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なにかあり/とくになし

空飛ぶ円盤に姉が乗ったよ

 左まぶたの上に傷あとがある。
 いつからなのかは知らない。気がついたときにはもうあった。普段は皮膚の色に同化しているんだけど、汗をかいたり、気持ちが高ぶったりすると、すっと紅い斜めのすじがまぶたの上に現れる。
 その日も、鏡をじっと見ていた。髪を切りすぎたんじゃないかと、女の子でもないのに気になっていた。
 ちっちゃなころから通ってる床屋のじいちゃんは、無口で動きに無駄がない。腕は確かなんだろう。だけど、こっちのリクエストを聞いてくれたためしがない。「おまえの頭のことはおまえよりずっとわかっているよ」といわんばかりの朴念仁。でもおっちゃんは世の中の小学6年生が、本当はどういう髪型でいたいのかについては、何にも知らないよね。
 「その前髪を、そんなに切らないでください」っていえたらいいのに。
 恥ずかしさがあるからだろうか、髪を切った日はまぶたの傷がいつもよりちょっと紅くなる。


 「また鏡見てんの?」
 バタンとドアが開くなり、つっけんどんな声がした。開いたドアからやかましく音楽が流れ込んできて、悩める少年がじとっと積み重ねていたこの部屋の空気のかたまりを散らかしていく。そしてそこに仁王立ちしているのは、姉だった。
 「モテたいの?」
 「ちがうよ」
 「ニキビ?」
 「あるけど、ちがうよ」
 そういえば、姉とはまだこの傷の話をしたことがなかった。何年か長く生きている姉なら、なにか知ってるかもしれない、この傷のこと。
 「気になるんだよ」
 「なにがさ」
 「この傷のこと」
 「傷?」
 「左のまぶたに、あるじゃんか」
 「ああ、ああ、それね」
 「消えない傷だもん。小さいときに転んでケガしたとか」
 「その傷ね。確かに消えないわね」
 「なにか知ってるんでしょ?」
 「う、ううん」


 姉の返事は肯定の「うん」とも否定の「ううん」とも取れる感じだったが、直感的にわかった気がした。姉はなにかを知っているんじゃないか。そして、なにかを隠してもいるんじゃないか。


 「こっちにいらっしゃい」
 しばらく妙な間を置いてから、姉の部屋に誘われた。
 姉の部屋に入るのはひさしぶりだった。すこし年は離れてるけど比較的仲良く育った姉弟だったし、ちいさいころは取っ組み合ってけんかもした。その空気が急に違った感じになったのは、姉が中学に入ったころから。それまで閉じられることのなかったドアが閉まり、知らない音楽がおおきな音で聞こえてくるようになった。仲がわるくなったわけじゃなかったけど、姉と話したり、ドアをノックしたりすることが、ちょっとおっくうに感じられた。外国に旅行に行くと楽しいけど、いろいろ手続きしたり質問に答えなきゃいけなかったりするでしょ。ああいう感じ。
 そんなわけで、姉の部屋に入ったのはずいぶんひさしぶりだったけど……、入ってみておどろいた。


 ない。


 部屋のなかに、なんにもない。


 「なんにも、ないね」
 「そうね」
 あまりのおどろきに、思ったままを口にしてしまった。姉の返事は暖かくも冷たくもなかったけど、なんとなく決意めいたものを感じた。
 正確にいうと、部屋のなかにはなにもないわけではなかった。がらんとした部屋の真ん中に、ちいさなレコード・プレーヤーが一台。そのうえにレコードが一枚。さっき流れていたやつだ。今は演奏は終わって針が内側でずるっ、ずるっとスキップをしていた。
 「これからあたしがいうことをおどろかないで聞いてね。もっとも、どれだけおどろいたとしてもどうせ忘れちゃうんだけど。ただ、下にいるお母さんやお父さんに気づかれたくないから、大声出したり、呼びに行ったりしてほしくないの」
 「なにいってるのかわからないよ」
 「すぐにわかるわ」
 ばかな小6の頭にも、この光景に思い当たることぐらいはあった。


 「いえで、するの?」
 「家出?」
 「そう。不良のひとが、ときどきする。まじめな子がすることもあるけど」
 「家出じゃ、ないわ」


 そういいながら姉は、レコード・プレーヤーの針をもう一度レコードの端に乗せた。ぐしゃっとひずんだギターの音と力強い破裂音が流れ出す。姉はそのまま指をレコードの中心近くに添えて、回転をゆるめたり速めたり、止めたりはじめたりしてもてあそんでいる。


 「あなたのまぶたにある傷は、あなたのお兄さんがつけていったものよ」
 「え?」
 「あなたにはお兄さんがいたの」
 「うそだ。ぼくら、ふたり姉弟じゃないか」
 「あなたのお兄さんは、あたしとあなたがまだちいさいころ、空飛ぶ円盤に乗ってどこかにいっちゃったの。そのとき、離陸した円盤のバランスが崩れて、あなたのまぶたに傷をつけちゃった。本来なら、あたしたちにお兄さんがいた記憶はすべて消去されてしまうはずだったんだけど、あなたのまぶたに残った傷が時空の裂け目になったのかもね。あるとき、あなたの傷を眺めてたら、あたし、すべてを思い出してしまったのよ」
 「なにいってるの? ぜんぜんわからないよ」
 「わからなくてもいいの。わかったってしかたないことだし。とにかく、お兄ちゃんのことを思い出したとき、あたしは興奮した。あの円盤に乗れば、このクソみたいな世界を抜け出して、どこかに行ける魔法があるってことを知ってしまったの」
 「お姉ちゃん、頭おかしくなったの?」
 「その円盤は、あなたの目の前で今ぐるぐるとまわってるわ」
 「ただのレコードじゃないか!」
 「ええ、ただの一枚のレコード。でも、あたしの大好きなレコードよ。そのレコードをわたしたちはいつも33回転や45回転で聴いてるわよね。外国のだれかが遠い昔に決めた約束で、レコードは一分間にある一定の回転数でまわることで音楽を奏でることになっている。でも、あのときお兄ちゃんは33回転でも45回転でもない、もうひとつのだれも知らない回転を見つけ出すことができたら、音楽は聴いたことのないような響きをさせて、このどうにもならない思いと一緒に人間を乗せて飛ぶ円盤になるって教えてくれたの。それをね、さっき、見つけた!」


 そういいながら、姉はぐるぐるぐるぐると指でレコードを早回ししはじめた。レコードはきゅるきゅると聴いたこともないような音を立てて回りはじめた。それは悲鳴のようにも、エンジンを強くふかす音にも聞こえた。
 「あたしの見立てでは、その回転数は183回転と2/3ってところかしらね。じっさいのところはわからないんだけど、さっき急に音楽が変わって、レコードがふわっとね、ちょっとだけふわっと浮かんだの。コツをつかんだって思った。もう少しだってわかった!」
 姉は一心不乱に盤をまわし続けた。
 「お姉ちゃん! やめなよ」
 わけがわからなくなって、涙と鼻水があふれ出てきた。
 「強くなるのよ。わからずやかもしれないけど、お父さん、お母さんにやさしくするのよ。……あ、きたかも」
 レコードからきゅんきゅんと鳴っていた金属音めいた音が、不意にひゅるっとしなやかになって、部屋の空気がふわっと動いた気がした。するとレコードがプレーヤーからふっと浮かび上がるのが、はっきりとわかった。


 「窓を開けてちょうだい」
 「いやだ」
 「お願い」
 「いかないで」
 「今いかなくちゃダメなの」
 「どうして?」
 「やさしさに負けちゃう、常識に負けちゃう。33回転や45回転で満足する人生になっちゃう」
 「それでいいじゃないかあ! たくさん一緒に遊んだじゃないかあ! 楽しかったじゃないかあ!」
 おそるおそる高速回転する空飛ぶレコード、いや、円盤に足を乗せつつあった姉は、意を決してぐいっと両足で体重をかけた。
 「円盤には、乗ってみなくちゃわからない、のよ」
 すっくと立ち、スケボーに乗るような要領で両手でゆらゆらとバランスを取っている。
 「お兄ちゃんはここが下手だったのよね」
 「姉ちゃん、いくな!」
 「窓開けて」
 「いやだ!」
 「じゃあ、こっちで開けるまでよ」
 いつの間にか円盤は姉の意のままに動いている。姉は円盤をじょうずに乗りこなしていた。窓に手をかけたその瞬間、姉のからだに手を伸ばしてしがみついた。
 「うわあ、あぶない! あんた、今度はまぶたどころかお腹が切り刻まれるわよ!」
 「おねいぢゃんいがないでよおお」
 「ごめんね。じゃあ、こうしよう。あたしがこの先どこにいったって、毎年一回手紙を書いてあげる。あなたもお父さんもお母さんもわたしのことは忘れるでしょうけど、あたしはあなたたちのこときっと覚えているわ。ほら、今年も知らない男の人から年賀状、来てたでしょ? あれは間違いじゃなくて、きっとあたしたちの兄さんよ」
 「いがないで」
 「あと、このプレーヤーは置いていくわ。いつかあなたも空飛ぶ円盤に乗りたくなるかもしれない」
 「いがないでよお」
 「では、弟よ。グッバイ。床屋のおじさんは、世界で一番あんたの頭のことわかっていたよ」
 「ねえぢゃんんん」
 ぐしゃぐしゃになった顔に触れ、まぶたの傷をなぞると、姉は天使のように軽やかに窓を開け放ち、すうっとそのまま宙空へ。
 「宿題しろよ〜。歯磨けよ〜。風邪引くなよ〜。いい恋しろよ〜。たくさんレコード聴けよ〜」
 息をすっと吸い込んだかと思った瞬間、音も立てずに姉は遠くへと消え去ってしまった。見えなくなるまで見送るどころか、ついさっきまでここにいた余韻すら、もうあっという間にあとかたもなかった。
 ふうっと吐いた白い息が青空に消えてゆく。
 「あれ? なんで泣いてるんだっけ?」
 部屋のなかには、レコードの乗っていないポータブル・レコード・プレーヤーが、カタカタと音を立てて空回りしていた。


 「お母さあん、お腹すいたー」


  ●  ●  ●  ●  ●  ●

 
 「また、このふたりから間違って年賀状来てるよ」
 「そうなのよ。でもふたりとも住所が書いてないから、こっちから“住所間違ってますよ”って返信できないのよね」
 「へえ、でもこの女の人のほうは結婚したみたいだよ。旦那さんと一緒に写ってる」
 「間違いの年賀状も、こう何年も続いてると情が湧いてくるわねえ。まるであなたに兄さんや姉さんがいたみたいな気がするわ」
 「ごちそうさま」
 「あら、もういいの?」
 ろくに受け答えもせずに階段をのぼり、自分の部屋にしけこむ。棚から一枚シングル盤を取り出して、針を落とす。
 いつごろからか忘れたけど、お正月には必ずこの古いシングルを聴いている。父さんに「昔好きだったの?」って聞いたことあるけど、「え? それ、おれが買ったやつかなあ?」って、よく覚えてない感じだった。でも、べつにだれの持ち物だっていいんだ。どうしてなのかわからないけど、今ぼくはこのレコードが大好き。
 「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」ってレコードのこと。


空飛ぶ円盤に姉が乗ったよ
初出:森本書店27号(2015年2月)