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なにかあり/とくになし

ギターを愛したシティボーイ Kashifロング・インタビュー その2

一週間のごぶさたでした。


「僕らのギター・ヒーロー」(©得能直也)、Kashifインタビュー第二回。


ニュータウン育ちの渋谷通いというシティボーイそのものの環境を、シティボーイであることを拒否しながら過ごしたKashif。第2回では、大学卒業後、PPP結成に至るまでの知られざる日々を語ってもらった。


前回のインタビューはこちら → ギターを愛したシティボーイ Kashifロング・インタビュー その1


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──大学卒業のころは2000年くらいだそうですけど、もうすでにいわゆる「就職氷河期」でしたか?


Kashif 確かそうだったと思います。なんとなく全体的に世紀末感や閉塞感もあった気がします。周りはみんな就職をしていったんですけど、ぼくはなんだかんだ諸事情でそうしませんでした。


──つまり、就職しなかった。


Kashif はい。そのままフリーターになって、だらだらすごしてました。大学時代も終わりごろになって「もう歳も歳だし、ちゃんとやろう」っていって前述のブラコンのカヴァーバンドのメンツでオリジナルを作って本気で活動しようとしたんですけど、それもみんなの就職活動だったり、精神的にセンシティヴになっちゃった人がめっちゃ多い時期だったこともあって、なかなかうまくいかなかったんです。ただ、高校から大学までの同級生にKESって人がいまして。


──PPPの?


Kashif そうです。彼はぼくの高校からの同級生なんです。KESくんとは高校時代は顔だけ知ってるくらいでそんなに仲良くなかったんですけど、大学のときから急に親しくなりました。サークルも入ってないけど音楽が好きで、自分で音楽も作ったり楽器弾いたりしているぼくやKESくんを含めた5、6人が学食とかにゆるく集まるようになっていって、その時期からKESくんとはデモを聴かせあったり、「こんなリズムマシーン買ったんだ」的な話をしたりしてました。自分もその頃MTRシーケンサー等の機材を買い始めた時期で。KESくんは当時から電気グルーヴとかテクノが好きで、KESくんも自分もデモテープをいくつかの募集口やオーディションに送ったりしてたんですね。そのうち『ele-king』誌上でWOODMANさんが「マラッカレコード」名義で募集をかけたところへKESくんが送ったデモテープをWOODMANさんが気に入ったそうなんです。


──へえ!


Kashif ある日、KESくんと経営学部の授業を受けてるときに、「そういえばWOODMANという人から連絡がきて、『うちのカセットテープ・レーベルから音源を発売しないか』っていわれて」「え? それすごいね!」「LOS APSON?っていうレコード屋があって、今度初めて行くんだ」的な話をしたんです。あとで聞いたらその募集口に送られてきた音源はKESくんの作品だけだったらしいんですね(笑)。それも含めデスティニーを感じるところですけど。結局、彼はそこから作品を出して、MPCとか買って自分のライヴも始めて、LOS APSON?コミュニティのなかにはいっていくんです。ぼくは当時それを見ながら、「いいなー、かっこいいなー」と思いつつ、Better Days定例会やブラコン・カヴァーバンドでときどき演奏したり宅録で曲を作るくらいで、どうやって活動を発展させたら良いのかやり方がわからないまま音楽っぽいことを続けていました。メジャー・レコード会社のオーディションに送った音源がサクッと落とされたり、WOODMANさんのレーベルからの音源リリースの話などをもらったにも関わらずなかなか自分が作れなかったりといった状況が続いていて、KESくんとも大学卒業してからは、連絡もそんなにとりあわなくなっていったんです。


──いきなりPPP結成には至らず、と。そこからPPP参加に至るまでの期間について、聞いてもいいですか?


Kashif 留年を経て大学卒業したあとの25歳くらいの時期に、ぼくはon button downというバンドののローディーをやってたんですよ。


──今、(((さらうんど)))のサポートで一緒の、アチコさんの在籍バンドでもありますね。



Kashif リーダーのハジメさんが、僕の地元の同級生のお兄さんだったんです。その同級生に「兄貴がこういうバンドやってCD出してるよ、ライブに遊びに行ってみたら?」って誘われて見に行ったのがきっかけでした。その時期のメンバーは、ハジメさん、アチコさん、サポートで、ドラムがオータコージさん、ベースが口ロロの村田シゲさん、鍵盤が石橋英子さんといったすごいメンツでした。僕は、その裏方としてキーボードを運んだり、ギターの弦を張り替えたり、いろいろやってました。でもガッツりガチンコでローディ仕事に従事していた感じでもなく、実際はまだそんなに深く知らないそのコミュニティへ気兼ねなく顔をだせる口実を「ローディ」という名目で作っていただいていた感じでした。自分としては普通にみなさんと会うのを楽しみにライブに行ってた感じですね。


──そういえば、(((さらうんど)))で初めてインディーファンクラブに出た年(2012年)に、CLUB Queの舞台で「Queといえば何年も前にローディーとして出てました」ってMCしてましたよね(笑)


Kashif それはon button downのローディーとしてです。あ、同時期にローディをしていたバンド、MUSIC FROM THE MARSでもQueにいっていたかもしれません。



──「ようやくリベンジが果たせた」感が、あのMCにはありました。よく覚えてます。


Kashif ローディをやっていた時期、ぼくはなかなか自分の活動がうまく行かなかったせいか、バンド・コンプレックス的なものをを抱えてました。Queどころか、ライヴハウスにどうやったら出られるかわかってなかったし、バンドを集めるにはどうしたらいいか、曲作るにはどうしたらいいかもわからない。on button downのCDをハジメさんが出すときも、「どうやったら曲を作るとか、CDを出すとか、そういうことができるんだろう?」って思ってましたから。“オンボ”や“マーズ”の活動を身近に見ることでいろいろとその入り口の勉強をさせてもらったと思ってます。なので今でも、そのころローディをしていたバンドのメンバーの方というのは、ぼくのなかで数少ない「先輩」といった存在です(笑)。そして、on button downが出演しているCLUB Queは、当時のぼくから見ると「ちゃんとがんばれてるバンドでしか出られない殿堂」だったんです。ぼくも自分のバンドのデモを持ち込んで断られてますし。


──それはどんなバンドだったんですか?


Kashif それはその時期始めたトリオ編成のフュージョン・バンドで、Flexables(フレクサブルズ)という名前でした。最初は、付き合いのあった法政大学の音楽友人のサークルの後輩2人にドラムとベースをお願いして結成したんです。がんがん弾きまくってディストーションもかけまくるけど、いろいろテクニカルな所もあってカンタベリーっぽい要素もある、フュージョンというか、ミクスチャーというか、いろいろごった煮な感じでした。


──とりあえず、イメージとしてはKashifくんがギターを弾きまくるバカテク系ってことですね。


Kashif でも、そのバンドはライブハウスシーンにおいては惨敗につぐ惨敗といった感じだったんです。ライヴをしても客は0人とかで。結局うまくいかないままサポートしてくれてたリズム隊もやめちゃって。「どうしようか」と思ってたんですが、そこでon button downの三代目ベーシストのヌッポ(奥田ヌッポ敏朗)さんと、MUSIC FROM THE MARSのドラムの吉村(佑司)くんにお願いして、新編成で再開して、また曲をブラッシュアップしながらやっていたんですけど……。


──それでもお客はゼロ状態?


Kashif 一応ホームページとかミクシィのコミュニティも作ったりと、当時のよくある手法も取り入れながらやったんですけど、集客の面は大きく改善しなくて。結局毎回ライヴをやるたびにノルマの3万〜4万円をお店に支払う結果になってました。さらに、自分がリーダーで他のみなさんはサポートだったので、もろもろの経費も出してましたし、ぶっちゃけ一度ライブをするとちょっとしたひと月の家賃分くらいは毎回出費していく現実に泣くほどまいってましたね。


──そりゃまいりますよね。


Kashif でも、ぼくが信頼しているいいミュージシャンとやっているし、音はもちろん自分でも気に入ってますから、4、5回やって演奏も向上していくなかで、通常ブッキングじゃなくてノルマのない企画とかに呼ばれるようになるだろうと思っていたんです。でも、それもかなわず。正直いって日とハコによっては「ブッキング最底辺地獄」をぼくは何度か見た気がします(笑)。


──「ブッキング最底辺地獄」(笑)


Kashif ブッキングのかたによっては気に入ってくれて、すごくよいイベントに組んでいただいたりコンピにも呼んでもらったりしたのですが、それでもなかなか結果を出せず。それが3、4年くらい続きました。


──なるほどね。それが2000年代の半ばくらいですか。


Kashif それで、確かそんな時期にKESくんから「『16連打』ってユニットを組んだんだけど、そのライブをやるよ」と連絡があったんです。16連打は空手サイコ(Latin Quarter)くんと脳くんとKESくんのユニットで、ぼくは彼らが辻堂のスプートニクでおこなったそのライブを見にいったんです。16連打は今思えば最強のグループで、彼らが母体だったからこそPPPは集ったといえます。でも、その時点では現場にぼくの知り合いはKESくんしかいなかったので、なんか怖そうな人もいっぱいいる会場でやや気後れしながらやや遠目にライヴを見て「すごいなー」と思いながら帰った覚えがあります。そしたら、そのあとくらいでKESくんが「今度、空手くんとかとPan Pacific Playaっていうクルーを始めるんだけど、よかったらそれに入らない?」っていわれて。


──お! ついにPPP結成話きました。


Kashif そのちょっと前くらいからKESくんには「Palm Streetって2人組をやろう」って誘われていて少しずつ動いていたんですけど、そのPalm Streetを「あらためてPPP所属でやろう」ともそのときいわれたと思います。ぼくはKESくんのいるコミュニティやシーンについてもちょっとだけ名前知ってる人がいるくらいで詳しく状況を把握していなかったので、「今結構ひまだし、まずはやってみようかな」ぐらいの感じでOKしました(笑)


──Palm Streetの具体的な活動はどうやって始まったんですか?


Kashif 当時Palm Streetの曲作りをKESくんとやってたんですが、彼の部屋で作業していてうまく曲が進まないときに参考曲としてプリンスなどのレコードをかけて、ぼくは気分転換にそれにあわせて好きにギターをずっと弾いたりしてたんです。そしたら、「これだとリハなしでぶっつけでもやれるから、このスタイルで“パムスト”のライヴやろうよ」ってKESくんがいいだして。それで、2006年くらいですね、恵比寿のエンジョイハウスでやったイベント〈MAGNETIC LUV〉で、Palm Streetのお披露目ライヴというのをやったんです(2006年7月21日)。PPP自体はすでに結成されてちょっと時間が経ってたんですけど、PPPとしてぼくがライヴをやるのは初めてで、そのときにそれまで音源や名前をきいてただけでじっさいに会ったことなかったPPPのクルーとも会いました。「JINTANAくん? あ、どうもどうも! 脳くん? あ、どうもどうも!」みたいな感じで。




──それって結構「運命の出会いの夜」感ありますね。


Kashif このイベントのおかげで「ギター弾きまくるやつがいる」っていう印象をある程度残せたようでした。「なんか感動しちゃったよ」っていわれたりして。JINTANAくんもギターが相当好きだから共感してくれたりして。PPP初期ではまだみんなあんまりライヴはやってなかった時期に、そういった流れでPalm Streetが次第にライヴをやるようになっていった感じだったと思います。


──PPPに新鮮な概念を持ち込んだというか。


Kashif 空手くんなんて天才テクノ少年としてデビューしてメジャーも経験してますし、BTBくんはもともとレッキンクルーとしてやってましたから、みんな自分が出会う何年も前からライブしたり音源をリリースをしたりして、アーティストとしてのアイデンティティをすでに持っていたんです。だけど、ぼくらがPalm Streetでライブをやりだした時期って、PPP開始以降みんながそれまでと違うスタイルを模索しだした時期だった気がします。LUVRAWくんとBTBくんがトークヴォックスを始めたのもたしかこれくらいの時期だし。そういった中でPPPとしてライブをしたという面ではPalmStreetはその走りだったかもしれません。そして個人的にはぼくはPPPに出会って音楽人生観が変わってしまったんですよ。ある種自分が「バンド・スポコン観」に塗り固められてた時期に出会ったPPPは、まったく別の世界だったんです。


──「バンド・スポコン観」(笑)。でも、それはいい得て妙ですね。「バンドでのしあがるには苦労してナンボ」みたいな意識というか。


Kashif 今でも覚えてるんですけど、Palm Streetの最初のライヴをやるときに、ぼく、一万円持っていったんですよ。ノルマ料だと思って(笑)。そしたら「ノルマ料なんてとらないけど、もっとお酒をだしたいから、お客を呼んでね」っていわれて。


──それ、めちゃめちゃぐっとくる話ですね。


Kashif 自分は基本呼ばれて活動する立場なので、そういった裏でオーガナイザーやお店の方は苦労をされてるんだとは思いますけど……。とにかくPPP周辺の人たちは自分が今まで会った人とはまったく違う人種だらけで、ぶっとんでる人もいてほんと別世界に来たと言った気分でした。しかも、ぼくの弾いてるギターをすごく気に入ってくれて。「こんなに楽しいことがあるのか!」って思えましたね。それまでぼくは今思えば「音楽やって楽しいなんてことはそうそうない」ってすでに潜在的に思うようになっていたふしがあったんですが、それがPPPではギターをがんがん弾くと、「最高だよ!」っていってくれる人たちがいて。リハがどうの、ノルマがどうの、じゃなくて、一見いい加減に見えながらもぶっつけ本番だからこそ生まれるテンションや高みで盛り上がって楽しむ。なにか細かい演奏のミスがあったとしても、それよりもそのパーティーがいい感じだったかどうかの方が重要なところもあったりもして。そういうのがもうすべてカルチャーショックでした。



──よかったー。話聞いてるだけでも報われた感じがします。


Kashif もちろん、そのころはPPPもことさらアンダーグラウンドな時期だし、お客も少ない状況は続きましたけど、それでも新しい世界をゼロから経験していく感覚やユニークな人にどんどん出会っていくのが無性に楽しかったですね。酔っぱらった外人に演奏中機材のテーブルを飛び蹴りされたりとか、大乱闘に巻き込まれたりとか、結構ワイルドな現場もありました(笑)。でも、そういう場所ってこわい人が多いのかと思ったら、昼勤めている会社の同僚とかよりも全然センシティヴなデリカシーがあって、共感したり親しみを感じる人が多いということがわかったし。バンド活動からPPPに移行してからは「集客がどう」とか「プロになるならない」とかじゃなくて、もう音楽とそれにまつわるもろもろが楽しくてしょうがなくなりましたね。「音楽やってこんな経験ができるなんて奇跡だ!」ぐらいの気持ちになれた。最近、ぼくはスチャダラパーさんのバックでギター弾かせてもらったりしていますけど、そういうことを経験できる時期が来るなんて自分にはあるわけないと心底思ってましたから。



(つづく)