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なにかあり/とくになし

森の話 mori no hanashi その4

森は生きている、インタビュー第4回。


今日は森は生きているというバンドが、本当の意味でのバンドになる過程の話。
どこのバンドにもおなじように起こりうる話だと言えるけれど、逆にいうと、その“おなじよう”は、すべて違うものでもあるのだと、あらためて思う。


では、どうぞ。


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──ぼくはTwitterからYoutubeの経路で森は生きているの音楽を知って、12月のとんちまつりで岡田くんと竹川くんに会って、そこで初めて音源をいただいたんだけど、そもそもこの音源っていつ頃から作ってたの?


岡田 増村さんが入ると同時くらいから録音は始めました。8月くらいに下地はもう出来上がっていて、あとは鍵盤と歌と管楽器を乗せるだけでした。……だったんですけど、その録音最中のある日、前の鍵盤だったガース竹田と「おれはこういうふうに持っていきたい」という話し合いがあり……。


増村 ちょうどぼくの家に岩野泡鳴の五部作が届いた日だったんですけど(笑)、そんな気分のいい日に、ふたりがぼくの家に泊まりにきて、ケンカを始めたんです(笑)


──方向性の違いというか。


岡田 人生観ですね。CD一曲目の「Intro」は、竹田がつくった曲なんですよ。それをぼくたちがアレンジして今のかたちになったんです。竹田は、ぼくの府中高校での同級生で、音楽的には天才なんですよ。映画音楽やクラシックが好きだったのでその辺の音楽を沢山紹介してもらい、僕自身音楽性にはかなり影響を受けました。ただ、やつはこのバンドではうまく自分を出し切れないところがあって……。


増村 彼が心からやりたいと思ってたことが、バンドじゃなくて、ひとりで宅録したり、ピアノ曲の作曲をしたりとか、そういうものだったみたいで。どうしてもバンドのときに楽しくなれないという彼なりの悩みがあったらしいんですよ。


──そこで衝突か……。彼は何歳くらいだったの?


岡田 ぼくと同い年です。


谷口 ぼくは、その衝突したときの話を増村からきいてたから、初めて岡田くんと会うときはちょっと怖かったね。「ぼくも殴られるんじゃないか?」って(笑)


──え? 岡田くん、彼を殴ったの?


岡田 どつき合いですよ(笑)。増村さんの住んでる木造アパートが壊れちゃうぐらいの勢いで。


増村 でも、ぼくから見たらふたりとも迫力なくて(笑)。「おいおい、やめとけや」って感じでした。でも、確かに熱くはなってましたね。


──そうなんだ。岡田くん、やっぱり熱いやつなんだねえ。


岡田 そんなこともあったので、音源自体はかなり出来上がってるのに鍵盤が入れられなくて困ってました。


増村 バンドもガタガタだった時期でしたね。おれたちもすごくもやもやしてるところもあったし。


──音源をつくるにあたって、だれかの後押しとか、助言みたいなものはあった?


岡田 いや、そういう人はいなかったですね。「おれがつくるんだから間違いないだろ」ぐらいの気持ちではいたんですけど(笑)。出したらだれかこういう音楽が好きな人がきいてくれるだろう、とは思ってました。


増村 「名刺代わりにしよう」という話はしてたよね。とにかく、まずこのバンドのことを知ってもらう。それに「音源を出しなよ」って言ってくれた人はいなかったかもしれないけど、ちゃんとレコーディングする前に岡田くんがつくってた音源がYoutubeにはあがってて、それを見て「いい」と言ってた人はいましたよ。


谷口 ぼくはそのうちのひとりです。


岡田 あと、花と路地っていう大森元気さんがやってるバンドがあるんですけど、その人たちが目を付けてくれたりとはありましたね。


増村 アンダーグラウンドでは、そういうのはあったよね。


──ぼくが知った時点で、もう結構知られてる存在かもと思ったんだけどね。かなり完成度高かったし。


岡田 いやあ〜(笑)


増村 だって、ライヴやるのにおれらがお金払ってたもんね。


岡田 ライヴも一回地元でひどいのをやってしまって。それもあって、前の鍵盤のやつと衝突してしまったんですけど。それまでは「音源さえ良ければいいだろ」ぐらいのつもりでいたんですけど、それじゃやっぱりダメだなと思うようにはなってましたね。


谷口 そうだったのか……。


増村 ケンカはライヴの次の日ぐらいだったよね。なんかもやもやしてしまったから岡田くんを「ふたりで話そうや」っておれん家に呼んで、そしたら竹田もきて。


──で、もやもや爆発。


増村 爆発したのは岡田くんでしたけどね。でも、その爆発は、どっちにとってもよかったんですけどね。


岡田 竹田も、今は友だちのつくってる映画のサントラを制作したりしてるらしいんですよ。だから、やりたいことができてよかったなとは思いますね。


──たとえば、同世代のバンドというか、失敗しない生き方とか、あっぷるぱいとかのことは意識してる?


岡田 いや、まったくないですね。もちろん音源はききますよ。周りのことは気になるタイプではあるんで(笑)。でも、それが実際自分の音楽に影響するかと言えば、ぼくはあんまりしないし。唯一、こいつらやばいなと思った同世代は、あなあくやまい、かな。やつらのことはすごく意識したかもしれないです。


──今のメンバーになってからのライヴの回数って、実はまだあんまりないんだよね。


竹川 このメンバーになってからは、まだ4回しかやってないです(注:2013年2月上旬の時点で)。


岡田 11月に渋谷の7th Floorでのライヴが最初だったから。そのときは、花と路地と、中川五郎さんとかと一緒でしたね。


──へえ! 五郎さんは何か言ってた?


岡田 いやー、特に何も。ただ、ぼくがその時期きいてたトニー・コジネックのアルバムが、中川五郎さんの対訳だったので、「すごくよかったです」って言ったら、喜んでくれましたね。けど、あのころはまだぼくらのライヴもそんなによくなかったし。


──“あのころ”って言ってるけど、まだ全然近い時期の話じゃない?


増村 確かに、2、3ヶ月しか経ってない(笑)


岡田 12月から1月が結構濃かったんですよ。


──でも、そういう短期間でバンドがぐっとよくなる時期ってあるからね。


増村 あとから振り返ってそう思うのかもしれない。


岡田 今は現在進行形なんで(笑)


──CDもよく売れてるみたいで。


岡田 そうなんです。JETSETさんとか、すごく売っていただいてます。JETSETからは、さっき話した花と路地と五郎さんとやったときのライヴの日に、セッティングをしてたら、CDの注文メールが直接きたんですよ。その日に「初めてCDを出します」ってツイッターとかでさんざん宣伝してたんですけど、それをチェックしてくれてたみたいで。


増村 今思うと、あの7th Floorでのライヴの日がいろいろなターニングポイントだったよね。CDの発売日でもあったし、ライヴもそんなによくなかったけど、手応えが初めてあった。バンド感というか。やっとイメージしてたことがライヴでできたというか。音源は宅録的にできてるからライヴとは別という考え方をぼくらはしてるんですけど、その音源の感じをライヴでどう活かすかが、あの日、初めてうまくできて。


──確かに、実際にライヴを見たときに、緻密な音源の再現じゃなくて、ライヴでは結構自由にやるんだなと思えたね。


岡田 それこそぼくは福生の街で外人客相手のセッションとかしてきた人間なんで、泥臭さというか、ライヴ・セッション的な感覚は骨の髄まで染みていて。昔のバンドってそういうののほうが多かったと思うんですよ。ライヴ盤きいてるほうが楽しいし。けどその日まで自分のバンドのライブで演奏してて心の底から楽しめることってあまり無かった。


増村 初めて楽しかったと言えた日だったのかもしれないね。


──ライヴ・セッション的なノリをいったん否定して緻密な作り込みに向かった森は生きているに、岡田くんたちが自分でつかんできたライヴ感というか、生々しさがもう一度戻ってきて、それでひとつバンドとしての階段あがったのかもしれないね。あと、もうひとつききたかったのが、CDは、最初のプレスから少しして、得能(直也)さんのマスタリングしたものに切り替わるよね。ぼくは得能さんはceroのライヴ・エンジニアとして知ってるんだけど、森は生きていると関わったのはどういう経緯?


岡田 おもしろいんですよ。たぶん、その前にtwitterでぼくらのことを知ったのがきっかけなんですけど、得能さんがfacebookでぼくのことを探してDMをくれたんです。「今度ceroのライヴで東京に行くから、遊びに来なよ」って誘ってくれて、そのときに初めてお会いして、音源も渡したんです。そしたら一週間ぐらいして連絡があって「音源もすごくおもしろかったし、ミックスもよかった」って褒めてくれたんですけど、「でも、これぼくがマスタリングを個人的にしてみたい」って言われて、それはもうやっていただくにこしたことはないと思ってお願いしたんです。ぼく自身もミックスはできても、マスタリングに関する知識はまるでなかったんで、最初にできあがった音源も満足いくものじゃなかったんで。そんな声をかけていただいたことはうれしかったですね。


──得能さんはそういうところがあるんだよね。


岡田 プロの方なんで、ぼくも先にお金のことをきいたんですけど、「あ、お金とかそういうのは全然気にしなくていいよ」って言ってくれて、しかもすぐにやってくれて。できあがったものを12月のとんちまつりに持ってきてくれたんです。


──それをあの日ぼくが受けとったのか。ちなみに、このアートワークはだれが?


岡田 絵はぼくが描きました。授業中に描いたんですけど(笑)


増村 これ意味わかんないよなー。


岡田 種子とか種を分解して描いてみたんですが(笑)


増村 “種子”も“種”もおんなじや(笑)


──ローマ字の“mori wa ikiteiru”表記で、「は」が、あえて「wa」になってて。


岡田 外人にきいてもらいたいなと思ってて。それで「wa」にしました。ちなみに正式の表記がローマ字の方なんですけど、人が言ったり書いたりする分にはどっちでもいいです。こだわりはそんなにないです。


(つづく)



増村和彦 森は生きている