという
人間っぽさの現れのようにも
ぼくには映った。


ちなみに
人間らしさという意味では
曲間に舞台の上でしゃべるのは
リーダーのロビン・ペックノルドと
ドラマーのジョシュことJ・ティルマンのみ。


他の4人は
本当に黙々とたたずみ
粛々と楽器を持ち替え
演奏を続ける。


セカンドから正式に加入したティルマンは
あとから来たキャラにもかかわらず
バンドのなかでの
ちょっと横柄なツッコミを担当しているようなところがある。


ドラム椅子にあぐらをかいて
ふてぶてしくロビンのMCにちゃちゃをいれる
彼のワルガキっぽさは
ぼくにとっての助け舟でもあった。


正直
彼がいなかったら
あまりにすべてがストイックすぎて
気詰まりを起こしてしまっていたかもしれない。


それはきっと
まだ見ぬ音楽を求めて
祈るように音を重ね続ける
この完璧に組み立てられた音楽に対して
ようやく見いだした突破口でもあり。


もっと言うと
この完璧に組み立てられた音楽が
ただ単に完璧に組み立てられただけの
現代的な情報回路の産物であってほしくないという
ぼくの本心でもあり。


自分がどういう音楽を担っているのか
知りもしない男の子のように屈託なく笑うロビンと
「そんなおまえ(ロビン)にはだまされないぞ」とからかう
不敵なティルマン。


そのやりとりから
空気がすこしほころんでゆく。


ああ、よかった。
人間はいたよ、やっぱり、という実感。


そのあたりからだろうか。
緊張が解けたかのように
ようやくぼくは
フリート・フォクシーズに本気でまどろみはじめた。(つづく)