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なにかあり/とくになし

ギターを愛したシティボーイ Kashifロング・インタビュー その3

約2週間ちょっとのごぶさたでした。


Kashifインタビュー、第3回。話は2000年代中盤から後半へ。PPP活動初期のさまざまなエピソードが徐々に先へと転がり始めてきた。


そもそものKashifという名前の由来や、彼が持つ別名についてのエピソード。さらには、偉大な音楽家との思いがけない交流についても、本人の口から語られる。


お盆休みのひとときに、PPPとKashifの知られざるヒストリー。しばしおつきあいください。


前回までのインタビューはこちら → 
ギターを愛したシティボーイ Kashifロング・インタビュー
その1
その2


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──PPP初期の話って、一般的にはあまり知られてないからとにかく貴重だと思います。


Kashif やはりPPP初期と言えば自分にとってはPalm Streetという感じでしたが、積極的にやっていたというわけではなくて、お誘いを受けたらライブをする、という受動的なものでした。特にPalm Streetはライブ自体打ち合わせなしで泥酔現場でフリーセッションするという相当刹那的なものでもあるので(笑)、それが象徴するような活動だったかなと思います。そのころ一度KES君の発案でPalm Streetのライブ録音テイクを音源化した自主盤CD-R「Live at YOKOHAMA」を出したんですが、アメリカのインディー・ソウル・シンガーでエヴィン・ギブソンという人がそのライブ盤をアメリカの自主盤取扱サイトCD Babyで聞いて、「今度日本へ行くからセッションしよう」っていきなりコンタクトしてきたんですよね。



──お互いによく知らない状態で?


Kashif はい。そして下北のroomでなにもわからないままいきなりエビンとセッションしたけど、そんなに噛みあわなかった、という海を超えた系の微妙な事件もあったりました(笑)。


 エヴィン・ギブソンPalm Street


──「海を超えた系の微妙な事件」(笑)


Kashif 当時PPP自体はそれぞれがDJでイベントに参加したり自分達のイベントをしたりしてたと思いますが、まだそのころは本格的に外に向けて発信するという感じにはなれていなくて、基本はいつもほぼ同じ人が集まる感じのイベントが多かったと思います。恵比寿エンジョイハウス、片瀬江ノ島オッパーラ、ミヤさんの下北沢room、関内OVEなどでやることが多かったかな。もちろん活動の場を広げていこうとはしていたんですけどなかなかそうはならなくて。でもそれだけにひとつひとつが濃くて、今もつなががっているような人たちとその時期にたくさん出会いました。


──こういう時期の出会いが重要だというのは、ぼくも経験的にわかります。


Kashif あと、この時期、得に印象的だったイベントは「ロドリゲス兄弟」と「RAWLIFE」ですね。「ロドリゲス兄弟」はだいたいのPPPメンバーとライターの磯部涼くん、KEIHINくんたちで行っていた「フリーテキーラで限界まで飲んでどこまで楽しめるか」的な無茶なイベントで(笑)、関内MOVEやオッパーラでやっていました。そういう主旨だけに毎回良いほうにも悪いほうにもドラマが生まれる率の高いイベントで。出演者の顔ばかり思い浮かぶので、一般のお客さんがいたかどうか記憶があまり定かでないのですが(笑)。ひどい時はオッパーラで朝方5時近くのPalm Streetの出番に準備してフロアに行くと、フロアやトイレに泥酔して動かなくなった人たちが死体のようにバッタバタ倒れていて、唯一起きていた仕切りの磯部くんだけに向けてギター弾いた事もあります(笑)。そんな時でも僕はもちろんシラフなんですけど。


 「ロドリゲス兄弟」にて


──Kashifくんはお酒が飲めないから、そういう現場をすべて目撃して覚えているというのもすごいですね。 


Kashif あとやはり2006年の新木場でのラストの「RAWLIFE」ですね。あれはもはやイベントというかフェスですね。いろんな人の語りぐさになっていますが、もっともアナーキーでもっともクールなフェスでした。この日は確かKESくんが出演オファーをもらっていたんですけど、Palm Streetが自分たちのなかで盛り上がっていたので「持ち時間の半分ぐらいPalm Streetでやっちゃおう」みたいなKESくんの判断があってやった流れだったと思います。僕らの出番の後がブレイク前夜くらいのDE DE MOUSEくんの出演で、鬼のように盛り上がっていたのをはっきり覚えていますね。そのあとWOODMANさんも出てたりして。他の出演者も今もつながっている友人や先輩を中心とするそうそうたるメンツで、ほんとに奇跡的なイベントでした。個人的なことですが、自分は2000年前後くらいのLOS APSON?周辺のアーティストやイベントに憧れていたままグズグズして特に参加することもなくその時期を過ごしてしまったことが心残りになっているんですが、このラストの「RAWLIFE」に参加できたことと昨年のDOMMUNEでのタケ・ロドリゲスさんの追悼イベントの回へ参加させてもらえたこと、このふたつのおかげでそういった気持ちが報われたというか成仏できたといいますか、次に進むための気持ちになれたようなところがあるので今でも非常に感謝しています。


 「RAW LIFE」でのPalm Street


──やがて、PPP以外とも交流が広がっていって。


Kashif そうですね。こういった流れのなかで、ZEN-LA ROCKくんやCrystalくん、やけのはらくんやPeachboyさん、ケアル鈴木くんやCHERRYBOY FUNCTIONくん、サイプレス上野くんといった同世代の人たちや、永田一直さん、COMPUMAさん、L?K?Oさんといった先輩方までいろんな人と出会っていった感じでした。そういえば、今思うとラストの「RAWLIFE」には、まだ親しくなる前の一十三十一さんやDorianくんも見に来ていましたね。Crystalくんと出会ったドーパントさん&ピークタイム君主催イベント「GET WILD」や、Dorianくんと出会った横浜ベイサイドのテラスでのPPP主催イベント「A.D.U.L.T」なども思い出深いですね。ま、そういったなかでここで話しづらいようなワイルドなアクシデントやユニークな事件もときどき経験したりもしましたけど(笑)。今となっては本当に良い思い出です。


 「GET WILD」フライヤー


 「A.D.U.L.T」でのDorian


──しかし、自分のバンドで経験してきた「ブッキング最底辺地獄」時代からしたら、180度違うどころか別の惑星に来てしまったぐらいの感じだったでしょ?


Kashif PPPに参加してから知り合った人たちは、当たり前かもしれませんが音楽にまつわる事を楽しもうとしているのがガンガン伝わってくるので、ぼくが根本的に忘れていたものを気づかされた感じでしたね。


──ところで、これはインタビューを読んでいる人もずっと気になってることだと思うんですけど、いつから“Kashif”って名前になったんですか?


Kashif 27歳くらいのときですかね、PPPに入ったときにKESくんがつけたんです。ぼくを初対面の人に紹介してくれるときに「彼はKashif」といってて、それが定着しちゃったんです。彼はブラコンのアーティストの“カシーフ”が好きで、それをぼくの本名にひっかけたんですよ。最初は「その名前は微妙だなー」と自分では思ってたんですけど(笑)、定着してきたら自分でどうこういうより、そう呼んでくれる流れに身を任せようという気持ちになってきて。そこに「抵抗しない」ということをあえてやってみようかな、と思ったんですね。だから、ちょっとむずがゆいけど、自分でも徐々に「Kashifです」っていうようになったんです。


──“鬼”と呼ばれていた時期もありますよね?


Kashif それはもっと前ですね。on button downハジメさんがぼくの地元の友だちのお兄さんだったって話はしましたが、その友人がぼくをハジメさんに紹介してくれたときに「こいつの名前は”鬼”だよ」って冗談でいったんですよ(笑)。そしたらそれが定着しちゃって。高校時代に「鬼のように速弾きがうまいから“鬼”」って呼ばれていた時代があったことに由来してるんですけど。だから、on button downMUSIC FROM THE MARSの人たちは、いまだにぼくのことを“鬼”って呼ぶんです。でも、その“鬼”時代はPPPに入るころには、いったん完全に終わってたんですよ。


──すでに名前はKashifになっていたわけですもんね。


Kashif はい。そうだったんですけど、ご存じの通り、(((さらうんど)))が始まったときに、ぼくはアチコさんと再会したわけです。そしたら「鬼くん!」っていわれて(笑)


──“鬼”を復活させてしまったのがアチコさんだったとは!(笑)


Kashif そうなんです。めちゃめちゃ久しぶりに呼ばれました(笑)。それを(((さらうんど)))メンバーのK404くんがおもしろがって、常時「鬼さん」って呼ぶようになって。それきっかけで局地的に“鬼”呼称が復活してますね。


──もうひとつ、“STRINGSBURN”というのは?


Kashif PPPに入って、みんなにKashifとは呼ばれていたんですが、「その名前でアルバムは出したくないな」という気持ちもあって(笑)。他のみんなはLatin QuarterとかLUVRAW&BTBとか、かっこいい名前を付けてるので、ぼくも名前を自分で考えてみたいと思ったんですよ。それで、ぼくのバックボーンを感じさせるメタルっぽい要素のある強そうな名前にしたらおもしろいかなと思って。ストリングスって言葉が好きだし、楽器のなかでも一番ストリングスが好きだし、自分はそこに由来のあるギターを弾いてる。更にそこに“burn”ってメタルっぽいフレーズを付けたら、アルファベットのデザインとしても音の転がりとしてもいい感じな気がしたんです。一時は「STRINGSBURNで行こう」と考えていました。でも、「Kashifくん」って呼ばれることが圧倒的に多いし、それに対して「STRINGSBURNです」って訂正するのもなんかもう無駄な気がするし、なんか発声しづらいフレーズだなと思って(笑)


──確かに、ちょっといいにくいかも(笑)


Kashif 名前としての呼びやすさって重要じゃないですか。「やっぱりSTRINGSBURNはないな」と思うようになって、一昨年くらいから「完全にKashifに一本化します」と宣言しました。a.k.a.としてのSTRINGSBURNも最近は書かなくなっています。


──Kashifを名乗るようになってから、音楽人生も好転したわけだし。


Kashif 「流れに無駄に抵抗しない」とか「無駄に考えすぎない」というのも当時の自分のテーマでもあったので(笑)、“Kashif”って名前を受け入れること自体なにかしら良いことにつながっていったかもしれませんね。そんな流れのなかで、PPPを通して知り合った人たちの作品にギターで呼ばれる側面が徐々にできていったという感じでした。


──具体的にはどういう作品に参加してました?


Kashif 「初期」とか「第一期」って言える時期って自分のなかではなんとなく2008年くらいまでなんですが、そのくらいの時期で言うとZEN-LA-ROCKくんの作品ですかね。その時期はまだみんなアルバムを積極的に作り始める前くらいの時期だったので、今思えばゼンラ君は早い段階からアルバム制作にトライしていたんだなぁと思います。2007年発売のファーストや2009年発売のセカンドだけでなく、サード・アルバムやワンコイン・シングル含め高い割合で今まで関わらせてもらっているので、ゼンラくんとコンタクト取ってない時期のほうが少ない気がします(笑)。彼のファーストが出たのはPPPの最初のコンピとおなじ時期でした。Palm Street名義で作ったトラックをゼンラくんが気に入って採用してくれたのがきっかけでしたね。彼はKESくんとは20歳くらいのころから面識があって。


 2007年ZEN-LA-ROCKファースト・アルバムのリリパ当時のZEN-LA-ROCKとKashif


──公式に発表したソロ音源としては、PPPの最初のコンピ「Pan Pacific Playa」(2008年)に“Strings Burn"名義で参加した「Magnetic Luv」が最初ですか?


Kashif そうです。インスト曲でした。



──学生時代からの宿題のようでもある「歌もののオリジナルを書く」というのは……?


Kashif まともな歌ものは、30歳過ぎるまで書いてないですね。あ、大学の時に一曲だけ「いつもよりも」という人生初の歌もの曲を書いたかな。作曲家や作家としての活動に昔からとても興味があったので、ときどき歌もの作曲を実験してみては途中で終わるというパターンを何度か繰り返していました。結果初めて完成したといえる歌ものオリジナルは、誰のオファーを受けてもいないのに「もし自分がSMAPに曲を書くとしたら?」というテーマを自分に課して作った「嵐のグライダー」という曲です。


──「嵐のグライダー」!


Kashif はい、タイトルもアイドルっぽくしたいなと思って(笑)。作詞作曲、アレンジ、演奏、歌、初めて全部自分で挑戦してみたんですが、一部の友だちに評判よくて、うれしかったですね。でもそれ以降はまた歌ものに取り組まない時間が続いたんですが、そんな時期にとある年配の音楽プロデューサーのかたとの出会いがあって、その人に「もっと歌ものに取り組んだ方がよい」という趣旨のアドバイスを貰いながらその方との関わりが始まった時期がありました。そして、そのかたとのご縁がきっかけで、2009年に大滝詠一さんのオフィシャル・トリビュート盤『A LONG VACATION from Ladies』に参加したんです。



──え? 本当ですか! その盤、ぼくもなんとなく覚えてますよ。


Kashif 名盤『A LONG VACATION』をまるまる複数の女性ヴォーカリストでカヴァーするという企画盤でした。そこに、当時ぼくがそのプロデューサーの方のもとでやっていた、ヴォーカリスト行川さをりさんとのデュオで一曲参加することになって、「Pap-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba物語(ストーリー)」をカヴァーすることができたんです。


──すごいですね。そんな仕事をしていたなんて知りませんでした。


Kashif そのアルバムのメインのサウンドプロデューサーである井上鑑さんのアレンジのなかで、少しだけギターやシンセでも参加させて頂きました。しかも、発売記念のオーチャードホールにおけるトリビュート・コンサートにも出演したんですから、信じられないですよね(笑)。歌い手は太田裕美さん、大貫妙子さん、原田郁子さん、今井美樹さんといったすごい顔ぶれでした。そのときにアルバムでカヴァーした曲と、自分の好きな曲を一曲カヴァーしていいといわれたので、「『指切り』が好きすぎるので『ぜひやらせてください』」とお願いしました。そのときのバックが高水健司さん、金子飛鳥さん、鶴谷智生さん、小倉博和さんといった日本の超トップミュージシャンの方ばかりで気が遠くなりそうでした。


──おお、すごい!


Kashif その夜、大滝さんもコンサートを見にいらしてて打ち上げにも参加されていたんですけど、メンバーがすごすぎたこともあって若手のテーブルまでは大滝さんも来られなかったんですね。すると後日、「あの日なかなか話せなかったから、若手の人たちとだけでもう一度打ち上げできないか」って大滝さんがおっしゃってるという連絡がはいったんです。それでアルバム参加の若手アーティストのみの少人数でお会いできることになりました。


──そうなんですか。それはめちゃめちゃ貴重な体験ですね。


Kashif さいわいその打ち上げの場で大滝さんと席が隣になったことや、「失うものなんてなにもない!」と思えたこともあって、4時間ほどとにかく心ゆくまでたくさんお話しさせていただきました。自分のようなどこのウマの骨とも分からない人間の質問や会話をこころよく聞いて、なんでも明快に答えていただけました。音楽に関することもそうでないこともお聞きしたいことは無尽蔵にあったので、思いつく限り質問させてもらいました。自分が参加しているJINTANA&EMERALDSのアルバムは、もちろん大滝さんへのリスペクトを多分に含んでいますし、「いつか再会してアルバムをお渡しできたら」と心のどこかで常にそういった希望を持っていた面もあったので、昨年末の訃報には大変ショックを受けました。


──そうだったんですね……。


Kashif 最近関わらせてもらっている偉大な先輩方や近しい人であってもそうなんですが、音楽にまつわって何かを共感するようなコンタクトが出来たときは、初対面であっても最初の壁が簡単に破れてくれるような感覚になることが本当に今までたくさんあって。たいへん僭越ながら大滝さんとお会いした際も、もちろんこちらが緊張しないようにやさしく気を配っていただいていたおかげなのですが、それに近い感覚を持つことができたような気がしていました。写真を部屋に飾るタチではないんですが、この日撮らせていただいた大滝さんとの2ショット写真は今も額に入れて大事に飾ってあります。墓場まで持っていくつもりです。


(つづく)


では最後に、現在もアメリカで活躍中のエヴィン・ギブソンのPVをどうぞ。こんな人だったんですね。