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なにかあり/とくになし

くだらないの中に

先週の水曜日に
青山CAYで行われた
「デイジーワールドの集い」をユーストリームで見ていたら、
本人の出演はなかったものの
星野源のシングル「くだらないの中に」が
3月2日に発売になる旨の告知が行われていた。


あちこちで流れていますとも
紹介されていた。
星野源の歌が
あちこちで流れているんだなと思うのは
不思議な感じもするが
納得もゆく。


この「くだらないの中に」は
今までになくはっきりと
“歌”になっているからだ。


デビュー・アルバムの「ばかのうた」でも
そのまえのフォトブック「ばらばら」でも
サケロックでうたうときも
星野源
“歌”より“うた”あるいは“唄”という表現を好んできた。


それは
“歌”という言葉の持つ
広いけれどもありきたりな匂いのする社会性よりも
口を“う”と“た”と開けて“うた”と発語する自分自身の存在であったり
“唄”という字の持つなつかしい人間味みたいなものに
こだわっていたような部分でもあったと思う。


そしてそれゆえに
うわべの希望ばかりがまかり通る流行歌の世界で
星野源の「ばかのうた」は
虚をぐさっと突かれる本音のように聴き手に響いた。
もちろんその感動には間違いがないし、
「ばかのうた」が受け入れられたことの理由は
そこにも大きくある。


だが
「くだらないの中に」で
星野源
彼の言葉に耳を傾けて理解することを求める“うた”の力を認めつつ、
もっとその先にある
だれにでもすぐにわかるという意味での
“歌”を求めているのだとぼくは感じた。


この歌の入り口にあるのは、
恋人たちの
夫婦の
あるいは
長く一緒にいるひとたちの
ありふれたしぐさがもたらすおかしみだ。


そういうくだらなさを
「笑えるね」「受けるね」と
おたがいの距離を測りながら
うわべの関係を維持するために
おもしろおかしく採り上げるのではなく、
そのみっともないものを愛おしいと
星野源はきちんと認める。


知らないだれかの日常や感情のなかに
星野源が溶け込んでしまったように思えても
それでも残る何かがあるはずだと信じられるようになった
星野源の現在と
そして
そういう歌をつくりたいのだという覚悟の反映でもあると思う。


カップリングの
「歌を歌うときは」が
「うたをうたうときは」ではなく
“歌”という表記になっていることにも
きっと意味があるはず、とぼくは思いたい。


だれかと向かい合うことに照れすぎたぼくたちが
次の一歩を踏み出すための
芯の強い勇気を
このシングルは持っている。