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なにかあり/とくになし

お正月

年の変わり目は渋谷WWWで迎えた。




Yogee New Wavesの角館くんがマイクを取ってのカウントダウン。ドアを力強くノックして、ぶわっと開けた感ある。


思い出野郎とEMCからのnever young beach。無礼講な気の放出がすごい。男の子たちがわあわあ叫び、女の子たちがわけのわからない自由なダンスを踊っている。ネバヤンの新曲「明るい未来」の曲とタイトルに打たれた。バンドが何年かに一回出会えるタイプの“次に行く”曲。これが2016年に最初に記憶に刻まれた曲。


友人が車で送ってくれるというので、ばたばたとあいさつを済ませて帰路へ。時計の針は午前4時をまわっていた。まだ初日の出まではちょっと時間があるが、ツマは寝ているので騒々しくはできない。かといってなんか仕事をするにはちょっと酔っている。手持ち無沙汰なので年末に六甲の口笛文庫で買ったディック・ミネの自伝「八方破れ言いたい放題」をめくったら、思いがけず、「昭和六十年 初春」と日付のある直筆サイン。


 「音に生きる ディックみね」


ありがたいご宣託いただいた。だが、寒くなってきたので、すこしだけ横になることにした。結果、初日の出を逃したことはいうまでもなく。




はっと目が覚めたらお昼。すでに陽は高い。
ヴァン・ダイク・パークスが紹介したエッソ・トリニダード・スティール・バンドのアルバムに入っている「カム・トゥ・ザ・サンシャイン」を聴いて、初日の出の替わりといたしました。


「志村&所の戦うお正月2016」を見ていたら、かつての東京の写真から現在地を探す対決で出てきた。その課題として出た一枚の写真に息を飲む。


新宿東南口の台北飯店!




20歳くらいのころバイトしていたレコード店の人たちとよく行った。おんぼろだったけどすばらしい味わいの店だった。 弟が高校をさぼってトッド・ラングレンのライヴを見るために上京してきた夜も、この店の水餃子やしじみの酒蒸しを食べたと思う。のちにすばらしいライターになられたバイト先の先輩とケンカして(実質的にはぼくが一方的にやられて)店の脇の階段で泣いたこともあった。ふたりとも相当酔っていたし、そのころのぼくはそう言われてもしかたない世間知らずの知ったかぶりだった。


お雑煮(おもち3個)を食べて、陽が高いうちに近所の神社に。おみくじは大吉。ありがたいことがつらつらと書いてある。結ばずに財布に入れた。


録画しておいた「紅白歌合戦」で、とりあえず星野源くんの出番だけ確認してから、「芸能人格付けチェック」の予選をやっていたのでぼんやり見ていたが、知人のTLで「芸人キャノンボール」の予告篇が放映されていることを知り、すぐにチャンネルを回した。予告篇から、おもしろい予感がある。そこからはもう本篇が終わるまで5チャンネルには二度と戻らなかった。


見た人のだれもがロンブー淳の情報収集力と行動力、そして人を気安くさせる交渉術に圧倒されたと思うけど、ヒールとしての役割をしっかり自認したおぎやはぎチームの4人が素晴らしかった。序盤、おぎやはぎが立てた中指でライバルたちを挑発したシーンは2016年元旦地上波ゴールデンタイム一番の確信犯映像だったと思う。


直感的に思い出したのは、NYパンクの先駆的レーベルORKの共同主宰者チャールズ・ボール(故人)の写真。




去年、Numero Groupから出たコンピの分厚いブックレット(200ページ弱!)にも、その写真はもちろん掲載されている。 髭面の策士、テリー・オークのキャラクターに注目してしまうところだけど、髪型もいかしてない、気弱そうなチャールズ・ボールに宿る、ひんやりとした反逆心に、強く感じるものがある。


つづいてTBSで放映された「ドリーム東西ネタ合戦2016」も実力派ぞろいで間違いなくおもしろかっただろうけど、「芸人キャノンボール」の余韻が強すぎた。夜の散歩に出ることにした。


新年最初の散歩のお供は、asuka andoと井の頭レンジャーズ「シャ・ラ・ラ/愛のさざなみ」、そしてVIDEOTAPEMUSIC「世界各国の夜」へ。


途中、暗がりにぼんやり浮かぶドーム型の建物を通り過ぎるときに、シャッターを押した。そしたら、まだ30%以上あったはずの電源が落ちた。その後は無音で歩いて帰った。いつもよりすこし暗い道を戻るとき、頭のなかにはORKレコードのふたりの写真が、なぜかちらついていた。




頭で鳴ってる音はなぜかNYパンクではなく、年末にリキッドルームで見たPIZZICATO ONEとサニーデイ・サービスのライヴで、小西康陽さんが最初に歌った「お正月」。声も節回しも、小西さんのものになっていた。


年賀状が届いていますが、今年はまだ着手できてません。
この場を借りて、おめでとうございます。
返信の年賀は出します。

2003年の「Fakebook」

2003年にP-Vine Recordsからヨ・ラ・テンゴの「フェイクブック」(1990年)がリイシューされるときに、ライナーノーツを書かせてもらった。


どういうわけかそのCDが手元になく、今はもっぱらリイシューされたアナログで聴いているのだが、古いファイルを整理していたら、幸運にもそのときのライナーの元ファイルを発見した。日付を見たら10月29日で、その前の日に、ぼくは35歳になっていたというタイミングで書き上げたらしかった。たぶん、しめきりには遅れていたでしょう!


ヨ・ラ・テンゴの新作「スタッフ・ライク・ザット・ゼア」は「フェイクブック」の続編としての性格を持つアルバムだし、その新作をたずさえての来日公演には、いつもより思いが高まるところがある。前回の来日時には、ひさびさにアイラにインタビューすることができたけど、今回はそのときよりもっと話を聞きたい気分だ。


パリで大きなテロがあった11月13日の夜、彼らがLAで行ったライヴのセットリストの一曲目がビッグ・スターの「Take Care」だったこととか。このおだやかでほがらかな音楽日記のようなプロジェクトに見え隠れする、日々と音楽を断線しないという決意のような気配のこととか。


ともあれ、現在はマタドール・レコードの日本での配給元も移り、ぼくが2003年に書いた「フェイクブック」のライナーが今後どこかで陽の目を見ることもないかと思う。なので、ここで公開する。


ぼくが今、ヨ・ラ・テンゴを見ておきたい理由を、すでに自分で書いていたという気がした。


なお、文章にはすこし加筆訂正をした。


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 「フェイクブックっていうのは、結婚式とかで演奏するような稼業のバンドが持っている、たくさんの曲の入った楽譜集のことさ。だれかが『バーブラ・ストライザンドの曲を演ってくれ』とリクエストしたら、バンドは彼女の曲なんか知らなくても、その本さえあればOK(笑)。つまり、いかにも“それ風”に演奏するための本なんだよ」


 ヨ・ラ・テンゴ(以下YLT)のアイラ・カプランは、かつてぼくにそう語った。ぼくにとって1990年にリリースされたYLTの四作目『フェイクブック』は、最初に買ったYLTのアルバムであり、長年の愛聴盤だったから、数年前にインタビューする機会を得たときに、これを聞かずにはいられなかったのだ。


 アイラはこのとき苦笑いしながらそう答えてくれたのだけど、彼が言っているのは“フェイクブック”という言葉本来の意味であって、このアルバムの持つ意味についてではなかった。確かに、全体の半分以上をカヴァーが占め、緊張感とは一線を画した、どこか日常の延長線的な雰囲気で録音されたこのアルバムについて、アイラの言ったことは半分は当たっている。しかし、もう半分は、ぼくが考えるべき宿題として残されたままになった。このアルバムには、もっと重要な何かが表現されていると信じていたからだ。


 発売からすでに10年以上の月日が経つが、いまだにぼくはこのアルバムを引っ張り出して折にふれては聴き続けている。もちろん、最新作である『サマー・サン』や、日本での人気を決定付けた『アイ・キャン・ヒア・ザ・ハートビーツ・アズ・ワン』『ナッシング・イットセルフ・ターンド・インサイド・アウト』にも心を奪われてきたつもりだし、YLTのデビュー作であり、なかなか入手困難な状態が長かった『ライド・ザ・タイガー』がマタドールから再発されたときは嬉々として買い求めもした。しかし、気がつくと、ぼくはいつしか『フェイクブック』に立ち戻っている。


 YLTによる“それ風”の楽曲集『フェイクブック』に収められているのは、キンクスNRBQなど、自らのルーツを示すようなアーティストから選曲したカヴァー、YLT自身のオリジナルと過去にいちど発表したナンバーのリメイク、さらに、彼らの周囲にいるあまり知られていない友人たちの素晴らしい作品へのトリビュートだ。ニュージャージー州ホーボーケンの、薄曇りの空にさす木漏れ日を思わすようなおだやかでアコースティックなたたずまいも、このアルバムならではのものだ。 80年代の三枚のアルバムや、知能犯的なニヒルさと直情的な衝動の狭間で繰り返してきた初期の試行錯誤をいったんリセットするような空気がここにはある。YLTの過去と現在を繋ぐミッシング・リンク。『フェイクブック』を経たことで、90年代以降の作品が抜群に訴求力のあるものになっていったことは間違いないと思えるのだ。


 YLTの『フェイクブック』リリース前後の動きを書き留めておこう。


 アイラ・カプラン(g., vo.)とジョージア・ハブレイ(ds., vo.)は夫婦だ。70年代末から『ニュー・ヨーク・ロッカー』などに寄稿するインディペンデントなロック・ライターだったアイラは、高名なアニメーター夫妻、ジョン&フェイス・ハブレイ(“ハブリー”とも表記される)の娘であったジョージアと出会い、84年には仲間を募ってYLTを結成した。


 やがて、コヨーテ・レコードからレコード・デビューのチャンスをつかみ、『ライド・ザ・タイガー』(86年)、『ニュー・ウェイヴ・ホット・ドッグ』(87年)、『プレジデント・ヨ・ラ・テンゴ』(89年)と、同レーベルから三枚のアルバムをリリースした。


 本作『フェイクブック』は、ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツなどが所属していたバー/ナン・レコードでの移籍後の最初にして唯一のアルバムとなったものだ。アルバムの重要なコンセプトであるシンプルなアコースティック・セット(当時はまだ“アンプラグド”という言葉もなかった)は、しばらく前から彼らが地元のニュージャージーで行っていたアコースティック・コンサートが起点となっていた。当時、メンバーの入れ替わりが激しかったYLTにあって、録音メンバーには、アイラとジョージアの他、『ライド・ザ・タイガー』でギターを弾いていたデイヴ・シュラムが復帰、さらにシュラムのバンド、ザ・シュラムスからベーシストのアラン・グレラーが参加した。アイラとジョージアのハーモニー・ヴォーカルと、彼のウッドベースの響きが結構、このアルバムのキモになっているのではなかろうか。プロデュースは元dB'sのベーシスト、ジーン・ホルダー(彼は前作『プレジデント・ヨ・ラ・テンゴ』にもベースで参加していた)。


 録音はホーボーケンのスタジオで、時間をおきながら半年ほどのあいだ、断片的に行われた。アルバムの中に微妙な季節の流れを感じるのはそのせいもあるかもしれない。スタジオを訪れたゲストは二組。ちょっと前にフェイクなフレンチ・ガールポップ・シンガーとして話題を呼んだ才女エイプリル・マーチが在籍していたプッシーウィロウズ。素人っぽいモータウン調ガール・グループだったこの三人娘は、この同じ年に『スプリング・フィーヴァー』というミニ・アルバムを発表している。もうひとりは、アイラ自身がファンであることを公言している伝説のビートニク・フォーキー、ピーター・スタンフェル。元ホーリー・モーダル・ラウンダーズで、元ファッグス。ニューヨーク・アンダーグラウンドの最深部でヴェルヴェット・アンダーグラウンドと同じ空気を60年代に吸っていたこの怪人。自身の持ち歌だった「Griselda」ではなく、「The One To Cry」でそのニワトリの首を絞めたような奇声を披露している。


 詳しい曲の解説は、アイラがオリジナル・リリース時に掲載した、いかにも彼らしいウィットの効いた文章の和訳がCDに付くそうなので、ぼくなりに少しだけフォローをしておく。


 先日、奇跡の来日をしてしまったダニエル・ジョンストンの「Speeding Motorcycle」は、この後、本人とのデュエットがシングルで実現した。ただし、電話越しにだけど。ジョージアがヴォーカルを取るナンバーは、オリジナルの「What Comes Next」をはじめ、どれも印象的だが、やはりNRBQの「What Can I Say」に尽きるだろう。『アイ・キャン・ヒア・ザ・ハートビーツ・アズ・ワン』収録の「My Little Corner Of The World」が登場する前は、よくライヴの最後に歌われていた(ひょっとしたら今でもときどき歌っているかもしれないが→2015年の今でもときどき歌っている)。そう言えば、バイオによると、このアルバムから彼女はヴォーカルに自覚的に取り組むようになったのだという。88年に来日し、新宿のタワーレコードでインストア・ライヴをスモール・セットで行ったときは、ここぞとばかり『フェイクブック』からのリクエストが集中した。「ジーン・クラーク!」とか、「ジョン・ケイル!」とか客席から声があがり、確かこのアルバムから「Andalucia」や「Did I Tell You」のような珍しいナンバーを演奏したと記憶している。ちなみにこのときはジョナサン・リッチマンの「Government Center」も歌われた。そうだ。『フェイクブック2』をもし作るとしたら何を歌う?というぼくの問いに、ジョージアは微笑しながら「ジョナサン・リッチマンの“Emaline”」と答えてくれた。


 話がちょっと脇道に逸れてきたので、本道に戻ろう。


 『フェイクブック』リリース後、ツアーの必要もあり、アイラとジョージアは、クリスマスというバンドにいた巨体のベーシスト、ジェームス・マクニューに助っ人を頼んだ。しばらく行動を共にするうちに、ジェームスは正式にYLTのメンバーとなった。そしてミニ・アルバム『This Is Yo La Tengo』(92年/アライアス)以降、YLTの現在へと道のりはまっすぐに続いている。


 *    *    *    *    


 初めて聴いたとき、まるでだれかの日記を読んでいるような気分になった。そして、聴き続けていくうちに、それがまるで、ぼく自身の日記になっていることに気がついた。パラパラと日記のページをめくるように、CDの再生ボタンをつい押してしまっているのだ。


 選曲の趣味が似ているからとか、フォーク・タッチのサウンドが肌身に合うからとか、そういうことだけじゃない。YLTのサウンドの本質にある、淡々とした日常を生きる実感が、そうさせるのだ。それは、ふとした瞬間に感じる「おれはこれが好きなんだ」というような愛情であったり、他愛もない思いつきであったり、何もすることのない時間であったり。決して“内面に潜む偏愛や狂気”とか、そういう大げさなものではなく、ありふれたものだ。静寂と爆音の交錯も、果てしなく茫洋と上昇と下降を繰り返すフィードバックも、すべてはそこから出発している。そのことがまるで自分のことのようにぼくには信頼できる。そして、『フェイクブック』こそ、さりげなく、小さな声で、ではあるが、そういう基本姿勢を率直に表現したYLTの最初の作品だ。


 もうひとつ。アイラの言わなかった『フェイクブック』の意味の“もう半分”を、今はなんとなくぼくはこう考えている。人間には、好きだからこそ本当の気持ちを嘘(ルビ:フェイク)として表現してしまう、そういう生き方をすることがある。うまくいえない、あいあいあい。それは、誰にでもありうる裏返しの愛のかたちだ。このアルバムには、そんな“素直になりきれない素直さ”が率直に表現されている。ぼくは彼らのことが大好きになった。


 このアルバムに収録されたキンクスの「Oklahoma U.S.A.」で、かつてレイ・デイヴィスが歌った一節。そこには、このアルバムと、YLTの根幹に深く根付く問いかけがある。「人生の目的が生きることだとしたら 生きるって何のためなんだろうね?」。


 現在のYLTの表現力の力強さ、影響力の大きさに比べれば、このアルバムは、随分ささやかなものとして受け止められるのかもしれない。しかし、ぼくはこの先も、このアルバムを愛し続けるだろう。何百回、何千回聴いても飽きない。彼らは今も『フェイクブック』で見つけた自分たちの音楽をずっと続けているし、これからも続けてゆくだろうと確信しているからだ。


2003.10.29 松永良平(リズム&ペンシル)

All Things Must Pass

アメリカのタワーレコードの栄華と衰退を描いたドキュメンタリー映画を見た。 タイトルは「オール・シングス・マスト・パス」。




念のために書くと、アメリカにはもうタワーレコードは存在しない。2004年以来、2度の破産を経て、2006年12月22日を最後に全米の全店が閉店した(日本のタワーレコードは資産価値が高いうちに売却すべきとの銀行からの指示により、すでに別会社だった)。


ぼくがはじめて行ったアメリカのタワーレコードはニューヨーク店。イーストビレッジにあったその店で、1989年の秋、ニール・ヤングの「フリーダム」やルー・リードの「NEW YORK」を買ったことを覚えてる。その店舗の入り口を、当時、ぼくは憧れとともにくぐった。タワーレコードのビレッジ店は、西海岸の本社スタッフは「グリニッチビレッジのいい場所にあると聞いて話を進めてたのに、行ってみたらビレッジとはいえないさびしくて暗い場所で、ビルもおんぼろだったんだ」と映画のなかで懐述していた。でも、タワーレコードがそこに現れたことで、周囲もにぎやかになっていったんだそうだ。そうだったのか。


北カリフォルニアのサクラメントのローカル・レコード店に過ぎなかったタワーレコード。タワーという名のビルにあった薬局の息子がレコードも売るようになったのがきっかけ。タワーレコードを産んだ“タワー”ビルは今も建っている。その薬局の息子、ロス・ソロモンの回顧を軸に話は進む。ロス・ソロモンは怪物的かつ愛すべき人物で、ぼくには映画監督のロバート・アルトマンと似た存在に思えた(顔もなんとなく似ている)。直感を重視し、音楽を愛し、スタッフを愛し、家族経営のように店を運営した。サンフランシスコ、LAへと展開していくのは70年代に入ってから。サンセットストリップにあったLA店も含め、初期の店舗はスタッフ自らがデザインして作り上げていた。


おもしろかったのはエルトン・ジョンのコメント。70年代の人気絶頂時、エルトンは開店の一時間前にリムジンでLA店に乗り付け、これと思うレコードをかたっぱしから買っていた(その映像もある)。「僕は全人類で一番タワーでレコードを買った男だ」と語るエルトン。他にはブルース・スプリングスティーン、シアトル店でバイトしていたというデイヴ・グロール(「長髪で社会性もないけど、ただ音楽が好きだって気持ちはあったおれらみたいなやつを雇ってくれるのはタワーだけだった」)もコメントで登場する。


78年にはじまった日本進出など、全米から世界各国に及ぶ巨大なチェーンストアとしてビジネスを拡大しながらも、ロス・ソロモンは“信頼”を基本に置いた家族的なやり方を変えなかった。スタッフが提案したアイデアも、よいと思えばどんどん採用した。タワー発のペーパー「Pulse」もそのひとつ。日本で生まれたキャッチコピー“NO MUSIC, NO LIFE”についてもすばらしいじゃないかと受け入れた。その情愛は、コメントを出す当時のスタッフが途中で感極まって涙するほど。


映画としてのすじがきについては、この先は割愛する。ひとことで言って、泣けた。人が自分の人生の多くを捧げて築いた夢の砦を失うつらさとやりきれなさに、単純にぐっときてしまった。だってあのタワレコの黄色と赤のロゴは、かつて若き日のソロモンたちが手描きで考えたときのそのまんまなんだ。


ラストにはジョージ・ハリスンの「オール・シングス・マスト・パス」が流れる。これをタイトル曲にしなくてはならなかった理由は、アメリカのタワレコ全店が閉店した2006年のその日、サクラメントの一号店に掲げられたメッセージが「オール・シングス・マスト・パス」だったから。この映画はキックスターターというクラウドファンドで資金を募って制作されており、決して潤沢な状況でもなかっただろう。よくジョージの楽曲使用の許諾が下りたなと思う。「そういう映画なら」という心の動きが権利者側にあったと思うのは都合のいいファンタジーかもしれないけど。


タワレコ万歳ストーリーというより、これは、ひとりの男の夢が叶って破れる話。結末はほろ苦いが、ちょっとした救いもある。渋谷のタワーでも撮影が行われているし、日本のタワーレコード本社をロスが訪問する場面もある。当然日本のスタッフもこの映画が作られたことは知っているんだろうな。タワーレコード全従業員に見てほしいし、日本公開も実現してほしい(すでに決まってるのなら杞憂)。




「RECORD COLLECTOR NEWS」の最新号は、この映画の紹介と、監督のコリン・ハンクスへのインタビューが掲載されている。そうそう、タワーレコード創業者のロス・ソロモンがロゴを黄色と赤にした理由は、シェル石油のガソリンスタンドのマークの色合いを参考にしたからだそう。試験には出ないけど覚えておくと楽しい。





【追記】
アメリカのレコード店ドキュメンタリー映画といえば、未完成(未公開)の作品をふたつ知ってる。ミルヴァレーの名店ヴィレッジ・ミュージックの閉店を追った作品。もうひとつはLAインディペンデントストアの雄ライノ・レコード。後者はクラウドファンドが何年か前にあったが目標額に達しなかった。


ていうか、そのふたつの作品の撮影に、偶然にもぼくは参加している。ヴィレッジ・ミュージックの映画では肖像権の書類にその場でサインした。ライノ・レコードの映画はパイロット版を見せてもらったけど、超つたない英語でインタビューに答えていた……。もうその2作品が公開されることはないのかな。


ぼくがエミット・ローズに会った日の話は、ライノ・レコードのドキュメンタリー撮影が行われた、ポップアップ・ストア・イベントでの出来事だった。

A visit to Andy Warhol Museum at night

アンディ・ウォーホルアメリカ東部ペンシルヴェニア州ピッツバーグで生まれ育ち、大学を卒業するまで地元にいたことは、あんまり知られていないかもしれない。生粋のニューヨーカーとして彼のことを勘違いしている人は少なくないし、出自が知られていたとしても、その後の輝かしい履歴に比べれば語られることは稀だ。


だから、アンディ・ウォーホル美術館がピッツバーグにあるということに「え?」というリアクションをする人は少なくない。アンディ・ウォーホル美術館はダウンタウンの一角にある。ピッツバーグ・パイレーツの本拠地PNCパークにほど近い街角に建つビルがそれ。




そのアンディ・ウォーホル美術館の1階エントランスにあるラウンジで、11年にわたって不定期で行なわれているライヴ・イベント、“サウンド・シリーズ”。ウォーホルとなんらかの関係がある、あるいは影響下にあるミュージシャンやバンドがこのシリーズには出演してきた。そのイベントにジョナサン・リッチマンが出演した。辛抱強い出演依頼と、ジョナサンのツアー・スケジュールがようやく合致しての初登場だという。




野球のシーズンが終わって、陽が暮れたスタジアム周辺はひっそりとしている。何軒か営業しているバーも見かけたが、人影はまばらだ。だが、7時半過ぎに美術館に到着すると、その周囲にだけは列ができていた。40代、50代の年季の入ったアメリカ人オタク第一世代みたいな人もいるし、ブロンドの髪を短く揃えた女の子もいる。アメリカでジョナサンのライヴに行くと、いつもその世代の幅、性格の幅に驚く。


ほどなく美術館がオープンして中へ。午後5時で閉館した美術館を、ひとときのインターバルを置いてライヴ・スペースにしてしまうわけで、いわゆる“インストア”的な簡易さとは違う雰囲気になる。なにしろ、ドリンクカウンターではアルコールも買える。隅のほうに“アンディ・ウォーホル式三分写真ボックス”があって、さっそく男女がしけこんでいた。




ライヴはこの一階フロアのラウンジにステージを組み立て、オールスタンディングのライヴハウス形態で行われるようだ。


「あー、リョオヒ?」


不意に話しかけられてびっくりした。こんなところに知り合いがいるはずがない。しかし、振り向いてみたら向こうはぼくを知ってる様子。


「前にレコード屋であったよね?」


あー、その顔には見覚えがあった。彼はレコード屋でバイトしていて、その店が倉庫の在庫を見せてくれることになったときにぼくをヘルプしてくれたのだ。作業のBGMとして、そこにあったラジカセで、彼がかけてくれたのがゆらゆら帝国の「空洞です。」でびっくりしたことを思い出した。「おれ、マックスウェルズに彼らのライヴを見にいったんだ」と言っていたはず。


残念ながらその店でのバイトはやめてしまったらしい。「今日、おれははじめてジョナサン・リッチマンを見るんだ。きみは見たことあるかい?」と聞かれて、25回と正直に言おうかと思ったが、引かれそうなので「何回かね」と控えめに答えるだけにしておいた。


「enjoy」


そう言って、彼は彼女とバー・カウンターのほうに向かった。




やがて、フロアの照明がすこし暗くなり、ジョナサンとトミー・ラーキンスが颯爽と舞台に登場。スパニッシュギターをつかんだジョナサンが掲げながら(ギターにストラップはついていない)、弦をかき鳴らしはじめ、今夜もライヴがはじまった。


3曲目だったかな、「ザット・サマー・フィーリング、ザット・サマー・フィーリング、ザット・サマー・フィーリング」と歌い出したジョナサンは、歌を続けるかと思いきや、「ここはアンディ・ウォーホル美術館。ぼくがアンディ・ウォーホールに会ったのは5回か6回。はじめて会ったのは1967年のニューヨーク。ぼくは16歳だった。そのときのことを正直にしゃべるよ」と語り出した。


ヴェルヴェット・アンダーグラウンドに夢中だったぼくは、彼らを通じてアンディに会った。まだ16歳で、何も知らなかったぼくに、アンディはそれまでに会ったどんな人よりもきちんと対応してくれた。“ハイ、アンディ、ぼくはヴェルヴェット・アンダーグラウンドのファンです”」


「ぼくは怖いもの知らずにも続けて言った。“でもアンディ、正直にいうと、ぼくはあなたのアートがよくわからないんです”。まだ16歳だからね(笑)。そしたら、アンディは言った。“きみはわかっているさ(Yes you do)”」


「アンディの言った意味をぼくは考え続けた。ある日、スーパーマーケットに行ったとき、缶詰スープの前で立ち止まった。キャンベル・スープの缶が並んでいた。それを眺めていたら、突然思ったんだ。“この色とかたち! ぼくも色とかたちを表現したい”と」


「そしてぼくはギターを弾いた。今もギターを弾き続けてる。16歳のぼくはルー・リードにもこんなことを聞いた。“曲の最初の一音にはどういう意味がある?」ルーは答えた。「いろいろだよ、坊や(My son)”」


「このちょっとスプーキーな場所は、ぼくにいろんな昔のことを思い出させてくれた。ありがとう、アンディ」といって、ジョナサンは「ザット・サマー・フィーリング、ザット・サマー・フィーリング、ザット・サマー・フィーリング」ともう一度3回口ずさんで、曲を終えた。それがこの夜のジョナサンが歌った「ザット・サマー・フィーリング」だった。


64歳になったジョナサンが語る16歳の気持ちは、16歳そのものだった。なんでなのか、ぼくは泣いていた。ぼくのなかにまだくすぶる、なんにも知らずに背伸びしていた16歳のぼくに、その言葉はさわっていた。


曲を終えると、「もしきみたちがピッツバーグに住んでいて、昼間に時間があるのなら、この美術館を訪れてみるといいよ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのすばらしい展示があるし、ここで見ることができるシルバー・クラウズ(巨大な銀色の空気枕がたくさん空間を飛び交うインスタレーション)はたいしたものだよ。もしきみがすぐにはそれを理解できないとしても、いつかきみ自身の方法でそれがわかるだろう」


「これ、アンクル・ジョナサンがウォーホルから受け継いだ教えだって、覚えておいてくれ」そういってジョナサンは笑い、観客もみんな笑った。


アンディ・ウォーホル美術館でジョナサン・リッチマンを見た夜。おわり。

1999年11月のある日、あるバンドと

あの夜も11月だったなと思い出す。
1999年11月のある日、ニューヨークのペン・ステーションからコネティカット州ハートフォードに向かった。
途中の駅で降り、車で迎えに来てくれていたトムとジョニーと合流した。
今夜、バンドはコネティカットの地元テレビ局で行われるスタジオライヴをやる。その前にハートフォードのホリデイインにチェックインすることになっていた。
「ホテルはテレビが支払ってくれたらしいぜ」「そりゃいいな!」
トムがぼくに耳打ちした。「ハートフォードからおれの家まではすぐだからさ、おれの分で取ってある部屋にリョウヘイは泊まるといいよ。タダで泊まれるんだからさ!」「わー、いいのかな、サンキュー」
しかし、話はそう簡単じゃなかった。
ホテルに着くと、テリー、ジョーイ、ローディのジャンジャンが先にいた。揃ったところでチェックインをする。だが、宿泊名簿に彼らの名前がない。
「そんなはずないだろ」「エージェントの名前で予約してあるはずだろ」
すったもんだのやりとりの末、ある事実が判明した。
「すいません、みなさんのご予約は昨日でした。すでにすべてキャンセル扱いになっております」「オー、ノー!」
一同あきれかえっているところにロードマネージャーがやってきた。なにやらフロントと交渉すること十数分。「OKです!」「ほっ」
部屋に入ると、トムが笑いながら言った。「まあ、よくあることさ」
ちょっと寝るよとトムが言うので、ホテルを出て街を歩いてまわった。ハートフォードダウンタウンは閑散としていて、冬の始まりを告げる風がときおりひゅうひゅうとビルの谷間から吹き込んできた。


スタジオでの2時間ほどのライヴが終わった。彼らの地元に近いこの街のライヴはテレビ収録につき無料ということもあり、昔からの顔なじみもたくさん詰め掛けていた。メンバーを介して、いろんな人たちとあいさつをした。
数日前にニューヨークのバワリー・ボールルームで行われた30周年記念の2デイズにはアメリカ中、世界中から年季の入ったファンが詰め掛けていた(ルー・リードも隅からライヴを見ていたそうだ)。その晴れやかな雰囲気もすばらしかったけど、より普段着に近いファンが集まっている今夜も、バンドが生きてきた歴史を感じさせるものだった。テレビのスタジオなので全員が着席だったことを除けば。
ライヴが終わったあと、スタジオからホテルまではすこし距離があるので、トムの友人と待ち合わせて車で乗せていってくれるという約束になっていた。
ところが30分ほど待っていたのに、トムがどこにも見当たらない。そのうち機材を片付けていたジャンジャンが出てきたので「トムを見たか?」と聞くと、「あれ? さっき友だちと一緒に帰ったんじゃないかな?」という。
マジか! ちょっとショックだったが、ライヴで上気したミュージシャンにとって、こういう記憶や約束のぶっとびが起こることはある程度は理解はできた。
それよりも現実的に困ったのは、ここからホテルまでは一時間くらいはありそうだし、ハイウェイを来たから、そもそも歩いて帰れるかどうかもわからないということ(当時は海外で携帯電話を使うという発想はまだ一般的ではなく、あったとしてもトムはそんなものは持っていなかった)。途方に暮れているところに、ジョーイが美女と一緒に現れた。「へーい、リョウヘイ、どうした?」
いつもながらのゆったりとした口ぶり。隣にいた美女はジョーイの奥さんでミュージシャンのカミだった。
わけを話すとジョーイは「ああ、そうか。まあ、よくあることさ。なんならおれが乗っけていってやるよ」と言ってくれた。「その前にお腹が空いたからダイナーに行きたいんだ。一緒に来てもらってもいいかな?」
「いいとも!」と英語でぼくは返事した。


車に乗ってから30分ほど経っただろうか。
「あれ? おかしいなあ? このあたりにあったはずなんだけどなあ」
ジョーイは道に迷って、ちょっとぴりぴりしていた。確かにあったはずのダイナーを探して、さっきから車はおなじところをもう2回ほどぐるぐるしている。
「ごめんなさいね。よくあることなのよ」
カミが苦笑しながら謝ってくれた。
「ミュージシャンはね、お腹が空くと機嫌がわるくなるの」
そのうち、どこをどう曲がったのか、向こうにダイナーのストリートサインが見えてきた。「ああ、あれだあれだ!」
ようやく見つかったダイナーに車を停め、ぼくらはようやく遅い晩御飯にありついた。
カミがトイレに立ったとき、ジョーイがおもむろに言い出した。「リョウヘイ、お願いがあるんだ。カミが帰ってきたら、ぼくに日本語で話しかけてほしい。きみがなにを言っても、ぼくは“うんうん”“そうだね”って相槌を打つから、それが的外れでも日本語で話し続けてほしいんだ。そしたら、カミはぼくが日本語が話せるようになったんだって思うだろ」
小学生かよ!……とも思ったけど、ジョーイがあまりにも「いいこと思いついた」的な、いい顔をしているので、ぼくも小芝居に付き合うことにした。


カミが帰ってきた。ジョーイが軽く目配せしてぼくにキューを出した。
急に日本語をしゃべれといわれても気の利いたことも思いつかないので、思ったままのことを口にした。
「ジョーイ、あなたのベースって本当にすごいんだよ(日本語で)」
「オー、イエー、知ってる知ってる(英語で)」
「曲のコード感とかも普通じゃ思いつかないし、歌声もせつないし、メロディは最高だし、日本のファンはあなたのことが本当に大好きなんだ(日本語で)」
「あっはっはっは、あの食べ物はケッサクだったね(英語で)」
「また日本に何度でも来てほしいし、あなたたちの音楽に向かう態度がいいお手本になると思う。21世紀になっても若いミュージシャンにいっぱい見てほしい(日本語で)」
「そうそう、あのときあそこに行って、変なやつが出てきたっけね(英語で)」
「ぼくはあなたたちが大好きなんだ(日本語で)」
「オー、イエー、それは知らないな(英語で)」
カミはずっと大きな「?」マークを顔に浮かべながら、ふたりのやりとりを見ていた。「どうだい」と笑うジョーイの態度で、ふたりにだまされていたと知ったカミは「もー、ジョーイったら!」と、愛する人を軽く小突いた(お熱い)。


ホテルに無事にたどり着いたとき、時計はもう夜の2時を回っていた。
フロントにとろんとした顔でジョニーがいた。友人たちと部屋でカードギャンブルをしているんだそうだ。ジョーイはカミと部屋に向かった。ぼくもトムがくれた鍵で部屋に戻り、荷物の整理をした。翌朝一番の電車でぼくはニューヨークに戻り、午前中にJFKを発つ飛行機で日本に戻らなくちゃいけない。アラームをセットしたら、猛烈な眠気がきて、着替えもしないでベッドに横になった。


翌朝、フロントにて。
「トムさま(と、東洋人であるぼくの顔を見て別人と知り、一瞬固まったが、何事もなかったように)ですね。お会計はこちらになります」
チーン、ジャラジャラ。
バンドの優秀なロードマネージャーは、ホテルの予約違いをしただけでなく、あらたにバンドの持ち出し(有料)で部屋を取っただけだった! オー、ノー。
きっと、起きてきたメンバーたちもあとでおなじリアクションをするんだろうな。
「まあ、よくあることさ」
頭のなかでトムとジョーイの声が重なった。
手間取ってるひまはない。さっさと部屋代を払って、ハートフォードの駅へと向かい、帰りの電車に飛び乗った。


電車が動き出した。早朝の一番電車にはまだ通勤する会社員の姿もない。
窓の外を見ていたら、突然、心から笑いがこみあげてきた。
「まあ、よくあることさ」
そんなことを積み重ねながら、バンドマンは生きてきたし、これからも生きていくしかない。しくじったり、巻き込まれたり、羽目を外したり、泣いたり、笑ったり、怒ったり、儲けたり、なくしたり、愛されたり、見捨てられたり、それでも愛されたり、愛したり。
おもろうてやがて悲しき浮き草稼業。はちゃめちゃに楽しい思い出ばかりで人生が終わらないことを、ぼくらは知っている。
それでも、そう生きることをやめられないのだ。
あくびをしたら涙が出た。


あの1日のことを、ぼくは死ぬまで忘れずに覚えているだろう。
彼らにとってはありふれたドタバタドラマのごく一部分だったとしても、そんなことがあったねといつかまた語り合えるのなら、その喜びは捨てたもんじゃない。

ニュー・ビヴァリー・シネマにて

過日、LAにあるニュー・ビヴァリー・シネマに出向いた。



ニュー・ビヴァリー・シネマのオーナーは、クエンティン・タランティーノ。連日、彼好みの映画が上映される。もちろん可能なかぎりすべて35ミリ・フィルムで。金曜の夜はミッドナイト・ショーもある。この日は2本立てで料金は8ドル。全席自由。入れ替えなんかない。



で、60年代ライヴ映画の傑作「T.A.M.I.ショー」(1964年/米)と、イギリス制作の「ゴー・ゴー・マニア」(1965年)。「T.A.M.I.ショー」は1964年10月28日、29日にカリフォルニアのサンタモニカにあるシヴィック・オーディトリアムで行われたオムニバス・コンサートの記録映画。この時代の音楽のファンなら垂涎のラインナップが並ぶ。




DVDも出ている(出たときすぐ買った)が、地元で、フィルムで、大きなスクリーンで見られる高揚感は半端ないはずと思い、列に並んだ。100名ほどが定員の劇場は、ほどよくいっぱいになった。礼儀としてコークとポップコーンを買った。



場内はこんな感じ。



グラインドハウス」シリーズでも使われる「これから予告編が始まります」のあやしげな映像が流れると、予告編が始まった。その予告は退色しまくった「モンタレー・ポップ」や「ウッドストック」。どうかしてるぜ。


客席は、予告編の時点ですでに拍手喝采やシンガロングが起こっていたが、映画本編からの熱狂はすごいものだった。サンタモニカの大通りをスケボーで駆け抜けるジャン&ディーンに「YES!」 ミラクルズにキャー! レスリー・ゴーアにウォー! マーヴィン・ゲイに「最高だ!」の掛け声。





みんながトイレに立ったのはビリー・J・クレイマーとダコタス。リスペクトがすごかったのがビーチ・ボーイズ。ついに踊り出す客が出るんじゃないかと思うほど盛り上がったのはジェームス・ブラウン。JBの18分は、すべてが完璧だ。



フィルムは保存状態がいいとは言えないし、音質もぜんぜん良くない。でも、その経年感は、同時に見る者に奇妙なかたちでのリアルタイム感を植えつけるものでもある。綺麗にレストアされ、まるで最近の映画のように見えることが必ずしも“生々しさ”には結びつかないという例はいっぱいある。


二度と届かない時代だからこそ、手を伸ばしたくなる感覚。不可能だからこそ、こんなに熱狂が力強い。当時会場に詰めかけ、泣き狂い叫び踊る女の子たちの顔がすべてあんなにうつくしく輝いているのも、手に入れられないものを求めようとする無心が作り出す美なのだ。


ラストは「サティスファクション」直前のストーンズ。あきれるほどに若く、罪作りな匂いに満ちていた。スクリーンの大きさだからこそ気がついたのは、袖で力尽きたJBに、風をあおいで励ましていたダーレン・ラヴ。彼女のいたブロッサムズはマーヴィン・ゲイのコーラスを務めていた。



併映の「ゴー・ゴー・マニア」は、想像していたのと違った。これって、「ポップ・ギア」というイギリス映画のアメリカ公開ヴァージョンでのタイトルだったのだ。ブリティッシュ・インヴェイジョン期にビートルズ人気に便乗して作られたスタジオもの。


最初と最後のビートルズのみライヴで、あとは口パクなのだが、スーザン・モーンやビリー・デイヴィスみたいなイギリスのガール・シンガーや、アルバム・デビュー前のスペンサー・デイヴィス・グループをカラーで見ること自体が珍しいし、それなりに楽しめた。唐突にはさみこまれるゴーゴーガールのダンスも楽しい。ただし、観客は明らかに減り、シンガロングも拍手もそれほど起きなかった。ひとりだけ年配のマット・モンローに対して「がんばれ!」の声は飛んでいたけど(ラストに彼が歌うテーマソング「ポップ・ギア」は最高!)




2本立てを見終えて、外に出るともう真夜中だった。



ザ・ロスト・ウィークエンド

 報せは突然だった。


 カリフォルニアのウェスト・ハリウッドにあるライヴハウス、ラルゴで、2015年5月8日、9日の二夜にわたって、ヴァン・ダイク・パークスが“ラスト”・ライヴ〈ザ・ロスト・ウィークエンド〉を行うというのだ。


 一瞬「え? 引退コンサート?」と動揺したが、これはあくまでピアノを弾きながら自作曲を歌うシンガー・ソングライター的なパフォーマーとしてのラスト・ライヴとのこと。72歳を迎えたこの天才はこれまでの活動に一区切りを着け、音楽家として次のステップを目指すのだという。


 とは言うものの、1968年にリリースされた革命的なファースト・ソロ・アルバム『ソング・サイクル』を皮切りに、21世紀に入ってのアナログ・シングル6枚連続リリースから結実した近作『ソング・サイクルド』(2013年)に至るまでの、佳作でありながらひとつひとつが濃密な約半世紀のキャリアに、ひとつの句読点を打つ催しであることは間違いなかった。会場に選ばれたラルゴは、ジョン・ブライオンエイミー・マンも寵愛する、古い映画館を改装したライヴハウスで、キャパは250人程度。当然両夜ともソールドアウトした。アメリカ音楽界の偉人の節目のコンサートの場所としては不釣り合いなくらいの小ささだが、音楽で過去のアメリカと現在、未来の音楽をつなげてきた音楽人生を思うと、むしろここラルゴにある古さもあたらしさも一緒にある時空間こそがふさわいいシチュエーションであるとも感じられた。


 2晩のコンサートのために用意されたバンドは、ストリングス6名、ベース、ドラムス、ギター、ハープ、そしてヴァン・ダイクのピアノという構成。さながらミニ・オーケストラのようにクラシカルな演奏を繰り広げたかと思うと、アメリカ南部やカリブ海のグルーヴにも対応できる自在なミュージシャンたちが揃った。そこに登場したスペシャル・ゲストは、以下の通り。旧知のイナラ・ジョージ(8日)、ギャビー・モレノ(両日)、ニュージーランドからこの日のために駆けつけたキンブラ(9日)といった女性シンガーたち、名プロデューサーでもあるジョー・ヘンリー(両日)、グリズリー・ベアのダニエル・ロッセン(両日)、ローウェル・ジョージに捧げるスライドギターがすごかったジョー・ウォルシュ(9日)。そして、8日のライヴが始まるにあたって司会として挨拶をしたのが、ヴァン・ダイクの70年代以来の親友であるモンティ・パイソンエリック・アイドル! いきなり度肝を抜かれた!


 エリック・アイドルが場内を毒舌で爆笑させてヴァン・ダイクを呼び出すと、蒸気機関車が到着した駅の雑踏の音が場内に流れた。「ここはどこだ?」と、あたりを見渡しながら、ピアノを離れ中央に歩み出すヴァン・ダイク。それはかつて彼を生まれ故郷のテキサスから南カリフォルニアに連れてきた汽車の音の再現だった。オーケストラに向かって、すっと腕を振り上げると、その柔らかい弦の調べと同時に、一曲目が始まった。


 「That's the tape that we made...」


 一瞬気が遠くなるかと思った。それはあの『ソング・サイクル』の幕をおごそかに開ける曲、「ヴァイン・ストリート」。ランディ・ニューマンの曲だ。信じられないことに、この日、客席にはランディ・ニューマン自身がいた。それだけじゃない。ヴァン・ダイクとともに60年代末のあの魔術的なバーバンク・サウンドを作り出したプロデューサー、レニー・ワロンカーも、1960年代に若き二人を雇って未来を託したワーナー・ブラザーズの社長、モ・オースティンもいた。彼らが見ている前で、ヴァン・ダイクが「ヴァイン・ストリート」を歌い、演奏しているという事実は、その場に居合わせたすべての観客を、1968年『ソング・サイクル』制作中のバーバンクに引き戻したはずだ。


 グアテマラ出身の女性シンガー、ギャビー・モレノが基本的にヴォーカル面でのさまざまなサポートを行い、ゲストが曲によって入れ替わりに登場するかたちでコンサートは進行した。ビーチ・ボーイズの「英雄と悪漢」(1967年)、『ディスカヴァー・アメリカ』(1972年)、『ジャンプ』(1984年)、ブライアン・ウィルソンと制作した『オレンジ・クレイト・アート』(1995年)と、重要な作品から重要な曲がピックアップされていく。ブライアン自身がラルゴに現れることはなかったし、ランディ・ニューマンも舞台に上がらなかったが、ヴァン・ダイクは、彼が一緒に仕事をし、大きな影響を受けてきた偉大な音楽家たちの楽曲をカヴァーすることで、音楽そのものをスペシャル・ゲストとして丁重に扱った。


 ナッシュヴィルの鬼才ジョン・ハートフォード、ニューオリンズアラン・トゥーサン、親友ハリー・ニルソン、19世紀の作曲家ルイス・モロー・ゴットシャルク(ラルゴのロビーの片隅には、ゴットシャルクの古いポスターが貼ってある)、イナラの父であるローウェル・ジョージカリブ海で見つけた神秘の楽器スティール・パンのプレイヤーたち、陽気で知的なカリプソ歌手たち……。まるでヴァン・ダイクが書き換えてきたアメリカ音楽の歴史と地図の俯瞰図を、目の前で見せられているよう。


 そういえば、ヴァン・ダイクにはこんな話も聞いた。何年か前、ノースカロライナ州のアッシュヴィルという街で行われたフォーク・フェスティヴァルに出演したときのこと。街を歩いていたら、通りの向こうからジョン・ハートフォードとロバート・モーグ博士が談笑しながら、こっちにやって来たという! 「モーグ博士は、アッシュヴィル出身だったんだよ。そして、ハートフォードと博士には交流があったんだ。ものすごい天才ふたりが一緒に歩いているのに、周りの人は誰も気がついてなかった」それもまた、音楽の教科書には書かれていない歴史のひとつだ。


 かつてインタビューしたとき、ヴァン・ダイクは「どんな時代であれ、音楽とは異文化を伝える最良の手段なのだ」という意味のことを言っていた。人間が移動することで、その人の知っている歌や音も伝わっていく。そして、知らない場所で知らない文化と交わって、新しい何かが生まれていく。その最良の神秘と成果のひとつが、はっぴいえんどの「さよならアメリカ さよならニッポン」でもあった。21世紀を迎えて、戦争や環境破壊などいろいろな憂慮や絶望はあっても、ヴァン・ダイクが今も前を向いている理由は、根本にその信念があるからだろう。この巨人はスマホを使い、Youtubeを今も丹念に検索し、SNSをおそれない。そして、自らの新しい音楽キャリアへとアクセスを続けていく。


 両夜のMCでもヴァン・ダイクの脳内メモリーから引き出される逸話の数々は、健在だった。スコット・フィッツジェラルドアーネスト・ヘミングウェイの友情とその決裂について語ったり、近年カリフォルニアを襲う飢饉の深刻さと政府の無策(「アワ・ウェット・ドリーム・イズ・オーヴァー」と彼は表現した)にも言及をした。福島原発の事故収拾と海洋汚染についても彼の関心は高い。だが、一方的に権利を主張したり、誰かを非難することではこれらの問題がもう解決できないことも知っている。「自己顕示欲で生きてる場合じゃない。世界中が力をあわせなくちゃいけない難局がこれから来るんだから」と、ヴァン・ダイクは観客に語りかけた。


 コンサートの終盤、ヴァン・ダイクはピアノを離れた。そして、6人のストリングスを従えて20世紀を代表するビートニク詩人ローレンス・ファーレンゲッティ(サンフランシスコの書店〈シティ・ライツ・ブックス〉の店主で、95歳の今も健在)の詩「アイ・アム・ウェイティング」を歌うように朗読した。チェンバー・ミュージックとポエトリーを融合させた表現で、このすばらしい言葉の芸術を伝える表現を、自らのネクスト・ステップでは追求したいのだと彼は言った。音符と言葉にまみれて生きてきたヴァン・ダイクらしいチャレンジだと思えた。


 コンサートは両夜ともに3時間に及ぶものだった(2日目は休憩を挟む構成になったので3時間半を超えた)。


 2日目のアンコールで、ヴァン・ダイクは、予定の曲を演奏しようと準備するバンドを手で制すと、ヴァン・ダイクはひとりでピアノを弾き始めた。もしかしたら、もともとは演奏の予定になかったのかもしれない(初日は演奏されなかった)。その曲は「オール・ゴールデン」。1965年、ピアニスト、カーメン・キャバレロの演奏を見て書いたとヴァン・ダイクが語ったこの曲は、実質的に『ソング・サイクル』制作の原点にある存在だ。その白昼夢のような響きは、この音楽家が見ていた半世紀の夢を宝箱にしまいこむエンディングテーマのようでもあったし、長く彼とともに音楽を奏でてきたピアノとのお別れの場面を見ているようでもあった。その過去は、まるで未来のように光で揺らめいていた。息をこらえているうちに涙が出た。


 「オール・ゴールデン」を弾き終えて、猛烈なスタンディング・オベーションが巻き起こるなか、「さて、これが私のスワン・ソングだよ」と笑うと、バンドがカリプソを奏で出した。最後はカーニバルじゃなくちゃね。その曲は「アナザー・ドリーム」(『ヤンキー・リーパー』1975年)。


 “スワン・ソング”とは、日本語では“辞世の歌”。こうしてヴァン・ダイクは、ひとつの音楽人生にさよならをした。終わりがあるからその次がある。カリプソのリズムに見送られ、辞書ほどの厚みのある譜面の束を抱え、舞台を降り、旧友たちと握手して、客席を抜けていった。ドアを開けたその先には、もう次の夢が待ってる。


Van Dyke Parks "The Lost Weekend" at LARGO, LA
2015/05/08, 09
setlist (incomplete)


Vine Street (Randy Newman cover)
Heroes and Villains (The Beach Boys cover)
Palm Desert
FDR in Trinidad
Sail Away
Jump!
Opportunity for Two
Come Along
An Invitation to Sin (feat. Inara George / Kimbra)
He Needs Me (Harry Nilsson cover) (feat. Kimbra) *09 only
Riverboat (Allen Toussaint cover)
Delta Queen Waltz (John Hartford cover)
Danza (Louis Moreau Gottschalk cover)
Night in the Tropics (Louis Moreau Gottschalk cover)
Orange Crate Art
Cowboy
I Am Waiting (Lawrence Ferlinghetti poem)
Sailin' Shoes (Lowell George cover) (feat, Daniel Rossen / Joe Walsh)
Death Don't Have No Mercy (Reverend Gary Davis cover) (feat. Joe Henry)
The All Golden *09 only
Another Dream


曲順、曲目は両日で多少異なりました。




photos by courtesy of Lincoln Andrew Defer


(『CDジャーナル』2015年7月号掲載の原稿を、編集部の許可を得て加筆訂正して掲載しました。)