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なにかあり/とくになし

12年目のジェイク その2

昨日、
1999年12月、
ぼくは駆け出しのライターだった、と書いたが
思い返してみると
駆け出していたのかどうかもちょっとあやしいところがある。


この年の1月、
「リズム&ペンシル」の創刊号を出し、
5月にはNRBQのライヴのためにパンフレットを作った。


でも
一般音楽雑誌での仕事は
まだまともにはじめていない。
ハイファイ・レコード・ストアでも
まだはたらいていない。


きっかけは
99年の11月、
ニューヨークのバワリー・ボールルームで見てきた
NRBQの30周年記念ライヴの記事を書かせてくださいと
ミュージック・マガジン」編集部に
売り込みに行ったことだった。


そのときに
「今、湯浅学さんがずっとサン・ラーの連載をやっているから
 まず、そこにアーケストラの最新ライヴを見たことを書いてみては」
という話になり、
まず半ページだけサン・ラーのコラム記事を書いた。


それが11月の出来事で
12月売りの号に掲載されたはずだから、
ジェイクに取材した12月の時点では
ぼくのライター稼業は
まだ半ページしかはじまっていなかったことになる。


いやほんと、
それだけしか実績がないのに
「どこかの雑誌に必ず発表します!」と
よくもまあ大見得が切れたものだ。


ところで
そのNRBQの30周年コンサートには
ジェイクも参加していた。


ジェイクが登場したとき、
彼を囲んで
全員がマイク一本に集まり、
ア・カペラで素晴らしいドゥワップ・コーラスを聴かせてくれたのだ。


その一瞬で
1950年代のストリート・コーナーに端を発する
ニューヨーク・ポップスの豊かな歴史を体現し、
吹き抜ける風のように彼は舞台袖に去っていった。


結局
彼の出番はその一曲だけだったが、
マジシャンズ〜バンキー&ジェイクの
あのジェイク・ジェイコブスが健在であるということだけでなく、
今なお
あの時代のムードの最良の部分を
失わずに生きているという事実に
ぼくはしびれた。


来日公演のついひと月前に
そんな感激も味わっていたものだから
よけいに
ジェイクに会いたい
今どうしても会いたい
という気持ちが高まっていて、
われながら無謀な交渉に臨めたのだろう。


コンサート・ホールの舞台裏にある簡素な楽屋で
革張りの長椅子に腰掛けたジェイクに
ぼくはまず
そのときの感激を伝えた。


ジェイクは
あの客席に日本人がいた(ぼく以外にも数人)という事実に
単純にびっくりしていた。


ついでに
このひと月ほどの間
ぼくを悩ませ続けた疑問を最初に問うことにした。


「ところで
 あのときあなたがNRBQのメンバーと歌ったのは
 なんて曲なんですか?」


ぼくはそのときまで
その曲をジェイクのオリジナルかなと思い込んでいたのだ。
ジェイクは
ぼくの質問を訊くとうれしそうに笑った。


「ああ、あれね。
 あれが好きかい?」
「ええ、とても」


では、ご紹介します。
NRBQとジェイク・ジェイコブスが
1999年11月のニューヨークで歌った最高のナンバー!


ジ・エルドラドスの
アイル・ビー・フォーエヴァー・ラヴィング・ユー」!


もう一回、つづく。