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なにかあり/とくになし

ザ・ロスト・ウィークエンド

 報せは突然だった。


 カリフォルニアのウェスト・ハリウッドにあるライヴハウス、ラルゴで、2015年5月8日、9日の二夜にわたって、ヴァン・ダイク・パークスが“ラスト”・ライヴ〈ザ・ロスト・ウィークエンド〉を行うというのだ。


 一瞬「え? 引退コンサート?」と動揺したが、これはあくまでピアノを弾きながら自作曲を歌うシンガー・ソングライター的なパフォーマーとしてのラスト・ライヴとのこと。72歳を迎えたこの天才はこれまでの活動に一区切りを着け、音楽家として次のステップを目指すのだという。


 とは言うものの、1968年にリリースされた革命的なファースト・ソロ・アルバム『ソング・サイクル』を皮切りに、21世紀に入ってのアナログ・シングル6枚連続リリースから結実した近作『ソング・サイクルド』(2013年)に至るまでの、佳作でありながらひとつひとつが濃密な約半世紀のキャリアに、ひとつの句読点を打つ催しであることは間違いなかった。会場に選ばれたラルゴは、ジョン・ブライオンエイミー・マンも寵愛する、古い映画館を改装したライヴハウスで、キャパは250人程度。当然両夜ともソールドアウトした。アメリカ音楽界の偉人の節目のコンサートの場所としては不釣り合いなくらいの小ささだが、音楽で過去のアメリカと現在、未来の音楽をつなげてきた音楽人生を思うと、むしろここラルゴにある古さもあたらしさも一緒にある時空間こそがふさわいいシチュエーションであるとも感じられた。


 2晩のコンサートのために用意されたバンドは、ストリングス6名、ベース、ドラムス、ギター、ハープ、そしてヴァン・ダイクのピアノという構成。さながらミニ・オーケストラのようにクラシカルな演奏を繰り広げたかと思うと、アメリカ南部やカリブ海のグルーヴにも対応できる自在なミュージシャンたちが揃った。そこに登場したスペシャル・ゲストは、以下の通り。旧知のイナラ・ジョージ(8日)、ギャビー・モレノ(両日)、ニュージーランドからこの日のために駆けつけたキンブラ(9日)といった女性シンガーたち、名プロデューサーでもあるジョー・ヘンリー(両日)、グリズリー・ベアのダニエル・ロッセン(両日)、ローウェル・ジョージに捧げるスライドギターがすごかったジョー・ウォルシュ(9日)。そして、8日のライヴが始まるにあたって司会として挨拶をしたのが、ヴァン・ダイクの70年代以来の親友であるモンティ・パイソンエリック・アイドル! いきなり度肝を抜かれた!


 エリック・アイドルが場内を毒舌で爆笑させてヴァン・ダイクを呼び出すと、蒸気機関車が到着した駅の雑踏の音が場内に流れた。「ここはどこだ?」と、あたりを見渡しながら、ピアノを離れ中央に歩み出すヴァン・ダイク。それはかつて彼を生まれ故郷のテキサスから南カリフォルニアに連れてきた汽車の音の再現だった。オーケストラに向かって、すっと腕を振り上げると、その柔らかい弦の調べと同時に、一曲目が始まった。


 「That's the tape that we made...」


 一瞬気が遠くなるかと思った。それはあの『ソング・サイクル』の幕をおごそかに開ける曲、「ヴァイン・ストリート」。ランディ・ニューマンの曲だ。信じられないことに、この日、客席にはランディ・ニューマン自身がいた。それだけじゃない。ヴァン・ダイクとともに60年代末のあの魔術的なバーバンク・サウンドを作り出したプロデューサー、レニー・ワロンカーも、1960年代に若き二人を雇って未来を託したワーナー・ブラザーズの社長、モ・オースティンもいた。彼らが見ている前で、ヴァン・ダイクが「ヴァイン・ストリート」を歌い、演奏しているという事実は、その場に居合わせたすべての観客を、1968年『ソング・サイクル』制作中のバーバンクに引き戻したはずだ。


 グアテマラ出身の女性シンガー、ギャビー・モレノが基本的にヴォーカル面でのさまざまなサポートを行い、ゲストが曲によって入れ替わりに登場するかたちでコンサートは進行した。ビーチ・ボーイズの「英雄と悪漢」(1967年)、『ディスカヴァー・アメリカ』(1972年)、『ジャンプ』(1984年)、ブライアン・ウィルソンと制作した『オレンジ・クレイト・アート』(1995年)と、重要な作品から重要な曲がピックアップされていく。ブライアン自身がラルゴに現れることはなかったし、ランディ・ニューマンも舞台に上がらなかったが、ヴァン・ダイクは、彼が一緒に仕事をし、大きな影響を受けてきた偉大な音楽家たちの楽曲をカヴァーすることで、音楽そのものをスペシャル・ゲストとして丁重に扱った。


 ナッシュヴィルの鬼才ジョン・ハートフォード、ニューオリンズアラン・トゥーサン、親友ハリー・ニルソン、19世紀の作曲家ルイス・モロー・ゴットシャルク(ラルゴのロビーの片隅には、ゴットシャルクの古いポスターが貼ってある)、イナラの父であるローウェル・ジョージカリブ海で見つけた神秘の楽器スティール・パンのプレイヤーたち、陽気で知的なカリプソ歌手たち……。まるでヴァン・ダイクが書き換えてきたアメリカ音楽の歴史と地図の俯瞰図を、目の前で見せられているよう。


 そういえば、ヴァン・ダイクにはこんな話も聞いた。何年か前、ノースカロライナ州のアッシュヴィルという街で行われたフォーク・フェスティヴァルに出演したときのこと。街を歩いていたら、通りの向こうからジョン・ハートフォードとロバート・モーグ博士が談笑しながら、こっちにやって来たという! 「モーグ博士は、アッシュヴィル出身だったんだよ。そして、ハートフォードと博士には交流があったんだ。ものすごい天才ふたりが一緒に歩いているのに、周りの人は誰も気がついてなかった」それもまた、音楽の教科書には書かれていない歴史のひとつだ。


 かつてインタビューしたとき、ヴァン・ダイクは「どんな時代であれ、音楽とは異文化を伝える最良の手段なのだ」という意味のことを言っていた。人間が移動することで、その人の知っている歌や音も伝わっていく。そして、知らない場所で知らない文化と交わって、新しい何かが生まれていく。その最良の神秘と成果のひとつが、はっぴいえんどの「さよならアメリカ さよならニッポン」でもあった。21世紀を迎えて、戦争や環境破壊などいろいろな憂慮や絶望はあっても、ヴァン・ダイクが今も前を向いている理由は、根本にその信念があるからだろう。この巨人はスマホを使い、Youtubeを今も丹念に検索し、SNSをおそれない。そして、自らの新しい音楽キャリアへとアクセスを続けていく。


 両夜のMCでもヴァン・ダイクの脳内メモリーから引き出される逸話の数々は、健在だった。スコット・フィッツジェラルドアーネスト・ヘミングウェイの友情とその決裂について語ったり、近年カリフォルニアを襲う飢饉の深刻さと政府の無策(「アワ・ウェット・ドリーム・イズ・オーヴァー」と彼は表現した)にも言及をした。福島原発の事故収拾と海洋汚染についても彼の関心は高い。だが、一方的に権利を主張したり、誰かを非難することではこれらの問題がもう解決できないことも知っている。「自己顕示欲で生きてる場合じゃない。世界中が力をあわせなくちゃいけない難局がこれから来るんだから」と、ヴァン・ダイクは観客に語りかけた。


 コンサートの終盤、ヴァン・ダイクはピアノを離れた。そして、6人のストリングスを従えて20世紀を代表するビートニク詩人ローレンス・ファーレンゲッティ(サンフランシスコの書店〈シティ・ライツ・ブックス〉の店主で、95歳の今も健在)の詩「アイ・アム・ウェイティング」を歌うように朗読した。チェンバー・ミュージックとポエトリーを融合させた表現で、このすばらしい言葉の芸術を伝える表現を、自らのネクスト・ステップでは追求したいのだと彼は言った。音符と言葉にまみれて生きてきたヴァン・ダイクらしいチャレンジだと思えた。


 コンサートは両夜ともに3時間に及ぶものだった(2日目は休憩を挟む構成になったので3時間半を超えた)。


 2日目のアンコールで、ヴァン・ダイクは、予定の曲を演奏しようと準備するバンドを手で制すと、ヴァン・ダイクはひとりでピアノを弾き始めた。もしかしたら、もともとは演奏の予定になかったのかもしれない(初日は演奏されなかった)。その曲は「オール・ゴールデン」。1965年、ピアニスト、カーメン・キャバレロの演奏を見て書いたとヴァン・ダイクが語ったこの曲は、実質的に『ソング・サイクル』制作の原点にある存在だ。その白昼夢のような響きは、この音楽家が見ていた半世紀の夢を宝箱にしまいこむエンディングテーマのようでもあったし、長く彼とともに音楽を奏でてきたピアノとのお別れの場面を見ているようでもあった。その過去は、まるで未来のように光で揺らめいていた。息をこらえているうちに涙が出た。


 「オール・ゴールデン」を弾き終えて、猛烈なスタンディング・オベーションが巻き起こるなか、「さて、これが私のスワン・ソングだよ」と笑うと、バンドがカリプソを奏で出した。最後はカーニバルじゃなくちゃね。その曲は「アナザー・ドリーム」(『ヤンキー・リーパー』1975年)。


 “スワン・ソング”とは、日本語では“辞世の歌”。こうしてヴァン・ダイクは、ひとつの音楽人生にさよならをした。終わりがあるからその次がある。カリプソのリズムに見送られ、辞書ほどの厚みのある譜面の束を抱え、舞台を降り、旧友たちと握手して、客席を抜けていった。ドアを開けたその先には、もう次の夢が待ってる。


Van Dyke Parks "The Lost Weekend" at LARGO, LA
2015/05/08, 09
setlist (incomplete)


Vine Street (Randy Newman cover)
Heroes and Villains (The Beach Boys cover)
Palm Desert
FDR in Trinidad
Sail Away
Jump!
Opportunity for Two
Come Along
An Invitation to Sin (feat. Inara George / Kimbra)
He Needs Me (Harry Nilsson cover) (feat. Kimbra) *09 only
Riverboat (Allen Toussaint cover)
Delta Queen Waltz (John Hartford cover)
Danza (Louis Moreau Gottschalk cover)
Night in the Tropics (Louis Moreau Gottschalk cover)
Orange Crate Art
Cowboy
I Am Waiting (Lawrence Ferlinghetti poem)
Sailin' Shoes (Lowell George cover) (feat, Daniel Rossen / Joe Walsh)
Death Don't Have No Mercy (Reverend Gary Davis cover) (feat. Joe Henry)
The All Golden *09 only
Another Dream


曲順、曲目は両日で多少異なりました。




photos by courtesy of Lincoln Andrew Defer


(『CDジャーナル』2015年7月号掲載の原稿を、編集部の許可を得て加筆訂正して掲載しました。)

野田薫のありのまま 野田薫インタビュー その4

シンガー・ソングライター野田薫インタビュー、第4回にして最終回。


前回までのインタビューは、5月に高円寺円盤での公開イベントとして行われたもの。今回は、そこからはみ出した話を、あらためて6月に阿佐ヶ谷のRojiで取材したものだ。


だが、話の内容としては、新作『この世界』について、がっつりとしゃべってもらっているので、〈ボーナス・トラック〉といいつつも、じつはこれこそが〈本題〉なのだった。


では、『この世界』についての、ありのままの話をどうぞ。


前回までのインタビューはこちら → 
野田薫のありのまま 野田薫インタビュー
その1
その2
その3


野田薫ホームページ


メタ カンパニー:野田薫『この世界』販売ページ(特典CD-R『Letters』情報あり)


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●『この世界』(2015)


1. おはようさん
2. リズム
3. あとかた
4. 気配
5. 帰り道は楽しい
6. 夏のおわりに
7. ラジオ
8. 小さな世界


野田薫
西井夕紀子
角飼真実
あだち麗三郎
表現(Hyogen)
  佐藤公哉
  権頭真由
  古川麦
  園田空也



──『この世界』について、あらためてたっぷり話を聞きたいと思います。ロンドンから2012年に帰ってきて、ライヴを重ねてきて、いよいよアルバムを作ろうと思ったのはいつごろなんですか?


野田  じつは、アルバムのことを思いながらも、どういうかたちにしたいかというのがあんまりはっきり頭のなかになかったんです。曲は作っていたし、“いつかできたらいいな”くらいの気持ちでした。ちょうど試聴室での〈マン・ツー・マン〉もやっていたので、むしろ毎月ライヴをやるということのほうに重きを置いていたんです。ライヴをやって、他のミュージシャンに出会っていくことがおもしろくて。


──そうなんですね。


野田  それが、その試聴室のピアノが、もうすぐなくなりますという話がでてきたんです。「野田さんが〈マン・ツー・マン〉をやりきるまでにはあるようにしておくから」とは言われたんですけど、わたしは試聴室のピアノが大好きだったので、なくなること自体がショックで。「じゃあ、このピアノでアルバムを録りたい!」って思ったんです。


──なるほど。録るべきタイミングが向こうからやってきた。


野田  そうなんです。あのピアノでなにかを残したいというのが動機のひとつになりました。それと同時に、ちょうど試聴室で表現(Hyogen)がヨーロッパ・ツアーから帰ってきてのワンマンをやった日があったんです(2014年10月7日)。そのライヴを見たときに「表現(Hyogen)とわたしの共演を、ここ(試聴室)で録ってもらったら最高だな」って思ったんですね。もともとは去年の〈フジサンロクフェス〉(2014年8月15日、16日/写真家の鈴木竜一朗が主宰し、静岡の御殿場市で開催される、世界に稀な自宅音楽フェス)で、表現(Hyogen)と共演させてもらって、一曲「Letter」を一緒にやったときから、その共演がわたしのなかであまりにも衝撃的すぎて、いつかは音源でも一緒にやりたいと思っていたんです。その話を当日、たまたま試聴室で表現(Hyogen)のPAをやっていた三浦(実穂)ちゃんに話したら、「野田さん、それ録りましょうよ」って言ってくれて。




──〈フジサンロクフェス〉も、きっかけにあったんですね。


野田  はい。あのとき、わたしの曲が表現(Hyogen)によって成仏したように思えたんです。


──“成仏”しちゃったんですか!


野田  本当に。天にのぼっていくような衝撃を受けたんです。


──“成仏”したらもうその曲なくなっちゃうじゃないですか(笑)


野田  そうなんですけど、感覚はそれに近かったんですよ(笑)。曲に込めた個人的な思いが、人の手が加わることで結構意外な方向に飛んでいって、そのことで“わたしの思いが浮かばれた”って思えて。そういう感動があったんです。とにかく、その感動があったので、「アルバムを録りたい」と決めたときは、表現(Hyogen)にはすぐに声をかけようと思ってました。あと、もちろんトリオのメンバーと、あだちくんも。で、そこからはトントン拍子だったんです。試聴室の予定と三浦ちゃんの予定とわたしの予定がピタッと合った日に、「まずピアノだけ録っちゃいましょう」ということで、わたしが録りたいと思っていた7曲を試聴室のピアノでまず録って、それがベーシックになりました。どういうアルバムにしたいかは、そこからもっと具体的に考えていきました。


──なるほど。じゃあ整理すると、試聴室のピアノがなくなるという期限と、表現(Hyogen)と一緒にレコーディングしたいという気持ちの高まりと、このふたつが新作へのスタートラインを作ったということなんですね。


野田  そうです。録るのが先に決まりました。


──でも、アルバムに入れる8曲はすでに決めていた。


野田  はい。曲ごとに一緒にやりたい人も決めていたけど、じゃあどうやってそれをアルバムとして見せていこうかというのは、あとからでした。それで、この8曲で一本の映画のようなストーリー性のあるアルバムを作ってみたいと思うようになりました。


──曲順は?


野田  ざっくり決めてはいたかな? 一本の映画にするには、この曲が最初かなとか。


──〈マン・ツー・マン〉みたいなおもしろい企画を月例でやっていたわけだから、その共演の数々から得た関係性をそのままアルバムに反映していくという方法もあったと思うんですけど。


野田  それは思わなかったですね。なんでだろう? 継続して毎月「Letter」の共演を録り溜めしていたので、そっちはそっちで別のかたちに残そうと思っていたんでしょうね。


──アルバムは映画みたいにしようという話でしたけど、たとえば誰のどんな映画をイメージしてました?


野田 今回思ったのは、エミール・クストリッツァです。「アンダーグラウンド」とか「ライフ・イズ・ミラクル」とか、結構不幸なことが起こってるのに「わー!」って盛り上がっちゃうというか。あの強さがいいなと思って。あんまり湿度が多めにはわたしはしたくないし、クストリッツァの映画みたいに一本を通してああいうふうに光が見えるようにしたいと思ってました。




──そのために意識してやった作業って、どういうものでした?


野田  緩急みたいな意味で物語っぽくしたかったわけなんですけど、まず思っていたのは、表現(Hyogen)が加わる2曲「夏の終わりに」と「ラジオ」の間にちょっとしたセッションみたいなパートを入れたりすることでした。あの2曲に関して言うと、夏の記憶がそのままフィードバックして、自分の子ども時代に戻って、そのときラジオを聴いてたな、みたいなことを考えた部分があったんです。〈フジサンロク〉で表現(Hyogen)と一緒に「Letter」をやったときから、“昔に還る”みたいなイメージはすごく強かったので、まずその2曲は彼らにやってもらうというのは決めてました。にぎやかな曲があっても、表現(Hyogen)の演奏によるこういうイメージがあることでぐっと情緒的というか、ノスタルジックになって、でもそこからまたからっといくような流れが作れるという意識はありました。わたしは、ちょっとさみしい部分があっても明るく見せる映画監督が好きなんです。


──そういう自分なりのコンセプトを意識的に音楽に落とし込もうとしたのは、今回が初めてですか?


野田  そうです。自分の考えでやったというのは今回が初めてだったので、具体的な音の指示とか、どうしたらいいかをすごく考えました。自分以外の人への細かい指示に、わたしは結構苦手意識があって、だからこそ、わたしの感覚的な言葉をそのまま投げてもうまくキャッチしてくれるミュージシャンにお願いしたというのはあります。コーラスの部分以外でわたしが細かく指示した部分って、全体を通してもちょっとしかなくて、ほとんど彼らにおまかせしたんです。


──「ここにはこの音が必要なんだ」っていう感じの細かいディレクションではない。


野田  ほぼないです(笑)。わたしはライヴでも音源でも、いつもいろんなミュージシャンに甘えっぱなしなんです。


──でも結果的に音像はすごく豊かですよね。野田さんと一緒にみんながイメージや記憶のなかで遊んでるような感覚がある。


野田  それはもう、わたしの本当に大ざっぱな指示をキャッチしてくれる人たちにわたしは恵まれたんです。でも、音の動かし方とか、ミックスの面での作業は三浦ちゃんとすごく遊びました。作業をしていて「ユッキー(西井夕紀子)だったら、ここは歩いて弾くよね」みたいな話が出たら、「じゃあ、ここからここまでどんどん音を動かそう」って言って、そうやってみたらじっさいに歩いてる感じが出て感動したり。「(権頭)真由ちゃんだったら、ここらへんでこういう音出すよね」ってなったら、「じゃあもうちょっと遠くの配置にしよう」とか。そういうふうに個人の音がいつもどういうふうに鳴っているかを考えてやりました。三浦ちゃんも彼らのことはみんな知ってるからできたことですけど、そういう音作りの作業はすごく楽しかったです。「ベースだからこういう音で」とかいう固定観念じゃなく、彼らのパーソナルなほうを見たんです。


──人から考えた結果の音。音や技術で判断するというより、その人の人柄や行動で決めてくっていうのがおもしろいですね。


野田  そうですね。本当にこのメンバーじゃなかったら、こういう音にならなかったなって思いますね。あだちくんにもサウンド・アドヴァイザーとして関わってもらって、最初は、この音がこう鳴るときちんと成り立つという枠組みをまず作ってくれたんです。でも、そこでわたしと三浦ちゃんは「すごくいいサウンドでばしっと決まってるんだけど、なんかもっと崩せないか」って考えて、ふたりで“音を動かす”って方法を思いついて。あだちくんにいい配置でいい音を作ってもらったのに、それをわたしたちで崩して、またあだちくんを呼んで違う曲の配置を作ってもらって、というのを繰り返しました。もちろん、最初にかっこいい音を作ってもらってるので、わたしたちが崩していけるんですけどね。あだちくんの力を大いに借りて、わたしたちで大いに遊ぶということをやったんです。


──それはおもしろい作業だったでしょうね。そこで音だけにフォーカスして遊んでしまったら、もしかしたら下手な自主映画みたいになっていたかもしれないけど、人対人の通じ合いとか、思いやりみたいなものがあるせいで、ちゃんとしたドラマに感じられましたよ。


野田  はい。わたしと三浦ちゃんが一番盛り上がったのは、ミックスだったんです(笑)。それがあったから結果的に、ちゃんと一本の映画のように登場人物みんなのキャラクターを出したふうな音にできたんじゃないかなと思います。


──アルバムの軸を定めたと自分で思える存在の曲はどれですか?


野田  どれだろうな? アルバムのなかで一番古いのは「おはようさん」か「あとかた」で、2013年の初めのほうだったかな。あの2曲は、テニスコーツのライヴをよく見に行ってたことが大きいんですよ。もともとの出会いはロンドンだったんですけどね。



──そうなんですか。


野田  当時、Cafe OTOってところでわたしはボランティアスタッフをしていて。


──ああ、野田さんがアルバムにも参加したイギリス人シンガー・ソングライター、ジェームス・ブラックショウの奥さんになった女性も同僚だったという。


●ジェームス・ブラックショウ『サモニング・サンズ』(2014年/野田薫、森は生きている参加。野田さんは「Towa No Yume」の日本語詞も提供している)


野田  はい。そこにテニスコーツがライヴで来たんです。そのときに植野さん、さやさんと話をして、「次の日もおいでよ」って言われて見に行って、飲みにも行って(笑)。別の機会でテニスコーツスウェーデンでライヴをやるときも、わたしはロンドンからスウェーデンまで行ったりして。それで帰国してからもテニスコーツのライヴを何回も見ているうちに、植野さんが「やっぱり曲ってどんどん作っていったほうがいい」みたいな話をしてくれて、それで思い立って作ったのが「おはようさん」や「あとかた」なんです。「おはようさん」は、ある日の朝の感じでわーっと作ってみた曲でした。「あとかた」も、さやさんの身振り手振りや言葉とかに影響を受けて作った曲です。


──そのときの曲作りの方法って、言葉が最初にあって曲をつけていた初期とは、ちょっと違うものになっていたんじゃないですか?


野田  そうですね! 違う感じで作りはじめたのは、「コンスタントにどんどん作ってみたら?」っていう植野さんの話があったからです。それまではそういう作り方をしたことがなかったけど、いつもより早いペースであえて曲を書いてみたのが、そのあたりなんです。そういえば、「あとかた」を作ったときは、ユッキーとか身近な人たちにも「変わったね」って言われたんですよ。自分では「あ、そうなんだ?」って感じで、無意識だったんですけど(笑)


──いい意味で「変わったね」なのか、そうじゃないのか、迷いますよね。


野田  そう、だから「どっちなの?」って聞いたら、ぜんぜんいい意味でした(笑)。「違うステージに入ったんじゃないかって思った」みたいなことを、確かあだちくんにも言われました。それでわたしは「じゃあ、この作り方でも大丈夫かな」って思ったんです(笑)。だから、『この世界』は、前の2枚とは違う作り方をしてできた曲もいくつかあります。


──『あの日のうた』は、言葉やメロディに対する大切さの度合いが高いですよね。もちろん『この世界』ではそれが大切じゃなくなったという意味ではなくて、もっと自由なつきあい方になったように感じました。


野田  はい、自分でもそう思います。


──言葉と音をひたすら吟味して「これだ!」とたどり着いた結果が歌になっていたのが『あの日のうた』で、もっとふらっと寄り道したっていいじゃないと思えるのが『この世界』で。


野田  そうですね。まったくその通りだと思います。『あの日のうた』のころは、曲作りをはじめて間もなかったというのもあるんですけど、友だちにも「もうちょっと気軽に曲が作れるようになってもいいんじゃない?」って言われたりしてました(笑)。一個一個が重めというか、あの時期は、自分が完全にまっさらな状態にならないと、言葉とか音が自然と浮かんでこなくて。ちょっとでも音に迷ったら、夜中だろうがすぐに外に出て、いろんなものを見てそこからインスピレーションを得て音を降ろしていくみたいなことをやっていましたね。体力勝負でした(笑)


──「あとかた」を聴いて「変わったね」って言った人の気持ちが、ぼくもなんとなくわかるんです。ぼくの場合は最初の「おはようさん」から、そう思いましたね。力が抜けたというか、曲がどこにでも行けそうなおもしろさがあると思ったんです。テニスコーツがその背景にあったという話もうなづけるし。でもそれは“触発された”ということであって、たぶん、もともと野田さんのなかにあったものだったんじゃないかなと思いますよ。


野田  テニスコーツのやってることに対しては、本当に憧れが強いんです。あんなふうに音と遊んで素敵だなっていう。でも、今回のアルバムを作って、やっぱりわたしに大事なのは言葉とメロディのしっかりした関係性だなっていうのは、逆によくわかったことでもあるんです。違う作り方になってもそれは変わらなかったと思います。曲の感じは変わったのかもしれないですけど、自分の気持ちは、またちょっと『あの日のうた』のころの作り方に自然と戻ってきていて。


──戻るというより、あたらしいものになっていきそうですけどね。いくらでも寄り道でも回り道でもできる自信がついた結果として。


野田  歌詞的に、最初のころに近いなと思えるのは、アルバムのラストの曲「小さな世界」なんです。もともと、この曲の最初のタイトルが「この世界」だったんですけど。



──そうなんですね。


野田  ロンドンで生活してからこっちに帰ってきたときに、向こうでもこっちでの生活につながる人たちに出会ったりして、結局、大きなサークルのなかに自分がいるというのをすごく思ったんですね。自分が居たい場所とか居る場所って、どこに行ったとしても、このひとつの大きな円のどこかに収まっていたりする。そこで出会うべき人と出会ってるんだと思ったことを、ざっくりと「この世界」って表現してたんです。でも、そのあとに、自分の身の周りにいる、つながる人、途切れない人、これからつながっていく人っていうのを考えて、“この”を“小さな”に変えちゃったんです。


──でも、それはわるい意味での“小さな”じゃないですよね。


野田  ないです。


──自分の手が届くとか、歩いて会いに行けるとか、そういう意味でのつながりの確かさを持つ“小さな”で。


野田  そうです。だから内容的には、この曲には2014年に一番思ったことが入っています。


──アルバム・タイトルとしての『この世界』を残したのは?


野田  わたしの思う『この世界』と、これを手にとってくれる誰かにとっての『この世界』とがあって。その人が“どの世界”を思うのかはそれぞれいろいろでよくて、わたしのなかの“この世界”はこれでしたけど、この言葉ならもうちょっと広い意味でいろんな人にも伝わるかなって思ったんです。


──それぞれ違う『この世界』があっていい。


野田  そうですね。そのなかのひとつの物語がこのアルバムであって。


──アルバム・ジャケットと、『この世界』って言葉も、すごく呼応したイメージがありますよね。そういえば、このジャケットですけど、最初は写真にしたくなかったそうですね。すごくいいのに。


野田  いや、写真に映る自分があんまり想像できなくて(笑)。わたしは、音にあんまりイメージをつけすぎたくないという思いがあって、抽象的なイメージのほうが好きだったんです。でも、わたしの大学時代の同級生である長州ちからくんが、「シンガー・ソングライターは顔を前に出してこそだ!」みたいなことをすごく言うんですよ。「柴田聡子さんとかを見習いなさい。今度アルバム作るときは絶対にそうしなさい」って(笑)。それで、自分が映るかどうかは別として、写真をジャケットにするという案でやってみようかなと思ったんですよ。今回は『この世界』というタイトルにしたこともあって、“自然のなかにわたしがいる”みたいな写真にしようと思って、竜ちゃん(鈴木竜一朗)にお願いしました。ちなみに、この写真で、わたしは木になりすましてるんですよ。


──あ、このポーズは木だったんですか。


野田  自然のなかに溶け込んでるんだけど、どこか異物感を出したくて。竜ちゃんにも「わたしがこういうことをするから、このへんに写して」って言って、結構細かく指示を出しました。


──この撮影は、朝ですよね。


野田  そうですね。朝の光がいいだろうって思ったんです。じつはそのとき、まだ竜ちゃんには音源を聴かせてなくて、行きの電車のなかで全部聴いてもらったんですよ。そしたら「野田ちゃんが朝のほうがいいって言ってる理由がわかった」って言ってくれて。それで、湘南の海に行ってたくさん撮ってもらったうちの一枚なんですよ。


──でも、ぼくが長州ちからくんだとしたら「顔がわかんないじゃないか!」って言いますね(笑)


野田  長州くんにもすぐにそう言われました! 「もっと顔が出たらよかったんですけどね。誰かわかんないじゃないですか」って(笑)


──確かに(笑)。でも、これはいい写真だし、いいジャケットですよ。


野田  今年、酒井幸菜さんというダンサーの方とたまたま共演する機会があったんですけど、そのときに彼女がわたしの曲に合わせて踊ってくれたのに本当に感動してしまって。だからこれは、わたしなりに彼女をイメージしたポーズなんです。竜ちゃんは彼女の撮影もしたことがあるので、そのことを伝えたら「そしたらもっと背筋伸ばしてみて!指先までしっかり意識して!」とか、いろいろアドバイスをくれました(笑)。で、もともと、このあとは山のほうも下見に行く予定もあったんですけど、「これでもう撮れたね」って感じになったんで、あとは観光して打ち上げました(笑)


──ライナーにはもう一枚、野田さんの手の写真がありますね。



野田  こっちは竜ちゃんのイメージで撮った一枚です。「ピアノじゃなくて海を弾いてるようなイメージでちょっとやってみて」って言われました。竜ちゃんが撮る手の写真、前から素敵だなと思ってたんです。彼もざっくりとしたイメージを汲み取ってくれる人なので、写真だったら竜ちゃんかなと思ってました。


──〈フジサンロクフェス〉から生まれた関係をふんだんに使って。


野田  そうですね(笑)


──『あの日のうた』も『The London EP』もそれぞれその時点での野田さんの名刺代わりになってきたと思うんですけど、このアルバムの完成度は、シンガー・ソングライター野田薫にとっての名刺以上の存在になると思いますよ。なんていうか、歌が自分から離れたものになりつつある、いい意味で、ですけど。


野田  そうですね。不安と希望との葛藤のなかで手探りで作ったアルバムですけどね。わたしが働いているなぎ食堂の小田(晶房)さんや見汐(麻衣)さんには本当に相談によく乗ってもらいました。


──自分で自分をプロデュースしたわけだから、そういう意味での自問自答はあって当然と思うんですけど、野田薫野田薫的現在がちゃんと作品として一般性のあるものになってますよ。この先どう変わっていっても大丈夫な感じがあります。「野田薫はこれじゃなくちゃダメ」じゃなくて「これがあるから、野田薫はなんでもやれる」みたいな。


野田  でも、自分がいいと思ってるものをかたちにするという意味では、元をたどれば、やっぱり『あの日のうた』が一番自信の素にはなってるのかも。


──次の野田薫は、これまでの野田薫とこれからの野田薫が混ざり合うことで、もっと変わっていく気がします。


野田  そうですね。


──長州くんにも、また「今度こそは顔を出すように」と言われ。


野田  「近めで」って(笑)


──すごく根本的な質問を最後にしますけど、音楽はずっとやっていきたいですよね? 作品を作って、人前に出て、自分の音楽を歌っていきたいという意味ですけど。


野田  そうですね。今はそう思います。これからさらにエンジンがかかる気がすごくするんです。最初の2枚を作ったときは、「これからわたしはどうなるのかな? どういう音がやりたいのかな?」ってよく思ってたんですけど、『この世界』ができたことで「あ、そうか! わたし、こういうのが好きなんだ。こういうのを大事にしたいんだ」って気づくところがあって、それが前の2作よりもはっきり見えた感じがあるんです。なので、未来を見据えてのこのアルバムなんだなっていうことは自分でも思いました。前の2枚は、作った時点で「あー、作ってよかった」っていう感動があって、そこでそれぞれ完結してたんです。でも、今回はこの先を見据えてる部分がある。それは過去にはなかった経験かな。


──しばらくは『この世界』と一緒に歩いて行けそうですね。


野田  このアルバムで見えたことがあるから、「じゃあ、もっとこういうことをやりたい」っていうのがありますね。こないだも話しましたけど、ニーナ・シモン矢野顕子、ゴーキーズのユーロス・チャイルズもやっている全曲ピアノ弾き語りのアルバムを録るまでは、当分やめられないですね。


──ピアノ弾き語りのライヴは野田さんもいっぱいやってるけど、作品として残すということになると、一番高いハードルなんですよね。矢野さんも映画(『SUPER FOLK SONG ピアノが愛した女』1992年)で弾き語りレコーディングの現場を見ると、めちゃめちゃ緊張感あって怖いですもんね。あの親しげな“アッコちゃん”なんかどこにもいない(笑)


野田  そうなんですよ。弾き語りって、だいぶストイックな行為だと思います。わたしはピアノ一本だけで世界を成り立たせるには、まだまだがんばらなくちゃいけないですね。今の自分の実力でどこまでできるのかということと、自分の曲のなかでの理想とが、まだ結びついてないんですよ。今はそこをだんだん俯瞰して見られるようにはなってきている、その途中かなと思います。ピアノと声だけを使って自分を完璧に表現できるようにはなりたい。それまではがんばらないと。


──そのときに、誰も近寄れないこわい野田薫になってるのか、それともやっぱりみんなとわいわいがやがややってる野田薫なのか、楽しみですね(笑)


野田 そうですね。ただ、ちっちゃいころにわたしが勝手に単調なピアノに乗せて歌ってて、それも泣いたりしてた、そのちっちゃな殻にこもった世界を、もうちょっと自分の力で成仏というか、脱出させてあげたいというのは思ってます。このノンフィクションすぎるものをもっとフィクションに近づけて、物語にできないかなというか。そこを救ってあげられるのが、もしかしたら自分かもしれない。そこはわたしの好きな映画監督にならって、自分の音楽で現実にファンタジーを持たせていきたいんです。


(2015年6月16日、阿佐ヶ谷Roji/おわり)






●レコーディングに参加したミュージシャンを迎えての『この世界』リリース記念ライヴより/2015年7月7日、渋谷7th FLOOR/撮影:鈴木竜一朗)


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野田薫 ライヴ・スケジュール》


7月26日(日)
神保町 試聴室
OPEN 18:00 START 18:30
予約: 2,500円 (+1ドリンク、スナック込)
出演: 野田薫 / 古宮夏希 / やく


8月12日(水)
高円寺 Cafe&Bar U-hA
OPEN 19:00 START 19:30
2,000円 (+1drink)
出演: グルパリ / 野田薫 / 山田真未


10月4日(日)
「伴瀬朝彦まつり〜3〜」
渋谷 7th FLOOR
OPEN 18:30 START 19:00
前売: 2,500円 当日 3,000 (ともに1ドリンク代別)
出演:
伴瀬朝彦
カリハラバンド《服部将典/ みしませうこ / 遠藤里美 / 河合一尊》
biobiopatata《遠藤里美 / てんこまつり / ホンダユカ / ハラナツコ / 菅原雄大 / 林享》
生嶋剛(ペガサス)/ 兼岡章(ペガサス)/ 片岡シン(片想い)/ 野田薫


11月22日(日)
野田薫トリオ in 名古屋



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ライター、森豊和さんによる野田薫インタビューも公開されています。


SYNC4 : 【interview / インタビュー】野田薫Kaoru Noda 『この世界』

野田薫のありのまま 野田薫インタビュー その3

シンガー・ソングライター野田薫インタビューも、第3回。


ファースト・アルバム『あの日のうた』を自主制作し、いよいよ本格的に音楽活動を活発化……と思いきや、彼女の人生はまたおもしろく寄り道をする。


今回はその顛末を、ありのままにめぐってみた。


前回までのインタビューはこちら → 
野田薫のありのまま 野田薫インタビュー
その1
その2


野田薫ホームページ


メタ カンパニー:野田薫『この世界』販売ページ(特典CD-R『Letters』情報あり)

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──ここからは、いよいよ2010年にリリースしたファースト・アルバム『あの日のうた』を皮切りに、シンガー・ソングライターとして野田薫が世に出るにあたっての話、そしてそれからの話をいろいろ聞いていきたいと思ってます。最初に作った3曲のCD-Rは別として、アルバムのレコーディングとしてはこれが最初ですよね。プロデュースは、あだち麗三郎くん。


●『あの日のうた』(2010年)


1. 秋のおとずれ
2. ただあたりまえに
3. メロディー
4. ふと想う
5. わたしの知りたいこと
6. あの日



野田  そうです。あだちくんからは「音源を録りたいときも手助けするから、もし必要だったらなにか言ってね」と言われていましたし、その会話のなかで“プロデュース”という言葉も確か出てました。わたしもひとりではなにをどうしたらいいかぜんぜんわかってなかったので「お願いします」と言ったんです。そしたら、あの豪華なメンバーと録音場所とをバン!と用意してくれて。


──MC.sirafu、古川麦くん、関口将史くん、片想いのダイちゃん(大河原明子)、そして今も野田薫トリオで一緒にやっている西井夕紀子さんが参加してます。


野田  わたしはほとんどみなさんに「はじめまして」状態でした(笑)。あだちくんが、「じゃあ、この曲はシラフくんと誰々とで、これやって」みたいな指示もしてくれて。「こういう曲です」ってわたしの曲を聴いてもらったら、彼らはすぐにいろいろやってくれるので、わたしは「あだちくん、すごい」って、なってました(笑)


──また(笑)


野田  このときは「短期で全部録ろう!」ということになって、1日半ですべての素材を録り終えて。そのメンバーで泊まり込みでやりました。そういうことも含めて、全部あだちくんがセッティングしてくれました。


──そうやってアルバムができあがった「あの日のうた」。アーティスト野田薫の名刺代わりの一枚になったわけですけど、自分としてはどうでした?



野田  うれしかったですね。でもじつは、わたしはレコーディングの前あたりから、すごくイギリスに行きたくなってたんです。


──え? ようやく自分がシンガー・ソングライターとしてやっていく最初のアルバムを作ろうとしているのに?


野田  そうなんです。ようやく名刺代わりになる作品はできたんですけど、それができた瞬間、なにか次の未知のことに一歩踏み出せる自信が芽生えてきてしまって。それで、イギリスに一年半ほど行ってしまうんです(笑)


──イギリスはなぜ浮上したんですか? レディオヘッドから?


野田  元をたどれば、そうですね、レディオヘッドから(笑)。日本以外の国を意識したのもイギリスが初めてだったし、「イギリスって国でこういう音楽をやってる人がいる。いつか行ってみたい」と、すごく漠然としてはいましたけど憧れはありました。


──せっかく、こういうお膳立てをしてもらってアルバムができたのに。


野田  うーん、それはよく言われました。「これからってときにイギリスに行っちゃうの?」とか。でも、わたしはアルバムというかたちになったということで自信がついたし、今やりたいことがまずひと段落したというとらえ方だったんです。そのときやりたかったことは達成したので、次はイギリスに行きたいという考えになったんです。それに、こんなにいい名刺として自分のアルバムがあるんだったら、向こうでも人と話したりしやすくなるんじゃないかなとも思ったし。家族、友だちも当時みんな健康だったし、わたしも仕事は派遣でそんなに拘束されてる感じでもなかったし、ミュージシャンとしても別にライヴに引っ張りだこではなかったので、わたしがここで好きなほうにバン!って動いても大丈夫だろうと思ってました。ワーキングホリデーのビザも申請したらすんなり取れたし、「これは、今だ!」と思って、行っちゃいました(笑)


──行っちゃいましたか(笑)


野田  イギリスでは物価が高いということもあって、はじめは向こうの学校が用意してくれたホームステイ先にお世話になりました。それから自分で物件を探して、誰かとシェアしながら住むというかたちで暮らしてました。


──行ってみた、憧れのイギリスはどうでした?


野田  じつは留学する前に、母親と一緒に一度イギリスに行ってたんですよ。ひとりで街をぶらぶらしてたら、そのときからもう肌に合う感じが勝手にしてました。そのとき違和感なく居られたことが大きかったです。通りがかりの家でも外にスピーカーを向けて音楽を鳴らしながら室内で騒いでる子たちとかいて、そういう光景を横目で見てて、それでも叱られたりしない感じがいいなと思ったし。やっぱりこの土地の文化に興味があるし、音楽がどうやって受け入られているのかを、自分も住んで知りたいと思うようになっちゃったんですね。


●イギリス時代です。街角で。(野田)


──向こうでもライヴをやっていたんですよね。


野田  やってました。毎週日曜日が“オープン・マイク”だったパブがあったんですよ。とりあえずマイクがあるので、だれでも自由に歌えるんです。ハンドマイクで歌ってもいいし、自分で楽器を持ってきてもいい。そこはたまたま友だちとよく行ってるパブだったので、「カオル、やってみなよ」って後押しされたこともあって、たまにライヴをやるようになったんです。CDも手売りでたまに売れたりしました。


●パブのオープン・マイク・ナイトで歌っている様子です。(野田)



──そのパブって、ピアノはあったんですか?


野田  いいえ。なかったので、エレピを中古で買って、それを持って行ってました。


──すごい。担いで行ってたんですね。日本語で歌ってたんですか?


野田  はい。ファーストからの曲をたくさんやりました。みんな一瞬、「おっ? 何語だ?」みたいな感じになって視線が集まるんですけど、もちろんパブなんで、またすぐにうるさくなるんです。でも、それでもなにか関心を持ってくれたり、すごくじっくり聴いてくれる人もたまにいて。


──言葉が通じない、わいわいがやがやした場所で歌うっていうのは環境としは明らかにアウェーですけど。


野田  その分、すごくはっきり日本語の言葉を歌ってた気がします。言いたいことや思ってることを歌っていても、みんな意味ではなく音として聴いているので、そういうやりやすさはあったかな。「日本語はわからないけど、あなたの歌はきっとこういうことを歌ってる気がする」と言われたときに、結構当たってることがあって、「あ! やっぱり言葉だけじゃなくて、メロディにちゃんと意味合いを持たせた曲をわたしは作れてるのかな」という自信にもつながりました。


──それって、言葉が先にあって、そこに合うメロディを作っていくという当時の野田さんの曲作りの方法が生んでいる反応でもあると思います。ロンドンでのそういう日々から生まれた曲は、ロンドンで録音した5曲入りの『The London EP』(2012年)に結実していくわけですが。


●『The London EP』(2012年)


1. slow
2. 日々 Hibi - Every day -
3. Letter
4. Because
5. マイルエンド Mile end



野田  「言語にそこまでとらわれなくてもいいのかな」と感じたことで、無理矢理に英語の歌詞にして歌う必要もないと思えたんです。だから、EPの曲も一曲「Because」以外は、自分が使う日本語で書いて作っていきました。


──そのなかでも、メロディへの意識がより高まったという部分もある気がします。


野田  そうですね。なので、「この方法で作っていってきっと大丈夫」と思えたというか。


●イギリスのとあるスタジオで『The London EP』のレコーディングをしている様子。(野田)



──それで、日本に帰ってきたときの帰国記念ライヴをぼくは見に行ってるんです。その時点では、正直に言って、野田さんの歌をそんなにぼくは知らなくて。


野田  2012年の春でしたね。


──あとになって気がついたんですけど、震災は経験していないんですよね。


野田  そうなんです。BBCのテレビとかで日本で大変なことが起きているというのをひたすら見てました。向こうは、特に悲惨な状態の映像ばかり流すんですよ。ロンドンにいる日本人同士でも集まって「この人とは連絡が取れた」とか、そういう情報交換はしてました。


──じっさいに約1年ぶりに帰ってきた東京は、どうでした?


野田  どうだろうなあ。すこし静かになっているように感じたかもしれません。でも、わたしが帰ってきた時点ですでに震災からすこし時間が経っていたので、わたしがそう感じたのは、震災があったという意識をわたしがかなり持ってしまってるからなのか、ちょっと定かではなかったですけど。


──音楽については、どう思いました? すこし状況が変わって見えたとか?


野田  そうですね。向こうにいたときもラジオから日本の音楽がちょくちょく流れたりするんですよ。金延幸子の昔の曲とか、PIZZICATO FIVEとか。やっぱり日本は発信基地としてこんなに注目されている国なんだなとは思ってました。それで、日本の音楽がすごく好きになって帰ってきました(笑)。「日本っておもしろいな。やっぱりわたし、ここ(日本)が好きだわー」って。


──イギリスにいるときは、他にはどんな音楽を聴いてました?


野田  友人に紹介されて、ゴーキーズ・ザイゴティック・マンキを初めて聴いたんですけど、衝撃的でした。彼らもメロディと言葉がすごく一体になって、言葉とつながってるメロディを自由に操ってる印象があって、「やっぱり国って関係あるけど、関係ない」とも思えたんです。彼らの作品は向こうで買い漁りました。


──彼らは、デビューは1990年代でしたよね。野田さんが渡英した時点では解散してましたっけ?


野田  そうですね。今はヴォーカルのユーロス・チャイルズがソロでやっていて、彼の作品も聴きました。日本にも彼らを知ってる人は昔からいっぱいいたと思いますけど、わたしにとってはイギリスでの大きな発見でした。国のカラーってもちろん音に出るんでしょうけど、言葉と音のぴったりとした絡み方っていうのは、国籍を超えて共通して発見できるものがあるんです。あと、2014年6月に、ユーロスと前野健太くんのツーマンライブが吉祥寺曼荼羅であったんです! もうそれを知ったときは大興奮で、すぐにチケットを取って。このふたりを組み合わせようとするということは、やっぱりわたしと同じように音をとらえる人がいるんだなと、なんだかうれしく思いました(笑)



──野田さんとゴーキーズの出会いは興味深いです。


野田  あと、ジョアンナ・ニューサムですね。今回のわたしのアルバムの曲「小さな世界」を聴いた人が、彼女の作品を聴いたら「あ、パクってる!」って思われるところがあるかもしれないんですけど(笑)。こんなふうに楽器の音を決まった枠にとらわれずに自由にできるんだというのがすごく衝撃的でした。



──ゴーキーズにジョアンナ・ニューサム。そういう音に惹かれていったって発言には、ファーストのときよりも今の野田さんに「こういう音を作りたい」という意識をはっきり与えた感じがありますね。


野田  もっと自分が「いいな」とか「好きだな」と思う音を、自信を持って出してみようかなと思えたというか。もともとクラシックをやっていたから、そういう音楽とも結びついてイメージが湧くという部分もあります。あと、これはイギリスから帰国後ですけど、『この世界』にたどり着くにあたっての、もうひとり重要なアーティストが、ニーナ・シモンです。


──アルバムだと、どれですか?


野田  『ニーナ・シモン・アンド・ピアノ』ですね。じつは彼女の音楽は最近ようやく聴いたんです。前野くんにすごくお勧めされたのがきっかけでした(笑)。「野田さん、これは買ったほうがいい。とりあえず買って、聴いて!」って言われて、すぐに買いに行きました。このアルバムには、本当に衝撃を受けました。まだ自信がないですけど、いつかわたしも、ひとりの弾き語りを作ってみたいと思いましたし。



──野田さんは思ったら、やるでしょう?


野田  次はそこに向けて、気持ちをシフトしていく気がします。矢野顕子さんも大好きなんですけど、ピアノひとつで世界があそこまで広がるというのは憧れます。


──でも、こうやって話を聞いていると、“ピアノとわたし”みたいな純粋さへのこだわりというより、今は自分以外のいろんな音や人が入っているおもしろさに惹かれていますよね。新作『この世界』を聴いても、頭のなかでも音がいろいろ鳴っている気がします。


野田  今回のアルバムが、本当にそういう作品だったんだと思います。わたしの曲は、自分がやりたいことが言葉とメロディできちんと完結しているつもりなので、だったらもっといろんな人と遊びたいという感じが最近は強いですね。言葉とメロディはもうここにあるので、もっとみんなと遊びたい。みんなと遊ぶことでいろいろな世界を見せてくれることが、ようやく今楽しいと思えてるんです。


──そのひとつが、神保町の試聴室でやっていた月イチ・ライヴ〈マン・ツー・マン〉(2013年10月〜2014年12月/神保町試聴室)で、必ず毎回、野田さんの曲「Letter」を共演するというかたちになっているんですね。すごい顔ぶれで驚きます。pocopenさんから藤井洋平までって幅広すぎですし。



野田  はい。14組の方々とやりました。そこでわたしができることはまだまだわずかだったんですけど、発見したことはいっぱいありました。もっといろんな人と一緒にやってみたいなと思いました。


Vol.1 with 池間由布
Vol.2 with 古川麦
Vol.3 with 吉田悠樹
Vol.4 with 惑星のかぞえかたソロ(石坂智子)
Vol.5 with 潮田雄一
Vol.6 with 見汐麻衣(MANNERS)
Vol.7 with 伴瀬朝彦
Vol.8 with 中川理沙(ザ・なつやすみバンド)
Vol.9 with 倉林哲也
Vol.10 with 安藤明子
Vol.11 with 轟渚
Vol.12 with 藤井洋平
Vol.13 with pocopen(sakana)
Vol.14 with biobiopatata & 野田薫トリオ


●〈マン・ツー・マン〉でのひとこま。藤井洋平さんと「Letter」を演奏している様子です。(野田)



──その「Letter」音源をまとめたCD-R『Letters』が、『この世界』の購入特典になってもいるんですよね。ぼくは、その『Letters』でも、アルバム本編でも感じたというか、発見したことがあるんです。純粋なものってだいたいまっすぐで迷いのないものだってイメージがあるかもしれないけど、本当は自分に対して純粋だからこそ人はふらふらしたりでこぼこしたりするってことに気がつくんじゃないかと。


野田  あ、うれしいです。すごく。わたしも、そうやっていろんな人と一緒にやってみたり、野田薫トリオでやったりしてみて、人と一緒に作るという喜びを最近知っているし、もうちょっとそれをやってみたいと思っているんです。でも、ここからまたわたしがきっとどんどん歌に突き詰めていくからこそ、この次はひとりで弾き語りになっていくのかなって想像はしてるんですけど。


──その根源は、ひとりで家族がいない部屋で泣きながら歌っていたという、一番純粋な場所に戻っていくのかもしれないですね。でもそれを「お客さんがいたらダメ」みたいにするのではなく、人に対しても表現できるようになる境地。そこでさらにすごいものができるんじゃないかなと思います。


野田  そうですね。なので今も継続して訓練中という感じです。今やりたいことは『この世界』ではかたちにできたので、たくさん聴いてほしいですね。次に弾き語りアルバムに行けると思わせてくれた作品でもあるし、参加してくれたメンバーも含め、ぐっとわたしを後押ししてくれる作品にもなりました。


──あとは、ファースト出した後のロンドン行きみたいに姿を消さないで、今度はその姿を見せていてほしいですね(笑)


野田  はい(笑)。次の目標に向けて、もっと音楽をやりたいです。


──じつは、申し訳ないんですが、そろそろこの場は時間切れでなんです。結局、『この世界』のくわしい話までたどりつけなかったですね。あー、本当にごめんなさい。


野田  すいません(笑)。途中、峯田さんの話とかでわたしが興奮しすぎてしまって(笑)


──いやいやいやいや、あれは野田さんを作った重要なエピソードでしたよ。なので、『この世界』の話は、また日をあらためてインタビューさせてください。


野田  はい!


(2015年5月23日、高円寺円盤/第4回につづく)


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野田薫 ライヴ・スケジュール》


7月26日(日)
神保町 試聴室
OPEN 18:00 START 18:30
予約: 2,500円 (+1ドリンク、スナック込)
出演: 野田薫 / 古宮夏希 / やく


8月12日(水)
高円寺 Cafe&Bar U-hA
OPEN 19:00 START 19:30
2,000円 (+1drink)
出演: グルパリ / 野田薫 / 山田真未


10月4日(日)
「伴瀬朝彦まつり〜3〜」
渋谷 7th FLOOR
OPEN 18:30 START 19:00
前売: 2,500円 当日 3,000 (ともに1ドリンク代別)
出演:
伴瀬朝彦
カリハラバンド《服部将典/ みしませうこ / 遠藤里美 / 河合一尊》
biobiopatata《遠藤里美 / てんこまつり / ホンダユカ / ハラナツコ / 菅原雄大 / 林享》
生嶋剛(ペガサス)/ 兼岡章(ペガサス)/ 片岡シン(片想い)/ 野田薫


11月22日(日)
野田薫トリオ in 名古屋



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ライター、森豊和さんによる野田薫インタビューも公開されています。


SYNC4 : 【interview / インタビュー】野田薫Kaoru Noda 『この世界』

野田薫のありのまま 野田薫インタビュー その2

シンガー・ソングライター野田薫インタビュー、第2回。


今回は、自分で自分の音楽をやるとはどういうことなのかを考え続けた時代の彼女を追った。


「曲って、自分の音楽って、どうやったらできるんだ?」って真剣に自問自答していた時期を、彼女は忘れていない。作品の作り手が、どういうふうにして自分がものを作り出せるようになったかを、これほどあけすけに語るインタビューも、あんまりないかもしれない。


では、音楽家としての道を、とにかく自分なりのやりかたで進みはじめた彼女の日々におつきあいください。2000年代後半の野田薫のありのまま。


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──大学時代にコピーバンドで歌っているうちに“ソトバン”をやりたくはならなかったんですか?


野田  やらなかったんです。それまで一回も曲を作ったことがなかったし、「よくみんなできるなあ。どうやって曲を作ってるんだろう?」って思ってました。わたしも、そこまで真剣に音楽を続けようと思ってなくて、大学卒業を機にサークル活動も終えて、そのまま就職をしたんです。


●大学でいろいろと音楽を知っていった時期です。髪型が昔のフォーク歌手のよう……。(野田)



──そうだったんですね。


野田  ただ、就職して、同期のみんなも社会人になって、音楽に対するモチベーションも落ちていってたなかで、おとぎ話というバンドだけは加速して音楽に突き進んでいたんです。「あ、まだ続けてるんだ」と思って、わたしも結構頻繁に足を運んでました。それでまた「やっぱりあっちに行きたい!」と思うようになってきたんです。高校の吹奏楽部時代に思ってた“バンドやってる人たちは楽しそう”って思いがぶり返してきたようなところもあったんですけど。


──でも具体的には、どうしたら“あっち”に行けるのかって話ですよね。


野田  やりたいとは思ったんですけど、曲も作れないわけだし。だから、まずは社会人としての生活を継続しつつ、自分の曲を作ることからやってみようかなと思ったんです。曲作りをしながら、ちょっとずつ音楽のほうにシフトしていける道はないのかというのを探り始めました。


──ちなみに当時就職してやっていた仕事は?


野田  広告関係だったので、結構タフでした。朝から終電くらいまでずっと仕事で、それ以外何もできなくなっちゃって。土日になったら、おとぎ話とか友達のライヴに行くことで音楽のエネルギーを浴びて、それでまた日々の仕事に戻るという感じでしたね。


──「どうやって曲を作る時間を捻出したらいいんだ?」ってなりますよね。


野田  ですね。


──思い余って、辞表バーン!とかしたくなりませんでした?


野田  いや、それはまだ。でも、音楽をなんとかして継続はしたいと思うけど、それが曲を作るというかたちなのか、なにかバンドとか吹奏楽のサークル的な活動をすることなのか、自分でもわからなくなってきちゃってましたね。なので、とりあえずひとり暮らしをしようと思ったんです。ひとりで生計が立てられるかどうか自分を追い詰めてみて、それでも音楽を選んだら思い切ってみようと。そしたら、そのころにわたしも含めて同期の女の子たち何人かが、会社の仕事の関係でちょっとした問題に巻き込まれて、結果的に解雇されることになってしまったんです。


──大変じゃないですか!


野田  そう、みんなは困ってたんですけど、わたしは音楽をやりたくなっていたので、「時は来た!」と思いました(笑)。「仕事がわたしから逃げていった。これはうれしい!」と。そこから定時で切り上げられる派遣社員に仕事を変えて、音楽をやる時間を設けるようにしました。


──いよいよ本格的に曲作りに。


野田  そうです。そして「曲作りってどうしたらいいんだろう?」ってかなり悩んでました。そのときのわたしに曲作りのきっかけをくれたのが、前野健太くんなんです。前野くんは、おとぎ話とよく対バンしてたんです。ちょっと失礼かもしれないんですけど、彼の音楽を聴いて「あ、こんなことでも歌にしていいんだ」って思えたんです(笑)



──“こんなこと”って!


野田  でも、その“こんなこと”が、わたしにとってはすごく衝撃的だったんですよ。「これはもしかしたらわたしにもできるかもしれない」って思いました。それで、自分が「いいな」と思えるメロディとか言葉だけをまず集めてみて、それをつなげて曲っぽくしたんですよ。そういうのを3曲ぐらい作ったかな。その3曲は「メロディー」「ふと想う」「秋のおとずれ」で、3曲とものちにファーストの『あの日のうた』に入ってます。でも当時は、これが音楽としてきちんと評価されるものなのかどうかぜんぜんわからなかった。そしたら、その時期に、今度はあだちくんと出会ったんです。


──出ました! あだち麗三郎



野田  あだちくんは、おとぎ話のサポートを当時やっていたんですよ。ライヴの打ち上げに行ったときに、前野くんに「野田さん、この人、あだちくん」って紹介されたんです。わたしも「さっきのサックス、すごくかっこよかったです」ってあいさつをして、そのあともずっと話してたら、あだちくん、結構わたしが音楽をやりたいということに理解を示してくれる感じなんですね。「あなたの歌、よさそう」とか(笑)


──言いそう!(笑)


野田  わたしは「こういう音楽が好きで、わたしも自分の音楽をやってみたい」みたいな話をひたすらしてたんですよ。そしたら「きっとあなた、それ、やったらいいと思う」って(笑)


──それも言いそう!(笑)


野田  「もしできあがったら聴かせてよ」って言われたので、自分なりにできたと思われる3曲を録音してCD-Rにして、あだちくんに渡したんですよ。そしたら、「あなた、ライヴやったほうがいいよ。この音源は前野くんにも渡したほうがいい。きっとすごく気に入ってくれるから」って今度は言ってくれて。前野くんにも渡してみたら、興奮して聴いてくれて「すごくよかったです」って電話をくれたんです。そんなことがあってようやく「あ、音楽をわたしは作れてるのか?」というふうに思いはじめたという流れなんです。


──それが初めて野田さんの音楽が人に審査された瞬間だったわけですよね。


野田  そうです。すごく緊張しました。ちっちゃいころの“自分の歌はだれにも聴かれたくない”って気持ちが根っこにあったので、最初のうちは「作ってみたものの、どうしよう?」って思っていたんですよ。でもそれを、あだちくんが聴いて褒めてくれたし、それで、わたしもどんどん曲を作るようになっていったし。「これからライヴとか録音とか、なにかやることがあったら、ぼく手伝うよ。あと、ライヴをやる場所を探したほうがいい。ぼくの知ってるライヴ会場がいくつかあるから、“あだちから紹介されて来ました”って言えば、音源を突然渡しに行っても聴いてくれるんじゃないかな」ってアドバイスもしてくれましたね。


──じっさいに“あだちから紹介されて来ました”って、あちこちに持っていったんですか?


野田  はい。下北沢のmona recordsとか、青山の月見ル君想フとか。そしたら本当にすぐにライヴを組んでくれて。「わ! あだちくんってすごいんだ!」って思いました(笑)


──野田薫としての初ライヴは?


野田  mona recordsでした。そのときは弾き語りで、持ち曲も録音した3曲+新曲2曲くらいしかなくて、曲をやり終えたら即終了、みたいな感じでしたね。初ライヴは、お客さんが1、2人しかいなかったんですけど、そんなに緊張せずに歌ってすごく爽快だった記憶があります。


──「えー? 少ない!」って落胆じゃなくて、むしろ子供のころのひとりで歌っていた体験に近い感じだったから、マイナスにはならなかったのかも。


野田  そうですね。ステージだけ明るくて客席は暗くなってるので、まさにあの部屋の状況になっていました。たぶん、楽しそうにやってたんじゃないかな。そういう初ライヴでしたね。その次の月見ルでは、あだちくんがドラムでサポートしてくれました。わたしは好きに弾いて歌って、あだちくんがドラムで好きに入ってきてくれるというスタイルでした。スタジオで練習もしたと思います。そのころのわたしはライヴのことなんか何も知らないし、たどたどしく弾いて歌ってたと思うんですけど、それでも「いいよいいよ」って持ち上げてくれるんですよ(笑)。「本当かなあ?」と思いながらやってましたね。


──どういうところがいいとか、わるいとか、具体的な指摘もなく?


野田  あだちくんは言わなかったですね。あまりにもわたしがなにもできず必死だったので、とりあえず「いいよいいよ」って言ってくれてたんだと思います(笑)


──しかし、あだち麗三郎前野健太が、初期の野田薫を認めてくれた2人っていうのがおもしろいですね。


野田  そうですね。聴いてくれて感想を言ってくれたという意味では、大きな存在でした。人から意見をもらったなかでも一番記憶に残ってるのは、その2人かな。


──予想もしていなかった人からよいリアクションをもらったという意味では、どういう記憶があります?


野田  うーん。音源を渡した人はみんな「よかったよ」とは言ってくれたんですけど……、あ! 感想はもらってないんですけど、自分のなかに大きく残ってるのは、銀杏BOYZの峯田(和伸)さんなんです。この話、ちょっと長くなりますけど、いいですか?


──いいですよ。



野田  わたしが音楽をやり始めたころに、たまたま検索をしてたら峯田さんのブログに行き着いたんです。それを読んだ瞬間から、「わたし、この人と友だちになりたい!」って勝手に思ってしまって。まだ銀杏の音も聴いたことがなかったのに(笑)。で、ブログの愛読者になって、音楽も大好きになって銀杏のライヴも行くようになったんです。それがちょうどわたしがひとり暮らしを中野で始めたくらいの時期でした。そしたらある日、おとぎ話の有馬(和樹)くんとたまたま中野を一緒に歩いてたら、「ああ、峯田さん家、ここだよ」って彼が建物をパッと指差したんです。そこって、わたしの当時の家から20秒くらいの場所だったんですよ! 「これはもう運命!」としか思えなくなりました(笑)


──20秒の距離はすごいですね(笑)


野田  そのころ、わたしは曲をうまく作れなくてもがいている最中だったんです。それで「わたしはファンとしてではなく、いちミュージシャンとして自分の音源を渡すときを、初めて峯田さんに接触を試みる機会にしよう」と決めたんです。でも、わたしが家に帰るときとか、いつも峯田さんの家のあたりを通り過ぎるわけですよ(笑)


──「部屋に電気点いてるなあ」とか、思いますよね。


野田  使うコンビニも一緒なんで、会ったりするんです! 会ってあいさつしたくなる気持ちを、「音源ができるまでは」と自分に言い聞かせて、ぐっとこらえてました。何度もコンビニでじっと峯田さんを見てたから、たぶん、わたしすごくきもちわるい感じだったと思います(笑)。銀杏のメンバーも中野によくいたからしょっちゅうすれ違ってたし、偶然スタジオで一緒になったこともあったんですけど、すれ違うたびに「この人たちに渡すためにわたしは曲を作ってるんだ」って思うようにしてました。


──そして、ついに3曲を録音して。


野田  それからは、いつ会ってもいいように、中野の街をキョロキョロしながら歩いて、常にカバンのなかにCD-Rを潜ませてました(笑)


──できたから、もう渡せますもんね(笑)


野田  そうなると、わたしはもうすぐにでも会いたいんですよ。コンビニ入ってもいないか探したりして。でも、そういうときに限ってなかなか会えなくて、そのまま月日が経っていきました。それがある夜、あたらしい曲をどんどん作りたい意欲が湧いてきて、深夜12時過ぎくらいに急にスタジオに行きたくなったんですけど、平日夜中の中野の道を歩いていたら、向こうからひとりの男性が歩いてくるんですね。夜道で一対一になるので、わたしはちょっと緊張して歩いていたら、その前から歩いてきた人が峯田和伸さんだったんです! 「時は来た!」ですよ(笑)


──まさに!


野田  でも、あまりに不意に来たので、「わー!」って混乱して、「あの……」と声をかけてからカバンを興奮してガサゴソやる不審者状態になっちゃって。峯田さんもわたしを怖がってか少し避けて通ろうとして(笑)。でも「渡したいものがあるんです」って言ったら、立ち止まってくれて。ようやくわたしも落ち着きを取り戻して「音楽をやっているんですが、よかったら聴いてください」って音源を渡すことができたんです。もちろんその感想は聞けてはいないんですけど、わたしの音楽を渡して少しお話もできたんです。


──よかったですねえ。


野田  わたしが曲を作るきっかけとして、わたしのなかで峯田さんの存在はすごく大きかったですから。「あなたに会うために曲を作ってました」っていうのは、ちょっときもちわるいので言わなかったですけど(笑)。あと、渡した次の日に、Yahoo!に「峯田和伸、吐血!」ってニュースが出たんです! 「わたしのこの異様な念がもしや吐血させた?」って思いました(笑)


──それはもう感想を聞けたかどうかというレベルじゃないですね。下手したら、その吐血が感想だった、くらい(笑)


野田  念を受け取っていただいた結果の吐血(笑)。でも、自分の音源を作って峯田さんに渡すというのは、わたしにはすごく大きな出来事でした。「翌日吐血するくらい体調がわるかったのに話してくれたんだ」って、あらためて感動もしましたし。とにかく、あの日のことは一生忘れないだろうなと思ってます。


──銀杏以外にも、この時期の野田さんに強い影響を与えた音楽や、好きだったバンドの話を聞いていいですか?


野田  はい。さっきも話に出ましたけど、やっぱり前野くんの影響は大きいです。といっても昔の曲だけじゃなくて、前野くんの音楽はずっと好きで、これからも好きだと思います。わたしにとって目指すべき音楽家だと勝手に思ってます。もう何枚もアルバムを出してるのに、まだ「カフェ・オレ」(『ハッピーランチ』収録)みたいなタイプの曲を作るじゃないですか。わたしは、前野くんがこういう曲をやっていたからこそ自分でも「音楽をやりたい」って思えたので。あと、前野くんをきっかけにして、高田渡さんとか、日本のフォークも聴き始めたんです。高田さんってひたすら「お金がない」とかそういうことを歌うじゃないですか(笑)。やっぱり「こういうこと歌にしてもいいんだ」って思いましたね。



──それまではもっと決まりのある音楽をやろうとしていたのかもしれないですね。


野田  Aメロ、Bメロ、サビがあって、歌詞もちょっとかっこよくて、言葉遊びもちょっとできて、みたいなことばっかり考えて、ドツボにはまっていましたね。そこから抜け出すきっかけをもらったという意味でも前野くんは大きいですね。一気に視界が開けた気がします。あと、前野くんがじっさいにそうしてるかどうかは知らないんですけど、彼の音楽を聴いたことで、わたしも勝手に影響を受けて、メロディを作る前に、歌詞の言葉を書き出すようになったんです。それから、その言葉を言いやすいメロディを意識して、曲を作る。わたしはそのほうがナチュラルに自分の音楽が作りやすい感じがして。そのやり方は今もぜんぜん変わってないですね。


──ceroの高城(晶平)くんが最近は歌詞を先にして曲を作ってるという話ですよね。そうすると音楽的な約束事から言葉が自由になって、すごく新鮮な感じがします。


野田  どうしたら言葉がもともと持ってる音に近づくかは、すごく考えてますね。わたしは分析的に音楽を聴いたり、学習したりした経験がぜんぜんなくって。だから「曲ってどうやって作ったらいいんだろう?」って迷っちゃってたんです。でも、この方法でやってみたら、もしかしたらわたしができることが見つかるんじゃないのかなと思えたんです。今も前野くんのライヴに行くと、言葉とそれに乗ってる音をすごく気にして聴いちゃいますね。もちろんバックの音や彼の鳴らすギターの音もすごく好きですけど、最終的には、言葉とメロディだけでやりたいことが完結できてる感じがして、わたしもそうなりたいなって思ってるんです。あと、メロディラインがすごく好きだったのは、レディオヘッドですね。


──レディオヘッド! 今の野田さんの音楽からすると意外な感じもしますけど。



野田  中学生のときに、イエモンから“レディオヘッド”という単語を知って、それで『OK コンピューター』を買ったんです。初めて聴いたときは、家のコンポの前から動けなくなるくらい感動しました(笑)。特にこのアルバムは、メロディから“和”の感じがすごくするような気がして好きなんです。


──そう言えば、大学時代にコピーバンドで歌ってたって言ってましたね。“女トム・ヨーク”!


野田  「クリープ」とか歌ってました(笑)。わたしがヴォーカリストとして初期に衝撃を受けた三大ヴォーカリストは、吉田美和吉井和哉トム・ヨークなんです。すごい顔ぶれですよね(笑)


──レディオヘッドから洋楽の世界にずぶずぶと入っていったわけではないんですよね。


野田  外国の音楽をいろいろ聴くようになるのは大学でサークルに入ってからです。わたしは一回なにかを好きになると長いんです。このアルバムもそうだし、洋楽はレディオヘッドだけ好きってくらいずっと聴いてましたね。『KID A』とかが出たときも「おおっ!」って思いましたけど、やっぱり帰ってくるアルバムは『OK コンピューター』でした。


──なるほど。じゃあ、野田薫の音楽が始まるためのピースがいろいろ出揃ってきたところで、次回はいよいよファースト・アルバム『あの日のうた』以降の話を聞いていきたいと思います。


(第3回につづく)


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野田薫 ライヴ・スケジュール》


7月26日(日)
神保町 試聴室
OPEN 18:00 START 18:30
予約: 2,500円 (+1ドリンク、スナック込)
出演: 野田薫 / 古宮夏希 / やく


8月12日(水)
高円寺 Cafe&Bar U-hA
OPEN 19:00 START 19:30
2,000円 (+1drink)
出演: グルパリ / 野田薫 / 山田真未


10月4日(日)
「伴瀬朝彦まつり〜3〜」
渋谷 7th FLOOR
OPEN 18:30 START 19:00
前売: 2,500円 当日 3,000 (ともに1ドリンク代別)
出演:
伴瀬朝彦
カリハラバンド《服部将典/ みしませうこ / 遠藤里美 / 河合一尊》
biobiopatata《遠藤里美 / てんこまつり / ホンダユカ / ハラナツコ / 菅原雄大 / 林享》
生嶋剛(ペガサス)/ 兼岡章(ペガサス)/ 片岡シン(片想い)/ 野田薫


11月22日(日)
野田薫トリオ in 名古屋



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ライター、森豊和さんによる野田薫インタビューも公開されています。


SYNC4 : 【interview / インタビュー】野田薫Kaoru Noda 『この世界』


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野田薫ホームページ

野田薫のありのまま 野田薫インタビュー その1 

野田薫のセカンド・アルバム「この世界」が、すごくいい。




そして、ぼくは野田薫にちょっとした恩を感じている。彼女が歌うのを初めて見た晩。それはぼくにとっては結構、運命的な夜だった。


2012年4月28日、阿佐ケ谷のRojiで行われた〈野田薫帰国記念ライヴ〉で聴いた、ロンドン帰りの彼女の歌には、歌そのものの誠実さの、さらにその向こうに、彼女の考えていること、やりたいことがむずむずとして芽生えるのを待っているんだろうという気配を感じた。


そして、その夜のライヴが終ってからも、彼女にひさびさに会うためだったのか、いろんな顔ぶれがひょっこりとお店に顔を出した。そのうち、出しっ放しになっていた楽器をめいめいに使って、ボーナストラック的なセッションが始まった。表現(Hyogen)の佐藤公哉古川麦が演奏したかと思うと、さらには伴瀬朝彦も現れ、求められるままに「いっちまえよ」を歌った。


考えてみれば、その夜に出会った古川麦にも、伴瀬朝彦にも、ぼくはその後にロング・インタビューをしているのだ。その出会いのきっかけにいた野田薫をさしおいて。


そしたら、今年の春、野田さんからDMを受け取った。「今度アルバムを出すので聴いてください、もしよかったらなにかコメントを書いてください」という内容だった。とてもいいアルバムだったので、よろこんでコメントを書いた。


さらにしばらくして、今度は見汐麻衣さんから、高円寺の円盤で、野田さんのミニ・ライヴのあとで彼女に公開インタビューをしてほしいという依頼を受けた。それが2015年5月23日。そのときの録音が、このインタビューの前半部分になっている。じつは、その日の野田さんの話がおもしろかったため、新作発売を記念してのイベントだったにもかかわらず、話が新作にたどり着く前に時間切れになってしまったのだ。そのため、後日、Rojiでインタビューの後半を行った。


生い立ちから音楽を志す過程、渡英の経験や曲作りに対する姿勢など、シンガー・ソングライター野田薫の話は、ありのままを素直に話しているだけなのに彼女自身にとってもあらためて気付きがあるような、とても興味深いエピソードだらけだった。


なので、インタビューのタイトルは「野田薫のありのまま」にしてみた。計3回か、もしかしたら4回の予定。


まずは、ふりだしから始めてみる。


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──シンガー・ソングライター野田薫ができるまで、というか、もうできてると思うんですけど、小さいころの話から最新作の『この世界』に至るまでの、いろいろ話を聞かせてください。まずはこういう長いインタビューでは最初によくやる質問なんですけど、一番古い音楽の記憶は何ですか?


野田  あー。何歳くらいだろう? 一番最初に思い浮かぶのは、母親がピアニストだったんで、家にアップライトのピアノがあったんですね。母がピアノを弾いてるその下にわたしが立ってチョロチョロしてるっていう、それは覚えてます。3歳くらいかな?


●最初の記憶に近い時期です。覚えているピアノは、まさにこの後ろに写っているアップライトです。ここを歩いていました。(野田)



──じゃあ、音としてもお母さんの弾いているピアノの音というか、メロディを覚えてるんですね。


野田  覚えてますね。


──お母さんはピアニストだったということですけど、お仕事としてピアノを弾いていたんですか?


野田  母は宮城出身で、もともと芸大を受けてプロのピアニストになりたかったそうなんですけど、わたしにとっては祖母にあたる自分の母親に「東京には出るな」と言われたらしく、大学までは地元に通って音楽を学んでいたんです。それから社会人になったときに渡米して、そこでピアニストとして勉強をずっと積んできた人です。そののちに帰国して、ピアノの先生をやりながら、プロの演奏家としても結婚する前まで仕事をしていたそうです。


──クラシック・ピアノ?


野田  そうです。


──じゃあ、野田さんが物心つく前に聴いていたメロディもクラシック。


野田  そうです。


──好きな曲はありました? 「お母さん、これ弾いて」みたいな。


野田  母が弾くのを聴くのも、わたしが弾くのも、両方で好きだったのは、バッハです。結構暗い曲が多いイメージなんですけど、カタカタカタカタ両手がせわしなく動くのが好きで。


──お母さんが自分にとってのピアノの先生でもあったんですよね。


野田  そうです。初めは母親から習ってました。でも母親なので、すぐにケンカをするんですよ。わたしが「うるさい!」って言ったりとか。母が言ってることはもちろん正しくて、言う通りにやればピアノもうまくなるんですよ。でもそれがシャクでまたさらに悔しくなって、ケンカを繰り返して、結局、違う先生に習いに行くようになりました。でも、本当にわからないところや譜面が読めないところは「お母さん、これどうやって弾くの?」って聞いてましたけど。


──聴くことよりも演奏するほうが好きな子供でした?


野田  そうですね、クラシックのCDを聴くということがわたしはぜんぜんなくて。自分で弾いてる曲とか、だれかが弾いてる曲を聴いて「あ、これは素敵」というのはありました。そういう感じが多かったですね。


──弾くのが好きで、思うように弾けるようになってくると、子供ながらに自分なりの曲を作ったりとかしませんでした?


野田  ありました! なんだったっかな? 一番初めは、蒸しパンがおいしくて「蒸しパンのうた」っていうのを作ったと思います(笑)


──「蒸しパンのうた」!


野田  本当にワンフレーズしかないんですけど。そういうのをいっぱい作ってました。


──「蒸しパン大好き、蒸しパン大好き」みたいな?


野田  そうそう(笑)。ずっと「蒸しパン! 蒸しパン!」って連呼する歌でした。


●「蒸しパンのうた」などを作っていた時期です。(野田)



──パンクですね(笑)


野田  結構パンクでした。姉にハモらせたりもしました。今でも歌は覚えてるんですけど、録音に残しとけばよかったですね(笑)。あと、なんだったけ? 小学校低学年のころ、家族旅行でサイパンに行ったときに、帰るのがさびしかったんでしょうね、「サイパンのお別れのうた」っていうのを作って(笑)。それをずっと空港で歌ってました。


──野田薫のオリジナル曲第2作目は「サイパンのお別れのうた」!


野田  その歌もワンフレーズしかないんですけど、さびしさを隠すようにカラッと明るい曲調なんです。歌詞は、タイトルのままの「サイパンのお別れのうた〜」みたいでした(笑)。このころは、“曲を作る”というよりも、なにか言葉があって、それに勝手に音を乗せて口ずさんでいたという記憶があります。


──でも、ワンフレーズとはいえ、メロディのある歌を好きで作っていたんですよね?


野田  そうです。歌は聞くのも歌うのも好きでした。


──それはクラシックではなく、J-POPの曲?


野田  そうですね。小学生のころはドリカムをすごく聴いてました。歌を聴いて初めて泣いたのが、吉田美和さんの歌なんです。『ミュージック・ステーション』を見てて、彼女が「未来予想図II」を歌ってたんですけど、その日の歌が本当にすごかったんですよ。歌が画面から飛び出してくるような印象で、わたしは母の膝の上に座ってテレビを見てたんですけど、それを見て「わーっ」って泣いてしまったという記憶です。それが歌で感動したっていう初めての体験かな。


──へえー。


野田  それで中学生になったわたしは、今度はイエモンTHE YELLOW MONKEY)に行くんですよ。それもテレビで見たのがきっかけなんですけど。母親が「日本にすごいバンドがいる」みたいなことを言い出して、それで私もテレビで見て、すごく好きになって、中学生でしたけどライヴ見に行ったりしてました。


──ということは、人生初ライヴは、イエモン


野田  そうです。西武ドームでした(笑)。母についてきてもらって。


──シンガー・ソングライター的な音楽より、最初はバンド的なものに惹かれていたんですね。


野田  結構大きな音で鳴っているバンドの音が好きで、漠然と憧れを持ってました。「あんなふうに『わあーっ!』て大きな声で歌ってみたい」とか。


──部活は何をやっていたんですか?


野田  中高では吹奏楽をやってました。パートは、クラリネットでした。


──そうか、吹奏楽部にはピアノはないんですよね。


野田  そうなんです。でも、いつかバンドをやりたいという気持ちはずっとあったので、大学ではバンド・サークルに入ろうと決めてました。


──中学や高校時代にも、文化祭とかでバンドをやるような機会があったのでは?


野田  そういう軽音楽サークルはあったんですけどね。わたしは吹奏楽部で体育館でバーン!って盛大に演奏をしつつ、違うところでやっているバンド・サークルの演奏を見に行っては「わたしも早くあっちに行きたい」って思ってました。


──「でも、わたしは吹奏楽部所属だから、今はそっちには行けない」と。


野田  度胸がなかったというか、人前にバーンって出てわーっとやる、みたいなことをすごくやってみたい自分と、「いやいや、無理!」っていう自分と両方がいたんです。それに、吹奏楽みたいにみんなでひとつの音を作るのも好きだったので、高校まではずっと吹奏楽に専念してました。


●高校時代に吹奏楽部に所属していたときの写真です。(野田)



──そういうエピソードを聞くと、やっぱり野田さんってまじめだなって思うんです。


野田  まじめでしたね。あんまり目立って遅刻するようなこともしませんでしたね。さぼったこととかも、人生で一回だけあります、高校生のときに。


──人生で一回だけしかないんですか?


野田  大学ではいっぱいありますけどね。中高では、一回だけでした。


──そういうことはできない性格というか。


野田  しようとも思ってなかったですね。学校生活を楽しんでたと思います。


──じゃあ大学に入ってからが、ようやく野田薫のバンド・ライフの始まり。


野田  2002年に明治学院大学に入って、そこでバンド・サークルに入ってしまったことが、わたしの人生を、今のこっち側に向けさせてるんです。バンドのサークルは本気な感じから遊び半分なところまでいくつかありました。“本気”なサークルには、わたしの世代だと、“おとぎ話”がいました。わたしは急にはいろいろできないと思ったんで、コピー・バンド系のサークルに入りました。「世界民族音楽研究会」という名前です(笑)


──そこでまずはコピー・バンドを。


野田  そうですね。だんだん経験を積んでいって、それ以上のことをやりたい人はオリジナルをやり始めるんですけど、そういうバンドは、“ソトバン”って呼ばれるようになるんです。


──へえ、“ソトバン”。


野田  人の“ソトバン”を見に、下北沢のGARAGEに行ったりしましたね。


──野田さんはだれのコピー・バンドで、どのパートをやってたんですか?


野田  ライヴごとにメンバーが変えられるサークルだったんですけど、基本的にわたしはヴォーカルかキーボードでした。いろいろやりましたね。レディオヘッドからUAまで(笑)


──野田さんがUA


野田  二回くらいやりましたね。AJICOの曲とか。


●大学の学園祭で演奏している様子です。このときはAJICOでした...! ちょっとだけ恥ずかしい写真です(笑)(野田)



──ピアノを弾きながら歌ったりもしました?


野田  それは、そのサークルでベン・フォールズ・ファイヴをやったときが最初です。「なんて難しいんだ!」って思って、海外から譜面を取り寄せたんです。でも、難しいとも思ったけど、自分で自分の歌に伴奏がつけられるというのがちょっと衝撃でもありましたね。「ひとりでここまで音楽を完成させられるんだ」って思ったんです。


──それは、ベン・フォールズのコピーをしてみてわかったことだったんですか?


野田  わかったというより、よりはっきりしたというか。ちっちゃいころにもそういうふうにちょっとやってみたことはあったんです。だけど、なんか人前で歌うってことがやっぱり恥ずかしいと思ってたんですね。だから、家族が出かけてるときとか、家にだれもいないときに、ひとり家のなかで大きい声で歌うということをしてたんです。そのときにピアノを弾きながら声を出してみたんですけど、そのときに泣きながら弾いてたのを覚えてて(笑)


──へえ!


野田  「わーっ!」と声を出してて、伴奏も鳴ってるということが、すっごい楽しくて感動してしまって。家族が帰ってくる前にひとしきり泣いて、ピアノもちゃんと片付けて、何事もなかったかのように出迎えるんですけど。


──じゃあご家族はまったく知らないんですね。野田さんが大泣きしながらピアノを弾き語りしてたってことを(笑)


野田  そうなんですよ。あぶないやつですよね(笑)。でも、なんか感動してしまったんです。それがわたしが自分で音楽をやるうえでの、第一の感動だったんです。のちに大学でピアノを弾きながら歌ったことで、ちっちゃいころの感動が確信へと至った。そんな感じでした。


──ということは、よく「この人の音楽に感動して音楽を始めました」とかいう発言がインタビューにはありますけど、野田さんの場合は、音楽を始めるきっかけになった感動は、もしかしたら自分自身だったのかも。


野田  ああ、そう言われたらそうかもしれないです。自分で音楽ができちゃうというか、ひとりでもこんなに音楽が成り立つということがわかった。それなのかなあ。


(第2回につづく)


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もう本日ですが、アルバム「この世界」発売記念ライヴがあります。


2015/07/07(火) 渋谷7th Floor
野田薫『この世界』レコ発ワンマンライブ」
open 19:30 / start 20:00
当日 2,800円(+1ドリンク500円)

アルバムに参加してくれたミュージシャンたちを迎えた特別編成でお送りします!


ACT : 野田薫あだち麗三郎西井夕紀子、角銅真実、表現−1


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ライター、森豊和さんによる野田薫インタビューも公開されています。


SYNC4 : 【interview / インタビュー】野田薫Kaoru Noda 『この世界』


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野田薫ホームページ

地の塩

2015年6月2日。
両国国技館が会場で
建物の中央、つまり土俵の部分にステージが作られていた。


円形の舞台で
5人ではじめて円になって
最初は照れくさそうだったけれど
本当に最高の演奏をした。


でも本当の本音をいえば
もっとしくじってほしかった。


だって、
「Emerald Music」と「会社員」をアンコールでやり直したように、
だれかがミスしたら
また何度もやり直して
やり直してやり直してやり直して
いつまでもこの時間を続けていられるだろうから。


なのに
ミスしない。


ハマケンが「生活」でトロンボーンをしくじるのを
何回、いや何十回見てきたかわからないけど
この日の「生活」はくやしいくらい完璧だった。


止めたってもう行くんだなと思ったそのとき
目からじわっと水が出た。


しょっぱなの「進化」でも
まさかの「みんなのユタ」でも
なんとかこらえたのに。


そういえば、
終演後に無人となった舞台を見てあらためて思ったが、
あのステージの場所に本来あるのは、土俵だ。
そして、土俵に撒かれるものは、塩だ。


聖書のなかに「地の塩」という教えがある。


イエス・キリストが弟子たちに語った言葉で
ただしくは「地の塩 世の光」といわれる一節だ。


   あなたたちは“地の塩”である。
   塩には物の腐敗を食い止める効果があるように
   あなたたちも心のなかに塩を持って世のために生きなさい。
   塩味のしない塩になってはいけませんよ。
   心のなかに光を持って
   “世の光”となって照らしなさい。


たしかそんな話(うろ覚えの超訳でごめんなさい)。


この夜、5人も、あの舞台から“地の塩”をたくさん撒いた気がする。
バンドとしての肉体はなくなっても
彼らを愛したひとたちの心のなかにいつでもその塩があるように。
塩味のしない塩になってしまわないように。


ローリング・ストーンズの曲名にも
そのものずばり「地の塩(Salt Of The Earth)」というのがある。
そのの歌い出しはたしか
「働き者に乾杯(Let's drink to the hard working people)」だった。


SAKEROCKがしてきたすべてのことに乾杯したい。
SAKEROCKがこの夜を迎えるために我が身を投じてきたすべての人にも乾杯したい。


これはレビューでもなんでもない。
うっかり死んでしまったときのための、ぼくの覚え書き。

『SAYONARA』について

 伊藤大地のカウントから〈Emerald Music〉が流れ出したとき、不覚にも動揺してしまった。SAKEROCKというバンドを解散するために集まった5人が一緒に出している音は、からっとしていて、ちょっとだけセンチメンタルで、くやしいくらい彼らがやり続けてきた音楽そのままだったからだ。もうずっと一緒にやり続けているし、これからもこの音を鳴らし続けていくだろうと、あやうく錯覚してしまいそうになった。その誤解は、ラスト・アルバムという事実を前にどうしようもなく顔を出すやるせなさを、少しだけうれしさで緩和してくれる。「ああ、SAKEROCKはこれまでやってきたのとおなじようにさよならを言うんだな」と思った。ぐっとこないと言ったらウソになるが、アルバム『SAYONARA』であらためて示された彼らにしかない音楽のことを、少しだけ冷静に振り返りたい。


 歌いたいけど歌えない。踊りたいけど踊れない。そんなメンバーが率いるバンドが、それでも歌いたいということを真剣に突き詰めた結果たどりついた音楽。現実に歌ったり踊ったり笑ったりできないのなら、その音楽を聴いている人の中で勝手に歌って踊って笑えばいい。そんな音楽を鳴らそうとする行為は、彼らに魅了されたファンだけでなく、彼ら自身にとっても救いのような意味を持っていたはずだ。どんなにおかしなことをしでかしているときでも、彼らはいつもあきれるほど全力で真剣に音楽をやっていた。無意味を装いながら、その無駄の先にある心の震えに知恵や工夫を駆使して触れようとしていた。それは、現代を生き抜くための戦略やビジネスとしてのコンセプトではなかった。


 『SAYONARA』に収録された10曲はすべて星野源の作曲。プロデューサーとしても初めて星野源がクレジットされている。“SAKEROCKといた季節”に対して自分なりの落とし前をつけようとしたのだと思う。感傷を隠さないいくつかの曲に、星野の深い思いは感じる。だが、「すべてをしまいこんでしてしまう必要はないよ、俺らにもまかせたらいいよ」と、星野の肩に黙って手を置いてあげられるのも、バンドという集合体の持つ不思議な力だ。ここにはSAKEROCKインストバンドであり続けたことの意地も証明もご褒美も、確かにあった。


 『SAYONARA』というアルバムは、SAKEROCKというバンドから、SAKEROCKという音楽が、SAKEROCKを愛したすべての人に手渡される瞬間の記録なのだと思う。それはせつないお別れかもしれないが、なんとなく晴れがましい船出にも似ている。その船の名はSAKEROCK。乗っているのは彼らではなく、むしろ僕たち。見えなくなるまでSAKEROCKは港から手を振っているだろう。きっとこの人生の分くらい。(松永良平


(「CDジャーナル」5月号より、許諾を得て転載いたしました)