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なにかあり/とくになし

厚海義朗、GUIRO、cero、ソロ 厚海義朗インタビュー その1

 人ごみのなかで、そのエキゾチックで彫りの深い顔を見かけて、ハッとしたのだ。


 2011年、ある5月の夜。男の名は、確か、あつみよしろう。そのときは漢字でどう書くのかすぐに思い出せず、家に帰って、あるCDで確認した。そのCDは、GUIROのアルバム「album」。あった。「厚海義朗」。難読な名前ではないけれど、PCの変換では絶対に一度では正解が出てこない。一文字ずつ丁寧に変換しなくちゃならない名前の持ち主。まるで、彼の弾く力強いベースの一音一音みたいに。



 厚海義朗とぼくは、かれこれ7年くらい前に、出会っていた。ぼくはライターとして。彼は、高倉一修という稀有な才人率いる名古屋のバンド、GUIROのベーシストとして。


 当時、GUIROの取材記事を「Quick Japan」に掲載するために、ぼくは名古屋に向かった。彼らが地元のレーベルからリリースした4枚の3インチ・シングルCDに、ぼくはすっかり魅了されていたし、アルバムの制作も準備中とのことだった。いてもたってもいられなかったのだ。


 ライヴハウス得三の楽屋で、高倉さんの取材をした。その後、GUIROのライヴが行なわれ、ベーシストとして、彼はそこにいた。無口そうに眼光するどく、GUIROの難しい曲を支えるベースを、クールに弾きこなす若者。じつのところ、「若者」とは思っていたが、彼がいったい何歳くらいで、どこから出て来た、どういう性格の人物なのか、当時はまるで知る由もなかった。うかつに近寄り難い感じがして、ひとことも話せなかったのだ。


 2007年9月に、GUIROのアルバムはリリースされ、縁あって、ぼくもコメントを寄せた。GUIROは東京でもライヴをやり、ぼくも何度か足を運んだ。この流れに乗って、あたらしい時代の音楽を作り続けていくことをおおいに期待させてくれた。


 だが、残念ながら、メンバーの脱退などもあり、GUIROは活動が不安定になってゆく。ライヴ自体が減少し、東京に出てくる機会もなくなり、ほどなくGUIROは活動を休止してしまったと聞いた。


 そのGUIROの厚海義朗を、何の前ぶれもなく、渋谷のライヴハウスの客席で見かけたのだから、おどろいたとしか言いようがなかった。その日、ぼくはデビュー・アルバム『WORLD RECORD』を1月にリリースしたばかりのceroの、ある節目となるライヴを見にきていた。そこで彼を思いがけず、見かけたのだ。


 あ、いる。なんで?


 それから2年とすこし経って、東京に出て来た厚海義朗は、さまざまなミュージシャンやバンドで活動している。OishiiOishii、あだち麗三郎クワルテッット、藤井洋平&the VERY Sensitive Citizens of TOKYO、古川麦トリオ、伴瀬朝彦バンドなどなど。いろいろな場所で会ううちに打ち解けることができたぼくは、いろいろな場所で会話をしてきた。


 2013年の半ばからはceroのサポート・ベーシストとしてステージに立つようになり、ニュー・シングル「Yellow Magus」のレコーディングにも参加した。そして、その「Yellow Magus」を聞かせてもらったとき、彼らにとっておそらくひとつのエポックとなるこのシングルで、その変化と矛先を示すための重要な役割を厚海くんが担っていることを実感し、あらためて、ミュージシャン厚海義朗の音楽履歴をきいておきたくなったのだ。



 GUIROceroの両方にすくなからず関わり、その両方でベースを弾く、ふたつの時代の厚海義朗を見ているぼくは、そのつながりを聞く資格があると思った。


 そして、GUIROceroの先には、彼が厚海義朗トリオとしてはじめているソロ活動もある。


 GUIRO(ギロ)、cero(セロ)、ソロ。まるで駄洒落だけど、本当のこと。厚海義朗の本当を聞くインタビュー・シリーズ。とりあえず第一回からはじめてみよう。


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──ずっと厚海くんに話をききたいなと思ってたんです。ひとつのきっかけとしては、今年、ceroのサポート・ベーシストとして正式に活動をはじめたということがあります。そしてもうひとつは、厚海くんが以前に参加していたバンド、GUIROのことを最近またよく思い出していたから。たぶん、ライターとしてceroGUIROの両方にがっつり取材した経験があるのは僕しかいないと思うんです。


厚海 そうでしょうね。


──それで、厚海くんがceroGUIROという、ともに得難い個性のバンドに参加することになった不思議な運命のあやも知りたいし、その両バンドをどう見ていて、どういうふうにかかわろうとしていたのか、しているのかを知りたくなって。さらに言えば、厚海義朗トリオとして最近やっているソロ活動のことも知りたいし。長くなると思いますけど、いろいろ聞かせてください。でも、まず最初に、ぼくがびっくりした話からしていいですか?


厚海 はい。


──2011年の夏前かな、渋谷のwasted timeという小さなライヴハウスceroが出たときのことなんです(2011年5月15日)。その日は、初代のドラマーだった柳(智之)くんがceroを脱退するという節目のライヴだったんですよ。


厚海 それ、ぼくも行ってましたよ。松永さんもいましたよね。


──そう! そのときに客席で、厚海くんをと話をしたんですよね。


厚海 ぼくを見かけて、話しかけてもらったんだと思います。あのときは松永さんのことは名前しか知らなくて、話をして「あ、この人が松永さんだったのか」と思った記憶があります。


──じつはその何年も前にGUIROのライヴとかで遭遇してはいたんですけどね。あいさつとかもしてなかったし。あの夜、厚海くんを見かけたときは、「理由はわからないけど、名古屋からわざわざ見に来たんだな」って思った(笑)。でも、話をして、東京に音楽をやるために出てきたんだって知ったんだと思います。あのときGUIROの厚海義朗が東京にいるということに驚いたし、それが今はceroでベースを弾いているということにも、あらためて驚かされているんです。しかも、ドラムの光永(渉)くんとコンビのリズム隊は、ceroサウンドの変化を担う重要な要ですよね。光永くんと厚海くんは、東京のインディーを変えてゆく、スライ&ロビーの東京版というか、ティンパンアレイの細野&林の現代版みたいな存在になるあもね、みたいなことを、こないだceroに取材したときも彼らと話してたんです。


厚海 いやあ、ははは(笑)。光永さんとは、本当にたまたま一緒のバンドになることが多いんですよ。


──たまたま? しめしあわせて、一緒にやってるんじゃないんですか?


厚海 ぜんぜんそんなことないです。あんまし、そんな仲もよくないし。いやまあ、わるくもないですけど(笑)


──初めて光永くんと一緒にやったのは、どのバンド?


厚海 あだカル(あだち麗三郎クワルテッット)ですね。あだカルのドラマーだった田中(佑司)くんがくるりに参加するんで辞めたあとで、光永さんが叩くようになったんです。


──まあ、そのへんの流れや相性の良さは、昔からふたりの近くにいる人たちはわりと知ってることだと思うんですけど、今、ceroのサポート・ベーシストとして脚光を浴びるようになって、初めて厚海くんの存在を知った人も多いと思うんです。なので、あらためていろいろと音楽履歴を最初から聞かせてください。まずは生年月日から。


厚海 1980年5月4日です。生まれは神戸でした。


──最初から名古屋じゃなかったんですね。


厚海 はい。中3くらいで名古屋へやって来て。音楽を始めたのも名古屋からですね。ギターは一応持っていましたけど、ちゃんとバンドをやるようになったのは名古屋に来てからです。


──どんなバンドでした?


厚海 16歳ぐらいのときにバンドメンバー募集の貼り紙を見て連絡して、当時大学生だった人たちと一緒にやってました。


──へえ!


厚海 それが最初のバンドです。そこでギタリストからベーシストになるんです。ギターのつもりで出かけていったんですけど、「ベース弾け」って言われて。ベースもいないし、「おまえはベース顔だ!」って言われたんですよ(笑)


──ベース顔(笑)


厚海 たまたまベースも持ってたんで、やることにしたんです。でも、ベースを本格的にやるつもりはぜんぜんなかったんですよ。


──相手は年上の大学生ですよね? バンド初心者なのに、躊躇はなかったんですか?


厚海 もっと軽いのりだった気がするんです。ぼくも、バンドというものをやってみたい、ぐらいの感じだったと思います。向こうだって、サークルの延長みたいなものですし、なんかぼくのことを気に入ってもらえたんですよ。


──どういう曲をやってるバンドでした?


厚海 それが……、まともな曲が本当にないバンドだったんですよ。


──どういうこと?


厚海 夜の栄(さかえ/名古屋の繁華街)とかでストリート・ライヴをよくやっていたバンドなんです。許可も取らないゲリラ・ライヴで、機材をみんなで持ち寄って、発電器まわして。でも、ちゃんとした曲じゃなくて、ハービー・ハンコックの「ヘッドハンターズ」のアルバムのなかでもコード進行が簡単な曲のパターンで、延々ジャム・セッションしたりとか。そういうことをしてました。


──それが初めてのバンド……? ジャム・バンドみたいなことなんですかね?


厚海 そうですね。ワンコードとかでひたすらやって遊ぶだけなんですけどね。でも、演奏力は結構そこで鍛えられた感じです。


──そのバンドはどれくらい続けたんですか?


厚海 そのときのバンドはやがてなくなっちゃうんですけど、ストリートで知り合った人たちとまた別のバンドをやったりしてました。ストリート・バンドでの演奏自体は、なんやかんやで4年くらいやってましたね。


──素朴な疑問ですけど、高校は行ってました?


厚海 高校はですね……、すぐに辞めました。入って2ヶ月で。そこからはバイトですね。


──で、夜になったらストリート・バンドでベースを弾きに行って。


厚海 そうですね。


──16歳ぐらいということは、96、97年ぐらいの話ですよね。そのころは自分では、どういう音楽を聞いてたんですか?


厚海 バンドに入る前は、奥田民生ユニコーン筋肉少女帯とかだったんですけど、年上の人からいろいろCDを借りるようになってからは、レッチリ、ヘッドハンターズ、スティーヴィー・ワンダー、スライ&ザ・アファミリー・ストーン、グラハム・セントラル・ステーションとかが好きになりました。





──ベースが重要な役割のバンドが多いですね。


厚海 そうですね。そのあたりから、少しずつ、ベースっておもしろいなと思うようになっていきました。18、19歳くらいには、ストリートでのつながりで紹介されて、ナイトクラブのハコバンでベースを弾いてたんです。ソウルのカヴァーばっかりやってました。名古屋にGARY'Sってソウルバーがあるんですけど、そこの系列の小さいお店です。お店のオーナーさんがヴォーカルで、ストリートで知り合ったやつがドラムで、オーナーさんの知り合いのギタリストが2人くらいいて、ぼくがベース。


──いわゆるライヴハウスにオーディション受けて出るとか、そういう経験する前に、ストリートとハコバンで場数を踏んでいったんですね。


厚海 憧れはありましたね。ぜんぜん知らない世界だったんで。ノルマとかがあって、ちゃんと曲をやって、みたいな。そういうのがまったく経験がないんです。


──しかも、厚海くんが一緒にやってる人たちは、みんな年上。


厚海 そうですね。


──名古屋のバンド・シーンとのつながりは、そのころはなかったんですか?


厚海 まだありませんね。ただ、あとから聞いたんですけど、Ettの(西本)さゆりさんは、当時、ストリートでやってたぼくを見てたらしいんですよ。さゆりさんもそのとき、別のバンドで、ストリートやってたんです。当時、話しかけてくれたらしいんですけど、ぼくは覚えてなくて。


──しかし、厚海くんのミュージシャンとしてのスタートは異色というか、新鮮ですね。そういう歩み方も世の中にはあると知ってはいるけど、インディーのシーンでは、あんまり語られることのないタイプの話だと思います。だからだったのかな、今思い出しても、GUIROで厚海くんがベースを弾く姿や、舞台後にフロアにいるのを見たときに、よくわからないけど、ちょっと怖い感じがしたんですよ(笑)。眼光もやたら鋭いし、何歳なのかわからないし、カタギじゃないようなところから出て来た人みたいに見えたんです。実際、さっきも言ってたけど、GUIRO時代の厚海くんに話しかけた記憶がない(笑)


厚海 ないですよね(笑)。GUIROとノアルイズ・マーロンタイツが対バンしたときに、阿部(広野)さんだったと思うんですけど、「なんか義朗くん見てると『仮面ライダーアマゾン』思い出すんだよね」って言われたんです。


──えー?(爆笑)


厚海 それがすごく気になって、「仮面ライダーアマゾン」の全話を見たんです。



──「アマゾン」全話!(爆笑)


厚海 そしたら、言われた意味が、よくわかりました。最初は言葉もしゃべれないやつ(主人公)が、だんだん言葉を覚えてゆく、というね。「ああ、こういうのを俺に感じてるのか」と(笑)


──確かに、今も“ブラジル顔”と、よく言われてるしね(笑)


厚海 でも、なんか主役に感情移入しちゃいました。最初は、海を泳いでわたってきたやつが、最後はタキシードを着て船に乗って帰っていきますからね(笑)


──「アマゾン」に自分をなぞらえてたのかー(笑)。知りませんでした(笑)。でも、本当にGUIRO時代の厚海くんの印象は怖かったんですよ。若いのにやたらベースがうまいとは思ってましたけど。


厚海 ベースは本当はうまくはないんですよ。ある部分には秀でてても、テクニックのバランスも悪かったですし。十代のころは譜面も読めなかったし。でも、リズムについては、ストリートの現場でずいぶん鍛えられたと思うんです。


──「現場で鍛えられていく」というのは、言葉にすると簡単だけど、その場その場の対応力が求められるわけだから、かなり大変でしょう?


厚海 どうしても自分のキャパを超えることがあるんですよ。それを何とかやらざるをえないという部分ですよね。


──ちなみに、十代のころから、音楽で食べていこうと考えてました?


厚海 莫然とですけど、思ってましたね。


──すでにそれくらいの収入があったわけでは……?


厚海 ないです。気持ちがふわふわしてたんで、莫然と思ってただけで、そこまでちゃんと考えてはいなかったですけど。


──ストリートやハコバンで出会った大人のミュージシャンは、どういう暮らしをしてました?


厚海 その日暮らしみたいな人もいましたし。詳細は載せられないですけど、やばい人たちもいっぱいいました(笑)


──いやあ、それはすごい光景見てるでしょう。


厚海 今考えたら相当やばい感じでしたね。


──ある意味、一番、濃いタイプの人間たちをキャリアの最初で見てたのかもしれないですね。


厚海 そうですね。バンドが変われば、関わる人たちもどんどん変わってゆくわけですけど、ぼくの場合は、気がついたら今は周りが高学歴な人たちになっていて、肩身が狭いです(笑)


──では、ストリート、ハコバンと来て、いわゆる一般的なライヴハウスのシーンに移行したのはいつごろで、そのきっかけはどういうものでしたか?


厚海 きっかけというより、本当に段階を踏んでいった感じなんです。ちょっと長くなるかもしれないですけど、そのあたりをちゃんと話していいですか?


(つづく)