厚海義朗、GUIRO、cero、ソロ 厚海義朗インタビュー その3
厚海義朗インタビュー、第三回。
いよいよ東京に向かう厚海義朗。
今日はよけいな前置き抜きでスタート。
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──2008年にGUIROを辞めて、東京に意を決して出てくるまでは、すこし間があったみたいですね。
厚海 結構、迷走してるんですよ。自分のバンドをやってみたり、ASANAってバンドのサポートやったり。
──ASANAはどういうバンドでしたか?
厚海 浅野裕介って人がやってるバンドなんですけど、なぜか僕とゲルさんと亀ちゃん、つまり、GUIROを辞めた連中がそっくりそのままサポートしてた時期がありました。
──そんなことになってたんですか。
厚海 結果的にそうなっちゃったんです。僕らが進んでそうしたわけではなく、声をかけてもらったからそうなっただけなんですよ。
──バンドの音楽性はGUIROとは違う感じですか?
厚海 ぜんぜん違いましたね。
──では、いよいよ東京に出てくることを決めたのはいつごろで、そのきっかけは何だったんですか?
厚海 出て来たのは10年なんですけど、09年には決めていたと思います。いろいろセッションとかサポートをやっていた時期に、ある日、渓さんから「義朗くん、東京行ったほうがいいんじゃない?」ってぽつっと言われたことがあって、なんとなく、ずっと引っかかってたんです。セッション・ベーシストとしてやっていくんだったら、東京のほうが幅も広がりそうだなとも思ってました。そのころには、わりとベースの腕に自信もついていたので、東京でもやれるんじゃないかなと思ったんです。それで2010年の年明けに深夜バスで上京しました。最初は妹の家にやっかいになることにして。
──東京に出るにあたって、誰かミュージシャンとのつながりはあったんですか?
厚海 いいえ。そのころは今、周りにいる人たちとは、まだほとんど誰とも知り合ってませんね。
──名古屋時代にすでに何らかの縁があったんじゃないかと思ってました。
厚海 まったく違うんです。
──じゃあ、本当に無縁の状態で東京に?
厚海 ただ、GUIROでも2回くらい対バンしたことがあるmusic from the marsというバンドの藤井さんが東京にいるから、その縁を頼ってみようというところは少しありました。
──手がかりはないけど、とにかく東京には来てみたと。
厚海 上京してからは、すぐにディスクユニオンでバイトを始めました。それからしばらくはバイト生活ですね。藤井さんが奥さんとやっているバンドのサポートでベースを弾いたりはしてましたけど、ライヴ活動は本当に少なかったですね。
──そういう状況がひらけたきっかけは?
厚海 一番の転機は、2010年の大晦日かな。下北沢mona recordsで「モナレコードをぶっこわせ〜年末スペシャル」という年越しイベントがあったんです。
──このイベント、今見るとすごいメンバーですよね。あだち麗三郎 with cero、チェンバーアナホールトリニティ、ボンボンスパイラル、B-positive?、Alfred Beach Sandal、ザ・なつやすみバンド、シンクロ、cero、カジメラ、三輪二郎、ホライズン山下宅配便……。
厚海 でもぼくは、そのときceroのことも、とんちれこーどについても、まったく何も知らなかったんですよ。でも、当時付き合ってた彼女がとんちれこーど周辺の音楽がすごく好きで、「おもしろいイベントがあるから、大晦日に行こうよ」って誘われて、それで出かけて行ったんですよ。そのときに初めてみんなのライヴを見たんです。
──それはもう、純粋にお客として行ったんですよね。
厚海 はい。誰も面識ないですから。でも、そのときにあだちくんと話をする機会があったんです。そしたら、なぜかあだちくんがGUIROを知ってたんですよ。その場であだちくんの「flow song」ってCD-Rをもらって、連絡先を交換したかな。
あだち麗三郎「flow songs」(2010.10.24)
──なるほど。
厚海 その夜は、そのあいさつくらいで終わって、翌日の元旦からもうユニオンのバイトに入ってたんですね。その日の休憩時間に「flow song」を聞いてたんです。そしたら、その音源にえらく感動しちゃって。「すげえいい歌書く人だな」って思いました。一番やられたと思ったのは「おはようおやすみ」です。そのことを確かツイートしたのかな? それをあだちくんが見てくれたのかわからないけど、「サポートやってもらえませんか?」って連絡があったんです。
──そこからがいよいよ東京時代の厚海義朗の本格的なスタート。人をつなげる才人、あだち麗三郎が、ここでもキーパーソンなんですね。
厚海 今、僕が音楽活動で関わっている人の8、9割は、あだちくんから派生した人たちですから。
──あだちくんと出会ったときに、彼がGUIROを知ってたというのも大きかったですね。「あのベースの人」という想像がすぐにできたわけだし。
厚海 大きいですね。……あれ? でも、あだちくん、GUIROをいつどこで聴いてたんだろう? CDを持ってはいなかったと思うんですよ。サポートをやると決めたときに、唐木田のサイゼリヤであだちくんと会うんですけど、そのときにGUIROのCDを渡してるんで……。
──音源として流れてるのを聴いてたのか、それともどこかでライヴを見ていたか?
厚海 存在は知ってたと思うんですよ。じゃないと声をかけてこなかったと思うし。
──とにかく、そこであだカル(あだち麗三郎クワルテッット)に入ることになったんですね。当時のあだカルのメンバーは、あだちくん、ceroの荒内くん、田中(佑司)くん。でも、誘われたのが2011年に入ってからの話だから、すぐに震災があるんですね。
厚海 今でも覚えてるのは、地震の2日後くらいだったかな。あだちくんから電話があったんですよ。「Rojiってお店に行かない? ceroの高城くんがやってるお店だから、紹介するよ」って言われて一緒に行ったんです。そしたら、そこにみんながいて、一曲ずつ弾き語りしよう、みたいな話になって。あだちくんが「放射能には海産物がいいらしいよ」って言って海苔を出してきて、「韓国海苔風にしよう」って高城くんがごま油を塗って炙って、みんなで食べたりしました。電気はなるべく使わないで、ろうそくを灯して。高城くんとちゃんと話したのは、そのときが初めてだったと思います。
──そこでつながったんですね。かなり劇的ですね。
厚海 不思議ですよね。
──そういうつながりを経て、あの夜(11年5月15日)に、渋谷であったceroのライヴのフロアでぼくが厚海くんに会ったんですね。いろいろ思い出してきたけど、11年のrojiの忘年会でも、ソロで歌う厚海くんを見てます。あれからちょうど2年くらいになるんですね。
厚海 でも、交流は一気に広がったわけではなかったですよ。じわじわという感じでした。ライヴでぼくのベースを見て、「おー、なんかすごいやつがいる!」みたいな感じで次々に声がかかったとか、そういうことではなかったです。今思えば、2011年ごろの自分って、今に比べればぜんぜん未熟だったんでしょうね。自分なりにいろんな人と関わって、自分が好きだと思った人たちからいろいろ勉強させてもらってました。マイナー・チェンジを図っていた時期ですね。
──東京での正式なバンド歴としては、あだカルがあって、その次は……? サポートはとにかくたくさんやっているイメージでしたけど。
厚海 チムニィをちょこっとだけ手伝いました。片想いのサポートも一回だけ、伴瀬さんの代わりにやってますね。正式なバンドとしては、藤井洋平とのthe VERY Sensitive Citizens of TOKYOが次になるのかな……。藤井くんのバックでの初ライヴは、2012年のヴァレンタイン・デーでしたね。下北沢THREEで、昆虫キッズが対バンでした。
──いろいろな活動を通じて、ベーシスト厚海義朗の存在感はじわじわと浸透していってたと思うんですけど、やっぱり、ぼくが印象深いのは、去年のとんちまつり東京篇(2012年12月15日、新代田FEVER)での、“ceroあだちセクステッット”ですね。あのときの、ceroのレパートリーを厚海×光永のリズム・セクションでやったライヴは衝撃的でした。『My Lost City』(2012年)の「さん!」で厚海くんがベースを弾いているのは知っていましたけど、実際にライヴで加わると、こんなに音が変化するのかと思い知らされました。それは見ていたみんなもおなじだったと思いますけど。高城くんに話を聞いたら、じつは結構前から厚海くんをベースで加えることは考えていた、と。
cero「My Lost City」(2012.10.24)
厚海 「いつかやりたい」とは、ずっと言ってくれてたんですよ。
──実際の言葉としては、どう口説かれたんですか?
厚海 あだカルでも、あらぴー(荒内)からなんとなくはそういう話はされてましたけどね。「もしお願いしたらやってくれる?」みたいな。こちらとしては「それはもう絶対やるやる!」という返事で。でもその世間話みたいな感じの打診からしたら、ずいぶん時間はかかったなという感じが結構正直なところでしたね。
──むしろ待ってた、くらいな。
厚海 でもやっぱり、あの編成での『My Lost City』のceroの音はもうできあがってたし、そこからリズム・セクションを全部取っ替えるというのは大変なことですから、時間がかかるのはしかたがないかなと思いますけどね。実際、「とんちまつり」以降も、わりとお試し期間があったんです。たとえば今年の下北沢インディーファンクラブ(2013年6月23日、ceroは下北沢GARDENのラストで出演)とか。
──ああ、あそこはまだあれはお試し期間だったんですか? 確かに、高城くんもあの日のceroは“contemporary exotica rock orchestra”ではなく、別“contemporary eclectic replica ocean”という別のシリアルを持つあたらしいバンドだと宣言していたんですよね。
厚海 そのあとにceroのサポートをしたときも、ああいうフェス感覚の、転換がせわしなくてリハもちゃんとできない状況で舞台にあがるという出演が2、3回続いたんですよ。やっとちゃんとできたのが、渋谷クラブクアトロでのEgo-Wrappin'とのツーマン(2013年8月30日)だったと思います。
──あの日は、表現(Hyogen)の古川麦くんも加えた8人編成のceroのお披露目でした。そこからの流れでリキッドルームのワンマン(2013年9月8日)を迎えたわけですね。自分がceroに入るとしたら、光永くんとのリズム・セクションごと参加すると思ってました?
厚海 それはもう、なんとなく思ってました。
──あだちくんのドラムに対するベースとして、ではなく。
厚海 そうですね。あだカルとceroの合体を一度やってましたし。ぼくもベースを弾くんであれば、あだちくんじゃなくて光永さんとやりたいとずっと思ってました。そういう話は、あらぴーともしてたと思います。どっちもすばらしいドラマーなんですけど、ぼくのベースに合う合わないがあって。ぼくはやっぱり一小節のなかに揺らぎがあると、ちょっとつらいんです。あだちくんは、16小節とかで合うグルーヴみたいな、もっと大きく流れを作るドラマーなんですよ。どちらにもお互いの良さは別個にあるんですけど、ぼくは光永さんタイプのドラマーが合うなと思ってます。実際にも、やりやすいし。
──厚海+光永のリズム隊が入ることで、すごく音楽がタイトなファンクに変わるんですよ。ビートが強化されるので、そこに乗っかる人たちもすごく自由にエモーショナルな感じを出せるというか。藤井洋平があれだけかっこいいアルバム『Banana Games』を今年出せたのは、このバックありきという部分も大きいと思います。
藤井洋平「Banana Games」(2013.11.20)
厚海 ありがとうございます。そう言っていただけるとうれしいですよ。
──ceroの「Yellow Magus」でも、そうです。ラジオでよく聞くんですけど、あのイントロのジャストな感じ、キャッチーで、しかも高揚感があって。あれはラジオで選曲してる人もかけたくなるだろうなと思ってて。これまでのceroには、どちらかと言えばサイケデリックというか、ぼんやりと視界が開けてくるようなイントロが多かったですよね。もちろん曲に入ればすごくキャッチーだし、とても魅力的なんですけど、イントロでズバッという曲は少なかった。
厚海 言われてみればそうかもしれないですね。ファーストの『WORLD RECORD』(2011年)なんて、まさにそうですね。
──その世界を一気に変えるようなジャスト感を「Yellow Magus」では、光永+厚海のドラムとベースが担ってるんですよね。あのイントロは、フレーズとして指定されていたんですか? それとも自由に弾かせてもらってるんですか?
厚海 ええと、「Yellow Magus」のイントロは指定です。他にも指定の部分もあるんですけど、サビとかは自分の自由でやらせてもらってます。「我が名はスカラベ」も最初のリフは指定で、途中のキックからは自分の好きに考えてやってます。
──そのへんの演奏の自由度ということに関して言えば、GUIRO時代はどうだったんですか?
厚海 GUIROでは、とくにぼくが入ったばかりのころは、完全にフレーズが決まってました。「こういうふうに弾いてくれ」と言われて、ぼくはそれを喜んでやってました。勉強になってたんです。当時の自分にはぜんぜんない発想だったから。高倉さんって楽器はそんなにいろいろやらないのに、どうしていろんなフレーズが出てくるのか、不思議でしたね。
──GUIROでの活動を続けるうちに、だんだん厚海くん自身の自由度が高まっていって。
厚海 そうですね。曲がなじんでいくと、自分なりにもっとこうしたいというアイデアも出てくるし。「エチカ」とかは、初期と後期ではぜんぜんベースが違いますね。
──とくにGUIROは、ライヴだと(松石)ゲルさんのドラムが曲に対してすごく自由な感じに聞こえてたから、厚海くんのベースが支えるグルーヴというのがすごく重要だったという気がしてました。
厚海 ゲルさんのドラムは、わりとあだちくんタイプでしたよね。揺らぎのあるタイプ。でも、ゲルさんも本当にめちぇめちゃうまいドラマーなんですよ。
──そういう意味では、光永くんと出会ったことで、厚海義朗のベースが今度は逆に自由にやれるようになったんじゃないですか? インタビューの最初では「そんなに仲良くない」って(笑)マークで言ってたけど、実際の相性は抜群ですよね。
厚海 光永さんとやっていると、演奏に対するジレンマがぜんぜんないんです。すごく楽しいです。
──誰かに頼まれてサポートで入るんだけど、ただ言われたことを淡々と仕事としてこなすのではなく、自分たちの腕で何かをおもしろく変えてゆく役割。MC.sirafuとかもそうですけど、それができる人たちって、すごく重要なんですよ。
厚海 そうですね。ceroにぼくと光永さんが呼ばれたのも、技術だけではないはずなんですよ。うまい人なら他にもたくさんいますから。まあやっぱり、関わりの深さもあるし、音楽の話をしててもそれなりにぼくらが理解できると思ってくれてるから呼ばれたんだと思うんです。
──本当にそう思います。じゃあ、ここからは厚海義朗のソロの話など、さらにきかせてください。もう少しこのインタビュー、続けましょう。
(つづく)
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ここで、スペシャル・ゲスト・インタビューをお送りします。
インタビューに答えていただくのは……、このかたです。
●あだち麗三郎、厚海義朗との出会いを語る
──厚海くんが東京に2010年に出てきて、しばらくは知り合いもいないし、ユニオンでバイトしながらいろいろつながりを探してた時期に、大きな転機になったのが2010年12月31日の「モナレコードをぶっこわせ」だったという話がインタビューで出てくるんですよ。そのときに、あだちくんと話をしたところから始まってると。
あだち麗三郎 そうですね。義朗さんの当時の彼女は、ぼくの名古屋でのライヴとかも見に来てくれてて、面識があったんですよ。あの日、「彼、ベース弾いてるんです」って厚海くんを紹介されたんです。でも、そのときにすごい偶然があって。その2ヶ月くらい前に、表現(Hyogen)が日暮里の古本屋さんでライヴをやったんです。その店は、ちょっとしたライヴができる場所があって、オフノートのCDとかがずらっと置いてあったりする不思議な雰囲気だったんですけど、その日の店内ですごいかっこいい音楽がかかってたんですよ。気になったんでお店の人に聞いたら「今は解散しちゃったんですけど、GUIROっていう名古屋のバンドなんです」って教えてくれて。へえ、こんなかっこいいバンドがいるんだ、って思ったんです。
──本当に偶然だったんですね。
あだち そうなんです。CDを買おうと思ったけど、ネットを見たらもう買えない感じだったんですね。欲しいな欲しいなとずっと思っていたら、その2ヶ月後に「GUIROってバンドでベースやってました」って人が目の前に現れて。「えーっ?」って思いました。これはもうなんか運命だなと思って、ぼくのCD「flow songs」を渡して、連絡先を交換したんです。そしたら「すごく『おはようおやすみ』が好きで、毎日聴いてます」ってメールをくれて。これはもう一緒にやるべきだと思いました。それで震災の一週間後にやった3月のライヴから、もう入ってもらいました。
──あだカルに誘うにあたって、唐木田のサイゼリヤでふたりで話をしてますよね?
あだち 一度ちゃんと義朗さんと話をしとこうと思って。3、4時間くらい話し込みました。趣味も合って、直感が確信に変わりました。それまで自分の歌のバックにベースを入れてライヴしたことがなかったんですよ。
──そうなんですか。あだちくんにとっても、初めてのベーシストが厚海くんなんですね。
あだち はい。
──あと、震災の直後に、厚海くんを誘ってRojiに行ってますよね?
あだち 行きました。なんで誘ったのかな? ぼくはGUIROを知ったけど、周りはまだ誰も知らないから、それをみんなに知らせたかったし。高城くんにも義朗さんを紹介したかったし。ぼくは人にいろいろ紹介するのは得意なんで。そこからは本当にいろいろやってもらって。おもしろいベーシストがいるから仲間に入れてあげたいというか、義朗さんをいろんな人に紹介するということを半年か一年くらい、ずっとやってましたね。
──なるほどね。いい裏付けになりました。
あだち いやでも本当に、あの出会いは強烈だったな。この人と一緒にやるべきだとあのとき思ったんですよ。