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なにかあり/とくになし

古川麦の、遠くを近く見る 古川麦インタビュー その1


古川麦(ふるかわばく)と初めて会ったのは、いつだったか。


たぶん、阿佐ヶ谷のRojiで、女性シンガー・ソングライター野田薫の帰国記念ライヴ(wあだち麗三郎)が行われた晩。ということは、調べてみたら2012年4月28日。


その日、ライヴ本編が終わってなんとなく打ち上げ的な雰囲気になっているところに、佐藤公哉くんと麦くん一緒に現れて、4人くらいでいきなり演奏を始めた。それが、ぼくにとっては不完全なかたちでの表現(Hyogen)との出会いでもあった……と思っているんだが、もしかしたらその前に会ったことがあるかもしれない。


初めて話したときの印のほうは、もっと鮮明だ。それは彼が、初対面なのに物怖じもしないで、はっきりと話をする男だったから。「今度表現のライヴがある」と教えてもらって、四谷の喫茶室に見に行った。それは表現のアルバム『琥珀の島』の壮行会的な、特殊なライヴだった。


ほどなく、麦くんの初めてのソロCDである『Voyage』を、ひょんな縁から聴き、シンガー・ソングライターとしてもすごい才能があると知った。国際的というか規格外というか、それでいて、聴き手を圧迫してしまうようなところがない、旅を感じさせるような音楽だった。


以来、表現やサポートでときどき参加しているceroの舞台裏や打ち上げなどで会うたびに麦くんとはしょっちゅう話し込んで……と言いたいところだけど、じつはそうでもない。ただ、これだけはいえる。ぼくにはずっと気になる存在だった。


昨年、初めてのフル・アルバム『far/close』が発売されたそのタイミングで「インタビューをしてほしい」と頼まれた。


でも、じつはもうずっと前から、ぼくには「古川麦をインタビューしたい」という気持ちがあったのだ。


というわけで、今日から古川麦ロング・インタビューをお送りする。全3回くらいの予定。はじまりは「こんな小さいころの話まで聞くんですか?」と呆れられたくらいの遠い昔話から。


所要時間としては珈琲2杯分。でも、ぼくとしては結構時間を忘れたインタビューのひとつだ。




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──アメリカ生まれなんですよね?


麦  はい一応。生まれただけですけど。すごく断片的な記憶はあるんですけど、がっつりと「ここで暮らしてた」みたいなものはないです。


──アメリカのどこにいたんですか?


麦  バークレーってところです。


──サンフランシスコから橋を渡った大学街ですね。お父さんの仕事で?


麦  そうですね。両親ともに日本語教育関係の仕事をしていて。


──断片的な記憶というのは、風景とか?


麦  本当にどうでもいい記憶なんですけど、ぼくがハイハイしてるころに家の階段から落ちたことがあって。そのときの記憶はまざまざとありますね。落ちていく自分という実感はちょっとわからないけど、落ちたときの映像なんだなというのは自分の記憶にはあるんです。ふかふかの絨毯で、それがアメリカっぽいといえばそうなのかな(笑)



──じゃあ、物心つく前にはもう日本に戻っていて。


麦  うん、でも、そのあとも何回か行ったり来たりはしてるので、そういうときの記憶とかをつなぎあわせての“アメリカの記憶”みたいなのはあるんですけど。


──その“行ったり来たり”はいくつぐらいまで?


麦  4、5歳くらいまで、ですかね。アメリカに行くといっても一年単位とかじゃなくて、一週間とか一ヶ月とかその程度でしたけど。



──自分は“どこの子”だって認識してます? つまり“東京っ子”とか、そういう意味で。


麦  そういう感覚はぜんぜんないですね。もともと埼玉のほうだったんで、埼玉の人はあんまりそういう感覚はないんじゃないかな(笑)。ある人はあるのかもしれないけど、ぼくはあんまり土着の感覚はないですね。


──記憶で覚えてるなかで一番古い音楽は何ですか?


麦  それは、ちゃんとあるんですよ。たぶん、アメリカで林道を車で走ってて、ラジオから「コーリング・ユー」が流れてたんです。映画の『バグダッド・カフェ』(1987年)の。その当時、アメリカで公開したんで流行ってたんだと思うんですけど、それを聴いて、ゾワッときたというか、その感覚が忘れられなくて。あとあと音楽をやるということでも、その感覚がずっとある。



──“ゾワッ”ときたんだ。


麦  結構それはずっと残ってました。でも、それはその時点ではあくまで“点”でしかなくて、すぐに楽器を触りだすとかじゃないんですけど、小学校に入ってから、歌うのは好きでしたね。校歌とかを一所懸命歌うくらいですけど(笑)


──家に楽器があったり、音楽好きな家系だったとか、ではなかったんですか?


麦  ピアノがおばあちゃん家にありました。たまに父親がそれでポロポロと、ちょっとジャズっぽく聴こえるような感じで弾いたりしていて。「へえー」って思ってました。車では、サイモン&ガーファンクルとかよく流れてましたね。たぶん、それは親が好きだったから聴いてたんだと思うんです。それから、ドリカムとか。親父は大学時代にジャズ研とかにいたクチだったんで、ジャズも聴いてました。あと、両親ともに大学の邦楽の研究会というのに入っていて。


──邦楽? J-POP的なものではなく、純邦楽のこと?


麦  そうです。邦楽研究会じゃなくて、長唄研究会でした。そこで出会ったので、ふたりとも三味線は一応弾けるみたいです。ぼくが小さいころは、わりとそういう演奏会とかに行って弾いたりしてましたね。ぼくも、そういう邦楽系のホールとかに連れて行かれて、見てました。


──音楽面以外ではどうですか? 何が好きな子どもでした?


麦  うーん。レゴ! 小学校にあがる前くらいはレゴが大好きだったと思います。


──設計図に沿って作りたいタイプでした?


麦  自分でどんどん作るタイプでした。そのとき住んでた家の仏間みたいなところに、一段高くなったスペースがあったんです。そこにその面積分のレゴの板を置いて、どんどん構築していくという、すごくぜいたくなことをやらせてもらってました。城を作るなり、ロボを置くなり。


──それは、どういう世界を作りたかったんでしょうね?


麦  どうなんだろう?(笑) 普通に宇宙船みたいなものも作ってたし、ヒーロー的なものかな。わりと印象に残ってるのは、飛行機のコックピットみたいなのが頭部になっているロボを作って、「これはよくできた」と思ったという(笑)


──レゴの世界は自分だけのものでした? 家族や友だちには見せないような。


麦  いや、見せるんですけど、あんまり友だちを家に呼ばない子どもでしたね。なんでだろう? 結構、移動が多い子どもだったからかな。


──確かに。友だちからしたら、ちょっと親しくなったと思ったら、ふといなくなっちゃう子どもみたいな感じだったでしょうね。でも、そういうなかでも、仲よくなった友だちはいたことはいたでしょ? どういうことして遊んでました?


麦  友だちね……。よく家に遊びに行ってた子はいて。いつも鼻水垂らしてた男の子。ざっくばらんとした感じの子でした(笑)。たぶん、お母さん同士が仲がよかったんですよ。当時、川口に住んでたんで、鋳物工場がいっぱいあって。そこから出る部品のかけらみたいなものを拾って削って形にして「これのほうがいい」みたいなことをしてたかな。あとはファミコンとかもしてた……。


──テレビ番組は?


麦  見てましたね。アニメも見たけど、それはもう少し後かな。小学校高学年になってくらい。


──アメリカを行き来する生活は、小学校にあがるまでくらいだったという話ですけど。


麦  親は相変わらず行き来していて、どちらかがいないという状態が結構ありましたけどね。小学校のころは、親も一緒に行くことを誘ってはこなかった。でも、小学校を卒業するときに母親がオーストラリアに行くことになって、そのときはきりもいいタイミングだし、「どうする?」って聞かれたときに「じゃあ、行こうかな」って返事したんです。それで中学の2年くらいはオーストラリアの学校に行きました。


──じゃあ、英語の覚えはそこでできたんだ。


麦  はい。あんまりオージー英語ではないですけど。



──オーストラリアでは、どの街に住んだんですか?


麦  シドニーです。都会でしたね。最初のうちは英語学校みたいなところに行くんですけど、いろんな国からやって来た、いろんな年代の子が一緒なんですよ。だから、あんまり共通の感覚もないし、結構ホームシックがあったんです。でも、あんまり日本人はいなかったんで、そこは逆によかったかな。


──わかる気がします。日本人は集いやすいから、英語で話す機会も減っちゃいますしね。思春期の一番微妙な時期をオーストラリアでそうやって過ごしたことには、何らかの影響はあったと思います?


麦  結構重要だったと思ってます。ぼくが最初に行った英語学校の後に、普通の学校に編入したんですけど、そこが結構よいところだったんです。アート教育がすごく盛んな学校で、絵画棟、木工棟、金工棟みたいな感じで分かれていたりするんですよ。さらに、音楽の授業の発展系みたいなコースもあって。


──“音楽の授業の発展系”?


麦  “ちょっとお金を出したらプライベート・レッスンが受けられます”みたいな仕組みがあって、それを選択したら、普通の授業の替わりに音楽のレッスンを受けられるんですよ。「これからボイス・レッスンがあるんで」みたいなことを数学の先生に言って、授業を抜けられるという。


──すごく特殊な学校ですね。


麦  私立ではよくあるらしいんですけど、ぼくが行ってたのは公立校だったのにそういうシステムがあったんです。ぼくはそこでボイス・レッスンを受けました。


──歌が好きだったから?


麦  そうですね。ちょうどそのころ変声期が来てて。それまでは高い声で安室奈美恵とかを歌ってたんですけど、それがだんだん歌えなくなってきて。でも、やっぱり歌いたいなと思って、レッスンを受けたんです。


──どういう授業なんですか?


麦  日本のボイス・トレーニングを知らないので比較はできないんですけど、ぼくが受けたのは、ぼくが外国人だというのものあるので、すごくこちら側の理解度をわかってくれる授業でした。歌う曲もクラシック的なもあれば、ジャズもポップスもあったし。


──細かい内容まではわからないですけど、その段階である程度しっかりしたボイス・レッスンを受けてたというのは、ミュージシャンとしての現在を考えると、かなりでかいと思います。じっさい、自分で授業を受けてみて、変化や成長を実感する部分もありました?


麦  そうですね。楽しいと思いましたし。


──そうやって音楽に向かい合う時間ができてくると、ギターとか作曲とか、今につながっていく部分もだんだん自覚的に増えていくのかなと思うんですが。


麦  オーストラリアに来て、最初はホームシックだったって言いましたけど、じっさい、引きこもりに近い感じにもなったんですよ。ゲームか漫画かぐらいしかしてない。そこで親が「ギターでもやったら?」みたいな提案をしてくれて、知り合いからクラシックギターを借りて、弾きはじめたんです。


──最初は何からはじめたんですか? スケールの練習とか?


麦  最初は歌本みたいなのを見て、コード弾き。やっぱり“歌ありき”だったんです。ギターでメロディ弾くことにはあんまり興味なくて、歌のバックでコードを弾いて「この曲のコードはこんなふうになっているのか」と学んでいきました。


──自分のなかでの適性みたいなものは感じる部分ありました? 「ギター、弾けるかも?」みたいな。


麦  うーん。そのときはギター云々というより、歌のほうが楽しかったから。ギターは伴奏で「歌えればいいや」みたいな感じでした。ただ、ギターはアコースティックがいいなという感覚はありました。


──なるほどね。


麦  学校の発表で歌うとか、それくらいしか機会はなかったですけどね。


──とはいえ、なかなかオーストラリア時代は、のちにつながる実りが多いですね。


麦  でも、それも終わって、中三の中途半端な時期に日本に帰ってきたんです。日本に帰ってきたら、まずは「部活はどうしようかな」と思いました。部活に対する憧れがすごくあったんですよ。陸上部にするか、卓球部にしようか、とか。その当時は結構長距離走に自信があったんです。だけど、いろいろ考えて、結局、吹奏楽部に入りました。いたのは一年満たないくらいでしたけど、そこでホルンをやりました。


──それが今のceroのサポートで吹いてるホルンにつながるんですね。ホルンは自分で選んだんですか?


麦  “おまえはホルンだよ”っていわれたんです。だいたいホルンって、自分から選ぶ人いないですから(笑)。最初はサックスを希望したんですけど。


──吹いてみて、どうでした? ホルンって楽器は。


麦  うん。楽器としては好きでしたけどね。吹奏楽の中だと、和音リズム隊みたいな感じで、主役ではなく後押しをする地味なパートなんですよ。あと、そのとき初めて“楽譜を読む”ということを教わりました。それまで見ていた歌本はコード譜だけだったから、中学の部活ではいろんなことに追いつくのに精一杯で、演奏を楽しんだという感じではなかったですね。


──高校でも吹奏楽部?


麦  高校は、東京のICU高校に行ったんですけど、音楽系だと部活はジャズ系のビッグバンドをやる器楽部と、クラシック系のオーケストラ部のふたつがあって。ぼくは入学してしばらくはどっちの部にも顔を出す感じでした。で、結局オーケストラ部に入ったんです。


──どうしてそっちにしたんですか?


麦  どうしてかな? 単純にホルンという楽器を持っちゃってたんで、それが活かせるのはどっちかなと考えて(笑)。部活のカラーとしては、いけてるのは器楽部で、オーケストラ部は、地味でいけてない人の集まりだったんですけどね(笑)


──ICU高校のオーケストラ部って、いわゆる名門なんですか?


麦  ぜんぜん。ぼくが入った時点では部員も10人いなかった。


──じゃあフルオーケストラ編成とかできないじゃないですか。


麦  できないですよ。でも、それがよかったんです。小さい編成ながらも、一応交響曲をやろうとしてるのが結構楽しくて。


──顧問の先生とかががんばって、そういう特殊なアレンジを用意したとか?


麦  いや、自分たちでやるんです。「ないものはしょうがない!」っていって(笑)。でも、その寄せ集め感が、すごくよかったんですよ。うまい人もいれば、すごく下手な人もいるし。


──へえ! ブライアン・イーノも参加してたポーツマスシンフォニアってオーケストラのレコードを思い出してしまった! 楽器ができない人ばかりを集めたオーケストラなんですけど。


麦  あ、知ってます。



──まあ、あそこまではひどくないと思うけど、明らかに足りない編成で交響曲にチャレンジしようっていうのは、すごいですね。6人で野球部みたいなことでしょ? どういう曲をやろうとしてたんですか?


麦  ぼくが最初にやったのは、メンデルスゾーンの「イタリア」って交響曲があるんですけど、それですね。わりとテンポが速い曲で。そのとき、ヴァイオリンの人がうまくて、少数精鋭みたいな感じでもやれたんですよ。


──野球部のたとえでいえば、「ピッチャーが突出してすごいから、それで勝ち進む学校」みたいな(笑)。そのオーケストラ部は、麦くんがいる間で成長していったんですか?


麦  成長させたんですよ。


──おお! “成長させた”!


麦  僕が部長になって、勧誘もして部員も増やしたし、それまでやってなかった定期演奏会もやろうと提案して、記念すべき第一回をやってしまったんです。


──へえ!


麦  定期演奏会は、武蔵小金井の公会堂ホールを借りてやりました。とりあえず僕は部長として「やろう」って言っただけで、あとは他の人にやってもらったようなものなんですけど(笑)



──でも、部としては画期的なことですよね。


麦  ただ、部員数が増えてくると、それによってうまい人の影響力というのが薄まっていくんですよ。だから、総体としてはあんまりよくなくなってしまったりもするんですけどね。


──弱小オーケストラ部が強くなっていく中心人物だったなんて、なんだか『がんばれベアーズ』みたいな話になってきました(笑)


麦  でも、それとは別に、ぼくは高校でロック部にも入っていたんですよ。


──“ロック部”!


麦  正式な部活とは違って、入りたい人は入って、やめたい人はやめて、って自由な感じのサークルでした。でも、ロック部に入ってると学内のスタジオが使えたんです。そこに入って、今、ぼくがやってるDoppelzimmerってデュオの前身になるようなバンドを高一で始めたんです。


──ようやく、今に直接つながる固有名詞がでてきましたね(笑)。じゃあ、ここから先は次回の話にしましょうか。


(つづく)


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Tokyo Loco magazineでの岸田祐佳さんのインタビューもあわせてどうぞ。
とてもおもしろいです。


台湾から渋谷WWWへ。古川麦『far/close』ツアー


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そして3月17日はこちら。



2015年3月17日(火)OPEN 19:00 / START 20:00
会場:東京・渋谷WWW
料金:2,800円(前売/税込・ドリンク代別)/3,300円(当日/税込・ドリンク代別)