夢と時間の境目を触れる、たたく/角銅真実インタビュー その4
お待たせしました、角銅真実インタビュー、第四回にしていよいよ最終回!
7月にリリースされた初のソロ・アルバム『時間の上を夢が飛んでいる』についての話、そしてアルバムにコメントを寄せていた人たちについての興味深いエピソードなど。
あらためてアルバムのことを書くよりも、彼女の発言を読んでもらったほうがいろいろと感じ取れると思うけど、ひとつだけ。
このインタビューのきっかけのひとつになったメールのやりとりがある。ぼくは角銅さんのアルバムが、「ラサーン」が名前につくようになってからのローランド・カークを思い出す部分があると書いた。音楽のタイプは違うが、夢との境目をトントンとさまざまな音で触れたり叩いたりしながら自分で探す感じが通じてると思ったのだ。
角銅さんからは、それは自分が打楽器をやっている感じともとても通じているのでうれしいという内容の返事をもらった。
そういう意識の音楽家が身近にいるということが、ぼくもうれしかった。このインタビューのタイトルも、そこからきている。
では、第四回をどうぞ。
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夢と時間の境目を触れる、たたく/角銅真実インタビュー その4
──初のソロ・アルバム『時間の上を夢が飛んでいる』は、ceroにサポートで参加する前から作っていたんですよね? そもそものきっかけは?
角銅 きっかけ、ですか……。曲にならないような断片をずっと作ってたのが貯まっていたというのはあります。一回ちゃんとまとめないといけないと思っていました。既存の曲を演奏したりサポートとしていろんなところに呼ばれて楽器を演奏したりするのも楽しいけど、これ(ソロを作ること)が自分にとって大事なことだと思っていました。あ、でもきっかけといえばですけど、アルバムを作り始めたころから、全部自分の曲でソロのライヴをするようになったんです。そしたら、台湾でもソロでライヴができるって声をかけてもらって、遊びついでに行ったら、そこにBasic Functionレーベルの大城(真)さんがレジデンス・アーティストとしていらしていたんです。わたしはそのときがソロでのライヴは2回目くらいでしたけど、それを聴いてくれた大城さんが「いいですね。アルバムとか作らないんですか? 音源作って持ち込んでくれたらアルバムにしますよ」って言ってくれたんです。ちょうどそのとき家のPCのGarageBandで録音した3、4曲入りの気まぐれ月刊CD-Rを作って身の回りの人に聴いてもらったりしていたんですけど、「もうちょっと、ちゃんとアルバムを作ろう」と思って「作りたいです。よろしくお願いします」って返事しました。結局、アルバムは全部大城さんに録音してもらうことになって。それがやり始めです。
──レコーディングはどんな感じでやっていたんですか?
角銅 基本的には、ソロでの録音でしたけど、たまに「あの人がそこにいたらおもしろいな」と思った部分は、その人に「曲の部屋」に遊びに来てもらうという感じで自分以外のミュージシャンに参加してもらいました。部屋に入ってくれるその人自体をひとつの楽器だというふうに考えて扱っていましたね。部屋の中に、その人が遊んだら楽しそうなや遊具や道順的な伏線を用意しておいて、それについてできるだけ何も言わず、そこにそっとその人を入れて眺めるみたいな感じです。ギターで麦さん入ってる曲もありますけど、基本的にはギターもわたしが弾いてます。あとは、家で一回自分で弾いたフレーズをあとで麦さんに弾いてもらったり。
──一番古い曲はどれですか?
角銅 「February 1」とか「フォーメンテラ島のサウンドスケープ」とかですね。「フォーメンテラ島」が一番古いかな。本当はめちゃ長い曲なんです。文角 -BUNKAKU-という打楽器のデュオユニットのために作った曲で、ふたりで一回録った音をテープで加工して。
──実験的というか、インスタレーション的な曲ですよね。
角銅 そうですね。「Midnight car race」も、以前展示をしたオルゴールのインスタレーション作品があるんですが、そのままですもんね。自作のオルゴールを鳴らして終わりまで録音してるだけだから。
──実験的といえば、ちょっと笑い話していいですか。最初音源をiPhoneに取り込んだときに、ぼく、設定を間違えて、一曲がずっとリピートされるようになってたんですよ。だから一曲目の「Kiss」がずっと続くようになってて(笑)
角銅 (爆笑)
──本当は17秒の短い曲なのが、角銅さんのキスの音が延々と続いて「これはえらいものを作ったんだな……」と別の意味で戦慄してしまって(笑)
角銅 それを聴き続けたなんてさすがですね。めっちゃいい話です。そういうのレコードで作りたいです(笑)
──ようやく気がついて、2曲目の「Ne Tiha Tiha」に進んで、今度は別の意味でそのポップさにハッとしたんですけどね(笑)。「刺繍の朝」や「窓から見える」あたりのメロディ・センスもおもしろいんですよ。コードとか構成の決まりごとはないんだけど、すごくメロディアスだし。きもちよいんだけどきもちわるい、ってタイプの不思議な美しさがある。それであらためて通じるものがあるかもと思ったのが、ローランド・カーク。彼は盲目で、口に三本サックスを加えて吹いたりしてたから「大道芸」とか「グロテスク・ジャズ」とか言われてたこともあるんですよ。70年代頭くらいの話だったかな、夢のなかで「ラサーン」って呼びかける声を聞いて「あ、おれはラサーンって名前なんだ」と知覚した。そして、それからラサーン・ローランド・カークを名乗り始めて、作るアルバムも夢の世界と接してるような不思議な作品が増えていくんですよ。その時期の作品を思い出したんです。
角銅 へえー。
──カークにも、ベルや鳴り物をずっと鳴らしてるような、まさに「Midnight car race」みたいな曲もあるし。
角銅 へえ、ローランド・カーク。ちゃんと聴いてみたいです。“カク”同士ですしね(笑)。わたしはやっぱり文化的な流れとか、人間の営みの中の音楽ももちろん愛しているけれど、それよりも、もっと単純に物から音が出るという現象そのものがうれしいんですよ。そこが結果的にわたしが音楽をやってる理由だし、一番どうしても惹きつけられるところだから。
──奇想と美しさの共存って意味では、ムーンドッグっぽさも感じましたけど。
角銅 ムーンドッグもすごく好きです。
──高城くんもアルバム用の推薦コメントでムーンドッグを引き合いに出してましたよね。ムーンドッグも盲目なんですよ。彼らは普通の生活では目が見えないわけなんですけど、夢のなかではなにかが見えているんだと思うんです。それを表現したくて音楽にしてるんじゃないかと思えるようなところがある。夢を使って現実に触るというか、拡張してゆくというか。角銅さんの音楽ができていくプロセスも似てる気がして。
角銅 なんか『時間の上に夢が飛んでいる』というアルバム・タイトルも、わたしのなかでは「それが音楽だ」というイメージなんですよ、ある側面での。曲としての「時間の上に夢が飛んでいる」もタイトルに呼ばれたというか、「いい言葉だな」と思って、ずっとそのことを考えてて、気がついたらポコって出てきました。
──ちなみに曲のタイトルはどうやってつけてるんですか?
角銅 えー? 「Kiss」なんかはそのままですよ。「February 1」も2月1日に作ったからだし……。「フォーメンテラ島」だけは、他とはつけ方が違ってますね。わたし、一時期プログレのバンドで歌ってたって言いましたけど、プログレを聴くのも好きだった時期があるんです。キング・クリムゾンが好きでした。
──あ、70年代の曲に「フォーメンテラ・レディ」ってありますね。
角銅 そう、あの曲が入ってる『アイランズ』ってアルバムが一番好きなんです。曲を聴いて「フォーメンテラ島ってどこやろ?」って思ったし、その歌のなかにあるストーリーを想像したりしてました。
King Crimson / Islands
──そうなんですか。クリムゾンからの発想だったとは。
角銅 あの曲が記憶にあったのと、自分がちょっと気になってる行ったことのない場所、写真でちょっと見たことあるくらいの場所のサウンドスケープとして音楽を置いてみて名付けてみるのをやってみたいなと思って、つけました。行ったことない場所のサウンドスケープなんです。それ以外はイメージでつけたかな。
──タイトルで時間を示しているものが多い気がしました。「雨がやみました」とかも時間の経過を示していますよね。
角銅 本当ですね。へー。時間の経過に惹かれてる部分はあるかもしれないけど、なにも考えずにそうなりました。
──タイトルって曲に命を宿らせる行為だったりするじゃないですか。すくなくとも角銅さんは「作品第何番」とかじゃなく、言霊を求める人なんだなと思いました。言葉にしてみたら「ああ、そういうことだったのか」ってまるで他人事みたいに理解できた、みたいなことよくありますしね。
角銅 まさにいま話を聞いてて「そうかも」って思いました。
──そういえば、アルバムのコメント、高城くん以外にも、美術家の小沢裕子さん、そして灰野敬二さんが寄せていますよね。
角銅 小沢さんはもともとはビデオ作品が多い美術作家の人で、その映像にわたしが音楽をつけたり演奏したりしていたんです。小沢さんの個展でわたしが演奏したりもしました。小沢さんには、ボイスメモに歌ったり、ピアノを弾いたりしてるのを送っていて、わたしが自分の音楽を始めたころから「いい。もっと作ったら?」って言ってくれてる数少ない人です。
──そして、だれもが気になっているであろう一文が、灰野さん。
角銅 めちゃめちゃ影響受けてますね。影響受けたというより勇気づけられたという感じです。音楽に向かう姿勢とか。
──そもそもどうやって知り合ったんですか?
角銅 前に六本木のSUPER DELUXEでわたしがライヴしたときに、たまたま灰野さんがDJで参加されてたんです。あの日、わたしは本番前で気が立ってて、楽屋に入ったとき、座ってた灰野さんをめちゃにらんだんですよ。わたしはあんまり覚えてないんですけど。あとで灰野さんにも「なんでにらんだの?」って聞かれたんですけど、とにかく目つきがわるかったんです。でも、そのときに「きみ、なんて名前? なんか名前載ってるものとかないの?」って聞かれて。ちょうど一週間後に初めての自分のインスタレーション作品の個展がある予定で、その期間中一日だけわたしも含めて4、5人のパーカッショニストで私の自作曲を集めたコンサートをやることになっていたんです。それで、そのチラシを渡したら、当日、灰野さんが来たんです。
──なんと!
角銅 灰野さんはずっとにやっとしながらわたしの演奏を聴いててくれて。そのときはまだ歌はちょっとしかやってなくて、息の音や体の音、テーブルを叩く音を曲にしてみたり、オルゴールを壁にばーっと並べてみんなで回したり、ちっちゃいテクスチャーを感じるような曲をやっていました。そしたら次の日に灰野さんから電話がかかってきたんですよ。
──それも、なんと!
角銅 2時間くらい感想を言ってくれました。「ぼくがテーブルを叩いたらテーブルが壊れるまで叩き続けるのに、なんできみは壊さないし、あんなちっちゃい音だけで音楽をやれるんだ?」って言われたんです。わたしは「おもろ! なんで壊すんですか?」って返して(笑)。その電話ですごく盛り上がって、そこから仲良くなりました。
──すごいですね。年齢とかを超越した関係。
角銅 好きな色の話をしてたことがあるんですよ。灰野さんは「黒」。そのときわたしは猫を飼いたいって話をしてて、わたしが「猫にはキリンかキイロって名前をつける。黄色がすごく好きだから」って話してたら、それで、アルバムにコメントを書いてくれることになったときに「じゃあ、暗号みたいな、二人しかわからないことをちょっと入れよう」っていう話になって。だから「黄色」がコメントに入ってるんです。すごいうれしかったです。
──素敵なコメントですよ。
角銅 ね、わたしも大好きです。灰野さんは一番素直にいろんな話をできる人です。アルバムを聴いてくれたときにも、灰野さんが自分から「ぼく、なんかコメント書いちゃっていいのかな」って言い出したんですよ。でも、いざ書くとなったら「自分がこれを書くことでこのCDが売れなくなったらどうしよう?」とか言って、すごく迷ったうえで書いてくれました。そんなわけないじゃないですか。かわいいですよね?(笑)。かわいいっていうか、真摯な人なんですよ。尊敬しています。
──アルバムのラスト・ナンバー「Bye」には、灰野さんの影響と思ってしまうほどの轟音が出てきてびっくりします。
角銅 あの曲に関しては、灰野さんの影響はぜんぜんないんです。むしろ、あの曲をアルバムに入れたのはいたずらみたいなところがあるんです。わたしがなにかを作る理由って、考えてみたら、ぜんぶ「いたずら」なんですよ。自分ではこのアルバムは「わたしはこの世へのラブレターの、さいしょの切れ端たちをいたずらにして、箱に詰め込みました。」と書きましたけど、ラブレターといたずらが混じったような感じなんです。チュウの音で「Kiss」って曲名にして1曲目に置いたのもそう。なんかいたずらしたいんです。人を驚かせるのが楽しい。
──灰野さんは「Bye」について、なにか言ってました?
角銅 灰野さんにあれを聴いてもらうのは恥ずかしかったけど、逆に、どう思うのかも気になってました。「ぼくは最後の曲はあえてなにも言わないけどね」って灰野さんは言ってましたけど、「スネアのチューニングとかをもっとだるんだるんにしたほうがロックの音がするんですよ」とも言ってくれましたね。「わたしはとにかくいたずらしたかったんです」って言ったら、ニヤって笑ってました(笑)。「Bye」の最初に出てくる打ち込みの音は、わたしが初めて買ってもらった楽器で、カシオのちっちゃいキーボードなんです。夢のある音がいっぱい入ってて、めっちゃいいんですよ。「宇宙」とか「チャイルド」とかのボタンがあって、それを押すと出てくる音が全部素敵なんで、今でも大事に持ってるんです。それで曲を作ってみて、「どうにかしてこれもアルバムに入れたいし、続きを考えたいな」と思ってたのが最初です。それで、続きをやってみたら、こうなりました(笑)
──バンド編成で、水門が全開になって感情があふれ出すような轟音に。
角銅 でも、自分でそうしたいと思ったんです。「だれがいたら、その音になるかな」と考えて、メンバーにも声をかけました。でも、アルバムの最後をこれにしようとはぜんぜん決めてなかったんですけどね。
──そういう意味では「Bye」は、聴き手に向けた究極のいたずらかも。高城くんもコメントで、あの曲のぶちあがる展開にびっくりして夕飯の支度中に包丁で指を切ったと書いてましたけど(笑)
角銅 ね! 高城さん大丈夫ですかね?(笑)
──でも、ああやって高城くんのコメントがあることも、おもしろいですよね。ceroのサポートとしておおぜいのお客さんの前で演奏する体験が増えているタイミングで、初めてのソロCDが出て。人生で角銅さんが出会ってきた人たちとも、お互いの人生がたまたまそのとき交錯してるだけかもしれないですけど、本当に予想もつかないことが起きてますよね。
角銅 いままでは目の前の人が聴いてくれていたけど、CDになったら目の前の人じゃない人がわたしの音楽を聴くわけじゃないですか。逆に緊張しますけどね。
──予想のつかないおもしろさがアルバムには詰まってると思います。
角銅 いやー、もっと予想つかなくなりたいです(笑)。ベネズエラ人の友達に「マナミは何のために生まれてきた?」って聞かれたことがあるんです。そのときに、すっと「自由になるため」って答えが自分から出てきた。なんでそう言ったのか、あとで考えるといろいろおもしろいんですよね。自由っていうのは自分のなかで特別なもの。自由になるためには、まず重力からも自由にならなくちゃいけなくて、そのためにはまず筋肉が必要なんです。だから、鍛錬が必要だなと思ったし、もっと楽器がうまくなりたいです。変な順序でいろいろたどってる気はするけど、いまは「音楽が好きだ」って素直に思えてるんです。
(おわり)
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もう本日ですが、角銅真実『時間の上を夢が飛んでいる』発売記念のインストア・ライヴが渋谷タワーレコードで行われます。
角銅真実とタコマンションオーケストラ(横手ありさ)
「時間の上に夢が飛んでいる」発売記念インストアイベント
カツオ・プレゼンツ・熱い音ライブ
17:00
7F イベントスペース
ミニライブ&サイン会
舞台「百鬼オペラ”羅生門”」に演奏や歌で出演中。
東京公演はBunkamura シアターコクーンで9月25日まで。
10月は兵庫・静岡・名古屋公演が行われます。
夢と時間の境目を触れる、たたく/角銅真実インタビュー その3
角銅真実インタビュー、第三回!
大学を卒業した彼女が、いよいよceroに加入したくらいまでの話。
気になってる人も多いエピソードだと思うので、今回もさくっと本編へ。
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──大学の後半あたりから、しばらく音楽をやることについての悩みを感じていたという話でしたよね。それは卒業後も続いていて、「やっぱり音楽が好きだ」と認めたのは最近だったと聞いて、結構びっくりしました。
角銅 卒業して一年くらい経ってからBUN Imaiって大学時代の同期だったパーカッショニストとBUNKAKUっていうユニットを始めたり、ライブのサポートで演奏をしたり、オーケストラのエキストラの仕事とかコンサートとか、音楽は続けていたんです。だけど、本当にすっきり自分のやりたい何かの方法だとか音が少し見えてきたのは、ceroに誘われるちょっと前くらいから、ですね。自分でソロのライヴを始めたり、「正解か、正解じゃないか」ではない部分で自分が「好き!」と信じたものを出していいと徐々に自分自身に許可できるようになってきた。楽器って自分で作ったわけじゃないですよね。自分でスネアは発明してないし、それを自分で演奏することがわたしにはどうしてもしっくりこなかった。だけど、出したい音があって触りたいものがあるなら「やればいい」って自分で思えるようになったんです。
──なにかきっかけはあったんですか?
角銅 ちょうど麦さんに誘ってもらってWWWで一緒にやったころかな(2015年3月17日、アルバム『far/close』リリース・パーティー『Coming of the Light』)。麦さんは昔から結構、横から「もっとやっちまいなよ」ってちょっかい出してくれるんです(笑)
──そうか、あれは角銅さんにとってはちょっとした復帰の舞台でもあったんだ。
角銅 そうですね。そのちょっと前に麦さんのデュオ、Doppelzimmerのサポートも始めてたけど、そこでもわたしは空き缶とかしか叩いてなかった。でも、それを麦さんは「それがいい」って言ってくれて。結構、わたしをのびのびさせてくれた人ですね。
──ちなみに、麦くんとはどうやって知り合ってるんですか?
角銅 知り合ったのは大学を卒業してからですけど、大学生のころに学校の近所の谷中ボッサ(当時は鶯谷。現在は長野県松本市に移転し、「ヤマベボッサ」として営業中)でライヴしているのを見に行って「うわー、この人かっこいいなー」って思ってました。そうこうしてたら一緒にやるようになって、ceroの話がきて、運がいいというか、いい波に恵まれてる気がします。
──なるほど。
角銅 あの日のライヴの後で、ゲストで出てた高城(晶平)さんがピカピカの笑顔でやって来て、「よかったよ! ceroでもマリンバとか叩いてほしい。一緒に音楽やろうぜ!」って言ってくれたんです。なんかそんな感じで音楽に誘われたの、初めてで、すごくうれしかった。だけど、わたしはいわゆる器用な音楽ができないと思っているので、「いわゆるパーカッションとか器用なことはぜんぜんできないけど、それでもよかったらぜひやりたいです」って答えました。でもそう声をかけてくれて本当にうれしかったです。
──そこから、じっさいにオファーが来るまでは1年半くらいありましたよね。
角銅 はい。麦さんから「なんかceroが(角銅さんのこと)言ってたよ」って聞いて(笑)。そのあとカクバリズムから連絡が来て、コンガを叩いてほしいという話でした。わたし、コンガはceroで初めて叩いたんですよ。
──え! そうなの?
角銅 そうなんです。でも「コンガやったことないんですけど……、まあ、がんばったらちょっとは叩けるかもしれないので練習します! やりたいです!」って答えました。
──もうそのころは、楽器に対して抱いていた悩みはかなり吹っ切れていた?
角銅 いや、たとえばコンガにしても、行ったことのないカリブのキューバの木と革からできた楽器とその音楽に対して、長崎で育っていま東京にいる自分が底の底の部分でどう向き合ったらいいかわからないというのはありますね。芯の部分で「おなじことをわたしがなぞってもしょうがないんじゃないか、もっと豊かな方法があるんじゃないか」と思ってしまうんですよ。極端ですけどね(笑)。自分なりの豊かな方法というか、びっくりするような面白い方法があるんじゃないかと。だから、「木でできてて、厚い牛の革が張ってあって、テンションがかかってて、一個とか二個とか三個とかで演奏する、縦に長い楽器」というふうに、コンガのことを一回自分のなかで解体して考えないといけない。わたしは、基本的にはそういう方法しかできないんです。でも、そのときは「いまだったら“コンガ”叩きたい」と思ったんですよね。「楽器うまくなりたい」っていうことも、ceroで初めて思えたかも。
──新サポート・メンバーとして参加して、いきなりツアー(MODERN STEPS TOUR/2016年11月3日〜12月11日)でしたよね。麦くんはいまとはすこし役割は違ったけど一時期サポートで参加していたし、メンバーとは旧知でもある。小田(朋美)さんはソロとしてもDCPRGのメンバーとしても注目の人。だったら、角銅さんもばりばりのプレイヤーなんじゃないかとイメージした人も多かったと思うんです。
角銅 誘われた時点でもうツアーが始まる日にち(2016年11月3日、仙台darwin)も決まってたし、ceroの音楽が好きだったから、とにかくがんばりました。「ここにこんな音あったらいいんかな?」みたいな(笑)
──初日の仙台から演奏のテンションがすごくて、とてもそんな感じには見えなかったけど(笑)
角銅 ceroは音楽の強度がとても強くて、音楽の豊かさプラスみなさんの人間的な豊かさがあるから、わりとどんなことが起っても音楽的に許容しうる、それで豊かに成立する懐の広さみたいなものを感じました。わたしが「このリズムだからこのパターンで」みたいに変に決まりごとを意識しないでも参加できたんです。それで、ツアーしながらのびのびといろいろ試してました。「今日はちょっと違ったなあ」とか「こうしたらうまくいったんだな」みたいな。
──見た人は、そんな感じで角銅さんがやってたとは思ってなかったでしょうけどね(笑)
角銅 そうですか? いや、二人(麦と小田)はすごいんですけどね。
──リズム隊の一角としては、光永(渉)くんとのコンビネーションというのも重要と思うんですけど、一緒にやるにあたってみっちゃんとはどういう話をしました?
角銅 いや、そんなに何も言われなかったし、ツアーの時はそこまで細かい話は、たぶんしてないですね。いつもライヴのときにみっちゃんがニヤッとしたら「これでいいんだ」って思ってます。
──奇しくもおなじ長崎県出身だし、彼も本格的にドラムを始めたのはわりと遅かったとか、かなりおもしろい経歴なんですよね。
角銅 みっちゃんのドラムが私は本当に大好きです。
──一緒にやりやすい?
角銅 やりやすいとかやりにくいとか越えて、もう単純に音と演奏が「好き」という気持ち。やっててすごく楽しいです。ライブで毎回どっかで「amazing!」って思う。みっちゃんは「このジャンルとかこの音楽をやるのにこのサウンドが必要」とか、ドラマーらしい楽器やモノへのこだわりっていうよりも、「スネア一台で、いろんな音楽と向き合う」みたいなところを横で勝手に感じます。いや、楽器のこだわりとかあるんでしょうけど……(笑)。すごくベーシックというか、モノとかを超えてドラムセット以上にドラムセットを感じるというか、身体とか温度とか、パッションがダイレクトに伝わるというか、とても豊かなドラムだと思います。
──バンドでツアーしてあちこち回る、みたいなことも初めての体験でした?
角銅 こんな長いのは初めてです。おなじ曲をおなじメンバーで何回もやるのも初めてです。
──なるほどね。バンドとしては当たり前のことが、角銅さんにそう言われるとすごく不思議なことに思えてくる。
角銅 みんなも楽しんでると思います。
──角銅さんにとって、ceroの音楽はどこがおもしろいですか?
角銅 音楽とはちょっと違う話かもしれないけど、「愛してるよ」って歌うじゃないですか。そこにわたしはびっくりして。ライブでも毎回、タンバリン叩きながら「いま、この人(高城)、“愛してるよ”って言うとるよ! この大勢の人の前で! すご〜」って思って。
──たしかに! 「街の報せ」で(笑)
角銅 わたしも「愛してるよ」はハモるんで、歌いながら「わたしの口もおなじこと言った!」って思うんです(笑)。「大勢に“愛してるよ”っていうメッセージを伝えるような音楽を、わたしもいまやってるんや!」という驚きと喜びですね。それが一番の衝撃だったし、びっくりしたし、好きなところなんです。あんまり音楽でそういうふうにびっくりしたことはない。だって、すごくないですか?
──いい話。
角銅 他にも細かいところでいろいろ好きな部分はあるけど、「愛してるよ」に勝るものはないくらい、あそこが好きです。わたし、音楽を作ったり演奏して外に放つとき、だいたいそれは大きな愛のメッセージであるんですけど、あそこまでダイレクトな態度を持つものに関われたのはすごく幸せだし、うれしいなと思います。わたし、いまいつもceroの曲聴いてますよ。今日も聴いてた。いつも元気をもらってます。
──いま、ハモりの話も出ましたけど、じつはceroにはコーラスとしての参加でもあるじゃないですか。じっさい、去年の12月に出た石若駿くんのソロ・アルバム『Songbook』では、素晴らしい歌声を披露しています。
角銅 えへへ。
──石若くんは藝大の後輩になるんですよね。
角銅 そうです。学年は三つ下です。
──「Asa」「10℃」の2曲に歌と作詞で参加してますけど、すごくびっくりしました。だいいち、いままでいろいろ音楽的な経歴を聞いてきたけど、歌の話いっさい出てきてないでしょ?
角銅 あ、そうか。そうですね。
──歌って、子どもの頃から好きでした?
角銅 はい。別に普通でした。自分の声をカセットで録音して聴いて、「うわ!」って恥ずかしくなるような子でした(笑)。音楽聴いて踊ってるほうが好きでした。
──大学時代も、自分の表現として歌はやっていない?
角銅 学生時代の私の黒歴史として、一瞬やっていたプログレ・バンドのヴォーカルというのがあるんです(笑)。そこで一瞬歌ってたけど、それくらいですね。卒業してからは、BUNKAKUではたまに歌ってたし、自分でも歌の曲を作ってはいたんですよね。
──発声が独特じゃないですか。喉のかたち、口のなかのかたちのまま声が出てきてるようで、すごく特徴的だし、魅力のある歌声だと思います。『Songbook』を聴いた人はみんな「誰これ?」ってなると思う。
角銅 そうですか。いい曲に恵まれました(笑)
──あれは、石若くんから「歌ってよ」と依頼された?
角銅 そうです。ある日、部屋であのメロディを録ったボイスメモが送られてきて、「角さん、これに歌詞をつけて歌ってみてほしい」と言われて。聴いたら「へえ、いい曲だな」と思ったんでやってみました。最初は曲名もぜんぜん違ってたけど、「好きにしていい」って言われたから、あの歌詞とタイトルが結構すぐに思いついて。それをパソコンで石若くんのを流しながら合わせた歌って、そのボイスメモを「できた!」って送り返しました。
──へえ! びっくりしてたでしょ。
角銅 「いい!」って言われました。「わたしも、いいと思う」って返事して(笑)
──ヴォーカリストとしてもすごく興味を持つきっかけになりました。ぼくだけじゃないと思うけど。
角銅 うれしいです。いろんな音を出す中で、声が一番自分の中でのいろんな筋が気持ち良く通る方法だなと結構強く思ったときもあって。
──なるほど。「体の筋が通る音」。発声に無理がぜんぜんないですもんね。
角銅 何も考えずに歌ってます。発声の勉強とかはちょっとしたいですけど。
──そしていよいよ、そんな角銅さんがソロ・アルバム『時間の上に夢が飛んでいる』を作ってるという話を最近聞いた、というこのインタビューの本題に入ります。
角銅 アルバムでは意外に歌ってないですけどね。
──でも、いままでに聞いた音楽人生のエピソードは、ぜんぶアルバムになんらかのかたちで入ってる気がします。
角銅 そうですね。
(つづく)
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もう本日ですが、ceroで角銅真実こちらに出演。
2017.08.11 FRI 東京 | 新木場 STUDIO COAST
cero Presents“Traffic”
【OPEN/START】
13:00 / 14:00
出演
cero / 岡村靖幸 / D.A.N. / 藤井洋平& The VERY Sensitive Citizens Of TOKYO / 古川麦トリオ with strings / KEITA SANO(LIVE SET) / Sauce81(LIVE SET) / SLOWMOTION(DJ MOODMAN、MINODA、Sports-Koide) / Daiki Tsuneta Millennium Parade(DTMP) / Jun Kamoda(LIVE SET) / サモハンキンポー(DJ)
FOOD
Roji(阿佐ヶ谷) / えるえふる(新代田)
夢と時間の境目を触れる、たたく/角銅真実インタビュー その2
お待たせしました。角銅真実インタビュー、第二回!
前回、突然に東京藝大受験を決意した彼女がそれからどうなったのか?気になってる人も多いはずなので、前置きもそこそこに彼女の話にはいるとする。
今回も角銅さんから当時の貴重な写真を提供していただいた。コメントも彼女自身。
第一回は、こちら。
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──「藝大ってわたしのためにあるんじゃない?」と思って、一念発起してマリンバで藝大を受験するというところまでが一回目でした。
角銅 一年目の受験はぜんぜんダメでした。
──そもそも、思い立ってからの時間が短かったですもんね。
角銅 「長崎にこのままいてもダメかもな」と思ったりしてましたね。両親に「東京行きたい」って相談してました。今考えても、よく東京に行かせてくれたなと思うんですけど、トントン拍子でちゃんとソルフェージュとかをイチから教えてくれる、しかも授業料もとても良心的な面倒見の良さそうな音楽教室がぱっと見つかって。さらに、その横に木造で6畳くらいのアパートで安く借りれる部屋も見つかって。「もうこれ東京出たらいいやん」って思って、1、2回くらいしか会ったことのない藝大の先生に「ちょっと長崎おってもどうかと思ったので、東京に出くることにします」って留守電に入れたんです。
──あの、ネットで見て「かっこいい!」と思った打楽器の先生?
角銅 はい。じつは、長崎のマリンバの先生がつないでくれて、一回目の受験の前に1、2度、その先生のところに習いに行ったことがあったんです。そのときに連絡先をくれてたんです。でも忙しい先生だからなかなか連絡もとれなくて、ぜんぜん電話も出ない。だから、東京に着いてから、また「もう長崎から東京出て来ちゃいました。いま国分寺に住んでます。レッスンしてほしいです」って留守電に入れて。そしたら数日後に先生が留守電聞いて、あわてて電話してきて、「本当に長崎から出てきちゃったのかよう!」って(笑)。「ぼくの信頼してる人で面倒みてくれる先生を紹介する。ぼくも月に一回くらいはレッスン見ますから」って言ってくれて。その時紹介していただいた先生もすごく素敵な人でした。今でも演奏を見に行ったり、その先生も演奏や展示を見に来てくださったりと、お世話になっています。
──すごい展開ですね(笑)
角銅 それからは高円寺のスタジオに毎週通って、叩き方とかの基礎をずっとやりました。その時点では、わたしまだ普通に楽譜通りに弾くこともできなかったし、楽譜をちゃんと弾くということがどういうことなのか知らなかったから。
──1年目はそういうこともわからない状態で受験したってことですよね?
角銅 まあ最初は落ちると思ってたから二次試験の準備もしてなかった(笑)。それでも、山口ともさんのライヴのスケジュールはしっかりチェックはしてて、一次試験が終わったあとにお母さんと見に行きました。のんきですね。
──ご両親が寛大だったというのはあるかも。
角銅 寛大すぎですよね(笑)。なんでそうしてくれたのかな?
──やっぱり、あんまり学校が好きじゃなかった娘が、行きたい学校があるというのが、うれしかったんじゃないかな。
角銅 心配したのかなあ。
──とはいえ、そうやって東京にでてきたからには、もう受かるまでは長崎には帰らないという覚悟もあった?
角銅 いや、わたし、そういう覚悟もあらたまってしないタイプだから。本当にシンプルに、そのときの強い気持ちでポンって行っちゃった感じです。
──よく行ったし、よく来ましたよね。
角銅 先生も「本当に来るとは思ってなかった」って言ってましたけど(笑)
──で、その1年間の浪人時代を経て、2年目に合格。
角銅 そうですね。
──それもやっぱりすごくないですか? 狭き門でしょう? だいたい打楽器専攻で何人くらい入学できるんですか?
角銅 わたしたちの学年は4人でした。例年は2、3人です。しかも、わたしは運がよかったんですよ。毎年マリンバはひとりしかとらないところを、わたしの年だけ2人とったんです。しかも、わたしと一緒に受かったのは、おなじ先生についていた生年月日一緒の子でした。わたしたちの学年の4人は仲のいい4人でした。人数が少ないのもよかったです。
大学入りたての頃。口を食いしばって?しかめ面で演奏する癖がありました。
──入ってみて、じっさいの藝大生活はどうでした?
角銅 周りに音楽やってる人がこんなにたくさんいる環境に初めて来て、疲れましたね(笑)。みんな演奏がうまいし、ちっちゃいときからやってて、いろんなこと知ってるし、すごいなあと思ってました。わたしが入る前に1年くらいやったことなんて、みんな赤ちゃんレベルのことだから。しかも、わたしはずっとひとりで演奏する経験しかなかったから、たとえば合奏とか、人と一緒に合わせるということの意味が理解できなかったんです。だから、室内楽のレッスンでもわたしだけけちょんけちょんに言われたりしてましたね。
──けちょんけちょんに。
角銅 「音楽を殺すくらいなら、おまえが死ね!」って先生に言われました。「死ね〜!」って言われて顔面蒼白になるけど、どうしたらいいのかわかんない(笑)。受験するまでのわたしの弾き方って、「曲をまるまる覚えて、全部一度体に入れてしまったものを、演奏する」みたいな方法だったから、自分の身体の外で起こっている音の認知の仕方がぜんぜんわかんなくて。「足踏みしながら練習するといい」とか、グルーヴする意味を体験するために「ジャンプ何回もやり続けたら」とか、先輩がいろいろアドバイスしてくれるんだけど、ぜんぜんわかんなかった。テンポどおりに弾く、かっちり弾くということ自体の意味も本当にわからなかったですね。
──逆の見方をすれば、そういう基礎的な部分がほとんどない状態なのに角銅さんは藝大に入ったわけだから、周りからしたら「この子は何かある?」と興味深く見ていた部分もあるんじゃないですか?
角銅 ソロで、自分だけの音楽を自分ひとりの体でやるみたいな演奏は、わりと向いてました。でも、人とやるのは本当に意味わかんなかったですね。でも、合わせるほうもできるようになれたら、と思ってましたね。
──音楽家って、超一流のオーケストラとかでアンサンブルの中で才能を発揮する人もいるし、ひとりのアーティストとして自分の表現を作っていく人もいる。
角銅 でも、その時は何がしたい、というよりずっとモヤモヤしていました。とにかくいろいろなスタートが遅かったので、学校いる間、個人練習はずっと基礎の練習ばっかりしてました。というのも、大学2年生から、高田みどりさんという打楽器奏者の人に習うことになったんですけど、高田さんは「作品作りなさい」って大学周りで唯一わたしに言ってくれた人で。もともとわたしは「自分がどう表現するか」みたいなところでしか音楽をやってなかったんだけど、高田さんの授業は「そんなのはあなたが勝手に考えればいい、それは本当の意味で教わることではないから、わたしは楽器の鳴らし方、物の鳴らし方・身体の使い方をとにかくあんたに教える」みたいな感じで、なんか筋トレみたいでした。オーケストラの音楽の仕組みとかがどうしても受け入れられないっていうわたしの話もすごく真剣に聞いてくれて。
──その出会いがひとつのヒントになった感じはありますね。
角銅 でも、結局その時点でははっきり何をしていいかわかんなかった。高田みどりさんは本当に尊敬していて、音楽やこれまでやって来た仕事も尊敬していて憧れているんですが、私は高田みどりではないし、さて自分はどうしようかと。いろんな音楽や方法を自分なりにやってみてはいたけど、自分の筋に通る具体的な何かが何なのかはわかんなかった。モヤモヤしていました。
──こないだ、小田さんに取材したときにも、大学時代の角銅さんの話がちょっと出て。
角銅 あ、坊主だったときだ。
──坊主?
角銅 大学で現代音楽や、今起こっていることそのものを表現するみたいなことをやっていくうちに、どんどん女性という性別を含む自分の要素が邪魔に感じてきて「音そのものになりたい」と思うようになったんです。それで、坊主にしました。
坊主写真、演奏会後の一枚。
──え!
角銅 あと、そのころハンス・ベルメールっていう人形作家のことがすごく好きで、そういうフェティッシュな趣味の部分もあって、坊主でした。
──なんと!
角銅 大学で授業と授業の合間に「ちょっと床屋行ってくるね」って言って近所の床屋さんで。戻ってきたら坊主になってたから、みんな「ええ!」ってなってた(笑)
──そりゃそうだ!
角銅 そしたら、坊主頭で気持ち良く校内を歩いてたら、ある日、向こうからも坊主の女性が歩いてきて。それが小田さんでした!
──なんとなんと!
角銅 小田さん、かっこよくて、めっちゃやせてて、「今やばい人とすれ違ったな〜」って思ってました(笑)。そのあと、すぐに知り合いになったんですけど。
──小田さんとは大学時代にも一緒にライヴをやっていたそうですね。
角銅 半年くらい、何回か一緒にライヴしました。二人で、というより、小田さんの曲にわたしがサポートで入るかたちでした。でも、そのあと、わたしが演奏をしばらくやめた時期があって、「どうしてもできない」って、小田さんに結構長いメールで断りを入れたこともありましたね。そのとき、音楽を一回全部忘れてしまいたくて。音楽教育を受けていく上で、あまりにいろいろ無自覚に身についた部分を感じたというか、無自覚に文化に巻き込まれて他人の言葉で音楽やいろんなものを紡いでしまっているような。「わたしの中心みたいなとこはなんだろう?」って思って、楽器を本当にやらなくなりましたね。一度、自分でイチから考るために頭を整理したかったのだと思います。
──でも、小田さん、ceroで再会したときに角銅さんが成長しててうれしかった、とも、インタビューのときに言ってましたよ。
角銅 それ、読みました! うれしかった。
──小田さんとはなんとなく通じ合う部分があったんでしょうね。
角銅 そうでしょうね。自分の作品を自分の体でやるという人は、美術の人を除けば、音楽学部では当時のわたしの周りには小田さんしかいなかった。
──小田さんは、当時の角銅さんは音楽以外のことと音楽をくっつけることに興味がある感じだった、みたいな話もしてましたね。
音楽生活の転機になった、ヴィンコ・グロボカールの”Dialog uber Erde(大地のについての対話)”という曲。右手で太鼓を打ち鳴らしながら、左手で水槽に土を入れているところです。楽器よりも、素材自体に興味を持ち始めた頃。
角銅 そうそう。それで音楽よりも、美術学部のほうにずっといて、インスタレーションばっかり作ってたときもありました。スウェーデンに赤ちゃんのための音の出るおもちゃを作る「BRIO」っていう会社があって、そこに就職しようと思って手紙書いて現地まで行ったりしましたね。
──え? 直接?
角銅 そう。返事もこないのに(笑)。そのときはついでに一ヶ月くらい時間をかけてトルコにも行ったりしました。でも、一ヶ月ずっと楽器に触ってなかったら、「音出したいな」って気持ちになったんです。結局、BRIOに着くころには「わたしはやっぱり音楽かな」って思って、ボイスメモで曲を作り始めてたりして(笑)。まあ、結局、BRIOも働き手の募集はしてなかったんですけどね。工場の中とかを見学させてくれました。
──でも、それはいい旅行でしたね。「やっぱり音楽が好き」と気がつくための旅行だった。藝大を受ける時点では、「音楽もあるし、美術もある」と思った場所だったわけですよね。それが「やっぱりわたしは音楽だ」と確認できていった。
角銅 いや、でも、「わたし、本当に音楽が大好きだ〜〜〜〜」ってちゃんと認めたのは最近なんです。今もやりたいことの中には、インスタレーションと呼ばれるような形で作ってみたいアイデアは頭の中にたくさんあるし、作りたいものの出口が音楽や楽曲という形だけっていうのは、あんまり自分の中では自然ではないです。
──でも、音楽をやるなら打楽器という意識は一貫してある。
角銅 そうです。触って音が出ることがうれしい。あ、でも一時期、自分の肩書きをなんて言えばいいのかわかんなくて、「音楽」って書いてました。
──「音楽 角銅真実」。かっこいい。
角銅 それは今もあんまり変わってないかな。
──それはやっぱり坊主頭にしたときともおなじで、「音楽を演奏する人」であるより「音楽そのもの」になりたかったってことなんでしょうね。
角銅 かもしれないですね。
──それは演奏してる姿をみてても感じます。誰かみたいなプレイヤーになりたいということではない、自分の目指すところがあるんだなと。
角銅 何の意識もないですね。「わたし」です。
(つづく)
卒業演奏会での一枚。アルバムのジャケットで着てたのと同じ服!この曲のために大学の美術学部の知り合いに作ってもらい、お尻にハクビシンの尻尾をつけて演奏しました。
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もう本日ですが、こちらのイベントに網守将平とバクテリアコレクティブのメンバーとして角銅真実出演。
日程:7月30日(日)
時間:OPEN /START 16:00(CLOSE 21:30)
料金:予約 2,500円 当日 3,000円(ご入場の際に1ドリンク代として600円を頂きます)
席種:着席または立見(ご来場順の入場)※オールスタンディングの変更の可能性有り
会場:CAY(スパイラルB1F)
〒107-0062 東京都港区南青山5-6-23 ACCESS MAP
出演:網守将平とバクテリアコレクティブ(網守将平、古川麦、厚海義朗、角銅真実、松本一哉、Guest: Babi)、Phew、Tenniscoats、Super Magic Hats(from Australia)、梅沢英樹+松本望睦(VJ: 永田康祐)、高城晶平 (cero)、畠中実 (ICC)
夢と時間の境目を触れる、たたく/角銅真実インタビュー その1
2ヶ月くらい前、ceroのライヴが終わったところだったかな。古川麦くんに「松永さん、今度、角ちゃんのインタビューをしてくださいよ」と話しかけられた。
「角ちゃん、今度ソロ・アルバムを出すんです。ぼくも参加していて」
そう聞いて驚いた。去年の11月、〈Modern Steps Tour〉からあらたにceroのサポートに参加した3人は、それぞれ際立った個性を持つ音楽家だ。麦くんはソロのほか、表現(Hyogen)、Doppelzimmerでも活動しているし、小田朋美さんもソロ、CRCL/LCKS、DCPRGなど忙しくやっていて、セカンド・ソロ・アルバム『グッバイブルー』を出そうとしているところだった。たしかその時点で、小田さんにインタビューする依頼をもらっていた(→ Mikiki / 小田朋美とは何者か? ceroやCRCK/LCKSなどで活躍する才媛が語る、早熟な音楽的歩みと歌うことへの葛藤経て見出した新起点)。
でも角銅さんがソロを作っていたなんて、まさかの驚きだった。ceroを通じて知り合ってから間もないし、伝える機会がなかったということもあるのかもしれない。それに、彼女のソロ・アルバムって、どういうものなんだろうか?
角銅さんの自由度が高く、楽しそうにプレイするパーカッションはceroのライヴでも見ていて楽しい。コーラスもceroにあらたな彩りを与えている。さらにいうと、彼女の歌がすごかった。去年(2016年)の暮れに発売されたジャズ・ドラマー石若駿のソロ・アルバム『SONGBOOK』の一曲目「Asa」で聴こえてきた彼女の歌声に、一瞬で魅了されてしまっていた。
果たして、角銅真実の初めてのソロ・アルバムは、メロディアスなのか、パーカッシヴなのか、プレイヤーなのか、シンガー・ソングライターなのか、そのすべてなのか、それ以外のすべてなのか。とても気になった。
でも、そんなことをつらつらと考えて、インタビューを承諾したわけじゃなかった。麦くんの依頼を聞いて、1秒も置かずに「やるやる」と返事していた気がする。角銅さんのプレイから、音楽から、人柄から、すでに答えは出ていた。
だって、そのインタビューは、ぜったいおもしろいだろ。
というわけで、今回から角銅真実『時間の上に夢が飛んでいる』発売を記念して、彼女のロング・インタビューを掲載する。このインタビューの定番として、生い立ちからじっくりと、最終的にアルバムに至るまでを彼女と一緒にひもといていくことにする。
タイトルは、彼女のアルバムを聴いて最初に思ったぼくの感想からつけた。
では、このあとは角銅さんのお話を。
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──たぶん、一番最初に角銅真実というミュージシャンを意識したのは、古川麦くんのアルバム『far/close』のリリース・パーティー『Coming of the Light』(2015年3月17日)だったと思うんです。あのとき、舞台の上にかわいいしけどずいぶん変わったキャラのパーカッショニストがいるなと思って見ていて。
(写真:鈴木竜一朗)
角銅 変わってましたかね?
──変わってたというか、「芝生の復讐」でソロを回したときに、口でパーカッションやりましたよね?
角銅 やりました(笑)
──それが第一印象でした。
角銅 へえ。
──そこから回り回って、ceroにサポートで入ることになって、去年11月から始まった〈Modern Steps Tour〉の初日、仙台で、ぼくは「はじめまして」のごあいさつをしたんだと思います。
角銅 そうでしたね。
──じっさい、そこで舞台に立った角銅さんのことを初めて気にかけたceroのファンも多いだろうし、そこまでの人生や音楽履歴にぼくもすごく興味があります。なので、いろいろと昔の話をうかがいつつ、最終的に初のソロ・アルバム『時間の上に夢が飛んでいる』に至る流れでインタビューをさせてください。よろしくお願いします。
角銅 よろしくお願いします。
──まずは、出身ですが、佐世保ですよね?
角銅 本当は佐世保市の隣の佐々(さざ)町です。両親の実家が福岡なので、生まれたのは福岡なんですけど、お父さんの仕事が長崎に決まって佐々町に。
──「角銅」って名字はめずらしいですけど。
角銅 福岡にある名字なんです。でも、本当に少なくて、自分の家族の周りくらいしかいなかった。
──どういうルーツがある名字なんでしょうね?
角銅 祖父が亡くなったときに親戚が集まったときに聞いた話なんですけど、炭鉱や採銅所の町の名字で、「角銅原(かくどうばる)」って地名もあるそうなんです(福岡県田川市)。銅を掘ってるときに、たまに銅の結晶ですごく角ばったのが出ることがあるらしくて。そういった銅を、奈良の大仏を作ってるときに都に送ったりしていて。もしかしたら弥生時代? 朝鮮半島とかの大陸からの青銅の流れがあるのかもしれないですけど。
──千年以上昔の話ですよ。
角銅 そう! でも、そのときに何かゆかりのある仕事をしていたという由来があるような話をしてました。
──やっぱり、ちょっと古さのある名字なんですね。ご家族の話を聞いていいですか? 何人兄弟?
角銅 ふたりです。2歳下の弟がいます。
──前にTwitterのアイコンが、子供のころの写真でしたよね。ああいう写真が残ってるのは、わりと家族仲がいいのかなと思うんです。
角銅 そう。いいですね。
生まれて半年くらいの写真(コメントはすべて角銅真実)
約二歳、夏祭りの花火の日におにぎりを持って機嫌が良い時の写真です
9,10歳の頃、夕ご飯の蟹の甲羅を洗って乾燥させたものをかぶっている写真(蟹の甲羅をかぶるのが大好きでした)
同じく9,10歳の頃、みかんのネットをかぶって、家族の誰かに上に引っ張ってもらって撮った写真(父に教わったこの遊びも大好きでした)
──ご両親は音楽好き?
角銅 お父さんは音楽がすごく好きですね。いわゆる音楽好きというより、自分の好きなものが好きというタイプで。八神純子、山下達郎、竹内まりや、大黒摩季、ABBAとか、ドライヴのときにいつもかかってて。わたしは車酔いするほうだったから、そういう人たちの曲を聴くと車酔いしてたときのことを思い出して「うっ」ってなってました。最近になって山下達郎とか、「いい曲だな」って思えるようになってきたけど。八神純子さんは大好きです。
──家に楽器があったりとか?
角銅 ピアノがありました。お母さんがちっちゃいときにやってたピアノがあって、誰も家族は弾いてなかったけど、わたしはいつもそれを弾いて遊んでました。でも、家族はわたしが弾いてることにはノーコメントでした。多分、暗い感じで取り憑かれたように弾いてたから(笑)
──ピアノ教室に通うでもなく。
角銅 小学校のとき一回「習いたい」って言って教室に行ったんですよ。でも練習が大変で、やめました(笑)
──じゃあ、子どものころは何が一番好きでした? 外で遊んだり?
角銅 食べられる木の実が周りにいっぱいあったんで、そういうのを見つけて食べるのが好きでした。
──え?
角銅 植物の実が好きでしたね。木いちごとか、柿とか、自生してるみかんとか、桑の実とか。食べられない実もあるんですよ、ピーピー豆とか。頭の中に季節の地図があって、その時期になったらあの実が成るからあそこに行こうとか、そういう感じでした。
──子どもだから、なにが食べられて、なにが食べられないかとか、わからないでしょ。どうやって見分けていたんですか?
角銅 おいしいか、おいしくないか(笑)。「へびいちごは食べたら死ぬよ」って言われてたのに一回食べたんですよ。そのあと「あれ? 食べたら死ぬって言ってたな」って思い出して。しかもあんまりおいしくなくて、すぐ吐いた。ヤマブドウと思ったら違う実で、食べたら口のなかが真っ青になってまずくて。そのときもお母さんに「死ぬよ!」って言われて、わーって吐いたりして。でも本当に食べれない実はなかったな……。あ、最近大人になって高尾山に行ったときに、わりと太い木に成ってる桑の実の仲間みたいな木の実があって、実自体はおいしかったんですけどトゲがすごくついてたんで、口のなかがイガイガになっちゃって。26、27歳でしたけど、そのとき初めて「ああ、なんでも口に入れちゃいけないんだ」って思った(笑)
──そっかー(笑)
角銅 山椒の実とかが自生して、芽が出てたりすると掘り出して持って帰って、自分で育てたりもしてました。すぐ枯れちゃうんですけど。そういうのが好きでした。道端の草とか。
──「自然が好き」というか、目で見て愛でるとかじゃなく、触って、食べて、みたいなじかで触れることが好きなんですね。
角銅 それが一番好きでした。
──学校では、どうでした?
角銅 学校は、ぜんぜん行ってなかった。
──行ってなかったかー(笑)
角銅 低学年のときは本当に理由をつけては休んだり、早退したり、保健室行ったりしてて。だんだん大きくなってからは、家を出てそのまま違うところに行ったり。小中高、そんなに学校は行ってなかったです。でも、昼休みには学校に行って、みんなと話して帰ってくるとか。学校の先生とはわりと仲よくて、なんで仲よかったは謎だけど。
──ウマが合う先生がいた。
角銅 好きな先生は好きでしたね。学校は嫌いだったけど。制服のごわごわした感じも匂いも嫌いだし、机が並んでるのもいやだったし。でも陸上部には入ってて、ハードルをやってました。中学では一応吹奏楽部にも入ってて、ジャンケンで負けて打楽器になったんです。
──あ、そこでパーカッション人生の始まり?
角銅 でも、そのときはほとんどやってなかった。打楽器の部屋があって、そこにみんな漫画の本を隠したり、グラウンドが見えたのでサッカー部にいる好きな人を見てたり、そういう感じだったんで、たまに授業いかない時も一人で部室には行ってました。楽器を梱包する毛布置き場に寝転がって漫画読んだり、書き物をしたり、その時、こっそり小さな音で部室の打楽器を演奏するのは大好きだった。
──陸上はなんでやってたんですか? 走るのが速かった?
角銅 そう。学校選抜みたいなのに入れられて、そこからやるようになったんです。県大会にも行きました。短距離を走るのが好きでした。パッと始まってパッと終わるし、スタートして一直線走るだけとかが超ドキドキするじゃないですか。長距離の駆け引きとかは無理でしたね。体が長距離向きって言われて、練習させられたりもしましたけど、「やっぱりわたし長距離はいやです」って言って、やめました。ハードルが楽しかった。
──ハードルは、一直線ではあるけど障害があるじゃないですか。
角銅 本当ですね。なんで好きなんだろ? でも楽しかったですよ。跳ぶのが楽しかったんだと思う。障害をどうにかするみたいな感じじゃなく。ハードルという競技に特別な気持ちがありました。
──これはこじつけかもしれないけど、ハードルってトントントーンって足の動きのリズムがあるじゃないですか。そういうおもしろさもあったのかも。
角銅 そうかもしれないですね。繰り返しの楽しさみたいなこと。
──そのころの角銅さんを覚えてる人は、走るのが好きな子だって印象だったのかな。
角銅 そうですね。走るのが好きで、学校行かない、ヘラヘラした人って見られてたと思う。
──ぼくも田舎だから感覚としてわかるけど、佐世保の街を高校生が平日にうろうろしてたら心配されるでしょ。
角銅 高校生のときは佐世保をぶらぶらしたり、知らない住宅街を歩いたりしてました。高校生の子どもを持ってるお母さんに、わたしが制服を着てるから「あなたどうしたの?」って声をかけられて、すごくうそついてその場を逃れようとしたらなぜか車に乗せられて学校まで送ってもらうことになったり(笑)。あと、よく行ったのは橋の下でしたね。中高生のころは、町にすごく好きな川があって、そこにひとりで行ったりしました。そこは人目につかないから、そこでじっとしてました。結構、悶々としてましたね。
──なんでしょうね? やりたいことを探していた?
角銅 うん、そういう感じに近かったと思います。結末のないお話とか完成しない絵をずっと書いたりしてたし。
──「こういうことをしたい」とか「こういうふうになりたい」みたいな具体的な夢もあった?
角銅 そういう欲求はすごくあったんです。ピアノもよく夜に一、二時間くらい謎の即興演奏を弾き続けたりしてたし。将来は、精神科医か薬剤師になりたいと普通に思ってました。薬剤師になりたいと思ったのは、漢方で植物の実を煎じたりするのとかが面白そうで興味があったから。長新太がめっちゃ好きで、絵本作家になりたいとも思ってました。
──精神科医というのは?
角銅 音楽とも近いんですけど、精神的なこと、言葉で説明できないことに興味があって。あと、学校にカウンセリングの先生が来てて、わたしは学校はあんまり行ってなかったけど、放課後にその先生のところにはよく行ってたんです。その人が唯一身近で学校以外の価値観を持った大人だったし、一対一で話せて、わりと仲がよくって。その先生に心の話を結構聞いたりしてて、憧れてたんでしょうね。
──ここまで話を聞いた感じだと、音楽も話題としては出てくるけど、その道に進むという流れは出てきてない。
角銅 そうです。音楽はすごく聴いてたんですけどね。
──でも、大学は東京藝大(東京藝術大学音楽学部器楽科打楽器専攻)ですよね? 高校はあんまりちゃんと行ってない。そこの目標のジャンプアップはどうやって起きたんですか?
角銅 山口ともさんっていうドラマーの人がいるんです。わたしが高校のころに『ドレミノテレビ』って教育テレビの番組をUAと一緒にやってたんです。そのころわたし、UAがすごく好きだったし、学校行ってないから朝の放送が見れるんですよ。山口さんはいろんな、いわゆる廃品的なものを集めたり、色々な素材を改造をしてパーカッションのセットを作って演奏する方なんです。衣装もすごく素敵で、「この大人の人は誰なんだろう? どういうこと考えてるんだろう?」って思ってたんです。そしたら高2の冬くらいに、山口さんが長崎の旧上海銀行(旧香港上海銀行長崎支店多目的ホール)にライヴに来て、ちょうどわたしの目の前でポコポコやってくれて、なんかもうドキドキしちゃって(笑)
──ドキドキしましたか(笑)
角銅 たぶん、すごく自由に見えたんでしょうね。自分のやり方と自分の音楽で、世界と向き合って、世界に何かを投げかけている。「わたしもこんなふうになりたい」と思ったんです。それで、とりあえず、打楽器の教室に本格的に通い始めました。長崎にはマリンバの先生しかいなかったんですけど、ちゃんと打楽器を習いたいと思ってマリンバを習いに行きました。でも、わたしは音楽も好きだけど絵を描くのも好きだし、やりたいことの延長線上に音楽があるという感じだったから、あんまり音楽だけをする人になるイメージはなかったんです。だから、大学に進むときも、いっぱいいろんな人がいるほうがよかった。そのときに、藝大なら美術もある学校だと思ったんです。あと、そのときの芸大の打楽器の先生が、クラシックだけじゃなくジャズのヴィブラフォンも叩く方で、お父さんのパソコン借りて先生が演奏してる写真を見たら、白黒の写真で、うつむいて楽器を弾いてる姿がなんだかすごくかっこよかった(笑)。「あ、わたし、この先生のいるところに行く!」って思ったんです。学費も安いし、美術もあるし、「藝大ってわたしのためにあるんじゃない?」って(笑)
(つづく)
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もう今日の夜(7月15日)ですが!
〈時間の上に夢が飛んでいる〉リリースライブat 渋谷7th Floor
開場: 18:30 / 開演: 19:00
当日: 3000円
出演
角銅真実とタコマンション・オーケストラ
夏の大△
Doppelzimmer
詳細はこちら
みっちゃん! 光永渉の話しようよ。/ 光永渉インタビュー その3
ひと月空いてしまいましたが、光永渉ロング・インタビュー、第三回。
みっちゃんの言葉を借りれば「時がいい感じで周りはじめた」2010年前後の話。
なお、間が空いたので、前2回もご参照を。
「その1」
「その2」
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──ビーサン(Alfred Beach Sandal北里)がチムニィのライヴ映像を見て、みっちゃんに興味を持って。それからどうなりました?
光永 (内田)るんちゃんから「ビーサンが今度ライヴに行きたい」って言ってるって聞いたんで、「『いいよいいよ、遊びに来て』って言っといて」って伝えたんです。そしたら、本当に来たんですよ。下北沢〈THREE〉でのライヴだったと思うんですけど、あいつって今もそうだけど無愛想でしょ?(笑)。しかも今よりもっとシュッとしてるっていうか、怖い感じで。
──わかる。第一印象が怖い感じ(笑)。
光永 それで、2年後くらいだったかな、知人の結婚式の二次会があったんですけど、そのときにお互い酔っ払ってるし打ち解けて、「今度スタジオ入ろう。ドラム叩いてよ」みたいなことを言われて、一緒に入ったりしました。ビーサンは、そのころに継吾くんがやってたバンドとも入谷の〈なってるハウス〉で対バンしてて。継吾くんも店のマスターに「一緒にやってみなよ」って言われてセッションしたのかな。そのときは伴瀬(朝彦)くんもそこにいたかもしれない。そういうことが別々にあって、のちに、じゃあこの3人(北里、光永、岩見)でやってみようという流れになったんだと思います。
──話を2010年の四谷に戻すと、あだカル(あだち麗三郎クワルテッット)にも、その夜が縁になって参加することになるんですよね。
光永 それもあるけど、もともとあだカルで叩いてた(田中)佑司がくるりに入って京都に引っ越すから、ドラマーがいなくなったのがきっかけでした。それで暫定的にライヴで一回叩かせてみよう、くらいの感じだったと思うんですよ。そのときはもう(厚海)義朗くんもいたけど、彼もたしか四谷でおれらと対バンした日が初めてのあだカルで、まだ二回目のライヴくらいじゃないのかな。あらぴー(荒内佑/cero)とも、あだカルで初対面だったんですけど、最初に会ったときは、ぜんぜんいい印象なかった(笑)。あだ麗に紹介してもらうってことで、吉祥寺の一軒目酒場で飲んだんですけど、そのときはあんまりしゃべんないし「謎めいたやつだな」と思ってました。でも、一緒にやってるうちに仲良くなっていって。
──今、考えるとその時期のあだカルのメンバーはすごい。ほぼ、のちのcero(笑)
光永 今思えばそうですね。あだちくんのことは、“俺こん(俺はこんなもんじゃない)”とか、いろいろやってたから知ってましたけど、ceroのことはうわさに聞いてたくらいで、まだよく知らなかったですね。
──時系列をちょっと整理すると、チムニィ以外のバンドに初めてレギュラーで入ったのは、あだカル?
光永 るんちゃんのバンド“くほんぶつ”に、もう入ってたかもしんない。
──くほんぶつには「ピートタウンゼント」って超いい曲がありますよね。「2010年の日本ロックフェスティバルに出るために組んだドリームチームバンド」っていう記述を見たことあるから、たしかにおなじくらいの時期なのかな。
光永 あと、もっと前ですけど三村(京子)さんともやってました。彼女のセカンド(『東京では少女歌手なんて』 2008年)が出たあたりですね。CDではNRQの人たちが演奏してるんですけど、ライヴではおれがわりとドラム叩いてたんです。そのきっかけも、チムニィと三村さんの対バンですね。彼女はひとりでやってたけど、「バンドを探してる」みたいな話で。それでチムニィのリズム隊と(佐藤)和生で、そのままバックをやったという感じです。そういえば、そのころのライヴに王舟が来てて、カメラマンみたいなことしてたんですよ。王舟が三村さんの歌がすごく好きだったらしくて。そのとき飲み会でもしゃべってるんですけど、おれはほとんど記憶にない。何年か後に王舟から「おれ、あのときいたんですよ」って聞いたんです。
──ランタンパレードの清水さんと知り合ったのはいつですか? たしか、それもこの前後ですよね。前に清水さんに取材したときに、その時期の話を聞きました。ずっと宅録とDJだけやって作品を発表してた清水さんのところに、みっちゃんが来て「バンドで叩かせてくれ」と直訴したという。
光永 本当に好きだったから必死な感じではあったと思います。その時点では清水さんはバンドどころか弾き語りもやってなかったから。
──そういう存在だったのに「バンドやってほしい。で、おれに叩かせてほしい」とお願いしたんですね。
光永 そのころ、和生のギター、ヴォーカル、おれのドラム、チムニィのベースの浅川、もうひとりギターの4人で、Miniature Band(ミニチュア・バンド)っていうのもやってて、mona recordsとかにたまに出てたんです。チムニィでワーッて感じのことやりながらも、宅録っぽいポップスっぽいバンドもやってて。そのバンドでmonaでライヴしたときに、店内でオススメされてたCDにランタンパレードがあったんですよ。黄色い薔薇のやつ。
──ファーストの『LANTERN PARADE』(2005年)ですね。
光永 あれ聴いて衝撃受けたんです。清水さんの歌詞も、その当時の自分にはど直球で。それからは、もう勝手に崇めてました。でも、ランタンパレードはライヴはやらないし、そもそも情報がなさすぎた。「どんな人だろ?」と思ってたら、たまたま高円寺のバーでDJをやるという情報を見つけたんです。「これは絶対に生の清水さんを見なきゃいけない」と思って、勢い勇んで行ったんです。
──はしもっちゃん(橋本翼/cero)もランタンパレードの大ファンで、彼もDJを聴きに行って、「ギター弾かせてください」ってお願いしたそうですね。
光永 あ、本当? おれはこの当時はまだはしもっちゃんのこと知らなかったから。
──おなじような場所にいたかもしれない。
光永 DJが終わったあとで、思い切って清水さんに話しかけたんですよ。憧れが強すぎたから怖かったですけど、話したらすごくいい人で、「さっきかけた曲は」とかいろいろ教えてくれて。それで、その勢いで「清水さん、バンドしないんですか?」って聞いたんです。そしたら「いや、じつはその構想もある」みたいな返事だったので、「じゃあそのときはおれを使ってください」とお願いしたんです。で、そのへんにあったコースターに電話番号とかを書いて渡したんです。でも連絡取れたのは1年後でした。
──1年後!(笑)
光永 チムニィのユウテツくんも清水さんがDJで出た別のイベントに行ったときに、おれが本当に清水さんとやりたいって言ってるって伝えてくれて。そのときに清水さんが電話番号を教えてくれたので、連絡が取れたんです。
──いい話(笑)。チムニィのメンバーは本当にみんなランタンパレードが好きで、歌詞当てクイズとかをしてるって話、清水さんから聞いたことあります。で、ユウテツくんの一押しもあって、そこから清水さんとの活動も始まって?
光永 すぐに「バンドやろう」という話になったわけじゃないんですよ。まずは「じゃあメシでも食おう」と。それからは清水さんが結構、当時、おれと和生が一緒に住んでた家に遊びに来てくれたんですよ。そのころは一瞬、ユウテツも住んでたのかな。鍋やったりしました。それで、2009年の終わりあたりから、二人でスタジオ入るようになりましたね。清水さんから「こういうのもあるんだよ」って弾き語りのCD-Rをもらったんですよ。それがもう本当に素晴らしくて、そこから1年くらいはその音源をどうやってバンドの音にするか、二人でずっとスタジオ入ってやってました。震災のときも、清水さんと二人でスタジオ入ってたんですよ。
──そうなんだ!
光永 次の日もスタジオに入りました。予約してたから(笑)。でも周りは大変なことになってたじゃないですか。空の色も変だったし。スタジオも練習してる部屋以外は真っ暗だし。「でも、やるか」みたいな感じで練習しましたけど、ちょっと怖かったですね。
──ランタンパレードのバンド・スタイルでのアルバム『夏の一部始終』も、そのリリース記念だった初ライヴも2011年ですよね(2011年11月17日、〈曽我部恵一 presents“shimokitazawa concert”第十一夜・十一月〉)。アルバムもライヴもたまたまこのタイミングになっただけで、震災とはなんの関係もないと清水さんは、はっきり言ってましたけど。
光永 そうなんですよ。でも、あのアルバムの曲の歌詞もそうだし、ceroのファースト『WORLD RECORD』もそうだったけど、起きた現実と結構リンクしてるところがあったんですよね。まったく関係ないころからずっとやってたことなのに、関連があると思われちゃう。清水さんは、そう思われるのを嫌がってましたね。
──『夏の一部始終』では、ベースで曽我部恵一さんが参加してます。
光永 満を持して清水さんと録音するかとなったときに「ベースはどうしよう?」と思ってたら、曽我部さんが「おれでしょ」って(笑)
──「おれでしょ」(笑)
光永 びっくりしました。清水さんもそうだけど、曽我部さんも雲の上の人だったから。「なんで?」みたいな。
──かつて「青春狂走曲」に衝撃を受けたみっちゃんですが、曽我部さんともそこで初対面。
光永 そうです。緊張しました。まあ、そのあと一緒に飲みに行ったら、おれ、うれしくてすごい泥酔したけど(笑)
──笑っちゃうけど、そのうれしさ、よくわかる(笑)
光永 そのへんからですね、時がいい感じで周りはじめたのは。
──ceroを初めて見たのは、いつなんですか?
光永 『My Lost City』のツアーファイナルに誘われて渋谷クラブクアトロに見に行きました(2013年2月3日)。というか、ceroがそのツアーで北海道行ったときに、対バンでビーサンをバンドを呼んでくれたんですよ(2013年2月1日、札幌cube garden)。そのときにおれがドラム叩いてるのを見てもらったのも、ひとつのきっかけだと思います。
──なるほど。みっちゃんと義朗をリズム隊にしたいという構想は、すでになんとなくあったという話も聞いたことがありますが。
光永 義朗くんは『My Lost City』で一曲弾いてるんですよ(「さん!」)。なんとなくおれらを誘いたいという雰囲気はあったのかもしれないけど、おれはわかんなかったですね。
──あだカルのリズム隊としての興味もあったけど、藤井洋平& The VERY Sensitive Citizens of TOKYOのリズム隊という意識が大きかったと思いますよ。まだその時点ではセカンド・アルバム『Banana Games』(13年11月)は出てなかったけど、ライヴは結構やってましたからね。僕も藤井くんのファースト(『この惑星の幾星霜の喧騒も、も少したったら終わるそう』)は好きで聴いてたけど、みっちゃんたちとアーバンなファンクをやるようになってからの演奏見たとき「こんなかっこいいバンドない!」って度肝抜かれましたもん。
光永 ああ、そうか。藤井くんも絡んでくるんだ。
──役者がいろいろ揃ってきましたね。じゃあ、次回はいよいよceroとの話にいきましょうか。
(つづく)
みっちゃん! 光永渉の話しようよ。/ 光永渉インタビュー その2
光永渉ロング・インタビュー、第二回。
第一回ではドラムをちゃんと叩くところまでたどり着かなかった。いよいよ第二回では、みっちゃんがドラマー人生を歩みだす。名門サークルの門を叩いて、それからどうなった?
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──思いきって学芸大のジャズ・サークルの人に話しかけた。で、どうなりました?
光永 入部しました。そのジャズ研(東京学芸大学軽音楽部〈Jazz研〉)が、すごく活動が盛んなところだったんですよ。フュージョンとかじゃなくて、超正統派のビバップが一番のサークルだったんです。発表会もあるし、練習もすごくちゃんとやる。プロも何人も輩出したすごいサークルで、上の世代だとスカパラの北原(雅彦)さんもいたし、Soil &" PIMP"SESSIONSの秋田ゴールドマンもいたんですよ。おれは3年だけど新入部生ということで立場としては1年生と一緒で、いろいろ話しかけてくれたのが、のちにチムニィや藤井(洋平)くんのバンドで一緒にやることになる(佐藤)和生なんです。
──ああ! そこで知り合う! 彼も学芸大だったんですね。
光永 そうなんですよ。おれはそのサークルではじめてちゃんとバンドを組んで、ちゃんとした曲をやりました。みんなで音を出すのも楽しかった。そこからおれはドラムにどハマりしていくわけなんです。当時はサークル棟っていう部室があって、24時間空いてたんですよ。だから、一日中音を出し放題。秋田とか和生とか、仲いい連中で夕方くらいに集まって、最初はだらだらとしゃべってて、そこから夜中もずっとセッションして、朝にファミレスで飯食って帰るみたいな。
──それまで夜の学校に忍び込んで即興やってたのが、ちゃんとしたサークル活動になった(笑)
光永 それが卒業までずっと続きましたね。本当に楽しかったですよ。さらにいえば、学芸のサークル棟は24時間練習ができる場所だったから、他大学の人も顔出したりしてて、今おれが一緒にやってる(岩見)継吾くんや、ceroのサポートでもトランペット吹いてもらった川崎(太一朗)くん(Ego-Wrappin’)も来てました。
──名門サークルなわけだから、それなりの厳しさもあったんじゃないですか?
光永 いわゆるアカデミックに突き詰めるところじゃないんですよ。4ビート命な感じとか、ジャズに関しては結構厳しさもありましたけどね。おれとか和生とかはロックが好きだから、こそっと隠れてレッド・ツェッペリンとかやってたんですけど、それを先輩に見つかると「おい、なにやってるんだよ! 4ビートやれ!」みたいに言われたり(笑)。和生はそういうのがだんだん苦痛になって、やがてサークルをやめちゃいましたけど。
──みっちゃんとしても、やっぱりドラムが一番好きだっていう気持ちが固まっていった時期は、ここですよね。
光永 そうですね。ここでドンとハマって、音楽やって酒飲んで、音楽やって酒飲んで(笑)。合コンとか、いわゆる大学生がやるようなことはぜんぜんなく、ひたすら音楽やってましたね。
──そのころ目標にしてたドラマーはいますか?
光永 今でもそうですけど、アート・ブレイキーですね。当時、部室にジャズやソウルのレーザーディスクがたくさんあって、それをみんなでお酒飲みながら見て「ああいうのやりたい」とか、いろんな話してましたね。そのなかで一番好きだったのが、アート・ブレイキーでした。もちろんエルヴィン・ジョーンズとかトニー・ウィリアムスも好きでしたけど、やっぱりブレイキーが一番。
──どのへんが?
光永 なんだろう? こういうこと言うと怒られちゃうけど、アホなところ(笑)
──アホって(笑)
光永 アホじゃないんですよ。天才だし、素晴らしいんですけど、どこかふまじめな感じだったり、ちょっと不器用な感じだったりするのがかっこよくて。人間らしかったんですよね。
──スーパーテクニックを誇示するというところではなく、人間に惹かれた部分がある。
光永 もちろん他にもすごい人はいっぱいいましたけどね。森山威男さんもめちゃくちゃ好きでした。
──山下洋輔トリオのドラマーだった方ですね。
光永 アケタ(西荻窪のジャズ・ライヴハウス「アケタの店」)とかでたまにやられるときは見に行ってましたね。「こんなすごい人はいない」と思ってました。
──こうやってあらためて話を聞くと、みっちゃんのドラムの源流って、やっぱりすごくジャズなんですね。
光永 そうですね。ただ、ジャズにどっぷりハマってたけど、デ・ラ・ソウルとかヒップホップも好きでしたよ。
──ヒップホップのサンプリングとかループとかって、ジャズの側からすると思いがけない脚光が当たったいっぽうでは、“搾取された”という見方もできたわけで、ストイックなジャズ・サークルだと怒ってた人もいたんじゃないですか?
光永 おれは、ヒップホップは周りには黙って聴いてました(笑)。
──ロックのライヴハウスとか、インディーズとか、そういう方向には行かず?
光永 ぜんぜん行かなかったですね。“インディーズ”っていうジャンルがあることさえ知らなかった。『CROSSBEAT』とかは読んでましたけどね。
──『CROSSBEAT』は読んでたんだ。『スイングジャーナル』かと思った(笑)
光永 ちがうちがう。『CROSSBEAT』読んで「アクセル・ローズ、わるいなー!」とか思ってました(笑)
──意外と、みっちゃんの大学時代の話って、みんな知らないと思うから、こういう話はいちいち貴重ですね。
光永 そうですね。ジャズやってたってことぐらいは知られてるかもしれないけど。
──大学はちゃんと卒業したそうですけど、就職は?
光永 してない。実家の酒屋を継ごうと思ってたから。
──あ、そういうことか。いったん長崎に帰ったんですね。
光永 ただ、ドラムやりたいという気持ちはずっとあったんですよ。だから長崎に帰ってからも実家を手伝いながら地元のジャズ・クラブに出入りしたりして、音楽をやってはいたんですよね。でも、だんだん「ちゃんとやりたい」という気持ちが強くなってきて、親にお願いしたんです。「もう一回、東京に行かせてくれないか」って。
──そうだったんですか。
光永 まあ、親もおれが長崎でもそうやってドラムを続けてたのを見てたし、なんとなく(帰郷したことに)悔いがあったんじゃなかろうかと感じてたと思うんです。親父から「まあ、じゃあやってこい。何年かかるかわかんないけど、納得いくまでやってみろ」みたいなことを言われた気がします。
──いいお父さんですねえ。だって姉がふたりいるとはいえ、後継をさせられる息子としてはみっちゃんひとりなわけだから。でも、自分の息子にやりたいことがあるということをうれしく思うのも親心だろうけど。
光永 それで、東京に戻ってバイトしながら音楽をやることになったんですけど、そこが運命の分かれ目だったんですよ。たまたま行った遺跡発掘のバイトに、チムニィのギターの春日(長)がいたんです。
──なんと!
光永 ジャズをやるつもりで東京に帰ってきたんですけど、春日に「バンドをやりたいんだけど、ドラムがいないんだ。ただうちらのバンドはかっこいいから売れる!」って話をされて。おれもロック好きだったから「やろう! いや、やらせろよ!」って返事したんです。完璧だまされました(笑)。そこからですね、おれのロック・バンド人生は。
──ジャズやるつもりだったのに(笑)
光永 でも、当時流行ってたジャズっていうのは音の求道みたいなものになってたし、おれもぜんぜん下手だし、そのときはロックが性に合ったんですよね。「じゃあ、おれはロックで行こう」と。
──そのとき誘われたバンドが、チムニィ。
光永 そうです。初のロック・バンド。チムニィ自体はおれが入る前からあったんですよ。福岡でやってて、バンドとして東京に出てきたんです。でも、ちょうどドラマーがいなかった時期で、そこにおれが入った。またこれがチムニィも酒飲みのバンドで(笑)。練習しちゃ飲んで、練習しちゃ飲んで、だんだん仲良くなっていったみたいな。
──そのころはどのあたりでライヴやってました?
光永 その質問おもしろいですね。府中Flight。……知らないでしょ?(笑)。たまに新宿JAM。JAMのオーディションとか受けて、落ちてましたよ(笑)。今おれが出てるライヴハウスでも当時オーディション落ちたとこ他にもありますよ。
──そうなんだ。
光永 Flightはオーディションがなかったんですよ(笑)。あと、おれは当時国分寺に住んでて、チムニィの他のメンバーは府中に住んでたから、やりやすかった。
──そのころから今もやってる曲はあります? 「西武球場」とか?
光永 まだ、そういうのはやってないです。ユウテツくんもまだいなかった。ヴォーカルも初代だったし、今とはぜんぜん違います。ジミ・ヘンドリックスみたいにやりたいヘタクソなバンドって感じでした。
──もっと混沌としてた感じですか。
光永 混沌……ですね。松永さんはそのころ、どういうバンド見てました?
──SAKEROCKかな。たぶん、彼らがカクバリズム入る直前で、ぎりぎりライヴハウスでやってたくらいの時期。
光永 おれらがいたのは、また違うシーンですよ。当時のおれらが見てた頂点にあったというか、「すげえな」と思ってたのが“関西ゼロ世代”。ZUINOSHINとか、ワッツーシゾンビとか、そういうバンドが出るライヴを新宿JAMに見に行ったんですよ。そしたら満員で入れなくて、横の駐車場でお酒飲んでた(笑)
──そうなのか……。
光永 でも、他人からはおれらのバンドは暗黒時代に見えたかもしれないけど、楽しかったですよ。バイトしながらノルマ払ってライヴやるというのが当たり前だったし。
──この時期やってたバンドは、ずっとチムニィだけ? ジャズには戻らず?
光永 所属してやってたのはチムニィだけでしたね。ジャズは、昔の知り合いに呼ばれて、たまにやってたけど。
──転機が訪れたというか、潮目がちょっと変わったのはいつごろですか?
光永 結構長いこと変わんなかったすよ(笑)。たぶん、おれらがそうやってる別のところで、ceroとかNRQとかも生まれてたんでしょうけど、まったく知らなかったし。片想いとも高円寺のペンギンハウスで一回対バンしたことあるんですよ。バンドの毛色が違うから、そのときは特にだれかと仲良くなった記憶もないけど。でも、あだ麗(あだち麗三郎)が当時四谷の某施設でやってたイベントにチムニィを呼んでくれたんですよ。そのころは、もうユウテツくんが加入してました。それまでの轟音ロックじゃなくて、ヒップホップというかトーキングブルースというか、ユウテツくんらしいスタイルにバンドが変わっていった時期です。で、その四谷のライヴ映像をVIDEOくん(VIDEOTAPEMUSIC)が撮ってたんですよ。その映像をビーサン(Alfred Beach Sandal)が見て、「この人のドラムいい!」って言ったんです。
──へえ!
光永 あれ? ちょっと待ってくださいね。なんでおれがビーサンがそう言ったっていう話を知ってるのか……? 思い出した! 当時、チムニィって一匹狼的なバンドで友だちになるミュージシャンがぜんぜんいなかったんですけど、一個だけ仲良くなったピンク・グループっていうむちゃくちゃかっこいいバンドがいて。そのピンク・グループのファンに(内田)るんちゃんとるんちゃんのお母さんがいたんです。それで、そのふたりがチムニィを気に入ってくれて、ライヴを見に来てくれるようになったんです。
──そこからくほんぶつでみっちゃんがドラム叩くことにつながる?
光永 そうなんですけど、それはもうちょっとあとの話です。るんちゃんはビーサンとも知り合いで、おれは彼女から「ビーサンが『あのドラマーの人、知ってる?』って言ってたよ」って、はじめて聞いたんです。
(つづく)
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みっちゃん! 光永渉の話しようよ。/ 光永渉インタビュー その1
光永渉、と書くのはどうにもまどろっこしいので、いきなり“みっちゃん”ではじめたい気持ちがつよい。でも、それだとくだけすぎるので、とりあえず文章上は“光永くん”でいきたい。
光永くんとはじめて会ったのは、2012年の春。場所は阿佐ヶ谷のRoji。ワーキングホリデーで渡英していたシンガー・ソングライター野田薫さんの凱旋ライヴが行われた夜だった。その日、彼はあだち麗三郎クワルテッットのドラマーとして演奏していた。終演後、表現(Hyogen)の佐藤公哉くん、古川麦くんがふらっと現れ、片付け前の楽器を使ってセッションがはじまった。さらに偶然にも、伴瀬朝彦くんも現れ、「いっちまえよ」を歌った……という話、じつは過去にも何度か書いている。
この夜、はじめて会ったひとたちに、いろんな偶然が仕込んだわけでもないのに、そのあと、この3人にそれぞれのタイミングでロング・インタビューをした。表現(Hyogen)にもバンドとして雑誌でインタビューをした。光永くんは、その夜にぼくが出会っていながらまだインタビューをしていない最後のひとりだったということもできる。
今ではceroのリズム隊の要としてすっかり認知された彼を取材したいと思ったことは過去にもあった。2013年の暮れ、ceroにサポートとして厚海義朗くんと光永くんが参加した直後に、ぼくは厚海くんにインタビューしている。そのまま光永くんにも話を聞くというタイミングは、たしかにあった。
だけど、GUIROの一員としての姿をすでに知っていた厚海くんに比べて、まだその時点ではぼくは光永くんのことをそんなによく知っていなかった。チムニィ、あだち麗三郎クワルテッット、伴瀬朝彦BAND、ランタンパレード、九品仏、藤井洋平&The Very Sensitive Citizen of TOKYO……、当時彼がかかわっていたバンドやアーティストについても、もっとよく知っておく必要を感じたのかもしれない(※今は、あだち麗三郎クワルテッットは脱退し、Alfred Beach Sandal、“おまつとまさる氏”が発展したユニットである松倉と勝と光永と継吾、G.RINA、バンド編成時のやけのはら、さらに大塚愛のツアー・サポートも加わる)。もっというと、当時から光永くんは職人肌のドラマーに見えたし、わざわざインタビューして聞くことがあるのかなとさえ思っていたのだ。結局、そんな躊躇をしているうちに時間だけが経ったわけだけど、それがあるきっかけで氷解する。本文中にも出てくる話だが、ぼくが「今なら話を聞きたい」と思ったのは2015年のceroのツアーで立ち寄った光永くんの故郷、長崎で一緒にいた時間があったからだった。
光永渉くん、やっぱり、みっちゃん。愛すべきドラマーで、気のおけないよっぱらい。いろんなところで彼のドラムを見たり聴いたりしてるひとは多いと思うけど、じっくり話を聞いてみると、さらに興味深い話だらけだった。
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──みっちゃんと初めて会ったのは、ここ(Roji)ですよね。野田(薫)ちゃんの帰国記念ライヴの日。2012年(4月28日)だった。
光永 あ、そうでしたっけ? そんなに前になりますか?
──あのとき、まだみっちゃんはあだカル(あだち麗三郎クワルテッット)のドラマーで。ライヴが終わった後に話をしたんですよ。たしか、みっちゃんから話しかけてくれて、「曽我部(恵一)さんのROSE RECORDSで、ランタンパレードやチムニィのドラムをやっていて」みたいな話でした。
光永 あー、そっかー。そのときはまだceroやってないですもんね。しかもそれ、おれがはじめてRojiに来た日ですよ。
──え? そう?
光永 お店の存在は知ってましたけどね。チムニィの日永田(信一)くんって、Rojiが開店して2番目くらいのお客さんなんですよ。
──2006年ごろの話ですか?
光永 そうなんですよ。彼から「こういう店が阿佐ヶ谷にある」とか「ceroってバンドがいる。若い子たちだけどおもしろい」とか、そういう噂は聞いてたんです。当時のceroはまだ高円寺の円盤でライヴをしてたころだったと思います。でもそのときは別にライヴを見に行くでもなく、それだけで終わってた話でした。
──とはいえ、それはそれで興味深い縁ですよね。
光永 そうですね。だから、高城(晶平)くんとも、Rojiであだカルやったあの晩にはじめて会ったかもしれない。
──あだカルにあらぴー(荒内佑)がいた時期があるから、さすがにあの夜が高城くんと初対面というのはないんじゃない?
光永 そうだったかなあ?
──ぼくの話でいうと、あの夜に野田ちゃん、(古川)麦くんとも初対面で話してて。あの夜にはじめて会ったひとに、結果的にこうしてずっと取材してるという流れがあるんですよ。
光永 (厚海)義朗もあの夜でしたっけ?
──厚海くんは、GUIROの時代から知ってはいて。ただ、当時は「怖い人だ」と思ってたから話してない(笑)。話すようになったのは彼が東京に出てきてからですね。インタビューしたのはceroのサポートをするようになってからだし。あのとき、みっちゃんのインタビューも続けてやろうかとも思ったけど、結局やらなかったんですよね。当時は、まだぼくには“いろいろ思いのある人”というより“職人肌の音楽人”に見えてたのかもしれない。それがかなりくだけて、俄然興味が湧いてきたのは2015年のceroの〈Obscure Ride Tour〉後半に同行してからですね。特に大きかったのは、みっちゃんの実家のある長崎に行ったこと。
光永 ああ!
──あのとき、みっちゃんの地元や光永家の人たち、昔からの友だちとの空気感に触れて、「あ、これはみっちゃんとなんか話したい」と思ったんです(※このインタビューは2015年と2016年の2回にわたって行われています)。夜中によっぱらってみっちゃんが卒業した小学校も一緒に見に行った(笑)。生家は長崎市内の歓楽街にある酒屋さんで、みっちゃんは“街の子”なんですよね。
光永 じつはそうなんですよ。田舎の子みたいに思われてるんだけど、わりとがちゃがちゃした街の育ちなんです。あのとき松永さんたちは、そんなに人が多くないと感じたかもしれないですけど、おれが住んでたころは週末にはすごいにぎわいでしたよ。
──荒っぽい感じもあった?
光永 そうですね。やっぱり歓楽街だから、そういう方面の人たちもいましたね。
──あのあたりは、地元の名前としては「思案橋」でしたっけ。
──そうか。美輪さんも出身は長崎。
光永 とにかく、おれは長崎を出るまでずっとそこで暮らしてました。逆に、母方の実家は、絵に描いたような田舎なんですよ。川があって山があって。夏休みとかは毎年遊びに行ってました。
──どんな子どもでした? 兄弟とかは?
光永 姉が2人います。自分でいうのもなんですけど、そんなに手がかからない子じゃなかったかな(笑)
──末っ子ですもんね。
光永 上の姉とはちょっと歳が離れてるんですけど、下の姉とは1歳違いだったんで、音楽面では彼女の影響をわりと受けてますね。いわゆるチーマーじゃないけど田舎のミスドの前にたむろしてスケボーやったりしてる感じの女の子で、音楽はジャネット・ジャクソンとかホイットニー・ヒューストンとか、BOYZ II MENとか、そういうブラック・ミュージックを聴いてましたね。当時のおれはそれがブラックなのかどうかもわかんないし、ただ単に「いいなあ」と思って聴いてただけでしたけどね。a-haとかペット・ショップ・ボーイズとかもありましたね。
──ジャネットは『リズム・ネイション1814』(1989年)とか?
光永 そうそう!
──のちにドラマーになる子どもが知らず知らずのうちに受ける影響としては、いいですよね。
光永 姉貴はレンタルCD店でCD借りてきて、カセットテープにダビングして聴いてたから、そのテープをおれが借りて聴く、みたいなね。中2くらいになると自分でも好きな感じのを探すようになっていって、そうするとロックとかを聴くようになっていくんですけどね。
──それがリスナーとしてのみっちゃんの歴史のスタートだとして、演奏するほうは?
光永 じつは太鼓自体は小さいころからやってて。和太鼓ですけどね。
──へえ!
──わかります。九州三大祭のひとつ、“長崎くんち”ともいいますよね。
光永 おれ、あれに囃子(はやし)で出てたんですよ。光永家は代々それをやってきたんです。親父は袴を着て祭を見守ってる役職みたいなことをやってました。おれは、小さいころは小太鼓。だんだん大きくなってきたら、太鼓も大きなのを任されて、最後は蛇(じゃ)踊りの大太鼓をトップでやってたんです。
──すごいじゃないですか!
光永 おくんちはすごいですよ。学校は半日休みになるし、出る人はその日は学校行かなくてもいいし。あと、やっぱり祭に出てると、モテるんですよ(笑)
──ああ!
光永 だからドラムセットとかを叩いてたわけじゃないけど、おくんちで太鼓の練習はしてましたね。本当はおくんちって決まりがあって、子どもたちは自分の町では7年に一度しか出られないんですよ。つまり、7歳で出たら次は14歳のときしか出られない。おれは、自分がいた船大工町の川船に乗って太鼓をやってたんですけど、隣町の人たちがやってる蛇踊りの太鼓がしたくって、頼み込んで特別枠で毎年のように出てたんです。
──つまり、自分の町の太鼓では7年に一度なんだけど、蛇踊りでは毎年やってたんだ。すごいなあ。
光永 そうなんです。それは楽しかったし、自分の人生にとってもでかかったですね。太鼓ということも意識してなくて、ただ単にお囃子に入って楽しいってだけだったんですけど、その当時やってたお囃子のドンドコドンドコいう感じが今でも好きですね。
──それは基礎訓練として、結構な意味あるでしょ?
光永 いや、どうなんですかね?(笑)
──高校のときはバンドやってない?
光永 やってないです。高校時代はサッカーにめちゃめちゃはまってたから。結構がんばってたな。
──サッカーで長崎だと、国見とか強い高校ありますよね。
光永 国見にはボロ負けした記憶があります。まあ、うちらの時代の国見は鬼のように強かったですからね。でも、おれがいた時代で最高は県大会の3位まで行ったんですよ。
──じゃあ、高校時代はサッカー一色と。
光永 音楽は本当に好きでしたけどね。東京みたいにレコード屋さんもたくさんないけど、街に一軒くらい、ちょっと進んでる兄ちゃんがやってるような店があるでしょ? そういうところに通って、「これいいよ」みたいなのを教えてもらって、テープを作って友だちに配ったりしてました。
──大学で地元を離れたんですか?
──東京に出てきたかった?
光永 うーん。それはあんまりなかったんですけどね。おれ、あんまり頭よくなかったんですけど、高3のときのセンター試験で、たまたま今まで取ったこともないようないい点が出たんですよ。「これなら東京の国立もいけるんじゃないか?」みたいな話になって。本当は福岡の私立に行きたかったんですけど、でも親父がもともと東京の大学に行ってたこともあって、東京に行くということに肯定的だったんですよ。まあ、おれも「東京行けばライヴとかいつでも見れるな」みたいな気持ちもあって、まあ受けてみっぺかと。二次試験も面接だけだったこともあって、学芸大に受かったんです。
──それで東京へ。
光永 でもね、東横線に学芸大学駅ってあるじゃないですか。おれ、学芸大ってその駅にある、超都会な場所だと思ってたんですよ。親戚もその駅に住んでるし、そこに泊まって大学も受けたらいいかな、くらいに思ってたら、じっさいに大学があるのは小金井のすごい先のほうだった(笑)。「あらー?」と思ったけど、結局受かっちゃったし、行くしかないと。
──それで、とにもかくにも東京には出てきて、大学で音楽サークルとか?
光永 いや、それが学校にぜんぜん行ってなかったんですよ(笑)。なんか、つまんなくて。
──1年生から?
光永 そうです。入学式終わって、おなじ課の人たちが自己紹介とかをするじゃないですか。
──オリエンテーション的なやつですよね。
光永 それに行かなくて、すぐ帰っちゃったんですよ。それで、次に大学に行ったら、ほかのみんなはもうわりと仲良くなってたんで、ぜんぜんおもしろくなくなっちゃって。
──そもそも、なんですぐに帰っちゃったんですか?(笑)
光永 なんか疲れてたんじゃないですか?(笑)……まあ、イヤだったんでしょうね。でも、そんななかでも自分の課とは違うとことろでたまたま仲良くなった美術課のやつがいて、そいつも学校も行かずに週末にはクラブ行ったりするような感じだったんですよね。そいつに一緒に付いていったりしてました。そしたら他大学のやつらとも知り合いになっていって、そいつらもいわゆるアングラ大学生だったというか、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドをずっと家でかけてるような変な人たちだったんですよ。
──クラブって、当時はどういうとこに遊びに行ってたんですか?
光永 〈MANIAC LOVE〉とか〈The Room〉とか。小金井の田舎から電車乗って、ズッコンズッコン音が鳴ってるところに行って。
──意外です。
光永 でも、そのころからサニーデイ・サービスは好きでずっと聴いてたんですよね。
──サニーデイはどのへんから入ったんですか?
光永 夏休みに帰省したときに、実家でテレビを見てたらSPACE SHOWER TVかなんかで「青春狂走曲」が流れて、「すごくいい曲だな」と思ったんですよ。当時の曽我部さんのイメージは、冷たい瞳で、すごいシュッとしてる感じがあって、そういうのがよかったんですよね。それが渋谷系なのかとか、そういうことはなにもわからなかったし、のちにまさか曽我部さんと一緒にやるようになるとは思ってなかったけど。
──ね! それもすごい縁。
光永 話をちょっと戻すと、大学1年の終わりくらいだったかな。そのころに遊んでた他大学の知り合いのなかのひとりに「音楽やるから、おまえドラム叩いてくれ」って言われたんですよ。「いいよ」って返事したんですけど、そいつがやりたいのはすごく前衛みたいなやつで。
──前衛みたいなやつ?
光永 鐘をチーンと鳴らしたり、ビユビユビユビユって変な音出したり(笑)。そのバンドは3人だったんですけど、覚えてるのは、真夜中に大学の教室にしのびこんで、部屋を真っ暗にして鐘を鳴らしたり笛を吹いたり、そういうわけのわかんないことをひたすらしてました。
──それがみっちゃんにとって人生初のバンドってことですよね。バンドといっていいのか……(笑)
光永 そのうちドラムセットにも座るようになったんですよ。でも、やるのは曲とかじゃないんです。
──即興みたいな?
光永 そう、即興です! なんにもない即興というか、即興の真似事みたいな。ライヴもやると思ってないし、ただ音楽をやることがかっこいいと思ってたんですね。
──うーん。そうだったのか……。
光永 でも、ガンズ・アンド・ローゼズの「パラダイス・シティ」って曲があるんですけど、知ってます?
──もちろん。名曲ですよ。
光永 あるときバンドの空いてる時間にドラムであの曲のパターンを真似してみたんですよ。そしたらドッパンドッパンって叩けたんですよ。足でキックも踏んだことなかったのに(笑)。それができたんで、ドラムっておもいろいなと思うようになったんじゃないかな。
──それがドラマー人生のはじまり?
光永 変わってます?
──変わってますよ! なにかのコピーをやるバンドだったわけでもないし、しかも、周りがわけのわかんない即興にいそしんでる最中に、突如ガンズのドラム・パターンを叩いたことがはじまりだっていうのは(笑)
光永 ああ、そういわれたらそうかもしれないですね。でも、それで自分で別のバンドを組むとかでもなく、また即興みたいなことをたまに集まって続けてただけなんですよ。そしたら、あるとき「渉、ジャズやればドラムってうまくなるらしいぞ」って言われて。大学の新歓で音楽サークルが外で演奏してたりするじゃないですか。そこでジャズやってる人たちを見に行って、めちゃめちゃ演奏もうまかったし「なんかおもしれえな」って思ったんです。それで、思い切ってその人たちに話しかけたんです。「1年生じゃないんですけど、入れてくれませんか?」って。そのとき、おれ大学の3年だったんですよ。
(つづく)
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