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なにかあり/とくになし

古川麦の、遠くを近く見る 古川麦インタビュー その2

古川麦、ロング・インタビュー2回目。


いよいよ麦くんのバンド・ライフがはじまるのだが、これがまたごく普通のバンド少年の青春のようでいて、ちょっと(いや、かなり)違った感じになっているのがおもしろい。


彼が組んでいるDoppelzimmer、表現(hyogen)のスタートラインが語られているだけでなく、ceroの高城晶平をはじめ、多くの重要な人名が登場しはじめる。


まあ、前口上は短めにして、とりあえず彼の話を聞こう。


前回までのインタビューはこちら → 
古川麦の、遠くを近く見る 古川麦インタビュー
その1



古川麦ホームページ


表現(hyogen)ホームページ


Doppelzimmer ホームページ


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──前回の最後は、ICU高校の“ロック部”で、今、麦くんがやっているDoppelzimmerの前身となるバンドが組まれていたという話でした。Doppelzimmerはデュオですけど、最初はバンド・スタイルだったんですか?


麦  そうです。正確にいうと、前身というより、Doppelzimmerになる二人がいたバンドです。高一の音楽の授業で「グループを作ってなにか発表しなさい」という課題が出て、そこで組まれたんです。バンド名もあったんですけど、それは言いたくない(笑)。ちょっとダサい感じでした。



──麦くんがリーダー?


麦  リーダーはベースで、徳山くん(徳山知永)っていって、ぼくらは“トム”って呼んでました。ぼくはヴォーカルで、今、Doppelzimmerで一緒にやってる山口遥子がピアノ、あとドラムの女の子がいて。ギターレスなんです。なんでそうだったかというと「ベン・フォールズ・ファイヴをやろうぜ」という目的で集まったから。「じゃあなんでピアノ弾いて歌わないんだ?」って話になるんですけど(笑)。でも、ぼくはピアノ弾けないので。



──フリーハンドで、ピアノ弾かないベン・フォールズ


麦 はい。不思議な編成でしたけど、一応、バンドとしては成り立ってました。それが人生で初のバンドだったし。高二か高三だったかな、そのバンドで初めて学校の外に出てライヴをやるんですけど、そこで高城(晶平/cero)くんと出会うんですよ。


──おお!


麦  トムが、高城くんと中学が一緒だったんですよ。「同級生でこういうちょっとおもしろいことやってるやつがいるんだよ」って、デモテープかなにかを聴かせてもらって。「それじゃあ今度ライヴを一緒にやろう!」って話をしました。それで、吉祥寺のシルバーエレファントで対バンしたんです。


──そのときの麦くんのバンドのレパートリーは?


麦  まだカヴァーが多かったですね。最初はベン・フォールズだけやってて。だけどそのうちトムとピアノの遥子の主張が激しくなってきて、「これやろう」「これやろう」っていろいろ言いだして、フリッパーズ・ギターとか、そのころすごく好きだったCymbalsのカヴァーとかもやってました。オリジナルはちょっとだけやるようになってきた時期でした。高城くんは、もうオリジナルをやってましたね。バンド名は“cue”だった気がする。メンバーは、高城くんと、橋本(翼/ceroジオラマシーン)っちゃんもいた。あと、ドラムと、女の子がベースで。


──今振り返ると運命的な出会いに思えるけど。


麦  その時点ではまだ、“一回会って、一緒に対バンしたバンド”くらいの感覚でしたね。でも、すごくいいライヴではあったんですよ。微妙にスリーマンだったし。


──“微妙にスリーマン”?


麦  高城バンドのcueと、ぼくらだけじゃなくて、ぼくらのバンドからドラムの子を抜いて、ギター2本とピアノのアコースティック・ヴァージョンみたいにして、タヒチ80とかをカヴァーする編成でもライヴをやったんです。あと、そのころ「ボサノヴァもいいじゃん」って思いはじめていて、それはバンドとは別プロジェクトでやろうということにしたんです。


──その感じだと、わりと現在のDoppelzimmerを彷彿とさせる雰囲気ですね。


麦  そうですね。大学に進んだあたりで、ドラムの子も脱退して、バンドはトリオ編成になりました。そのうち、トムがイタリアに留学することになって、それによって残された2人でやっていくうちにDoppelzimmerになっていったんです。遥子とは流れのなかでそのままやってきたんです。だからもう12、3年になります。



──麦くんが進んだ大学は、東京芸大でしたよね。そこで、表現(hyogen)が結成されるわけですけど。


麦  芸大を受けたのは、バンド内での薦めがあったからだったんですよ。「“音楽環境創造科”っていう新しい科ができたみたいだよ。麦、受けたらいいんじゃない?」みたいな。ぼくも受ける時点では、とにかく新しい学部だってことしか知らなくて。試験も一芸系だったので、「受けてみっか」ぐらいの感じだったんですけど、合格して。



──調べてみたら、2002年に新設された学科なんですね。「21世紀の新たな音楽芸術と、それにふさわしい音楽環境・文化環境の発展と創造に資する人材育成をめざし」「テクノロジーや社会環境の変化に柔軟に対応し、領域横断的な発想を具現化できる能力を養う」とホームページには謳われています。


麦  ぼくらは、その二期生にあたるんですけど。一学年が20人くらい。校舎は茨城県取手というところにあって、ぼくは実家から通いました。取手には、美術科の一年生と、音楽環境創造科よりちょっと前に新設されていた先端芸術表現科の生徒もいましたね。


──表現(hyogen)の佐藤公哉くん、園田空也くんたちとは、その学科の同級生だったんですか?


麦  そうです。でも、一緒にバンドをやろうとは思ってなかったですね。毛色がぜんぜん違ったから。「あっちはあっちでやってるな」ぐらいの感じで。空也は入学直後はまだ九州から出てきたばかりの感があって、かわいい感じでした。公哉は、最初から「こいつはちょっとやばいんじゃないかな」って思うようなオーラを出してましたね。授業で講評会みたいなのがあるから、みんながなにをやるのかはだいたいわかるんですよ。その発表を見て「ああ、こういう人なんだ」みたいな。


──当時の公哉くんの“やばい感じ”は、たとえばどういうことだったんですか?


麦  最初の発表で、「チョップ・ザ・ディック・オフ」という自作曲を録音してきたんです。それは、アメリカかどこかのニュースで、浮気された腹いせに男のアレを切っちゃうみたいな話がもとになった歌。すごいパンクな曲でした。


──マジか(笑)


麦  でも、いい曲なんですよ。そのころの公哉はニルヴァーナが大好きだったから。


──麦くんは最初になにをやったんですか?


麦  なにやったかな?(笑)。自分の記憶があんまりないな。……ああ、そのころ、ぼくはジオラマ作りにすごくはまっていて、それを使ってライヴをするみたいなやり方を一時期研究していて。


──インスタレーションと演奏みたいな?


麦  まあ、そういうのをやりました。


──オリジナル曲で?


麦  この時点では、ソングライティングに関してはまだそんなに方法論がまだつかめてなかった。やりたいとは思ってたんですけど、「これでいいのかな?」って、疑問を抱きながらやってた感じでした。大学に入って、やっぱり「ちょっとあたらしいことしなくちゃ」みたいな強迫観念もあったから、ギターをいっぱい使ったり、パソコン使ったり、実験系にちょっと走ったりもしてましたね。


──なるほどね。なんとなく想像がつきました。もし、ぼくがその講評会の場にいても、そこにいた3人が表現(hyogen)を組むとは想像できなかったでしょうね(笑)


麦  でも、公哉から「バンドをやりたい」ということで、誘われたんですよ。そのときのバンドは表現(hyogen)ではなくて、DOGAY(ドゥーゲイ)って名前でした。そのバンドは普通にドラム、ベース、ぼくがエレキギターで、公哉がギター&ヴォーカル。わりかしグランジ寄りな感じでした。


──DOGAY? “陽気にやろうぜ”的な意味ですかね?


麦  そもそもこのバンドは、それぞれにやりたいことがあってやってたバンドだったんですよ。公哉はもともと絵を描いていて、音楽は大学に入ってから本格的にやりだしたはずだし。ベースの川村(格夫)くんは今はデザイナーで、ぼくの『far/close』のデザインをやってくれててる人なんですけど、当時の彼は左ききのベースを弾きたいという欲求があった。ドラムも、本当はダンサーの子なんだけど、ドラムが叩きたいという理由でドラムをやってた。ぼくはぼくでエレキギターはあんまり弾いてなかったから、それを弾きたいというのがあった。でも、結局1、2年くらいで自然消滅してしまったんですけど。


──DOGAYが表現(hyogen)の前身というわけではなかったんですか?


麦  まあ、公哉と一緒にやったということでは、前身といえる部分もあるとは思います。


──話はちょっと前後しますけど、この時期の麦くんとcero周辺をつなぐ重要なイベントとして〈Home&Away〉がありますよね。


麦  トムが、大学生になってから吉祥寺で定期的に始めたイベントだったんです。最初は音楽だけのイベントだったんですけど、だんだん写真家とか、建築家も呼んでいろいろやるようになっていって。ぼくらもDOGAYで出たり、ceroの前身バンドにも「ちょっと手伝ってよ」みたいな感じで出てもらったりして。トムが海外に行ってるときはぼくとceroがレギュラーみたいな感じで、いろんなユニットをやったりしてましたね。


──そのあたりのcero側の経緯は、cero『WORLD RECORD』リリース時のオフィシャル・インタビュー記事(インタビュアー:磯部涼)にわりと詳しく出ていますね。今、表現(hyogen)や麦くんの写真を撮影している鈴木竜一朗くん(写真家、フジサンロクフェス主宰)をはじめ、とも、そこがきっかけで出会っているんですよね。


麦  ceroとぼくらが対バンしたときの〈Home&Away〉で、竜ちゃんの写真の展示も一緒にやったりしたし。竜ちゃんは表現(hyogen)を気に入ってくれて、今もずっと撮ってくれてるんです。



──そういう交流のなかで、いろいろとお互いに刺激しあって変化していった部分は大きいでしょう。〈Home & Away〉にぼくは行ったことはないけど、そこで東東京と西東京の音楽文化が融合していたのかもと想像もします。そのなかで、いよいよ表現(hyogen)が結成されることになると思うんですが、最初は麦くんはメンバーではなかったんですよね。


麦  そうです。表現(hyogen)の始まりは、大学3年くらいだから、2005、6年かな、空也が「バンドやりたい」っていいだしてメンバーを集めてて、そこに公哉が入って。あと2人、別のところから集めたメンバーがいて、その4人組が表現(hyogen)の前身みたいな感じだったと思います。公哉はまだヴァイオリンは弾いてなくて、ドラマーもいました。だから今とはまだ違った感じでした。ぼくはこの時点では参加してないから、はっきりしないところもあるんですけど、初期には“貿易くん”って名前で一度ライヴしたこともあるみたいです。ぼくが入るころには表現(hyogen)と名乗るようになってましたけど。


──麦くんが参加することになったきっかけは?


麦  かなり話をはしょりますけど、表現(hyogen)の当時のギターが、「今はもう音楽やりたくない」っていって、脱退したんですよ。それで、ぼくに声がかかったんです。「じゃあ、やりましょう」と返事して、大学を卒業してからも表現(hyogen)を続けてました。そのうち、田端のビルの地下室が借りれるという話になって、たしかバンドとして借りたと思います。


──つぶれたカラオケボックスの跡地みたいなところだったそうですね。


麦  そこにceroを呼んでライヴをやったり。でも、とにかくずーっと地下室でセッションをしてましたね。そのときには表現(hyogen)は、ひとつのジャンルで決め込むんじゃなく、セッションから曲を立ち上げていくというスタイルに、もうなってました。やってる音楽も、もうロックではなかった。ぼくが入った時点でも、民族音楽とかを聴いて咀嚼した音楽になってましたし。公哉は即興音楽のコンセプトを提示していたんですよ。ぼくもそのころはジャズ的なものや、即興をテーマにしていたので、わりとそこで合致したというのはありますね。


──地下室はバンドが音をだして練習したりしてもぜんぜん大丈夫な環境だったんですよね。そういう場所があるというのは大きいですよ。他人に見られず、世間から隔離された場所で育まれる孤独な時間があるのは、どんな表現にとっても重要な要素のひとつと思います。


麦  そうですね。でも、やっぱり地下っいうのが、じめじめとした感じなんですよ。その雰囲気というのが、演奏に対してはダイレクトに反映されてましたね。みんな結構やばい感じで病んでいった(笑)。その地下室も、もう区画整理でなくなっちゃったんですけどね。




──病んでましたか(笑)。まあ、芸大は卒業はしたけど就職もしないで宙ぶらりんという感じだったんですよね。でも逆にいえばそれは、表現(hyogen)というバンドに人生を賭ける可能性というか、信じられるなにかがあったということなんですかね?


麦  公哉や空也はそうだったのかもしれないけど、ぼく自身はあんまりそういうロングスパンでは見てなかったんです。でも、とりあえず「ここで起きてることはすごいことではあるだろう」というのは思ってましたね。


──具体的に、今の形態にバンドが近づいたきっかけというのは、あるんですか?


麦  後輩に酒井幸菜ちゃんっていうダンサーの子がいるんですけど、その子の卒業公演(『ジンジャーエールを、朝』2007年、東京芸術大学千住キャンパス第7ホール)で「曲をつくって一緒に出演してください」ってオファーがぼくにあったんです。で、その演奏は、やっぱりバンドでやったほうがいいということになって、表現(hyogen)のメンバーを呼んだんです。だけど、彼女の注文としては、アンサンブルにアコーディオンが必要だったんですよ。しかも女の子のアコーディオンがいいという、はっきりした要望で。そしたら、John John Festivalっていうアイリッシュのバンドをやっていたannieくんっていう後輩が、ひとり女の子を紹介してくれて。それが(権藤)真由ちゃんだったんです。それで、真由ちゃんを加えて、公演に参加して、それからしばらくはその5人でやってました。そしたら、そのうちドラマーが「やめる」って言ってきて。



──そこで初めてドラムレスに。そして、今の形態になったわけですね。


麦  そうです。


──さっき、麦くんは「ここで起きてることはすごいことではあるだろう」と思っていたという話でしたけど、じゃあ、その“すごいこと”を、外から見て初めて「すげえ!」ってみんなに聞こえるように言ったのは、だれでした?


麦  ceroやその周囲にいたみんなもそうでしたけど、大きかったのは、あだち(麗三郎)くんかな。あだちくんが当時参加してた“俺こん(俺ははこんなもんじゃない)”も田端の地下室でのライヴに呼んだことがあったんですけど、あだちくんと公哉は、そもそも別のところですでに知り合っていて。


──そうなんですか! あだち麗三郎人脈おそるべし。


麦  あだちくんは、表現(hyogen)をかなり高く評価してくれましたし、彼の紹介で「東京の演奏」周辺ともつながりができていったんです。あ、あともう一個思い出した。2008年に酒井幸菜ちゃんが結構大きな公演をやるという話になって、また表現が音楽担当で呼ばれて、かなりがっつりとコラボレーションしたダンス作品をつくったことがあったんですよ(ミツスイの逃走団『脈拍』川崎市アートセンター/2008年7月5日、6日)。そのときは、あだちくんも真由ちゃんも参加して、6人編成でやったんです。それを高城くんや竜ちゃんも見にきて、「これはやばい」みたいな話になったんじゃないかな。



──かくして、表現(hyogen)への注目がすごく集まっていったと。


麦  表現(hyogen)のセカンド・アルバム『旅人たちの祝日』(2010年)を作るくらいの時期は、みんながぼくらのやってることに驚いていた感じはありました。アルバムも、あだちくん周りも巻き込んで、いろんなミュージシャンを呼んで録ろうみたいな流れになっていたし。ちょうどceroもファースト・アルバムの『WORLD RECORD』を録音してる時期だったんですよ。このときceroと表現(hyogen)で録音を共有しているんですよ。合唱パートを録るにあたって、ぼくらの側でも使ったし、cero側でも使った。たしか「(I Found It) Back Beard」かな。


──「あののか」や「小旅行」にも使われてるみたいですね。では、今回はここまでにして、次からは、その後の活動にも触れつつ、いよいよシンガー・ソングライター古川麦の話をしていきましょうか。



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Tokyo Loco magazineでの岸田祐佳さんのインタビューもあわせてどうぞ。
とてもおもしろいです。


台湾から渋谷WWWへ。古川麦『far/close』ツアー


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そして3月17日はこちら。



2015年3月17日(火)OPEN 19:00 / START 20:00
会場:東京・渋谷WWW
料金:2,800円(前売/税込・ドリンク代別)/3,300円(当日/税込・ドリンク代別)