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なにかあり/とくになし

バブス・ゴンザレス自伝を勝手に訳した。その3



 バンドはニュー・ヨークに到着。みんなにお別れをいうときがきた。“ミスター・ランスフォード”からは、次の休みにも巡業に連れてってくれるという約束と、今後のおれのビジネス展開についての提案もいただいてね。


 “ニュー・アーク”に戻ると、おれは“舳先”を定めた。新しい先生を見つけて、引き続き音楽の勉強にいそしむことにしたんだ。“コード”について真面目に学び、金曜と土曜には“パンチョ・ディッグス”って野郎とコンビでギグにありついた。パンチョは今ではニュー・アークの地元ミュージシャン組合の代表をやってる。おれたちはニュー・アーク周辺の“レッド・バンク”に“トレントン”、“パターソン”あたりをつるんでプレイした。さらに、知り合いを集めて8人編成のハコバンを結成し、“ロス・カサノヴァス”って名前のクラブを自分たちで開けた。それから一年間は、他のいろんなクラブのダンス・ショウにも顔を出したよ。おれたちの仕切りでミスター・ランスフォードからショウをやりたいって声ががかかる頃には、もう万事ゴキゲンになってたものさ。


 大きなダンス・ショウは、いつでも白人たちがスポンサーになって開かれていたから、“ジミー・ランスフォード楽団”のショウが、16歳と17歳の黒人のガキどもの仕切りで行われると知られると、“とどめの一撃”とばかりに話題沸騰だ。ミスター・ランスフォードは、ニュー・アークのショウだけにとどまらず、アトランティック・シティとアズベリー・パークのショウの権利もおれたちに譲ってくれた。三日間のショウでの上がりは7500ドル。経費を精算し、8人で1600ドルを分け合った。おれたちの仕事ぶりは評判を集め、今までに手にしたこともない大金を手にした。何より、つるんで旅をすることを楽しんだ。


 1939年には、黒人はダウンタウンの劇場ではいまだにバルコニー席に座るよう追いやられていた。“白人ども”がこしらえたそんなルールは変えちまえ。何人かの支配人連中と話し合いをしてみたが、“賢い黒人ちゃん”だとばかりにおれらを一笑に付すだけ。ある日曜日、満員の劇場で、おれたちは別々のバルコニーでいっせいに立ち上がり、火事だと大声で叫んだ。こいつを一ヶ月の間、毎週続けたもんで、そのうち黒人もオーケストラ席に座れるようになっていったというわけ。


 “おまわり”連中には、いったい誰がこの騒動の火付け役なのか皆目見当が付かない。だが、黒人たちはちゃんとお見通しで、おれたちのショウには、いつでもあったかい声援があったものさ。


 “スケートランド”っていうクラブで、毎週の演奏をすることになった。このクラブはおれのママの大家であるユダヤ人の経営だった。やつはひと晩の演奏にひとり3ドルずつ払ってくれた。ということは、8人いるんだから合計24ドルだ。おれたちは人気があったから、65セントの入場料で400人の客が集まる。もっとギャラをくれとお願いしたら、力づくでおれたちを脅かしてきやがった。そんなの屁でもない。おれたちは若くて、ワイルドで、生意気だった。


 おれたちをクビにして新しいバンドを雇ったが、それから毎晩、クラブの前に詰めかけて抗議してやったんで、クラブに入るのは“アンクル・トム(訳注・白人にこびを売るおべっか黒人)”がわずかばかりという閑古鳥。三週間後、ひと晩5ドルのギャラで戻ってきてほしいと泣きついてきた。ただし、“パンチョ”は、ミュージシャンズ・ユニオンに入っていたんで別枠の契約になった。“パンチョ”は白人にも見える肌の色だったからユニオンに入ることができたんだ。ユニオンの連中はあとで彼が黒人だとわかったんだが後の祭り。そのおかげでのちにおれたち全員ユニオンに加盟できたというわけ。


 この年はずっと“ジャージー”一帯で、くまなく演奏し続けた。女の子に俄然興味が湧いてきたのも、このころだったね。週末になれば必ず30人ばかし、この州のあちこちでお付き合いさ。自分の部屋を持ってたおかげで、親に邪魔されることもない。女の子たちとキャッキャ言いながら買ったばかりのレコードを聴いたりしてね。


 1940年。おれたちは白人向けのダンス・ホールでも仕事を始めた。映画館での座席差別はもう廃止されていたが、“ウォルドーフ”風のカフェなんかでは未だに黒人たちは相手してもらえなかった。“ジャージー”では午前2時にはすべてのクラブは閉まることになっていたんで、それから朝飯を食べることのできる場所は、ダウンタウンのカフェしかない。六週間ほどして、おれとふたりの同僚ミュージシャンは“白人娘”と付き合うようになった。白人の女の子と一緒に朝飯にしゃれ込むことで、この問題を解決するわけだ。支配人が出てきて、黒人の注文は受けられないとか言い出したら、彼女たちに注文させる。食事とお釣りを受け取らせて、それを分け合って食べるわけ。そのいっぽうで、学校中から100人くらい希望者を募って、カフェの前で二週間ほど抗議のデモをした。結果、オレたちはオートマット(訳注・小銭を入れて小窓から食事を取り出すシステムの自動販売食堂で、1930年代のニュー・ヨークで流行した)の店内で食事をする権利を勝ち得たんだ。


 同じころ、友だちの“ボビー・プレイター”が“ジャージー・バウンス”って曲を書いていた。おれがニュー・ヨークによく出かけてることをやつは知り、分け前をやるから有名なバンドにこの曲をレコーディングさせてくれよと頼み込んできた。ちょうど“チャーリー・バーネット”が街にやって来たんで、彼にアプローチしてみた。すると、来週リハーサルがあるから、そのときまでに編曲しておくとのお答え。リハの日、おれは午後2時には早々とスタジオに到着した。有名なアレンジャーが4人もいる。“ジミー・マンディ”に“ビリー・メイ”の顔も見えた。だがそのときはもうリハは終わっていて、ミュージシャンたちもお疲れのご様子。おれなんかには目もくれなかったんだ。半年後、“ベニー・グッドマン”がツアーの最中に“ボビー”とたまたま知り合って、それがきっかけでこの曲がレコーディングされた。そして、あっと言う間にミリオンセラーの大ヒットさ。何年かして“バーネット”と偶然再会したとき、彼はべろべろに酔っぱらっていて、ヒット・レコードを一枚しくじったのはおまえのせいだとか、あらゆるやつらの名を挙げては怨み節を投げつけていたね。


(つづく)