mrbq

なにかあり/とくになし

天使たちのシーン

大槻ケンヂ
小沢健二の「天使たちのシーン」をカヴァーしていたことには
何となく覚えがあった。


そのカヴァーを収録した
大槻ケンヂのソロ・アルバム「I STAND HERE FOR YOU」が
発売されたのは1995年。
当時、何かの雑誌で
この曲を歌ったことについて
インタビューに答えているのを読んだ。


小沢健二のセカンド・ソロ「LIFE」に夢中だったぼくは
大槻ケンヂの主張に「へえ」と耳を傾けつつも、
オザケン”の足を
沼から伸ばした手で引きずり込むかのような“オーケン”の存在に
斜めから見たジョーク以上の意味を感じていなかったのだ。


浮かれた90年代は、
オザケンこそが“今”という時代に責任を持つ者であり、
オーケンはそこにウンコを投げつける者であるという
大いなる錯覚によるしあわせをぼくたちに見せていた。


天使たちのシーン」が
小沢健二のソロ・キャリアで残された他のどの楽曲よりも
突出して重厚で率直な作品であることは
間違いない。


だがそう認めつつも、
同世代の言葉として
オザケンの言うことを
素直に飲み込んでしまえない
もどかしさがわずかに残っていたことも事実だった。


やり逃げされてる気分というか。


実はそこで
「おれはやり逃げはしないよ」と
1995年の時点で敢然と挑んでいたのが
大槻ケンヂだったのだと思う。


この10分を超える大作の中にある
その率直は本当に率直なのか、
その感情は本当に動いているのか、
原曲のテンポも構造も完全にコピーしてまで
自分で確かめようと「天使たちのシーン」を歌う。


だがそれは
好奇心と実験心だけで攻略出来るほど簡単なゲームではなかった。


注意深い歌いだしから
やがて本人すら予想しなかったであろう
感情の高ぶりへ。
ミイラ穫りがミイラに。


歌に描かれているのは自分の本意でも何でもなくて、
歌の主人公のいる場所も
自分では行ったこともないDJだかクラブだかで、
つきあっている友人たちもまったく違う人種で、
なのに、
ただ
みんなの中でひとりたたずむ自分がいるという一点で
ふたりの健二(ケンヂ)がシンクロする。


そのとき聴き手であるぼくは
健二とケンヂの間に起こった奇跡を体験することになる。


歌につかまれ
歌を脱ぎ去ろうとして突き放して
それでもつかまれ
それでも突き放し
もがいてもがいて
組んず解れつしながら
最終的には互いに入れ替わってしてしまうのだ。


おまえはおれじゃないくせに
どうしておれのことがわかるんだ。


ただ聴いてるだけのぼくですら
目の奥が熱くなってしまう。


その感動には
最近読んでいた
打海文三「ぼくが愛したゴウスト」で描かれる
パラレルワールドの影響もある。


もしかしたら存在していたかもしれない
この世に似たもうひとつの世界で、
小沢健二のように祝福された大槻ケンヂのいる未来(すなわち現在)を
ぼくは見たのだ。


存在したかもしれない未来に迷い込むことを
祝福せよ。


あのとき転んで泣かなかった未来。
5年3組にならなかった未来。
剣道を続けていた未来。
好きだった子とおわかれしなかった未来。
ハイファイ・レコード・ストアで働いていない未来。
あの角をいつもと逆に曲がった未来。


思うだけで
息苦しいほど興奮をする自分が
今もいる。


大槻ケンヂの歌う「天使たちのシーン」は
やっかいな感情を
今さら叩き起こした。