mrbq

なにかあり/とくになし

みっちゃん! 光永渉の話しようよ。/ 光永渉インタビュー その2



 光永渉ロング・インタビュー、第二回。


 第一回ではドラムをちゃんと叩くところまでたどり着かなかった。いよいよ第二回では、みっちゃんがドラマー人生を歩みだす。名門サークルの門を叩いて、それからどうなった?


====================


──思いきって学芸大のジャズ・サークルの人に話しかけた。で、どうなりました?


光永 入部しました。そのジャズ研(東京学芸大学軽音楽部〈Jazz研〉)が、すごく活動が盛んなところだったんですよ。フュージョンとかじゃなくて、超正統派のビバップが一番のサークルだったんです。発表会もあるし、練習もすごくちゃんとやる。プロも何人も輩出したすごいサークルで、上の世代だとスカパラの北原(雅彦)さんもいたし、Soil &" PIMP"SESSIONSの秋田ゴールドマンもいたんですよ。おれは3年だけど新入部生ということで立場としては1年生と一緒で、いろいろ話しかけてくれたのが、のちにチムニィや藤井(洋平)くんのバンドで一緒にやることになる(佐藤)和生なんです。


──ああ! そこで知り合う! 彼も学芸大だったんですね。


光永 そうなんですよ。おれはそのサークルではじめてちゃんとバンドを組んで、ちゃんとした曲をやりました。みんなで音を出すのも楽しかった。そこからおれはドラムにどハマりしていくわけなんです。当時はサークル棟っていう部室があって、24時間空いてたんですよ。だから、一日中音を出し放題。秋田とか和生とか、仲いい連中で夕方くらいに集まって、最初はだらだらとしゃべってて、そこから夜中もずっとセッションして、朝にファミレスで飯食って帰るみたいな。


──それまで夜の学校に忍び込んで即興やってたのが、ちゃんとしたサークル活動になった(笑)


光永 それが卒業までずっと続きましたね。本当に楽しかったですよ。さらにいえば、学芸のサークル棟は24時間練習ができる場所だったから、他大学の人も顔出したりしてて、今おれが一緒にやってる(岩見)継吾くんや、ceroのサポートでもトランペット吹いてもらった川崎(太一朗)くん(Ego-Wrappin’)も来てました。


──名門サークルなわけだから、それなりの厳しさもあったんじゃないですか?


光永 いわゆるアカデミックに突き詰めるところじゃないんですよ。4ビート命な感じとか、ジャズに関しては結構厳しさもありましたけどね。おれとか和生とかはロックが好きだから、こそっと隠れてレッド・ツェッペリンとかやってたんですけど、それを先輩に見つかると「おい、なにやってるんだよ! 4ビートやれ!」みたいに言われたり(笑)。和生はそういうのがだんだん苦痛になって、やがてサークルをやめちゃいましたけど。


──みっちゃんとしても、やっぱりドラムが一番好きだっていう気持ちが固まっていった時期は、ここですよね。


光永 そうですね。ここでドンとハマって、音楽やって酒飲んで、音楽やって酒飲んで(笑)。合コンとか、いわゆる大学生がやるようなことはぜんぜんなく、ひたすら音楽やってましたね。


──そのころ目標にしてたドラマーはいますか?


光永 今でもそうですけど、アート・ブレイキーですね。当時、部室にジャズやソウルのレーザーディスクがたくさんあって、それをみんなでお酒飲みながら見て「ああいうのやりたい」とか、いろんな話してましたね。そのなかで一番好きだったのが、アート・ブレイキーでした。もちろんエルヴィン・ジョーンズとかトニー・ウィリアムスも好きでしたけど、やっぱりブレイキーが一番。




──どのへんが?


光永 なんだろう? こういうこと言うと怒られちゃうけど、アホなところ(笑)


──アホって(笑)


光永 アホじゃないんですよ。天才だし、素晴らしいんですけど、どこかふまじめな感じだったり、ちょっと不器用な感じだったりするのがかっこよくて。人間らしかったんですよね。


──スーパーテクニックを誇示するというところではなく、人間に惹かれた部分がある。


光永 もちろん他にもすごい人はいっぱいいましたけどね。森山威男さんもめちゃくちゃ好きでした。




──山下洋輔トリオのドラマーだった方ですね。


光永 アケタ(西荻窪のジャズ・ライヴハウスアケタの店」)とかでたまにやられるときは見に行ってましたね。「こんなすごい人はいない」と思ってました。


──こうやってあらためて話を聞くと、みっちゃんのドラムの源流って、やっぱりすごくジャズなんですね。


光永 そうですね。ただ、ジャズにどっぷりハマってたけど、デ・ラ・ソウルとかヒップホップも好きでしたよ。


──ヒップホップのサンプリングとかループとかって、ジャズの側からすると思いがけない脚光が当たったいっぽうでは、“搾取された”という見方もできたわけで、ストイックなジャズ・サークルだと怒ってた人もいたんじゃないですか?


光永 おれは、ヒップホップは周りには黙って聴いてました(笑)。


──ロックのライヴハウスとか、インディーズとか、そういう方向には行かず?


光永 ぜんぜん行かなかったですね。“インディーズ”っていうジャンルがあることさえ知らなかった。『CROSSBEAT』とかは読んでましたけどね。


──『CROSSBEAT』は読んでたんだ。『スイングジャーナル』かと思った(笑)


光永 ちがうちがう。『CROSSBEAT』読んで「アクセル・ローズ、わるいなー!」とか思ってました(笑)


──意外と、みっちゃんの大学時代の話って、みんな知らないと思うから、こういう話はいちいち貴重ですね。


光永 そうですね。ジャズやってたってことぐらいは知られてるかもしれないけど。


──大学はちゃんと卒業したそうですけど、就職は?


光永 してない。実家の酒屋を継ごうと思ってたから。


──あ、そういうことか。いったん長崎に帰ったんですね。


光永 ただ、ドラムやりたいという気持ちはずっとあったんですよ。だから長崎に帰ってからも実家を手伝いながら地元のジャズ・クラブに出入りしたりして、音楽をやってはいたんですよね。でも、だんだん「ちゃんとやりたい」という気持ちが強くなってきて、親にお願いしたんです。「もう一回、東京に行かせてくれないか」って。


──そうだったんですか。


光永 まあ、親もおれが長崎でもそうやってドラムを続けてたのを見てたし、なんとなく(帰郷したことに)悔いがあったんじゃなかろうかと感じてたと思うんです。親父から「まあ、じゃあやってこい。何年かかるかわかんないけど、納得いくまでやってみろ」みたいなことを言われた気がします。


──いいお父さんですねえ。だって姉がふたりいるとはいえ、後継をさせられる息子としてはみっちゃんひとりなわけだから。でも、自分の息子にやりたいことがあるということをうれしく思うのも親心だろうけど。


光永 それで、東京に戻ってバイトしながら音楽をやることになったんですけど、そこが運命の分かれ目だったんですよ。たまたま行った遺跡発掘のバイトに、チムニィのギターの春日(長)がいたんです。


──なんと!


光永 ジャズをやるつもりで東京に帰ってきたんですけど、春日に「バンドをやりたいんだけど、ドラムがいないんだ。ただうちらのバンドはかっこいいから売れる!」って話をされて。おれもロック好きだったから「やろう! いや、やらせろよ!」って返事したんです。完璧だまされました(笑)。そこからですね、おれのロック・バンド人生は。


──ジャズやるつもりだったのに(笑)


光永 でも、当時流行ってたジャズっていうのは音の求道みたいなものになってたし、おれもぜんぜん下手だし、そのときはロックが性に合ったんですよね。「じゃあ、おれはロックで行こう」と。


──そのとき誘われたバンドが、チムニィ。


光永 そうです。初のロック・バンド。チムニィ自体はおれが入る前からあったんですよ。福岡でやってて、バンドとして東京に出てきたんです。でも、ちょうどドラマーがいなかった時期で、そこにおれが入った。またこれがチムニィも酒飲みのバンドで(笑)。練習しちゃ飲んで、練習しちゃ飲んで、だんだん仲良くなっていったみたいな。


──そのころはどのあたりでライヴやってました?


光永 その質問おもしろいですね。府中Flight。……知らないでしょ?(笑)。たまに新宿JAM。JAMのオーディションとか受けて、落ちてましたよ(笑)。今おれが出てるライヴハウスでも当時オーディション落ちたとこ他にもありますよ。


──そうなんだ。


光永 Flightはオーディションがなかったんですよ(笑)。あと、おれは当時国分寺に住んでて、チムニィの他のメンバーは府中に住んでたから、やりやすかった。


──そのころから今もやってる曲はあります? 「西武球場」とか?


光永 まだ、そういうのはやってないです。ユウテツくんもまだいなかった。ヴォーカルも初代だったし、今とはぜんぜん違います。ジミ・ヘンドリックスみたいにやりたいヘタクソなバンドって感じでした。


──もっと混沌としてた感じですか。


光永 混沌……ですね。松永さんはそのころ、どういうバンド見てました?


──SAKEROCKかな。たぶん、彼らがカクバリズム入る直前で、ぎりぎりライヴハウスでやってたくらいの時期。


光永 おれらがいたのは、また違うシーンですよ。当時のおれらが見てた頂点にあったというか、「すげえな」と思ってたのが“関西ゼロ世代”。ZUINOSHINとか、ワッツーシゾンビとか、そういうバンドが出るライヴを新宿JAMに見に行ったんですよ。そしたら満員で入れなくて、横の駐車場でお酒飲んでた(笑)


──そうなのか……。


光永 でも、他人からはおれらのバンドは暗黒時代に見えたかもしれないけど、楽しかったですよ。バイトしながらノルマ払ってライヴやるというのが当たり前だったし。


──この時期やってたバンドは、ずっとチムニィだけ? ジャズには戻らず?


光永 所属してやってたのはチムニィだけでしたね。ジャズは、昔の知り合いに呼ばれて、たまにやってたけど。


──転機が訪れたというか、潮目がちょっと変わったのはいつごろですか?


光永 結構長いこと変わんなかったすよ(笑)。たぶん、おれらがそうやってる別のところで、ceroとかNRQとかも生まれてたんでしょうけど、まったく知らなかったし。片想いとも高円寺のペンギンハウスで一回対バンしたことあるんですよ。バンドの毛色が違うから、そのときは特にだれかと仲良くなった記憶もないけど。でも、あだ麗(あだち麗三郎)が当時四谷の某施設でやってたイベントにチムニィを呼んでくれたんですよ。そのころは、もうユウテツくんが加入してました。それまでの轟音ロックじゃなくて、ヒップホップというかトーキングブルースというか、ユウテツくんらしいスタイルにバンドが変わっていった時期です。で、その四谷のライヴ映像をVIDEOくん(VIDEOTAPEMUSIC)が撮ってたんですよ。その映像をビーサン(Alfred Beach Sandal)が見て、「この人のドラムいい!」って言ったんです。


──へえ!


光永 あれ? ちょっと待ってくださいね。なんでおれがビーサンがそう言ったっていう話を知ってるのか……? 思い出した! 当時、チムニィって一匹狼的なバンドで友だちになるミュージシャンがぜんぜんいなかったんですけど、一個だけ仲良くなったピンク・グループっていうむちゃくちゃかっこいいバンドがいて。そのピンク・グループのファンに(内田)るんちゃんとるんちゃんのお母さんがいたんです。それで、そのふたりがチムニィを気に入ってくれて、ライヴを見に来てくれるようになったんです。


──そこからくほんぶつでみっちゃんがドラム叩くことにつながる?


光永 そうなんですけど、それはもうちょっとあとの話です。るんちゃんはビーサンとも知り合いで、おれは彼女から「ビーサンが『あのドラマーの人、知ってる?』って言ってたよ」って、はじめて聞いたんです。


(つづく)


====================


光永渉ホームページ mitsunaga wataru.com

みっちゃん! 光永渉の話しようよ。/ 光永渉インタビュー その1



 光永渉、と書くのはどうにもまどろっこしいので、いきなり“みっちゃん”ではじめたい気持ちがつよい。でも、それだとくだけすぎるので、とりあえず文章上は“光永くん”でいきたい。


 光永くんとはじめて会ったのは、2012年の春。場所は阿佐ヶ谷のRoji。ワーキングホリデーで渡英していたシンガー・ソングライター野田薫さんの凱旋ライヴが行われた夜だった。その日、彼はあだち麗三郎クワルテッットのドラマーとして演奏していた。終演後、表現(Hyogen)の佐藤公哉くん、古川麦くんがふらっと現れ、片付け前の楽器を使ってセッションがはじまった。さらに偶然にも、伴瀬朝彦くんも現れ、「いっちまえよ」を歌った……という話、じつは過去にも何度か書いている。


 この夜、はじめて会ったひとたちに、いろんな偶然が仕込んだわけでもないのに、そのあと、この3人にそれぞれのタイミングでロング・インタビューをした。表現(Hyogen)にもバンドとして雑誌でインタビューをした。光永くんは、その夜にぼくが出会っていながらまだインタビューをしていない最後のひとりだったということもできる。


 今ではceroのリズム隊の要としてすっかり認知された彼を取材したいと思ったことは過去にもあった。2013年の暮れ、ceroにサポートとして厚海義朗くんと光永くんが参加した直後に、ぼくは厚海くんにインタビューしている。そのまま光永くんにも話を聞くというタイミングは、たしかにあった。


 だけど、GUIROの一員としての姿をすでに知っていた厚海くんに比べて、まだその時点ではぼくは光永くんのことをそんなによく知っていなかった。チムニィ、あだち麗三郎クワルテッット、伴瀬朝彦BAND、ランタンパレード、九品仏、藤井洋平&The Very Sensitive Citizen of TOKYO……、当時彼がかかわっていたバンドやアーティストについても、もっとよく知っておく必要を感じたのかもしれない(※今は、あだち麗三郎クワルテッットは脱退し、Alfred Beach Sandal、“おまつとまさる氏”が発展したユニットである松倉と勝と光永と継吾、G.RINA、バンド編成時のやけのはら、さらに大塚愛のツアー・サポートも加わる)。もっというと、当時から光永くんは職人肌のドラマーに見えたし、わざわざインタビューして聞くことがあるのかなとさえ思っていたのだ。結局、そんな躊躇をしているうちに時間だけが経ったわけだけど、それがあるきっかけで氷解する。本文中にも出てくる話だが、ぼくが「今なら話を聞きたい」と思ったのは2015年のceroのツアーで立ち寄った光永くんの故郷、長崎で一緒にいた時間があったからだった。


 光永渉くん、やっぱり、みっちゃん。愛すべきドラマーで、気のおけないよっぱらい。いろんなところで彼のドラムを見たり聴いたりしてるひとは多いと思うけど、じっくり話を聞いてみると、さらに興味深い話だらけだった。


====================


──みっちゃんと初めて会ったのは、ここ(Roji)ですよね。野田(薫)ちゃんの帰国記念ライヴの日。2012年(4月28日)だった。


光永 あ、そうでしたっけ? そんなに前になりますか?


──あのとき、まだみっちゃんはあだカル(あだち麗三郎クワルテッット)のドラマーで。ライヴが終わった後に話をしたんですよ。たしか、みっちゃんから話しかけてくれて、「曽我部(恵一)さんのROSE RECORDSで、ランタンパレードやチムニィのドラムをやっていて」みたいな話でした。


光永 あー、そっかー。そのときはまだceroやってないですもんね。しかもそれ、おれがはじめてRojiに来た日ですよ。


──え? そう?


光永 お店の存在は知ってましたけどね。チムニィの日永田(信一)くんって、Rojiが開店して2番目くらいのお客さんなんですよ。


──2006年ごろの話ですか?


光永 そうなんですよ。彼から「こういう店が阿佐ヶ谷にある」とか「ceroってバンドがいる。若い子たちだけどおもしろい」とか、そういう噂は聞いてたんです。当時のceroはまだ高円寺の円盤でライヴをしてたころだったと思います。でもそのときは別にライヴを見に行くでもなく、それだけで終わってた話でした。


──とはいえ、それはそれで興味深い縁ですよね。


光永 そうですね。だから、高城(晶平)くんとも、Rojiであだカルやったあの晩にはじめて会ったかもしれない。


──あだカルにあらぴー(荒内佑)がいた時期があるから、さすがにあの夜が高城くんと初対面というのはないんじゃない?


光永 そうだったかなあ?


──ぼくの話でいうと、あの夜に野田ちゃん、(古川)麦くんとも初対面で話してて。あの夜にはじめて会ったひとに、結果的にこうしてずっと取材してるという流れがあるんですよ。


光永 (厚海)義朗もあの夜でしたっけ?


──厚海くんは、GUIROの時代から知ってはいて。ただ、当時は「怖い人だ」と思ってたから話してない(笑)。話すようになったのは彼が東京に出てきてからですね。インタビューしたのはceroのサポートをするようになってからだし。あのとき、みっちゃんのインタビューも続けてやろうかとも思ったけど、結局やらなかったんですよね。当時は、まだぼくには“いろいろ思いのある人”というより“職人肌の音楽人”に見えてたのかもしれない。それがかなりくだけて、俄然興味が湧いてきたのは2015年のceroの〈Obscure Ride Tour〉後半に同行してからですね。特に大きかったのは、みっちゃんの実家のある長崎に行ったこと。


光永 ああ!




──あのとき、みっちゃんの地元や光永家の人たち、昔からの友だちとの空気感に触れて、「あ、これはみっちゃんとなんか話したい」と思ったんです(※このインタビューは2015年と2016年の2回にわたって行われています)。夜中によっぱらってみっちゃんが卒業した小学校も一緒に見に行った(笑)。生家は長崎市内の歓楽街にある酒屋さんで、みっちゃんは“街の子”なんですよね。


光永 じつはそうなんですよ。田舎の子みたいに思われてるんだけど、わりとがちゃがちゃした街の育ちなんです。あのとき松永さんたちは、そんなに人が多くないと感じたかもしれないですけど、おれが住んでたころは週末にはすごいにぎわいでしたよ。


──荒っぽい感じもあった?


光永 そうですね。やっぱり歓楽街だから、そういう方面の人たちもいましたね。


──あのあたりは、地元の名前としては「思案橋」でしたっけ。


光永 美輪明宏さんの本にもたまに出てくる地名です。


──そうか。美輪さんも出身は長崎。


光永 とにかく、おれは長崎を出るまでずっとそこで暮らしてました。逆に、母方の実家は、絵に描いたような田舎なんですよ。川があって山があって。夏休みとかは毎年遊びに行ってました。


──どんな子どもでした? 兄弟とかは?


光永 姉が2人います。自分でいうのもなんですけど、そんなに手がかからない子じゃなかったかな(笑)


──末っ子ですもんね。


光永 上の姉とはちょっと歳が離れてるんですけど、下の姉とは1歳違いだったんで、音楽面では彼女の影響をわりと受けてますね。いわゆるチーマーじゃないけど田舎のミスドの前にたむろしてスケボーやったりしてる感じの女の子で、音楽はジャネット・ジャクソンとかホイットニー・ヒューストンとか、BOYZ II MENとか、そういうブラック・ミュージックを聴いてましたね。当時のおれはそれがブラックなのかどうかもわかんないし、ただ単に「いいなあ」と思って聴いてただけでしたけどね。a-haとかペット・ショップ・ボーイズとかもありましたね。


──ジャネットは『リズム・ネイション1814』(1989年)とか?


光永 そうそう!




──のちにドラマーになる子どもが知らず知らずのうちに受ける影響としては、いいですよね。


光永 姉貴はレンタルCD店でCD借りてきて、カセットテープにダビングして聴いてたから、そのテープをおれが借りて聴く、みたいなね。中2くらいになると自分でも好きな感じのを探すようになっていって、そうするとロックとかを聴くようになっていくんですけどね。


──それがリスナーとしてのみっちゃんの歴史のスタートだとして、演奏するほうは?


光永 じつは太鼓自体は小さいころからやってて。和太鼓ですけどね。


──へえ!


光永 “おくんち”ってわかります?


──わかります。九州三大祭のひとつ、“長崎くんち”ともいいますよね。


光永 おれ、あれに囃子(はやし)で出てたんですよ。光永家は代々それをやってきたんです。親父は袴を着て祭を見守ってる役職みたいなことをやってました。おれは、小さいころは小太鼓。だんだん大きくなってきたら、太鼓も大きなのを任されて、最後は蛇(じゃ)踊りの大太鼓をトップでやってたんです。


──すごいじゃないですか!


光永 おくんちはすごいですよ。学校は半日休みになるし、出る人はその日は学校行かなくてもいいし。あと、やっぱり祭に出てると、モテるんですよ(笑)


──ああ!


光永 だからドラムセットとかを叩いてたわけじゃないけど、おくんちで太鼓の練習はしてましたね。本当はおくんちって決まりがあって、子どもたちは自分の町では7年に一度しか出られないんですよ。つまり、7歳で出たら次は14歳のときしか出られない。おれは、自分がいた船大工町の川船に乗って太鼓をやってたんですけど、隣町の人たちがやってる蛇踊りの太鼓がしたくって、頼み込んで特別枠で毎年のように出てたんです。





──つまり、自分の町の太鼓では7年に一度なんだけど、蛇踊りでは毎年やってたんだ。すごいなあ。


光永 そうなんです。それは楽しかったし、自分の人生にとってもでかかったですね。太鼓ということも意識してなくて、ただ単にお囃子に入って楽しいってだけだったんですけど、その当時やってたお囃子のドンドコドンドコいう感じが今でも好きですね。


──それは基礎訓練として、結構な意味あるでしょ?


光永 いや、どうなんですかね?(笑)


──高校のときはバンドやってない?


光永 やってないです。高校時代はサッカーにめちゃめちゃはまってたから。結構がんばってたな。


──サッカーで長崎だと、国見とか強い高校ありますよね。


光永 国見にはボロ負けした記憶があります。まあ、うちらの時代の国見は鬼のように強かったですからね。でも、おれがいた時代で最高は県大会の3位まで行ったんですよ。


──じゃあ、高校時代はサッカー一色と。


光永 音楽は本当に好きでしたけどね。東京みたいにレコード屋さんもたくさんないけど、街に一軒くらい、ちょっと進んでる兄ちゃんがやってるような店があるでしょ? そういうところに通って、「これいいよ」みたいなのを教えてもらって、テープを作って友だちに配ったりしてました。


──大学で地元を離れたんですか?


光永 そう。東京学芸大学


──東京に出てきたかった?


光永 うーん。それはあんまりなかったんですけどね。おれ、あんまり頭よくなかったんですけど、高3のときのセンター試験で、たまたま今まで取ったこともないようないい点が出たんですよ。「これなら東京の国立もいけるんじゃないか?」みたいな話になって。本当は福岡の私立に行きたかったんですけど、でも親父がもともと東京の大学に行ってたこともあって、東京に行くということに肯定的だったんですよ。まあ、おれも「東京行けばライヴとかいつでも見れるな」みたいな気持ちもあって、まあ受けてみっぺかと。二次試験も面接だけだったこともあって、学芸大に受かったんです。


──それで東京へ。


光永 でもね、東横線学芸大学駅ってあるじゃないですか。おれ、学芸大ってその駅にある、超都会な場所だと思ってたんですよ。親戚もその駅に住んでるし、そこに泊まって大学も受けたらいいかな、くらいに思ってたら、じっさいに大学があるのは小金井のすごい先のほうだった(笑)。「あらー?」と思ったけど、結局受かっちゃったし、行くしかないと。


──それで、とにもかくにも東京には出てきて、大学で音楽サークルとか?


光永 いや、それが学校にぜんぜん行ってなかったんですよ(笑)。なんか、つまんなくて。


──1年生から?


光永 そうです。入学式終わって、おなじ課の人たちが自己紹介とかをするじゃないですか。


──オリエンテーション的なやつですよね。


光永 それに行かなくて、すぐ帰っちゃったんですよ。それで、次に大学に行ったら、ほかのみんなはもうわりと仲良くなってたんで、ぜんぜんおもしろくなくなっちゃって。


──そもそも、なんですぐに帰っちゃったんですか?(笑)


光永 なんか疲れてたんじゃないですか?(笑)……まあ、イヤだったんでしょうね。でも、そんななかでも自分の課とは違うとことろでたまたま仲良くなった美術課のやつがいて、そいつも学校も行かずに週末にはクラブ行ったりするような感じだったんですよね。そいつに一緒に付いていったりしてました。そしたら他大学のやつらとも知り合いになっていって、そいつらもいわゆるアングラ大学生だったというか、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドをずっと家でかけてるような変な人たちだったんですよ。


──クラブって、当時はどういうとこに遊びに行ってたんですか?


光永 〈MANIAC LOVE〉とか〈The Room〉とか。小金井の田舎から電車乗って、ズッコンズッコン音が鳴ってるところに行って。


──意外です。


光永 でも、そのころからサニーデイ・サービスは好きでずっと聴いてたんですよね。


──サニーデイはどのへんから入ったんですか?


光永 夏休みに帰省したときに、実家でテレビを見てたらSPACE SHOWER TVかなんかで「青春狂走曲」が流れて、「すごくいい曲だな」と思ったんですよ。当時の曽我部さんのイメージは、冷たい瞳で、すごいシュッとしてる感じがあって、そういうのがよかったんですよね。それが渋谷系なのかとか、そういうことはなにもわからなかったし、のちにまさか曽我部さんと一緒にやるようになるとは思ってなかったけど。




──ね! それもすごい縁。


光永 話をちょっと戻すと、大学1年の終わりくらいだったかな。そのころに遊んでた他大学の知り合いのなかのひとりに「音楽やるから、おまえドラム叩いてくれ」って言われたんですよ。「いいよ」って返事したんですけど、そいつがやりたいのはすごく前衛みたいなやつで。


──前衛みたいなやつ?


光永 鐘をチーンと鳴らしたり、ビユビユビユビユって変な音出したり(笑)。そのバンドは3人だったんですけど、覚えてるのは、真夜中に大学の教室にしのびこんで、部屋を真っ暗にして鐘を鳴らしたり笛を吹いたり、そういうわけのわかんないことをひたすらしてました。


──それがみっちゃんにとって人生初のバンドってことですよね。バンドといっていいのか……(笑)


光永 そのうちドラムセットにも座るようになったんですよ。でも、やるのは曲とかじゃないんです。


──即興みたいな?


光永 そう、即興です! なんにもない即興というか、即興の真似事みたいな。ライヴもやると思ってないし、ただ音楽をやることがかっこいいと思ってたんですね。


──うーん。そうだったのか……。


光永 でも、ガンズ・アンド・ローゼズの「パラダイス・シティ」って曲があるんですけど、知ってます?




──もちろん。名曲ですよ。


光永 あるときバンドの空いてる時間にドラムであの曲のパターンを真似してみたんですよ。そしたらドッパンドッパンって叩けたんですよ。足でキックも踏んだことなかったのに(笑)。それができたんで、ドラムっておもいろいなと思うようになったんじゃないかな。


──それがドラマー人生のはじまり?


光永 変わってます?


──変わってますよ! なにかのコピーをやるバンドだったわけでもないし、しかも、周りがわけのわかんない即興にいそしんでる最中に、突如ガンズのドラム・パターンを叩いたことがはじまりだっていうのは(笑)


光永 ああ、そういわれたらそうかもしれないですね。でも、それで自分で別のバンドを組むとかでもなく、また即興みたいなことをたまに集まって続けてただけなんですよ。そしたら、あるとき「渉、ジャズやればドラムってうまくなるらしいぞ」って言われて。大学の新歓で音楽サークルが外で演奏してたりするじゃないですか。そこでジャズやってる人たちを見に行って、めちゃめちゃ演奏もうまかったし「なんかおもしれえな」って思ったんです。それで、思い切ってその人たちに話しかけたんです。「1年生じゃないんですけど、入れてくれませんか?」って。そのとき、おれ大学の3年だったんですよ。


(つづく)


====================


光永渉ホームページ mitsunaga wataru.com

ユーミン40ドルから転がった話

アメリカにおけるユーミン評価の一例。




ブルックリンで開催されたWFMUレコード・フェアにて見かけたレコード。先日ツイートしたこの写真に対し、思いがけずたくさんのご反応をいただいた。


似たような例というか、2年半前の話には、こういうことも。


【2013年11月18日のツイート】より。→【旅の思い出】ハリウッドのアメーバ・ミュージックで店内BGM担当の女性DJが突然この曲をかけて



さらにこれにつないで




お客さんが何人もゆらゆらと踊るように揺れるのを見た不思議な至福(ここまでが、そのときのツイート)。


あと、ユーミン40ドルを見かけたレコードショーでもうひとつびっくりしたのは、アメリカ人青年客がディーラーに「AORある?」と聞いてたこと。“AOR”って今や完全に和製英語アメリカではもはやあんまり通じない実感があったから「“ヨットロック”みたいな音のこと?」と思わず彼に聞いた。


すると彼は「うーん、音的にはそうだけど、“あの言葉(ヨットロック)”って、セルアウトな感じだし、バカにしてるだろ?」との返事。つまりニュアンス的にいうと「ヨットロックよりもマイナーでレアでやばめの白人ソウル」にリスペクトをこめて、彼は“AOR”と表現していた。


AOR”って言葉が逆輸入的に欧米で復活・定着するかどうかはわからないけど、英語として意味が成り立ちにくい造語“シティ・ポップ”よりは可能性がある気がする。


数日後、別の店で買付中。店内で流れてたネッド・ドヒニーハード・キャンディ」、値段を聞いたら「だれが買うんや!」と声が出るくらい強気だったけど、最後までかかりきらないうちに若い子がさくっと買ってった!




レコード・ショー話でもうひとつ。「タイガー・リリーのボビー・ボイド(超ウルトラレアなソウル)ある…わけないか?」とディーラーに話しかけた客がいて、答えはもちろん「NO」なんだけど、そのあとがおもしろかった。「タイガー・リリーのレコードは、おれらにとってのパナマ文書なんだよ」


“レコード界のパナマ文書”とは最高のたとえだけど、実態はちょっと違う。英語では“tax scam record(税金ごまかし盤)”と呼ばれる。“売れなかった”からレアなレコードになっているのではなく、“そもそも売られなかった”レコードがそれ。つまり税金対策で赤字を作るための盤。


“tax scam”で有名なレーベルといえば、思い浮かぶのはタイガー・リリー、ギネス、一時期のB.T.パピー。こうしたレーベルのレコードは、ちゃんとレコーディングされ、かなりの量プレスしたにもかかわらず、“売れなくて赤字”という事実を作るために市場にはほとんど出回らなかった。


B.T.パピーは東海岸オールディーズ・ポップの名門グループ、トーケンズのメンバーが設立したレーベルだけど、この悪名高き商法に目をつけた最初期の会社のひとつ。60年代末〜70年代頭にリリースされたアルバムの数々は、ごくわずかしか現存していないと言われる。残りはすべて廃棄されたとか。




タイガー・リリーも、ルーレット・レコードの社主でNYのマフィアで音楽業界の大ボスでもあったモーリス・レヴィが傘下に設立させた税金回避レーベル。ジャクソン・シスターズ、ボビー・ボイド、アラン・ゴードンの「エクストラゴドナリー・バンド」などが、その仕打ちに遭ったレコードとして有名。




これでそういうレコードが粗製乱造の駄盤ばかりならまだしも、“ちゃんと金かけて作りました”って事実だけ残すためにクオリティの高い作品が少なくないから困る。今でこそリイシューとかで触れやすくなったものもあるけど、まだ手つかずのものも多い。写真でしか見たことないレコードだらけ。


なお、こうした不法な税金回避の抜け道に対しては国税局の対策が行われ、1978年ごろを境に“tax scam”なレコードはリリースされなくなったという。78年で終わりってあたりが、音楽的にもデジタル以前のおいしさがかなりある時期で(特にソウルとか)、よけいにうらめしい感ある。


タイガー・リリーの“tax scam”な幻盤のひとつ。アラン・ゴードンの「エクストラゴドナリー・バンド」(写真ぼけぼけですが)。数年前のレコードショーで。価格は1200ドルだったかな(買えません)。



参考までに今年アップされていた“tax scam releases”についての記事(英文)。

2016年のNRBQ

NRBQを見たのは、なにげに4年ぶりだった。前に見たのは2012年の1月。トム・アルドリーノが亡くなって1週間後のニューヨーク。ジェイク・ジェイコブスとサン・ラー・アーケストラのマーシャル・アレンがゲストで出て、ぼくは偶然にもヨ・ラ・テンゴのアイラとジョージアとおなじテーブル。ルー・リードがちらっと見に来ていたとあとで聞いた。


トムへの追悼だとはひとことも言わずに、テリー・アダムスはペイシェンス&プルーデンスの「ア・スマイル&ア・リボン」を歌った。




あれから4年も経つのか。


その後、NRBQにはメンバーの交代が2回あった。ベースが美青年のピート・ドネリーから、仲本工事的な憎めいないルックスのケイシー・マクダフに。そして去年の暮れにはドラマーがコンラッド・シュークルーンから、若いジョン・ペリンに。


ジョンのドラムがいいとはうわさに聞いていたけど、実際に出てきた彼の姿を見ておどろいた。眼鏡の優男ふうのルックスで、どういうわけか、ピエロの衣装を着ていた。帽子こそかぶってないが、これはまるで道頓堀名物くいだおれ人形


仲本工事くいだおれ人形が加わったNRBQは、どうなるか予想もつかない見た目のワクワク感という意味では近年にない期待値を持つ。


確かな演奏力で近年になく多彩なアーカイヴを歴史から拾い上げる新生NRBQの第1期(テリー、スコット・リゴン、ピート、コンラッド)もかっこよくてよかったけれど、ある意味、ライヴから破綻が減ってしまったさびしさを感じてもいたのだ。


アメリカのくいだおれ人形ことジョン・ペリンがスティックを構えて、ずどんと全身の力を入れて振りおろしたとき、本当にひさびさにおなかにずしんと来る感覚があった。これだ、これこれ! 


ジョン・ペリンは、細いからだのすべてを使って、スネアを叩く。体重を乗せてキックを鳴らし、シンバルを目をキラキラさせながら叩く。ドタドタしてるし、ドスンともしてる。コンマ一秒の正確な刻みが幅を利かせる最近の流行からすれば、このドラム、ぜんぜん流行らねえ! でも、これはぼくの大好物。まだ23歳だという彼がどういうふうに音楽を聴いてきたのかわからないけど、たぶん、ジョンはトムのドラムが好きだ。


ステージ中央に立つのは、ずんぐりむっくりで、模型屋の店員みたいな大人のオタク臭がむんむんするケイシー・マクダフ。着実なベース・プレイと、思いがけずよく伸びるハイトーンの持ち主。真ん中にいながら脇を支えるという特殊な立ち位置がおもしろい。


ぼくはアル・アンダーソンがいた時代のNRBQは映像と音源でしか知らない(35周年の全員集合ライヴで、そのマジックの片鱗は感じたけど)。だけど今夜、あの“こわれそうでこわれない、結果的にこわれちゃうかもしれないけど、それでもいいよね!”って感じの奇跡的バランスを、もう一度感じた気がした。今のNRBQ、もしかしてすごくいいんじゃないのか?


この夜は、老舗のマスクマン・インスト・バンド、ロス・ストレイトジャケッツ(対バンとして最高!)とのツーマン・ツアーの一環。最初にやったストレイトジャケッツが一時間足らずだったので、NRBQもそれくらいかと思ってたら、2度のアンコールも含め、たっぷり2時間やり尽くした。遊びに来ていたジェイク・ジェイコブスがこの日もゲストに出てくれた。



 NRBQ + Jake Jacobs singing "After All"



「That's Neat, That's Nice」を聴いた瞬間、忘れかけてたか、トムがいなくなってからあえて忘れようとしてた、あの感じを思い出して、動悸が早くなった。


終演後、テリーにあいさつしたら、とても喜んでくれた。ケイシーは初対面で「ぼく、いくつだと思う?」と聞いてきた、ちょっと変な人。ちなみに48歳で、ぼくのひとつ上。そして、ジョン。知人と話していてわかったが、彼の両親が熱心なNRBQファンで、彼自身もシャッグスの大ファンだという。産湯のように聴いて育ったのなら、そりゃあのドラムの音が欲しくなるよね。


知人がしみじみと言った。


「テリーは、NRBQでもっとやれることがあるとまだ思ってるはず」


それがどういうことかを聞く前に、テリーはハル・ウィルナーや友人たちと連れ立ってバーに行ってしまったけれど、これからもこのNRBQが続いていくことが答えを出してくれるだろ。


1996年の初来日から20年。そのときのメンバーで残っているのは、今やテリーだけだ。この世を去ってしまったひとたちもいるし、闘病しているひとたちもいる。白髪になったり、はげたり、太ったり、多少ゆるくなったりしながらも、みんな一緒に歳をとって演奏する姿を見たかったという気持ちは、もちろんある。


でも、60代後半を迎えても前のめりに音楽に我が身を捧げ、自分を鼓舞してくれるメンバーとともに音楽家として前に進みたいっていう気持ちを持ち続けているテリーを見るのはやっぱり刺激的だし、大好きだ。彼がうれしそうにしてる姿が舞台の上にないのなら、NRBQである意味がない。


NRBQは、まだまだ自分たちのリズム&ブルースを更新している。


願わくば、またすぐにでも見たい。



  現編成での初リリースはロス・ストレイトジャケッツとのスプリット7"。

タイム・アウト・オブ・マインド

高田馬場の中古レコード名店「タイム」が先月末で閉店したという報せを聞いた。昭和38年創業というから、半世紀以上営業していたのだ。初代のオーナーさんは10年ほど前に亡くなったはず。


「タイム」にもっとも通ったのは大学時代。


のちに縁あって高田馬場の西側(“裏馬場”と呼ばれていた)にあるレコード店で働くようになってからは、おなじ駅で毎日乗り降りしていながら、「タイム」を訪れる機会は減った。同業の仁義というか、値段や品揃えを偵察するような気分になってしまうのがなんとなくいやだったのかもしれない。こと「タイム」に関しては。


近年の「タイム」についての事情はよく知らないが、僕の学生時代には「タイム」は店内でレコードが流れていない店だった。いつもラジオが流れていた。「盤質評価に絶対の自信を持っているから、試聴によって盤質のよしあしをたしかめてもらう必要がない」というポリシーがあるのだと風のうわさに聞いたことがある。


その姿勢が本当だったのかどうかは今となってはわからないが、「タイム」の盤質表記が信頼に足るというのは真実だった。


「え? こんなにちゃんと聴けるのに“盤質C”なの?」


そう思ったのは一度や二度ではない。自分のなかで勝手に「タイム」に教わった矜持のひとつだと思っている。


「タイム」で買ったレコードということになるといろいろあるはずだけど、たしかに「タイム」で見て手にしたはずなのになぜか買わなかったレコードのことのほうを思い出す。


乱魔堂のメンバーだった洪栄龍のソロ・アルバム「目ざまし時計」で、1500円くらいだった(1989年ごろの話です)。乱魔堂のことは知っていたので「あ!」と思ったことは間違いないのに、よほどお金がなかったのか、そのときはそのときで別に買いたいレコードがあったのか(そのくせ、何を買ったのかは覚えていない)。


まさに「タイム・アウト・オブ・マインド」。そのままならスティーリー・ダンの曲名か(「ガウチョ」に入ってる)。



だけど、ぼくの気分としては「タイム」と「アウト・オブ・マインド」に分けておきたい。加川良の「アウト・オブ・マインド」は、たしか「タイム」で買ったレコードだからだ。それも今はもう手元にはない。


When you were young.

2日の話だが、弟夫婦が年始のあいさつにやってきた。


今年の春がくると2歳になる甥っ子が、トタトタ歩くし、カタコトを話すようになっていて楽しい。「パパ」やら「ママ」やら「メンメン(麺類を食べさせろ)」やら「ニャーニャ(猫に会わせろ)」など。全速力で駆け込んできて抱擁、そしてチューをする(男女は問わない)。チューしたあとの笑顔がよい。


こんなにもみんなの笑顔に囲まれていたんだという記憶を、人間がすこしでも覚えていられたらいいのに。この愛ある時間が刻まれていないなんて、ちょっともったいないよ。そんな気もする。


前にも書いたことがあるかもしれない。自分の記憶ではないけど、2歳のころ、父親が吸いかけて置いていたタバコを食べてしまったことがある。うまそうに吸っていたので、きっとおいしいものだと勘違いしたのだろう。


食べたとわかってからはもうてんやわんやの大騒ぎ。逆さ吊りにしてなんとか吐き出させようとしたりしたらしいが、最終的には病院のお世話になった。なんとか今も生きてるので、後遺症もなかったということだろう。


ただし、父はそれ以来、タバコをやめた。それまでチェーン・スモーカーだったそうだが、その日そのとき以来、今に至るまで45年以上一本もタバコを吸っていない。


ぼくは物心つくまでタバコを吸わない父しか知らなかったし、もともと吸わない人なんだとずっと思っていた。


父にタバコをやめさせてしまったことを覚えていなくて申し訳ないとも思うが、覚えていないことが逆に父を楽にさせてもいたんだろうなという気もしている。


だから、子どもはちいさいころのことは、やっぱりそんなに覚えていなくてもいい、のかもしれない。

空飛ぶ円盤に姉が乗ったよ

 左まぶたの上に傷あとがある。
 いつからなのかは知らない。気がついたときにはもうあった。普段は皮膚の色に同化しているんだけど、汗をかいたり、気持ちが高ぶったりすると、すっと紅い斜めのすじがまぶたの上に現れる。
 その日も、鏡をじっと見ていた。髪を切りすぎたんじゃないかと、女の子でもないのに気になっていた。
 ちっちゃなころから通ってる床屋のじいちゃんは、無口で動きに無駄がない。腕は確かなんだろう。だけど、こっちのリクエストを聞いてくれたためしがない。「おまえの頭のことはおまえよりずっとわかっているよ」といわんばかりの朴念仁。でもおっちゃんは世の中の小学6年生が、本当はどういう髪型でいたいのかについては、何にも知らないよね。
 「その前髪を、そんなに切らないでください」っていえたらいいのに。
 恥ずかしさがあるからだろうか、髪を切った日はまぶたの傷がいつもよりちょっと紅くなる。


 「また鏡見てんの?」
 バタンとドアが開くなり、つっけんどんな声がした。開いたドアからやかましく音楽が流れ込んできて、悩める少年がじとっと積み重ねていたこの部屋の空気のかたまりを散らかしていく。そしてそこに仁王立ちしているのは、姉だった。
 「モテたいの?」
 「ちがうよ」
 「ニキビ?」
 「あるけど、ちがうよ」
 そういえば、姉とはまだこの傷の話をしたことがなかった。何年か長く生きている姉なら、なにか知ってるかもしれない、この傷のこと。
 「気になるんだよ」
 「なにがさ」
 「この傷のこと」
 「傷?」
 「左のまぶたに、あるじゃんか」
 「ああ、ああ、それね」
 「消えない傷だもん。小さいときに転んでケガしたとか」
 「その傷ね。確かに消えないわね」
 「なにか知ってるんでしょ?」
 「う、ううん」


 姉の返事は肯定の「うん」とも否定の「ううん」とも取れる感じだったが、直感的にわかった気がした。姉はなにかを知っているんじゃないか。そして、なにかを隠してもいるんじゃないか。


 「こっちにいらっしゃい」
 しばらく妙な間を置いてから、姉の部屋に誘われた。
 姉の部屋に入るのはひさしぶりだった。すこし年は離れてるけど比較的仲良く育った姉弟だったし、ちいさいころは取っ組み合ってけんかもした。その空気が急に違った感じになったのは、姉が中学に入ったころから。それまで閉じられることのなかったドアが閉まり、知らない音楽がおおきな音で聞こえてくるようになった。仲がわるくなったわけじゃなかったけど、姉と話したり、ドアをノックしたりすることが、ちょっとおっくうに感じられた。外国に旅行に行くと楽しいけど、いろいろ手続きしたり質問に答えなきゃいけなかったりするでしょ。ああいう感じ。
 そんなわけで、姉の部屋に入ったのはずいぶんひさしぶりだったけど……、入ってみておどろいた。


 ない。


 部屋のなかに、なんにもない。


 「なんにも、ないね」
 「そうね」
 あまりのおどろきに、思ったままを口にしてしまった。姉の返事は暖かくも冷たくもなかったけど、なんとなく決意めいたものを感じた。
 正確にいうと、部屋のなかにはなにもないわけではなかった。がらんとした部屋の真ん中に、ちいさなレコード・プレーヤーが一台。そのうえにレコードが一枚。さっき流れていたやつだ。今は演奏は終わって針が内側でずるっ、ずるっとスキップをしていた。
 「これからあたしがいうことをおどろかないで聞いてね。もっとも、どれだけおどろいたとしてもどうせ忘れちゃうんだけど。ただ、下にいるお母さんやお父さんに気づかれたくないから、大声出したり、呼びに行ったりしてほしくないの」
 「なにいってるのかわからないよ」
 「すぐにわかるわ」
 ばかな小6の頭にも、この光景に思い当たることぐらいはあった。


 「いえで、するの?」
 「家出?」
 「そう。不良のひとが、ときどきする。まじめな子がすることもあるけど」
 「家出じゃ、ないわ」


 そういいながら姉は、レコード・プレーヤーの針をもう一度レコードの端に乗せた。ぐしゃっとひずんだギターの音と力強い破裂音が流れ出す。姉はそのまま指をレコードの中心近くに添えて、回転をゆるめたり速めたり、止めたりはじめたりしてもてあそんでいる。


 「あなたのまぶたにある傷は、あなたのお兄さんがつけていったものよ」
 「え?」
 「あなたにはお兄さんがいたの」
 「うそだ。ぼくら、ふたり姉弟じゃないか」
 「あなたのお兄さんは、あたしとあなたがまだちいさいころ、空飛ぶ円盤に乗ってどこかにいっちゃったの。そのとき、離陸した円盤のバランスが崩れて、あなたのまぶたに傷をつけちゃった。本来なら、あたしたちにお兄さんがいた記憶はすべて消去されてしまうはずだったんだけど、あなたのまぶたに残った傷が時空の裂け目になったのかもね。あるとき、あなたの傷を眺めてたら、あたし、すべてを思い出してしまったのよ」
 「なにいってるの? ぜんぜんわからないよ」
 「わからなくてもいいの。わかったってしかたないことだし。とにかく、お兄ちゃんのことを思い出したとき、あたしは興奮した。あの円盤に乗れば、このクソみたいな世界を抜け出して、どこかに行ける魔法があるってことを知ってしまったの」
 「お姉ちゃん、頭おかしくなったの?」
 「その円盤は、あなたの目の前で今ぐるぐるとまわってるわ」
 「ただのレコードじゃないか!」
 「ええ、ただの一枚のレコード。でも、あたしの大好きなレコードよ。そのレコードをわたしたちはいつも33回転や45回転で聴いてるわよね。外国のだれかが遠い昔に決めた約束で、レコードは一分間にある一定の回転数でまわることで音楽を奏でることになっている。でも、あのときお兄ちゃんは33回転でも45回転でもない、もうひとつのだれも知らない回転を見つけ出すことができたら、音楽は聴いたことのないような響きをさせて、このどうにもならない思いと一緒に人間を乗せて飛ぶ円盤になるって教えてくれたの。それをね、さっき、見つけた!」


 そういいながら、姉はぐるぐるぐるぐると指でレコードを早回ししはじめた。レコードはきゅるきゅると聴いたこともないような音を立てて回りはじめた。それは悲鳴のようにも、エンジンを強くふかす音にも聞こえた。
 「あたしの見立てでは、その回転数は183回転と2/3ってところかしらね。じっさいのところはわからないんだけど、さっき急に音楽が変わって、レコードがふわっとね、ちょっとだけふわっと浮かんだの。コツをつかんだって思った。もう少しだってわかった!」
 姉は一心不乱に盤をまわし続けた。
 「お姉ちゃん! やめなよ」
 わけがわからなくなって、涙と鼻水があふれ出てきた。
 「強くなるのよ。わからずやかもしれないけど、お父さん、お母さんにやさしくするのよ。……あ、きたかも」
 レコードからきゅんきゅんと鳴っていた金属音めいた音が、不意にひゅるっとしなやかになって、部屋の空気がふわっと動いた気がした。するとレコードがプレーヤーからふっと浮かび上がるのが、はっきりとわかった。


 「窓を開けてちょうだい」
 「いやだ」
 「お願い」
 「いかないで」
 「今いかなくちゃダメなの」
 「どうして?」
 「やさしさに負けちゃう、常識に負けちゃう。33回転や45回転で満足する人生になっちゃう」
 「それでいいじゃないかあ! たくさん一緒に遊んだじゃないかあ! 楽しかったじゃないかあ!」
 おそるおそる高速回転する空飛ぶレコード、いや、円盤に足を乗せつつあった姉は、意を決してぐいっと両足で体重をかけた。
 「円盤には、乗ってみなくちゃわからない、のよ」
 すっくと立ち、スケボーに乗るような要領で両手でゆらゆらとバランスを取っている。
 「お兄ちゃんはここが下手だったのよね」
 「姉ちゃん、いくな!」
 「窓開けて」
 「いやだ!」
 「じゃあ、こっちで開けるまでよ」
 いつの間にか円盤は姉の意のままに動いている。姉は円盤をじょうずに乗りこなしていた。窓に手をかけたその瞬間、姉のからだに手を伸ばしてしがみついた。
 「うわあ、あぶない! あんた、今度はまぶたどころかお腹が切り刻まれるわよ!」
 「おねいぢゃんいがないでよおお」
 「ごめんね。じゃあ、こうしよう。あたしがこの先どこにいったって、毎年一回手紙を書いてあげる。あなたもお父さんもお母さんもわたしのことは忘れるでしょうけど、あたしはあなたたちのこときっと覚えているわ。ほら、今年も知らない男の人から年賀状、来てたでしょ? あれは間違いじゃなくて、きっとあたしたちの兄さんよ」
 「いがないで」
 「あと、このプレーヤーは置いていくわ。いつかあなたも空飛ぶ円盤に乗りたくなるかもしれない」
 「いがないでよお」
 「では、弟よ。グッバイ。床屋のおじさんは、世界で一番あんたの頭のことわかっていたよ」
 「ねえぢゃんんん」
 ぐしゃぐしゃになった顔に触れ、まぶたの傷をなぞると、姉は天使のように軽やかに窓を開け放ち、すうっとそのまま宙空へ。
 「宿題しろよ〜。歯磨けよ〜。風邪引くなよ〜。いい恋しろよ〜。たくさんレコード聴けよ〜」
 息をすっと吸い込んだかと思った瞬間、音も立てずに姉は遠くへと消え去ってしまった。見えなくなるまで見送るどころか、ついさっきまでここにいた余韻すら、もうあっという間にあとかたもなかった。
 ふうっと吐いた白い息が青空に消えてゆく。
 「あれ? なんで泣いてるんだっけ?」
 部屋のなかには、レコードの乗っていないポータブル・レコード・プレーヤーが、カタカタと音を立てて空回りしていた。


 「お母さあん、お腹すいたー」


  ●  ●  ●  ●  ●  ●

 
 「また、このふたりから間違って年賀状来てるよ」
 「そうなのよ。でもふたりとも住所が書いてないから、こっちから“住所間違ってますよ”って返信できないのよね」
 「へえ、でもこの女の人のほうは結婚したみたいだよ。旦那さんと一緒に写ってる」
 「間違いの年賀状も、こう何年も続いてると情が湧いてくるわねえ。まるであなたに兄さんや姉さんがいたみたいな気がするわ」
 「ごちそうさま」
 「あら、もういいの?」
 ろくに受け答えもせずに階段をのぼり、自分の部屋にしけこむ。棚から一枚シングル盤を取り出して、針を落とす。
 いつごろからか忘れたけど、お正月には必ずこの古いシングルを聴いている。父さんに「昔好きだったの?」って聞いたことあるけど、「え? それ、おれが買ったやつかなあ?」って、よく覚えてない感じだった。でも、べつにだれの持ち物だっていいんだ。どうしてなのかわからないけど、今ぼくはこのレコードが大好き。
 「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」ってレコードのこと。


空飛ぶ円盤に姉が乗ったよ
初出:森本書店27号(2015年2月)