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なにかあり/とくになし

フリート・フォクシーズを、ここで、今日。その9

フリート・フォクシーズを見た。
見ておく必要があると思ったから
頼まれもしないのに
思い切って大枚はたいた。


結論から言うと
いわゆるロック・コンサートを見て
あれほどいろいろ考えた体験は
近ごろほかにはなかった。


そういう意味では
ぼくはあの日のコンサートを
間違いなく楽しんだのだ。
そして今も
やっぱりまた見たいと思っている。


急におとなになってしまった
頭でっかちの子どものような部分を
彼らが持っていないとは言わない。


ヨ・ラ・テンゴにも
ベックにも
ウィルコも
あるいは
ホワイト・ストライプスにもあった
経験値というか
生傷の分だけ大きくなったような匂いが彼らにはほとんどないから、
昔ながらの
コンプレックスを通じてロックを拡大解釈するような聴き方では
よけいな混乱をするだけだろう。


逆に言えば
いろんなことを知って生まれてきてしまった分だけ、
彼らの本能は
人生のように痛みをともなって傷つくことを
大樹のように朽ち果てることを
これからの未来に求めている。


そして
そういう思いが
彼らを熱狂的に受け入れている欧米のリスナーたちが
共有しているかもしれないという気は
確かにするのだ。


彼らに影響を与えた
遠い時代の音楽があって
そうしたルーツに対する興味や好感を
時代とドンピシャリで共有しているのだという答え方はある。


それも間違いではないだろう。


でも
この大昔めいた演出を持つ未来の音楽に、
豊かな記憶とともに
ゆっくりと年老いてゆく老人のような自分の姿を重ねて見たい、
という欲望のほうが
ぼくにはしっくりくるのだ。


だって
現代的に言えば
ゆるやかに朽ち果てたいという欲望は
“生き急ぐ”ことより
たぶん、はるかに青臭いものだから。


コンサートの最後に歌われたのは
「ヘルプレスネス・ブルース」だった。


ユナイテッド・パレスを出てからのこと。
ぼくとツマとで
今見たばかりのフリート・フォクシーズのライヴについて
ちょっとした口ゲンカがあり、
お互いに不機嫌な顔で地下鉄に乗り込んだ。


目も合わせないふたりの前に座ったのは
中学生くらいだろうか
おさない感じの女の子ふたり。


ひとりの女の子が
たいせつそうに抱えていた紙をぱらっと広げて
もうひとりの彼女が「きれいね」と
うっとりとした顔をした。


それは
会場で売っていた
フリート・フォクシーズのポスター(宗教画風のイラスト)だった。


彼女たちが生きる未来への手掛かりが
その画とその音のなかにあるかのように
ふたりは熱心に一枚の紙きれを眺めては
今日見たライヴのことをささやき合っていた。


なんてマニアックな娘たち!


「マニアック」という言葉から
「マン(man)」を引っ張り出して言えば、
なんて人間っぽい娘たち!


その姿があまりに愛らしかったので、
ぼくたちもついつい笑って
いつの間にか喧嘩のことはどうでもよくなっていた。(おわり)