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なにかあり/とくになし

カデンツァなんか知らない

ようやくたどりついた「Get back, SUB!」のおしまい。


すでに
著者、北沢夏音さんが書かずにはいられなかった
“長いあとがき”までは読み終えていた。


さらにそのあとに
もうひとつ濃いコーダが待ち構えていることは
わかっていたのだが
ひと呼吸を置くことにした。


というわけで今朝、
朝風呂につかりながら
「Get back, SUB!」の末尾に配された
草森紳一「跋」を読んだ。


この文章は
もともと「クイックジャパン」連載時に
2回に分けて掲載されていたもので
そのときに読んでいるはずなのだが、
案の定
見え方も
身に入ってくる浸度も
全然違うものになっていた。


連載時は
趣のある回想文として感心するのみに終わっていたものが、
こうして長大な一冊の末尾に置かれることで
見事にカデンツァの役割を果たすものになっていた。


さて
カデンツァだなんて
さもわかったふうなことを書いているが、
この言葉が
ぼくの身についたのは
そんなに昔のことじゃない。


かつて
「リズム&ペンシル」のジョナサン・リッチマン号で
博多ジューク・レコードの松本康さんが
ジョナサンをカデンツァ(のような存在)だと
するどくたとえていた。


その原稿をいただいたとき
「ステキ! でも“カデンツァ”って何?」と思った。


その体験がなかったら
今もたぶんよく知らないままだったろう。


クラシックの協奏曲における
ピアノやヴァイオリンが
楽曲の最後に
無伴奏でつける即興によるコーダをカデンツァという。


ジョナサン・リッチマン
具体的にこういう曲のこういうところがカデンツァだと指すのではなく、
ジョナサンのライヴにおける
先の読めなさとエレガントさの奇妙な共存がもたらすあとあじ
松本さんはそのひとことでさらってみせたのだ。


ぼくの実感しているカデンツァなんて
ひょっとしたら勘違いもいいところであり
クラシックに精通したひとからしたら
寝ぼけた言い草もいい加減にしろと言われるのがオチかもね。


でもね、でもね、
草森紳一「跋」がもたらすあとあじ
うつくしい乱調を
ぼくは
こじつけてでもそう言いたい気持ちになったのだ。


小島素治という
稀有で奇特で正体不明な雑誌人の
人生の終わりからはじまったこのストーリーを
重厚に締めくくるのではなく
つづきへと解き放つように終わらせる、という意味で
これほどかっこいいカデンツァはないって。


個人を追想する
せつなさ
さびしさもあるが
身勝手さへの共感と
発語の風まかせなスピード感に圧倒され
ぼくの心は千々に乱れた。


そのときぼくは
カデンツァという気取った音楽用語に
ふさわしい日本語訳を見つけた。


感無量って言うんだろ、きっと。