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なにかあり/とくになし

ちばあきおを思う

いくつかの偶然が重なって、
日曜の深夜に
マイメン大関監督と下北沢の山頭火
ラーメンを食う。


あれ? 山頭火のラーメンって
こんな感じだったっけかと思うが、
注文すべきものを間違ったのかもしれない。
まあいいか。


大関監督は
ちばあきお「キャプテン」を最近読んでいると言った。


ちばあきお「キャプテン」
その“つづき”である「プレイボール」は
実家の兄がコミックを持っていたと記憶している。


兄はそれほど漫画好きではなかったはずだが
ちば兄弟は好きだったようで
ちばてつやゴルフ漫画あした天気になあれ」なんかも
確か結構揃っていた。


ぼくの年齢(1968年生)では
ちばあきおの野球漫画は
すこし年上の世代が愛読していた作品だった。
「キャプテン」月刊ジャンプに1972年からの連載(〜79年)。
「プレイボール」は週刊ジャンプに73年からの連載(〜78年)。


兄が持っていなかったとしたら
めぐり会い方がずいぶん違うものになっていただろう。


少年時代に読むことが出来たことを
幸運だと思っているという意味でもある。


その当時、
子ども心にも疑問に感じていたのは、
両作品とも連載後期になると
突然、絵柄が変化してしまうエピソードがあることだった。


まるでアマチュアが描いているのではないかと思えるほど
絵が拙い場面がたびたび登場するのだ。


感情移入をそがれたような気分になって
うまくページがめくれなくなる。
そういう居心地のわるい体験をしたのは
ちばあきお作品が初めてだった。


極度に繊細な性格であったというちばあきお
過密なスケジュールもあったが
ときどき臥せってしまい
どうしても筆を握ることが出来ず、
仕方なく実弟七三太朗やアシスタントが仕上げをしたのだという事実は
おとなになってから知った。


テレビのドキュメンタリー番組でも
ネーム(下書き)を部屋いっぱいに並べて
何日でも何時間でも苦悩していたというエピソードが
ちばてつやの証言として紹介された記憶がある。


漫画雑誌が
今ほど簡単に
休載や隔週の連載を許していなかった時代の話だ。


ちばあきお作品で初めて体験したことは
他にもある。


「キャプテン」
「プレイボール」も
まだまだこれからというところで終わってしまうのだ。


ハッピーエンドでも
バッドエンドでもない、
もちろん無粋な打ち切りでもない、
結論を先に放り出したような最終回を迎える。


子どものころは
それがイヤだった。
明確な終わりがない物語というものを
受け入れることに抵抗があった。


これほど実直に
心をこめて描かれた野球少年たちのストーリーが
報われずに終わるなんてという
正義感にも似た気持ちが揺さぶられた。


だが
それもちばあきおにとっては
これ以上かけないというか
そうとしか描きようのないエンディングだったのだと
のちに理解するようになる。


作品世界に対して誠実だからこそ
エンディングというウソをつけない。
もちろん気持ちよくウソをつくという快感も
フィクションには必要だが、
そういうことはしたくないし
簡単には出来ない漫画家がいるということを
教わったのだと思う。


それは「私」があるという意味でもある。


つげ義春ってすごいなあと思うようになる何年も前に
ちばあきおを知っていたことを
ぼくは感謝し続けなければいけないだろう。


体調も
心の調子も崩したちばあきお
(当時はそんな事情は子どもは知らなかった)
しばらくのブランクを経て復活するが、
84年に突然自殺する。
それは15歳だったぼくが
一番聞きたくなかったニュースのひとつだった。