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なにかあり/とくになし

厚海義朗、GUIRO、cero、ソロ 厚海義朗インタビュー その4

厚海義朗インタビュー、第四回。気がついたら、とうに二万字を超えていた。


話してくれたことを淡々と構成していったら結果的にこの分量になってしまったのだが、逆に言うと、あまり省略するところがないくらい興味深い話が続いたということの証明でもある。


じつは、このインタビューを連日アップしているタイミングで、GUIROが音源制作をあらたに始めようとしているという話が伝わってきた。現時点では、伝聞の段階なので、ぼくは詳細は知らない。本当であれば最高だなと思うし、GUIROの新作に出会いたいと心から願う。


そして、もしその再始動が、東京で積極的に活動を発信しはじめた厚海義朗のニュースと多少なりとも共振してのことだとしたら、それはすばらしいことだと思う。今は、この先に起こることが何なのかを気に留めつつ、朗報を信じて待ちたい。


では、厚海くんの話をはじめよう。どうやら今回で最終回になるみたい。


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──厚海くんがGUIRO時代から弾き語りとか、自分の活動をしていたのは何となく知ってるんです。コンピレーション『7586 Vol.3(ナゴヤロック3)ういろう流し』にもソロ曲「眠らぬ街」が入っていたし、GUIROで東京に来たときに、デュオでのライヴも別のところでやるというチラシを見ていたし。でも、厚海義朗トリオでやっている最近のスタイルは、そのころのシンガー・ソングライター・スタイルからすると、ずっとボサノヴァ寄りになっていますよね。



 V.A.「7586 Vol.3(ナゴヤロック3)ういろう流し」(2006.10.13)


厚海 今は完全にボサノヴァなんです。昔もそういう曲は書いてはいましたけど、ここまでボサノヴァに特化したものをちゃんとやろうと思ったのは、今年(2013年)に入ってからなんです。


──それはなぜ?


厚海 なんなんでしょうね? 自分でもよくわからないんですけどね。後付けの理由は、いろいろ人にも言ったりしてるんですけど。


──8月の「月刊ウォンブ!」に厚海くんが出たときに、「これはGUIROで高倉さんがやろうとしていたことへの自分なりの返答です」というようなことをぼくも言われた記憶があります。


厚海 松永さんにそんなこと言いました? ああ、でも、言ったかもしれないな……。それもあるっちゃあるんです。でも別に高倉さんはボサノヴァをやってたわけじゃないし、そのへんの感覚をなかなかうまく言葉にできないんですけど……。ああいう曲が自分でもできるようになったきっかけとしては、ジョアン・ジルベルトがすごく根っこにあるんですよ。ブラジルのアーティストをもっといろいろ幅広くカヴァーできればいいんだけど、もう精神的にジョアンにしか興味が持てなくなったんです。それってなんなんだろうって思ってるんですけどね。



──なんなんでしょうね?


厚海 自分でやれる音楽の幅を広げたいという気持ちはあるんですけど、ひとつのことしかできないんですよ。ひとつに没入して、そのニュアンスを追求したくなっちゃうんです。


──ジョアンに強く惹かれるのは歌詞とかも含めてですか?


厚海 その楽曲の持つムードというか、気分みたいなものですけどね。わりとそううつ的なところがぼくにはあって、気分が落ちるとなんにもできなくなっちゃうんですけど、そういうときの気分とジョアンの歌声がすごくマッチして、救われる感じがあるんです。ジョアンや、初期の彼の音楽パートナーであったアントニオ・カルロス・ジョビンの音楽にはね。そこから影響を受けて出て来たのちの人たちの音楽も好きなんですけど、まず自分の興味はその原点にしか向かわなかったんですよ。そして、この感覚を自分の表現にも落とし込めるかもなと、ちょっと思ったんです。


──「月刊ウォンブ!」では、トム・ジョビンアントニオ・カルロス・ジョビン)の「三月の水(Aguas De Março)」をポルトガル語で歌ったじゃないですか。あれはめちゃめちゃよかったですね。



厚海 「三月の水」は、トム・ジョビンが7年くらいうつ病を患ってから復活したときのアルバム『マチータ・ペレー(Matita Perê)』(1973年)の一曲目なんですよ。あれはまさに、うつの時期の気分を反映した曲だったみたいで、生と死の境目をずっと綱渡りで歩いていくようなあぶない香りがあって、歌詞もすごいんですよ。ぼくの気持ちが落ちこんでる状況が、そこにマッチするんでしょうね。それでも前を向いて生きていけると思える曲というか。



──あのときはちょうどニュースで福島原発の汚染水の話題が出ていたじゃないですか。汚染水は、まさに3月の震災が原因で生み出されてしまったものでもあって、あの歌を厚海くんという日本人が歌うことで詩的なイメージとシビアな現実とがだぶって聞こえたというようなことを高城くんが言っていて。その見立ては鋭いなと思いました。いっぽうで、厚海義朗トリオには日本語のオリジナル曲もありますよね。あれも日本語なのかポルトガル語なのか、聞いてるとよくわからなくなるんです。現実と錯覚の境界にある歌を聴いているみたいで、不穏さと心地良さの両方が絶妙ににじんでるんです。


厚海 自分では自分の音楽を、まだそこまで冷静に振り返られずにいるんですけど。


──ボサノヴァへの憧れやブラジル人の気持ちを翻訳したものじゃなく、そのゆらゆらとした部分も含めて、今を生きてる日本人の正直な心境の歌として感じられたんですよ。


厚海 そう思っていただけると、すごくうれしいですね。お手本にしてるものがいかんせんジョアン・ジルベルトしかないから、もしかしたらただその物真似になってしまうんですけど、そうじゃないところでなにかやりたかった。ちゃんと厚海義朗の作品として落とし込む、そのための肝ってなんだろうなと考えたら、ディテールの追求というんでしょうかね。もっと深く掘り下げたら、ひょっとしたら他の人があんまり見えてなかった部分が拾いだせるかもしれない。そういう気持ちで作ってはいるんですけど。


──でも、今日いろいろ話を聞いてきて思ったのは、まだまだ自分は足りないものがあるという自覚や音楽的な精進への気持ちもありつつ、そこで研究一筋になって閉じこもってしまったりはしてないんですよね。ストリートやハコバン時代から培われた度胸みたいなものというか、「とりあえずやってみる」という感覚が厚海くんのなかに自然と備わっていたんだと思います。


厚海 たぶん、そういうのはあるんじゃないですか。やっぱりどこかふてぶてしいところがありますからね(笑)


──無口そうなのにどこかふてぶてしい感じが、厚海義朗という人のおもしろさでもあるんですよね。厚海義朗トリオ、もしくは、ソロの音源を作る予定はないんですか?


厚海 あります。いろいろ考えているんですけど、曲はだいたい揃っていて。今の編成で、アルバムを作りたいですね。


──でも、本当に良い場所にはまりましたよね。この東京のインディー界隈に、今、厚海くんは最高のピースとしてはまってると思います。しかも、自分がそこに居場所を見つけたと同時に、周りにいる人たちにとってもあたらしい世界への突破口を作る刺激的な存在にもなっていて。


厚海 本当にありがたいなと思うんですよ。名古屋から東京に出てきて、音楽でやっていこうとして、でもうまくいかなくて戻っていった人とか、やっぱりいるんですよ。そうやって考えたら、今、自分はかなりありがたい状況にありますよ。


──本当にそう思います。


厚海 自分でも、なんで今こういうふうになれてるのかなと考えるんです。自分で自負してるのは、本当に自分が好きな人のところにしか出向いていかなかったということなんですよね。この世界にいると、仕事のためにいろいろやんなきゃという側面もあるんですけど、ぼくは体質的にそれができないんです。


──すくなくとも音楽では、やりたいことしかやってない。


厚海 そうですね。まあ、単純にずぼらなだけなんですけど(笑)


──インタビューも終盤にきて、今さらする質問かとも思いますが、基本的なことをひとつきかせてください。尊敬するベーシストはいますか?


厚海 そりゃあ、いますよ。多すぎて挙げられないですけど。でも十代のときに決定的な影響を受けた存在としては、レッチリのフリー、ポール・ジャクソンジャコ・パストリアスマーカス・ミラーですね。ラリー・グラハムも、そう。このあたりが今も核になってますね。






──ベースを弾いていて、バンドに対してどういう貢献ができたら、自分としては「うまくやれた」という基準になります?


厚海 今、歌もののバンドをやるうえで一番お手本にしているのは、先人で言えば細野晴臣さんなんです。細野さんって、将棋の盤とかの戦況がくまなく見えていて、そこにうまくポンと必要な駒を置いてゆくようなベースを弾くんですよ。ぼくもそういうタイプのベーシストでありたいなとは思ってます。しかるべきところに音を置いてゆける。そういうありかたが理想ですし、今のぼくの課題でもありますね。


──ぐいぐいベースで引っ張るというタイプの演奏ではなく?


厚海 もちろんそれも大事なんですよ。大事なんですけど、設計図があって、全部が見えてるなかでどうすべきかを把握できてれば、音をもっと効果的に足したり引いたりできるかなと思います。本来、ぼくはめちゃめちゃテクニック偏重主義なんですよ。だけど、細野さんがやっているような全体を把握するという発想のおかげで、テクニックだけじゃない部分でも音楽を考えられるというセンスが自分にも加味されてると思うんです。


──さらに、それに加えて、厚海くんの音楽人生のなかで蓄えられてきたものが、やっぱり演奏にも作用してると思いますよ。


厚海 そうですかね(笑)


──来年はceroもあたらしいアルバムに向かうだろうし、自分のソロ・アルバムも考えているというし、藤井洋平にももっとスパークしてほしいし。厚海義朗をめぐるあれこれが楽しみですね。自分がやりたいことで忙しくなって、それで金銭的にも暮らしていけるのが、みんなの一番の理想だと思うし。がんばってほしいです。


厚海 がんばります。


──ceroに対しても、今までにないファクターを与える重要な存在だと思います。高城くんも荒内くんも、今、ブラック・ミュージックにすごく興味を感じてるし、サウンドに対してリズムとか色艶を出したいと思うときに、厚海くんのベースと光永くんのドラムはすごく重要でしょう。


厚海 そうやって期待されるということは、ぼくにとってもベーシスト冥利に尽きるわけですよ。なんか、あの人たちの予想を上回りたいと言うのは、ありますよね。


──この編成でなくちゃいけないという曲がどんどん増えていくと、ますますおもしろくなると思いますよ。


厚海 はい。おもしろくします!


──あと、あまりおおやけにはしていない事実ですけど、厚海くん、じつは左耳が聞こえないんですよね。今もこうやって普通に話せてるからぜんぜん大丈夫なんでしょうし、正直言って、演奏を見ていてもまったくそこに気付くことはないんですけど、音楽をやるうえでのなんらかのハンデを感じたりはしないですか?


厚海 ハンデとはまったく思わないですけどね。生まれつきなので、これが当たり前なんです。単純に、モニターの位置とかをシビアに設定しないと音が取れないというのはありますけどね。あと、さわがしい状況でうしろから人に話しかけられたりしたら、ちょっと気がつきにくいというのはあります。だから、よくぼおっとしてる人みたいに思われたりします。


──それをぼくは怖いと感じてたのかも(笑)


厚海 ああ、そうかもしれないですね(笑)


──でも、GUIROの怖い人と思っていた厚海くんと、こうやって話ができるようになって、よかったなと思ってます。


厚海 怖い人と思われてたのは、すごく意外なんですけどね(笑)。そんな眼力のある顔ではないですよ。


──いやいやいやいや(笑)。GUIROのアルバムに載ってる写真を見ても、なにかしでかしそうな感じがしてました(笑)



厚海 ああ、そうですか? 自分じゃわからないですけど……(写真をしげしげと見て)ああ、でもそうですね、このなかで見ると、確かに亜熱帯な感じはあるかもしれませんね(笑)


──亜熱帯!(笑)


厚海 これはよく人にも言うんですけど、GUIROってぼくのなかでは音楽学校だったんですよ。ここでいろいろ本当に学ばせてもらいました。メンバーみんながそれぞれ別々に好きな分野があって、ぼくはそれを全部おもしろいなと思って受け止めてました。


──そういう人が今はceroや、東京のシーンの接着剤としてすごく有効に機能しているというのは、本当におもしろいですよ。


厚海 GUIRO時代の成果が、今出てるのかなと思いますね。今は今で、日々、刺激を受けることがありますけど。


──バンド活動が軌道に乗ったら、次はあれですかね、良縁。


厚海 良縁?


──彼女的な(笑)


厚海 いやあ……、そこは本当にがんばりたいですね……。


──長いこといろいろ話してもらって、ありがとうございました! ぼくにとってもこれはひとつの念願だったので、すごくわくわくするインタビューでした。じゃあ、彼女募集中の話は、このあとRojiに行ってから、ビールでも飲みつつやるってことで……。


(おわり/2013年12月4日、阿佐ヶ谷ニューシャドーにて)



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では最後に、厚海義朗の、ソロを一曲(撮影:鈴木竜一朗)。